第三話「抒情市」
リュウジは助手席でしかめ面を浮かべるフユキにバッグを手渡した。河川敷で保護したときに彼が持っていたものである。
「妹と一緒じゃなきゃ嫌か?」
話しあいのすえ、フユキにはリュウジに同行して配達の手伝いを、ミヨコにはカホと一緒に店番をしてもらうことになったのだが、フユキにはそれがどうも不満らしい。
「まるでミヨコを人質に取られているみたいだ」
「人質に取られているのはおまえのほうかもしれないぞ」
「うるさい」
リュウジの冗談にフユキがムキになって言い返す。両親を虫に侵され失ったフユキにとって、ミヨコは唯一の肉親だ。これまでずっと助けあって生きてきたのだろう。たとえ片時でも離ればなれになると、自分の半身を失ったような気分にでもなるのかもしれない。
「そもそもどうしておれがあんたと一緒なんだ」
「店番は愛想がよくなきゃいけないからな。おれとおまえは不合格だ」
リュウジはカーナビに目的地を入力して車を発進させる。今日の配達先は三件。いずれも抒情市内だが、一件めと三件めはそれぞれ西と東の端にあるので町を横断することになる。いつもなら面倒だなと思うところではあるが、今日はフユキが同乗している。町について教えるいい機会だろう。
「助手席の収納ボックスにマスクが入ってる」
「おれには必要ない」
「シンドロームだからか?」
フユキの表情が強張るのをリュウジは見逃さなかった。
「おれの幸福度を測定したのか。やっぱりおまえたち、おれを警備隊に引き渡すつもりで……」
「安心しろ。この町では幸福度が低いことは罪じゃない。おまえが警備隊に捕まる理由があるとすれば、ID不保持のほうだ。だが、幸福度が低い人間でも、ここでは外出時のマスク着用が義務づけられている。忘れずにつけておけ」
フユキは疑いの眼差しを長いことリュウジに向けていたが、やがて不承不承にマスクを装着した。専用のフィルターが取りつけられたマスクがフユキの目元より下を完全に覆い隠し、表情を曖昧にするが、それでもはっきりわかるくらいに不貞腐れた顔をしている。フユキの態度からは常にある種の反感が伝わってきた。特定の誰かというよりも世界そのものに対する反感が見えない棘となって少年の周囲に張り巡らされ、近づく者すべてを傷つけるようだった。
人の脳を喰い荒らす謎のウイルス『虫』が世界中に蔓延してから、人々の暮らしは一変した。日に日に増えていく感染者数と死者数。幾度となく発令される非常事態宣言。終わりの見えないステイホーム生活によって国家が分断され、都市が分断され、そして個人が分断された。それでも抒情市のように比較的大きな都市はなんとか生き残ったが、D区のような地方都市はみるみる疲弊し、財源も底を尽きて、都市としての形を維持できなくなった。
虫がセロトニンなどの幸福物質に過剰反応して脳を侵蝕することが判明すると、人々は幸福を自粛するようになった。極端に幸せになりすぎないよう、幸福と不幸のちょうど中間を目指して生活するようになり、幸せそうにしている人間を発見するや、その人間がウイルスそのものであるかのように嫌悪し、袋叩きにした。
自分だけ幸せになりやがって。
おまえのせいでおれたちは。
歪んだ正義感のもとにどれだけの血と涙が流れたかわからない。
やがて専用のマスクが開発されると、人々は顔の下半分を隠してようやく外を出歩けるようになった。しかし、たとえマスクをつけたとて感染のリスクがなくなるわけではなく、幸福の自粛はいまもなお続いている。とくに抒情市はマスク着用に加えて市境での検疫や幸福度管理の徹底による封じこめ政策を打ち出しており、市民には定期的な幸福度測定結果の提出と、幸福度が高すぎる場合には専門機関での矯正プログラムが義務づけられている。おかげでここ抒情市は国内でもトップレベルに平凡でクリーンな町として知られるようになった。
だが、こうした幸福の自粛によって新たな問題が生じた。それが二十五時症候群、通称シンドロームである。幸福の過度な忌避の結果、こんどは幸福度がまったく上がらなくなってしまう人間があらわれたのだ。彼らの症状は鬱病のそれと類似しているが、向精神薬を投与しても幸福曲線が回復の兆しを見せないことから、パンデミック時代の新たな精神疾患として二十五時症候群と呼ばれるようになった。二十五時という名称はこの症例によって最初に自ら命を絶った青年の死亡時刻に由来する。
河川敷で測定したフユキの幸福度はほぼゼロであった。心理テストの返答内容を踏まえると、ほぼ間違いなくシンドロームを発症していると言っていい。シンドローム発症者は幸福と無縁であるため、逆説的に虫への感染リスクはほぼゼロである。だが、それは虫も寄りつかないほど不幸な人間だということにほかならない。幸福を抑制された人間は自分よりも不幸な人間を虐げることによってのみ溜飲を下げる。シンドローム発症者はときとして嘲笑や差別の的になった。
車は感傷町インターチェンジから抒情高速感情線に入り、分岐を悲哀町方面へと進む。
合流地点で詰まっている車の列を見てフユキが驚きの声を上げた。
「すさまじい交通量だな」
