第五話「ホープ」
準備中と書かれたプレートのぶら下がったドアを開けると、香ばしい匂いがリュウジたちを出迎えた。つい先ほどまで営業していた名残だろうか、まるで肉の焼ける音が聞こえてきそうなほどに芳醇な脂質とタンパク質の香りが店内を満たしている。
ミートハウス『ホープ』は感動通り沿いに店を構えるダイナーだ。テレビや雑誌、インターネットの取材はすべてお断り。そのためさほど有名ではないものの、知る人ぞ知る名店として三十年以上の歴史を誇っている。リュウジとカホは町に来てまだ半年に満たないものの、すでにこの店の虜になっていた。
カウンターに並べられた野球選手のボブルヘッドを指でつついていると、店の奥からショットガンを手に老人が出てきた。ここ『ホープ』の名物オヤジである。胸元まで伸びた顎髭を誇らしげに見せつけながら銃を構えたオヤジは、相手がリュウジであるとわかると満面の笑みを浮かべた。
「なんだ、おまえか。ちかごろ物騒な来客が多くてな。危うくぶち殺すところだったぞ」
「この町にそんな命知らずがいるなんてね」
カホがカウンターの右端に、リュウジはその隣に座る。二人は客として来たときにはいつもこの席に座り、チーズステーキとコーラのラージサイズをセットで注文する。チーズステーキとは薄切りの牛肉や炒めた玉ねぎをチーズと一緒にサンドした料理で、ここのはジャンキーさのなかにも深みが感じられ、ほろほろと肉の繊維がほどけたところにチーズが絡まり、それをコーラで一気に流しこむ快感はほかでは味わえない。いまは営業時間外なのであのマリアージュを楽しめないのが口惜しいが、じつは二人がここへやって来たのにはほかの理由があった。
「おまえのところに居候しているガキどもについてだが、調べておいたぞ」
オヤジはオーバーオールのポケットから四つ折りにされた紙を取りだした。少ししわが寄ったそれを開くと、フユキとミヨコの顔写真とともに彼らの経歴がまとめられていた。
「さすがオヤジ。いつも仕事が速いな」
「偽装IDの手配に密航者の経歴調査。おまえの人使いの荒さは変わらんな。年寄りをあまりこき使うな」
「そんなこと言って。仕事がなくなったらなくなったで退屈するくせに」
カホの憎まれ口にオヤジは中指を突き立てた。
オヤジにはダイナーのマスターだけではなく裏の顔がある。偽の書類作成やデータ偽装。身辺調査に銃火器のネット通販。そういったビジネスを裏稼業の人間向けに続けている。オヤジ曰く、ダイナーの売り上げに0を一個足したくらいの額を裏の仕事で稼いでいるらしいが、リュウジは0がもう一個か二個必要ではないかと睨んでいる。
「D区出身というのは本当らしいな」
兄妹の経歴に目をとおしながらリュウジが言う。
「父親はミヨコが生まれてまもなく虫の重度侵蝕によりショック死。母親はフユキが十五のときに同じく虫に侵されて死亡、か。その後は兄妹そろって幸福回収人として働く。幸福回収人って?」
「町なかにあふれてるチラシやら貼り紙やらを回収したり、落書きを消したりする仕事らしい。D区のような死んだ町では幸福誘発物の回収まで民間に任せるしかないんだとさ」
そう言ってオヤジは煙草を咥えたが、ライターが見つからずにガスコンロで火をつけた。
幸福回収人のことならリュウジも聞いたことがある。確か行政に代わり、幸福誘発物の回収を専門に行う民間の清掃業者という話だ。回収人はその性質上、幸福に汚染されるリスクが高いため、幸福度が低い人間しかなれないという。というより、幸福度が低い人間の行きつく先こそ回収人であるというべきだろう。高度に幸福が抑制された社会では、幸福でありすぎる人間だけでなく幸福ではない人間もまた差別の対象になる。おまえよりはマシだ。おまえなんかよりおれのほうが生きる価値がある。人は自分よりも不幸な人間をそうやって蔑むことで溜飲を下げ、自分が幸福であると思いこみたがるのだ。あるいは、おれは酒を月一回に減らして幸福を抑制しているのに、幸福度に余裕があるおまえは毎日飲み放題ではないか、というような逆恨みもまたあるかもしれない。
おまけに幸福誘発物に触れる機会が多い回収人は幸福にまみれた汚らわしい者たちだという偏見までもがそこに加わる。あいつらに近寄ると幸福がうつる。不幸者の分際で幸福ばかり振りまきやがって。フユキとミヨコもそうした悪意に常にさらされながら生きてきたのだろう。両親を失い、世間からの嘲笑と罵倒を浴びながら健気に生きてきた二人を思うにつれてリュウジはむなしくなる。
「D区あたりじゃよくいるガキだが、せっかく出会ったんだ。優しくしてやれよ」オヤジは換気扇に向かって紫煙を吐きだしながら言った。「それから、もうひとつの依頼だが」
「なにかわかったか?」
「あの富岡という男、やはり海堂のせがれだった。本名は海堂ショウタロウ。会ったことはなくても顔くらいは知ってるだろう」
「まあな」
重い溜め息が漏れる。海堂。その名前を耳にするだけで、数多くの記憶が脳裏にフラッシュバックした。カホもまた動揺と恐怖で顔を歪ませていた。リュウジは彼女の肩に手を置いた。
「海堂は死んだ。もういない」
「でも、あのクソ野郎の息子はまだ生きてる。もしもアイツが私を狙ってきたら……」
「あのときの銃はまだ持ってる。奴があらわれたら、おれがまた……」
カホがリュウジを見上げて首を横に振る。この期に及んでもなお、殺しはだめだとでも言うつもりなのか。いまさら殺しがなんだというのだ。リュウジの手はとっくに血で汚れている。そして富岡はリュウジの血の臭いを嗅ぎつけてここまでやって来たのに違いなかった。




