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第七話「リュウジ」


 リュウジは肥溜めのなかで産まれた。母親が肥溜めのなかで彼を産んだからだ。D区ほどではないがじゅうにぶんに終わった町で、借金のカタにヤクザへ売り飛ばされた母は男たちに売られ、辱められ、罵倒され、望まぬ子を身籠もった。それがリュウジだった。


 男たちを憎んでいたはずの母が、なぜその子どもであるリュウジを産もうと思ったのか、いまとなってはわからない。だが、母はリュウジを産み育てるためにヤクザから逃げだし、そして捕まった。さんざん拷問されたあげく肥溜めに沈められた母はそこで息絶えたが、糞のなかから赤ん坊が浮かんできた。


 それがリュウジだった。


 リュウジを引き取り、保護区へ連れていったのは海堂という男だった。海堂は母を地獄に引きずりこみ、そして肥溜めに突き落とした張本人であり、おそらく母が最も憎んでいたであろう人間だった。ならばリュウジもまた海堂を憎むべきだったのだろうが、リュウジは母を知らず、それゆえ母の恨みを移し替えるための器を持たなかった。リュウジにとっての母は彼を引き取り育ててくれた海堂の情婦だった。名前をサチという。リュウジが十八のときに病で亡くなってしまったが、血が繋がっていない彼を我が子同然に愛し、育て上げてくれた。母と言われて真っ先に思い出すのはサチの笑顔であり、彼にとっての故郷はサチと過ごした古い木造平屋建てだった。


「あの人からなるべく遠いところで、普通の暮らしをなさい」


 病床でサチは何度も繰り返した。あの人とは海堂のことだ。サチは海堂を愛していたが信じてはいなかった。リュウジの前では決して涙を見せなかったが、夜中にサチが独りで泣いているのを彼は知っていた。保護区では誰もが幸福でいられるというが、だとすればサチの涙はあの街にとっての腫瘍のようなものであったのだろうか。


「あの人はおまえをヤクザの世界に誘うだろうが、絶対に断るんだよ。おまえは正しく生きなさい」


 死の間際にすら、サチはリュウジの手を握って言った。海堂は臨終の場にも、葬儀にすらも来なかった。初七日が終わってサチの遺品を整理しているとき、古ぼけた写真が出てきた。四つ折りにして着物の下に隠されていたその写真にうつっているのがリュウジの産みの親であると知ったとき、リュウジは海堂に対して初めて明確な憎悪をおぼえた。


 リュウジはサチの言いつけを破って海堂の傘下の組に入り、がむしゃらに海堂に尽くした。ときにはその手を血で汚し、危うく死にかけたことも一度や二度ではなかった。すべては海堂に少しでも近づくため。海堂に復讐する機会を得るためだった。


 機会はふいにやって来た。保護区でも虫が流行りはじめ、組がべつの町へ引き上げることが決まったころのことである。女を海堂のもとに送り届けろという指示がリュウジに下った。海堂がちかごろいれこんでいる情婦で、名をジュンコというらしい。


 郊外の古い団地に迎えに行くと、ジュンコは駐車場の近くですでに待機していた。髪型も服装も化粧も地味なのは団地の人間にあれこれ詮索されないようにするためかと思われたが、助手席に乗りこむ彼女の辛気くさい顔を見ていると、もともとそういう人間のような気もした。


「最後の思い出づくりなのよ」


 夜のハイウェイを走る車内で、ジュンコがぽつりと呟いた。


「誰の?」

「海堂よ。私は愛人だから新しい町には連れていけないんですって。だから最後に抱いておきたいんでしょうよ」

「連れていってほしいのか?」

「バカ言わないで。私は好きであんな奴の女になったわけじゃない。あいつに抱かれるくらいなら、虫に脳を食われて死んだほうがマシ」


 ジュンコは憎しみと諦めの入りまじった顔で毒を吐いた。その顔が死に際のサチの顔と重なり、リュウジは思わず目を逸らす。


 ジュンコを送り届ける先は保護区の中心街にある高級ホテルだった。その三十五階にあるスイートルームで海堂は待っていた。フロントはスーパーに買いものに出かけた帰りのような服装のジュンコを見て眉をひそめたが、リュウジが海堂の名前を出すと急に畏まった態度になったのが少しだけ面白かった。


