第六話「不幸」
頼まれていた商品の陳列を終えたフユキが休憩室に戻ると、ミヨコが窓枠に腰掛けてIDカードを夕日にかざしていた。
「観ないんならテレビの電源を消せよな」
などと言いつつ、フユキはつけっぱなしのテレビの前に座る。ちょうど夕方のニュースをやっている時間帯で、どの局も来月に控える市長選の話題で持ちきりだった。
リュウジとカホが昼過ぎから出かけて、店には兄妹の二人きりである。このところ、リュウジたちは兄妹に店を任せて外出することが多かった。誰かと会っているようだが、訊いてもはぐらかされて教えてもらえない。そのことがフユキをもやもやさせた。
「見て。なかのチップが透けて見えるの。綺麗だね」
ミヨコがうっとりした声で言う。IDカードの内部にはチップが埋めこまれていて、所有者の氏名や年齢、住所、病歴や犯罪歴などありとあらゆる情報が記録されている。そしてカードリーダーは町なかのいたるところにあった。たとえば駅の改札。あるいは図書館。コンビニエンスストア。自動販売機まで。抒情市ではどこへ行くにも、なにをするにも身分の証明がいる。おまけにカードは銀行口座とも連携していて決済に利用できるので、市民はこのカード一枚があれば抒情市で生きていけるというわけだ。
フユキとミヨコには偽の戸籍が割り当てられている。ゆえに外ではカードに書かれている偽名を名乗らねばならない。親がつけてくれた名前を隠すのは不思議な気分だ。まるで自分が自分ではないかのようだった。名字はリュウジやカホと同じで、兄妹は二人の子どもということになっているが、リュウジとカホもどうやら偽名のようなので、もはやなにが本当でなにが嘘かわからなくなってくる。
フユキはミヨコの足元まで行き、彼女を真似てカードを太陽に透かしてみた。顔写真のちょうど右横にチップの影が見え、そこから何本もの細い線が放射状にのびている。
「こいつがあれば病院にも行けるんだってさ」
「なら、風邪を引いても長引かずにすむね」
ミヨコが楽しそうに笑う。兄妹がD区にいたころは病院になど行ったことがなかった。家の近くに病院などなかったし、あっても金がないから行けなかっただろう。しかしいまは違う。兄妹はIDカードを持っているし、書店の仕事を手伝ったぶんの給料ももらっている。風邪を引いたら病院に行って、薬を処方してもらうことだってできる。D区では絶対に得られないものをこの抒情市で得ているという事実は、暮らしが確実によいほうへ向かっている実感を兄妹に与えてくれた。
「もしも病院に行けたなら、父さんも母さんも助かったのかな」
言い終えてから、フユキはハッとしてミヨコを見る。直前まで楽しげにカードを眺めていた彼女の顔に暗く湿っぽい影が差していた。フユキは慌てて話を続ける。
「わかってるって。虫に感染した人間は助からない。できるのは進行を遅らせることだけだ」
「でも、もしそれができていたら、兄さんはシンドロームにならずにすんだのかも」
ミヨコは窓枠から降りてフユキの隣に座る。それも、互いの体がぴったりと触れあうくらい近く。彼女の手が畳の上をさまよい、やがてフユキの右手を捕まえた。
ミヨコの手はひどく冷たく、小刻みにふるえていた。
フユキの母親は虫に蝕まれていたが、直接の死因は虫ではない。脳を侵蝕されて前後不覚に陥り、ミヨコの首を絞め殺そうとした母を揉みあいのすえに殴り殺したのはほかでもないフユキだった。彼が十五の年の、クリスマスのできごとである。
死のう。私たち、幸せなまま死んでしまおう。そう言って妹を殺そうとする母を傍らにあったサンタクロースの置物で殴ったあのときの感触をフユキはいまでもはっきりとおぼえている。
母の頭から流れ出た、虫の感染者に特有の白っぽい血。しかし母と揉みあったフユキの額から流れたのは真っ赤な血だった。それを見て、今際の際の母は言ったのだ。
どうしておまえは赤い血をしているの、と。
その言葉はいまでもフユキの血のなかに呪いとして強く残っている。ときどき、頭をかち割って血の色を確かめたくなる。母が死んだときは赤かった血は、シンドロームを発症したいまならどす黒く汚れてしまっているのではないかと、思いたくなるときがある。
「たとえ母さんを殺していなくとも、おれはどのみち不幸に堕ちていたよ」
フユキはミヨコの頭を撫でながら、諭すように言う。本当にそうであるかどうかは関係ない。これは彼が彼自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
テレビでは市長候補の街頭演説の映像が流れている。排他的な政治思想を持つ候補者が選挙カーの上に立ち、不幸な人間はズルいとがなりたてている。
「われわれ真っ当な人間は幸福度を気にして我慢ばかりしている。酒は月に一日、ビール一杯だけ。旅行は次の閏年が来るまでお預けねという具合ですよ。なのに、やれシンドロームだのなんだのという人間は、不幸自慢をしている裏で食べたいものを食べ、着たい服を着て、なんの我慢もせずに生きているんです。そんなの不公平でしょう」
すると、候補者の背後からべつの男があらわれた。
「幸福度が高い人間を感染者予備軍だと罵るのなら、幸福度が低い連中は劣等種として明確に区別すべきです。人よりだめだから不幸になる。努力しないから不幸になる。劣っているから不幸になるんです。そんな人間をわれわれの城に招き入れるべきではない。幸福度の低い人間は抒情市から即刻追いだすべきだ!」
割れんばかりの拍手喝采が巻き起こり、候補者とその応援者の男が聴衆に笑顔で手を振っている。
その応援者の男の顔がアップで映った瞬間、フユキは目をみはった。
「富岡……」
「え?」
ミヨコが聞き返す。
「前に町でこの男に会ったんだ。虫の特効薬を売って回ってる怪しい奴。おれの腕にむりやり薬を注射しようとしてきて」
そのときだった。階下のほうでガラスの割れるような音がしたかと思うと、複数の足音が階段を駆け上がってこちらへ向かってくるのがフユキの耳にもわかった。
「兄さん、誰か来る」
ドアが蹴破られ、顔を目出し帽で隠した男が二人、部屋に入ってきた。そのうちの片方がフユキの顔面を思いきり殴りつけ、彼は衝撃で壁に叩きつけられた。
「やめて。離して!」
もう一人の男がミヨコを羽交い締めにし、部屋の外へと引きずっていく。恐怖に歪んだミヨコと目が合い、フユキは叫んだ。
「待て!」
立ち上がり、あとを追おうとするものの、殴られた衝撃で脳しんとうを起こしてしまったらしく、まっすぐ歩けない。手すりにつかまってどうにか一階まではたどり着いたが、男たちはミヨコを車に乗せて走り去ってしまった。
「ミヨコ……」
ふらつきながら、車の走り去った方角へ歩こうとするフユキの背後でクラクションが鳴った。
「おい、大丈夫か?」ハイエースからリュウジが飛び出し、フユキの体を支える。「なにがあった?」
「二人組が乗りこんで……ミヨコをさらわれた」
「ねえ、これ見て」店内を確認していたカホが大慌てで飛び出してくる。「平積みの本の上にわざとらしく置かれてた」
「こいつは……」
彼女の手に握られた小箱を見て、リュウジが驚きの声を上げる。
『特効・完治・幸福FOREVER』と印刷された、毒々しい色のパッケージ。
富岡薬品の虫シラズであった。




