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第四話「冬」


 二日連続の雨に花の匂いが洗い流されて、一気に冬めいてきた。雨上がりの朝、新鮮な光に浸された空はまるで氷のように澄んでいる。それを眺めていたフユキはふと、D区での生活を思いだした。


 都市機能が麻痺したD区は幸福の無法地帯と化し、町を歩けば幸福度をいたずらに上昇させるチラシやポスター、落書きなどであふれかえっていた。治安の悪い町は往々にして幸福の抑制がきかないものである。過度な幸福を取り締まるはずの行政が死んでしまっているからだ。そういう町ではやむをえず民間の清掃業者が幸福誘発物の回収や除去を行い、ウェルフェアハザードをどうにか防いでいた。


 兄妹もかつては清掃業者に雇われた幸福回収人だった。日が昇る前に町へと繰り出してチラシを拾い集め、目につくポスターをすべて剥がして回り、落書きがあればスプレーで上から塗りつぶす。日が昇ったあとに出勤する人たちが幸福誘発物を見なくてすむように。そしてフユキたち回収人の、幸福で汚れた手を見られずにすむように。


 父親が虫に食われて死んだのは冬である。母が虫のせいで狂って死んだのも冬である。フユキは冬が嫌いだ。冬はいつも彼から大切なものを奪っていく。そのくせ、フユキという彼の名前に住みついて、ひとときも離れようとしない図々しさを持ちあわせている。


 近場にかたまっていた三件の配達を午前のうちにすませて書店に戻ると、常連らしい年配の女性とミヨコが楽しげに会話している声が聞こえてきた。オリハラ書店に匿われてからおよそ一か月、ミヨコはかなり町に馴染んだ様子である。


「ただいま」

「お帰りなさい、兄さん」


 正面の出入り口から入ってきたフユキにミヨコが手を振る。年配の女性もまたこちらを振り返ってお辞儀をしたが、目が合ったまさに一瞬、彼女がぎょっとしたような表情を浮かべたのをフユキは見逃さなかった。


 もしかしてフユキが二十五時症候群であることを知っているのだろうか。いや、きっとそんなはずはあるまい。ただ、知らなくともきっと感じるのだろう。フユキの体にまとわりつき、どうやっても隠しきれない不幸の臭いを。


 買いものを終えた女性が出ていくのを見送ってから、ミヨコはおもての看板を『CLOSED』にひっくり返した。いつもはミヨコとカホが交代で昼休憩をとり、常に店を開けておくのだが、いまはカホがリュウジと一緒に出かけて不在なので一時的に店を閉めなければならなかった。フユキが店番を務めるという選択肢もあるにはあるが、先ほどの女性の反応を見たあとで、ここは任せろと言える勇気も根性も彼にはなかった。


「お昼にしよう。チャーハンでいいよね?」


 質問しておきながら、答えを待たずに階段を駆け上がっていくミヨコに苦笑しつつ、フユキもあとを追ってダイニングキッチンへと向かった。


「おれも手伝うよ」

「いいよ。配達で疲れたでしょう。そこで待ってて」


 ミヨコは野菜かごからねぎを取り出し、包丁で細かく刻む。小気味よい音がキッチンに響く。その心地よいリズムに耳を傾けながら、フユキはカフカの『城』を開いた。


 辞書を引きながら少しずつ読みすすめ、ちょうど半分のところまで来た。物語は全編にわたって難解で、ほんの一部しか理解できていない。登場人物どうしの会話は内容が二転三転して、なにを言いたいのか最後までわからないことも多い。しかし、わからずともページをめくらずにはいられない不思議な魅力がこの本にはあった。


 主人公である測量士のKは、城から招かれて遠方の村へやって来たにもかかわらず、城に入ることをゆるされない。冬の厳しい寒さのなか、城にも迎えてもらえず、村人からも終始よそ者として扱われるKの境遇は、シンドロームゆえに世間に馴染めずにいるフユキ自身の姿と重なった。


「おれもよそ者ってことか」

「なにか言った?」


 こちらを振り返るミヨコに、フユキはなんでもないと笑って答えた。


「もうすぐできるからね」


 ミヨコがふいに浮かべた微笑みが記憶のなかの母と重なり、フユキはハッとさせられる。女手一つで兄妹を育ててくれた母は、フユキが十五のときに虫に侵されて死んだ。母の亡骸の前で泣きじゃくるミヨコを強く抱きしめたあのとき、彼女のことだけはなんとしても守りぬくと誓った。ミヨコはフユキと違ってシンドロームを発症しておらず、幸福度も落ちぶれていない。幸せになりすぎないよう注意し、マスクの着用を徹底すれば人並みの人生というものを歩めるだろう。


 フユキは幸福になど興味もなければ未練もない。ただ、妹にだけは幸福になってほしい。妹が幸せに生きていくこと、ただそれだけがフユキにとっての幸福なのだった。


 昼食をすませて午後の営業の準備をしていると、リュウジの運転するハイエースが戻ってきた。助手席から降りてきたカホはフユキを見るなり嬉しそうに右手を挙げた。


「よう、仏頂面」

「うるさい、ヘラヘラ顔」

「そうカッカしなさんな。ほら、プレゼントだよ」


 カホが渡してきたのは二人ぶんのIDカードだった。それぞれフユキとミヨコの顔写真がプリントされていて、名前も生年月日もでたらめだが、住所はオリハラ書店のものになっている。


「なんだよこれ?」

「IDカードだよ。偽物だけどね。今日から外ではこのカードを使い、ここに書いてある名前を名乗ること。あと、あんたは私の息子ってことになってる。今後、私のことはママと呼びなさい」

「呼ばないよ。そもそも偽装IDなんてどうやって用意したの?」

「そういうのを得意にしてる知りあいがいるんだ」車庫から出てきたリュウジが答えた。「おれたちがふだん使っているカードも偽物だが、認証に引っかかったことはおろか疑われたことすらない。安心して使うといい」

「あんたたち、何者?」


 しがない古書店経営者に偽装IDが用意できるとはとうてい思えない。それに二人は保護区で虫が流行りはじめてからこの町に逃げてきたと話していたが、だとすれば偽装IDを使う必要などないはずだ。保護区が発行したIDカードはなによりも完璧な自己の証明になるのだから。


「私たちもあんたたち兄妹と同じでワケありなのよ」

「どんな?」

「私のことをママと呼んだら教えてあげる」


 カホは本気なのかふざけているのかわからない顔で言う。


「じゃあ教えてくれなくていい」


 フユキはムキになって言い返し、ミヨコのいる店の奥へと引っこんだ。

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