 部屋の前に到着すると、ジュンコはリュウジからカードキーを受け取った。


「私が出てくるまでここで待ってて」


 そう言って一人で部屋に入ったジュンコだったが、すぐに扉を開けてリュウジを手招きした。


「海堂さんが、あなたも来いって」


 ジュンコの背後に広がる暗闇に人の気配がした。それも一人ではなく複数いる。嫌な予感がしながらもリュウジが部屋に入ると、やはり思ったとおり、海堂の取り巻きたちが銃を構えて立っていた。


 全裸の海堂が嫌がるジュンコの髪を引っ張って、奥のベッドへと連れていく。でっぷりと太った体が醜く、病気のトドのようだ。


「勘違いしないでくれ。おれはおまえを疑っているわけじゃない。これまでよく働いてくれたと感謝さえしているくらいだ。だが保護区を出ていくにあたって、身辺整理は必要だろう。おれはおれを裏切る可能性がある奴を、消しておく必要がある」


 海堂はこちらに背を向け、抵抗するジュンコをむりやり押さえつけながら言った。


「それで、あんたはおれの死体の前でその人を抱くのか。最低な趣味だな」

「罪悪感は一時的だ。やがて快楽と背徳感で洗い流される。おまえの母親もこうして抱いてやったんだ。産みの親も、育ての親もな」


 リュウジのなかでなにかが弾けた。この男は悪魔だ。死なねばならない。いま、ここで。懐に隠し持っていた銃を取り、躊躇なく引き金を引く。たてつづけに二人が倒れた。残りの男たちが慌てて応戦しようとするが、リュウジは彼らよりも早く、そして正確に狙いを定めて脳天に弾丸をぶちこんだ。およそ五秒にも満たないわずかな時間で、リュウジのまわりに死体の山ができあがる。


「ま、待て。待ってくれ」


 命乞いをする海堂の前に立ったリュウジは、ガラス張りの壁に弾丸を撃ちこんだ。粉々に砕け散った窓から、地上百メートルの荒れ狂う風が室内へと吹きこむ。


「ここから飛び降りろ」


 リュウジは冷ややかな声で告げる。


「ここから?」

「これはおまえが地獄へ落ちるための助走だ。わかったらさっさと飛べ」


 嫌がる海堂を窓際に立たせ、背後から銃を突きつける。強風が海堂の腹の肉を波打たせていた。醜悪だ。なにもかもが。リュウジはこめかみに激痛が走るほどに奥歯を噛みしめる。


「お願いだ。ゆるしてくれ」

「飛べ」

「なんでも欲しいものをやる。金か? 女か? それとも地位か?」

「飛べ」

「おまえやおまえの母親どもの面倒を見てやったのはおれなんだぞ。それなのに感謝の一つもないのか」

「飛べ!」


 リュウジは海堂の背中を思いきり蹴飛ばした。海堂の巨体が風の抵抗を受けながらゆっくりと前に倒れ、野太い叫び声とともに夜の底へと沈んでいく。


 あの海堂を、ついに殺した。


 仇を討った高揚感と死線をかいくぐった直後の安堵で混乱する頭を持ち上げ、リュウジはソファに座った。


 正しく生きなさい。育ての母が最後に放った言葉がふいに脳裏をよぎる。


「母さん」


 涙がこぼれる。母さん、おれはあなたが望んだ生きかたを選べなかった。ごめんよ。本当にごめん。リュウジは心のなかで何度も繰り返す。


 するとジュンコがリュウジの涙をタオルで拭い、手を差し伸べた。


「ここにいたら危ない。一緒に逃げよう」


 そうだ。ここにいたら、いずれ海堂の手下が乗りこんでくるだろう。自分の仕業だとバレるのは時間の問題だが、それまでにできるだけ遠くへ逃げなければ。


 リュウジは頭の奥に鈍い痛みを感じながら、ジュンコの手を取った。






 リュウジはフユキを布団に寝かせ、自分の部屋へと向かった。棚の奥にしまってある二丁の拳銃を机のうえに並べる。片方はあの日ホテルで使った銃。もう片方はフユキが持っていたものだ。