「いつものことさ」
午前七時から九時にかけての感情線は吐き出せなかった言葉が詰まった喉のように窒息している。苛立ちをこめたクラクションや鬱憤を溜めこんで燻るエンジンの音が四方八方から鳴り響き、リュウジは気を紛らわせようとラジオの音量を上げた。AM1620kHzの周波数が感情線全線に事故はなしと伝えている。いつもと変わりない平和な一日だ。隣に座っている少年の存在を除けば。
とうのフユキは初めて見る光景の数々に興味津々の様子で、隣の車や高架から望む抒情市の景色に忙しなく視線を動かしている。窓を覗きこむフユキの痩せた首筋には青い血管が病的に浮かび上がっている。まるで捨て犬だ。誰にも助けてもらえないからみんなに牙を剥き、そのせいで余計に助けを得られなくなる。そういう痛々しいアナーキズムが少年の体躯にこびりついているようだった。そしてたいていの場合、いちどこびりついた感情は簡単に洗い流せないことをリュウジはよく知っていた。
通勤ラッシュの時間帯を過ぎるころになると、車の数も徐々に減ってハイウェイは健康的な血流を取り戻す。悲哀町インターから一般道に下り、さびれたパチンコ屋をすぎたところに一件めの配達場所はあった。マスクの開発と市の封じこめ政策の成功によって人々が健康で文化的な最低限度の生活を送れるようになると、それまで下火であった本の需要が少しずつ高まった。誰もが心の贅沢を求めはじめたのだ。とはいえ外へ買いに行くのはまだ怖いという人たちもいて、そういう人たちのためにオリハラ書店は配達サービスをおこなっていた。
二件めの配達を終え、車に戻ろうとした二人の目の前を一台の宣伝カーがとおりすぎた。大音量で音楽を鳴らしながら徐行運転する車のボディに、『特効・完治・幸福FOREVER』と書かれた注射器のステッカーが貼られている。
「さようなら。二度と来ないでこの脳に。虫の恐怖でお悩みの方、虫に感染してしまった方には富岡薬品の虫シラズ。富岡薬品の虫シラズをぜひお買い求めください」
製品名を繰り返すだけの軽妙な歌に合わせて、車載マイクから胡散臭い宣伝文句が音割れしながら響いていた。
「なんだあれ?」
フユキが怪訝そうに言う。
「最近巷で噂になってる虫の特効薬だ。脳内の虫を駆除するだけでなく、半永久的に感染を予防してくれるって話だが、眉唾ものだな。近寄らないほうがいい」
すると、とおりすぎたはずの車がUターンしてこちらに戻ってくる。
嫌な予感がした。
車は案の定、二人の前で停止した。助手席の窓が開いて、サングラスをかけた長髪の男が顔を出す。
「はじめまして。わたくし、富岡薬品社長の富岡です。どうやらお二人とも虫シラズに興味がおありのご様子。さっきからずっと視線を感じていましたヨ!」
あまりに甲高く耳障りな声だった。車載マイクを使って話していたのもこの男だろう。社長自ら宣伝して回るとは、よほど自信のある商品らしい。
「やかましい車だなと話していたところですよ」
「そうですか。まあ構いやしませんけどね。ところであなた、どこかでお目にかかったことがありますかな?」
富岡がサングラスを外し、リュウジの顔を覗きこむ。リュウジは反射的に顔を背けた。心拍数がみるみる上がっていくのを感じる。
リュウジはこの男を知っていた。
「仕事がありますので、これで」
向こうに気づかれる前に立ち去らなければ。リュウジはフユキの手を引いて車に戻ろうとするが、富岡はなおも食い下がってきた。
「ちょっとお待ちなさい。こうして出会ったのもなにかの縁。試供品を差し上げましょう」
「いえ、そういうのは……」
「まあまあ、そう仰らずに」
富岡は虫シラズと書かれた箱を窓から差し出した。フユキがそれを受け取ろうと手を伸ばす。
「おい、やめろ」
リュウジが止めようとしたまさにそのとき、窓からもう一本の手が伸び、フユキの手首を掴んだ。富岡は抵抗するフユキの腕を車内に引きずりこみ、手にしていた箱を口で破り注射器を取り出した。薄暗い車内に注射器の先端が怪しく光る。
「なにをする!」
リュウジは慌ててフユキの腕を引っ張り出した。恐怖で顔が真っ青になっているフユキを連れてハイエースへと走る。
「逃げるなよ。幸せにしてやるからさあ!」
富岡が車を飛び出し、注射器を頭上に掲げながらリュウジたちを追いかけてきた。
「早く乗れ!」
リュウジはフユキが助手席のドアを閉めたのを確認すると、車を急発進させる。シートベルトを締めていないフユキがダッシュボードに額を思いきり打ちつけた。
「なんなんだよ、あいつ」
フユキは赤くなった額を押さえながら言う。
「話はあとだ。とにかく逃げるぞ」
リュウジはアクセルを踏みこんで車を加速させる。富岡は道路のまんなかに立ってなにやら怒鳴っているが、その姿は徐々に小さくなっていく。
富岡が完全に見えなくなったのを確認して、リュウジは車のスピードを法定速度まで落とした。
サングラスを外した瞬間の富岡の顔が頭から離れない。
忘れかけていた過去。いや、忘れたことにしていた過去が一気に蘇り、襲いかかってくる。吐き気にも似た嫌悪感を催しながら、リュウジは大通りを西へと向かった。