「懐かしいね」


 カホが複雑な表情で銃を見つめる。あの日、海堂を殺したあと、二人はその足で保護区から逃げた。町を転々とし、名前を変えて、いまはリュウジとカホとして抒情市に腰を落ち着けて半年になろうとしている。だが富岡があらわれたとなれば、ここにもあとどのくらいいられるかわからない。


「今度は富岡を殺すつもり?」

「いざとなればな」

「そんなことをしたら、また幸福度が下振れしちゃうよ」

「おれの幸福度はあの日から落ちきったままなの、おまえも知ってるだろ」

「わかってる。私たちは幸福度が落ちぶれた者どうしだもんね」


 二十五時症候群。それは二十四時で昨日を終えられなかった者の行きつく先だ。だとしたら、リュウジは昨日になにを忘れてきたのだろう。富岡と対峙することで、なにかわかるのだろうか。


「ところで、もう片方の銃は?」

「フユキが持っていたものだ」

「まさか、これで母親を?」

「いや、違う。オヤジの報告では、母親は鈍器で殴られたという話だった」


 フユキがミヨコを守るため、虫に侵され錯乱した母を殴り殺したことはオヤジの報告書によってリュウジたちも知っていた。拳銃はおそらくべつの理由で持っていたものだ。おまけに……リュウジはシリンダーを振りだした。一発撃った形跡がある。


「いずれにしても子どもが持つべきものじゃないね」カホは拳銃をリュウジから受け取り、懐にしまった。「こいつは没収だ」

「問題はミヨコがどこに連れ去られたかだ」

「そのことだけど、奴らが残していった虫シラズの箱の内側に地図が書いてあった」


 展開されたパッケージの裏側には、やや乱雑に書かれた地図があった。箱を残すだけでなく、ご丁寧に居場所まで教えてくれるとは。あからさまな罠だが、ミヨコの命がかかっている。ここは乗るしかあるまい。


「ここは、逆恨み埠頭の倉庫か」

「あそこに一棟だけ使われてない倉庫があるでしょう。きっとそこだよ」


 すると、背後で扉が勢いよく開かれる音がした。


「おれも連れていってくれ」


 部屋の戸口でフユキが頭を押さえながら立っていた。まだ万全ではないのだろう。扉の枠にもたれかかって息を切らしている。


「そんな体じゃ無理よ」


 肩を支えようとするカホの手をフユキが拒む。


「おれも行く。ミヨコはおれが必ず助ける」


 獣の目がリュウジを睨みつけた。捨て犬のようだった少年がよもやこんな目をするとは。リュウジは華奢でひ弱な印象のフユキが拳銃を持っていた事実がどうしても信じられなかったが、いまならわかる。この少年は、ほかでもない妹のために引き金を引いたのだ。かつて最愛の母を殴り殺したように。


 この少年は、かつてのリュウジと似ている。河川敷でフユキを見つけたとき、なぜ助けようと思ったのか。その理由がようやくわかった。


「すぐに出る。支度をしろ」

「本気なの、リュウジ?」


 カホが二人のあいだに割って入る。


「置いていっても無駄だ。フユキは地を這ってでもミヨコを助けに行くだろう。なら、最初から勘定に入れておいたほうが作戦も立てやすい」

「呆れた」と言って、カホはフユキの頭を乱暴に撫で回す。「ついてくるのはいいけど、無茶して飛びだすんじゃないよ。私たち大人のうしろに隠れてること。いいね?」

「わかった。わかったから離せよ」


 フユキは怒った猫のようにカホの手を振り払った。

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