第二話「オリハラ書店」
抗いがたい温もりに包まれながらフユキは目を覚ました。カーテンの隙間から差しこむ光が頬を撫で、嗅いだことのない洗剤の匂いが鼻孔をくすぐる。知らない家の匂いだ。いや、そもそも家という場所にありつけたのはいつぶりだろうか。公園や高架下で夜を越す生活に慣れていた彼にとっては、いま感じているすべてが新鮮で、異質なもののようだった。
フユキは起き上がり、八帖半の畳敷きを見渡した。白も灰色にくすんだ天井。同じく薄汚れた壁にはちゃぶ台が立てかけられ、その隣に厚紙でできた組み立て式の棚が置かれている。照明器具から垂れ下がった紐は隙間風のせいか少し揺れていた。
ここはいったいどこだろうか。休憩室か仮眠室のようだが、どうやってここにたどり着いたのか思い出せない。
隣ではミヨコが毛布にくるまって寝入っていた。彼女を起こさないように布団から抜け出したフユキは、自分の服装を見て驚いた。継ぎ接ぎだらけの襤褸を着ていたはずが、グレーのトレーナーとスウェットパンツ姿に打って変わっている。おそらく寝ているあいだに着替えさせられたのだろう。トレーナーはフユキの体よりも一回り大きく、余った袖を嗅ぐとどこか懐かしい匂いがした。
音を立てないようにそっと扉を開けて廊下に出る。突き当たりにある階段の先からなにやら物音がした。階下に人がいるのだ。フユキの全身に緊張が走る。無意識のうちに武器になるものを求めた彼は、階段の上から二段目になぜか置かれている大鍋の蓋を手に一階へと向かった。
階段を下りた先の暖簾をくぐると、目の前の光景に言葉を失った。
広い売り場の左右と中央に棚が置かれ、それらを埋め尽くすように大量の本が隙間なく並べられていた。
「本だ。しかも、こんなにたくさん」
フユキは先ほどまでの警戒心も忘れ、所狭しと並んだ本に目を奪われる。彼が生まれ育ったD区では本を目にする機会などほとんどなかった。とりわけ文学作品の類は『虫』を脳内に呼びこむ最たるものとされ、厳しく制限されていたのだった。書籍は見つけ次第すべて焼却。また、隠し持っていた人間は即刻逮捕され、取り調べという名の苛烈な拷問を受けることとなる。フユキの身の回りでも、何名かの人間が連行されたまま戻らないことがあった。
D区の人間にとって、本とはそれほどまでにおそろしく、また唾棄すべきものであった。だが同じくらい興味をそそられるのもまた事実である。
棚からおそるおそる本を手に取る。フランツ・カフカという人が書いた、『城』という小説だった。ためしに冒頭を読み進めてみる。難解で、フユキの理解の遠く及ばない内容であることは明白だったが、読むどころか目にすることさえも憚られた小説をこうして手にできているという事実が彼の目と指を動かす原動力となった。
鍋の蓋を床に落としたことにも気づかず夢中でページをめくっていると、ふいに背後から声がした。
「カフカか。しかも『城』とは、いい選択だ」
フユキが驚いた拍子に手から本が滑り落ちる。背後に立っていたリュウジは『城』を床から拾い上げると、埃を手で払ってフユキに手渡した。
「本が好きなのか?」
「いや、読んだことない。禁止されてたから」
「ならそいつをやる」
「売り物じゃないのか?」
「ずっと売れ残ってるんだ。いまどきカフカは流行らないらしい。だが傑作だ」
それからリュウジは店の奥に上がろうとして振り返った。
「ついてこい。朝飯にしよう」
フユキはリュウジのあとについて、下りたばかりの階段をふたたび上がって二階のダイニングキッチンへ向かう。どうやらここは一階が店舗、二階が住宅になっているらしく、ダイニングキッチンは階段と反対側の突き当たりにあった。
「そこに座って待っててくれ」
フユキをテーブルにつかせると、リュウジはキッチンに向かい朝食の支度を始めた。食パン四枚をトースターで二回に分けて焼き、そのあいだにベーコンエッグを作りながらレタスやキュウリをカットして皿に盛りつける。思わず見入ってしまうほどの手際の良さだ。フユキはベーコンの焼ける香ばしい匂いに自然と目を閉じる。空っぽの腹が大きな声で鳴き、それを聞いたリュウジは声を出して笑った。
「すぐにできあがるぞ」
「それよりも、ここはどこ?」
フユキは恥ずかしさを紛らわそうと訊ねた。
「オリハラ書店。古本屋だ」
「そういうことじゃない」
ムキになって言い返すフユキをリュウジが笑いながら制止する。
「わかってる。ここは抒情市感傷町三丁目。D区からずいぶん遠くまで来たもんだな」
「保護区じゃないのか?」
「保護区なら反対方向だ。それに、あそこには行かないほうがいい。虫の餌食になるだけだ」
「保護区は安全なはずだろ?」
「過去の話だ。一年半ほどまえに保護区でも虫が湧きはじめて、あっというまに蔓延した。いずれD区のようになるだろう」
「嘘だ」
フユキは声を荒らげる。だがリュウジは冷静な表情のまま首を横に振った。
「嘘じゃない。おれはもともと保護区にいたんだ。ぜんぶこの目で見てきた」
フユキは言葉を失う。彼ら兄妹は保護区を目指してD区を飛び出した。保護区でも虫が出たという噂は耳にしていたが、この目で見るまでは信じないつもりでここまでやって来た。保護区に行けば虫の恐怖から解放される。保護区では誰もがやましさなく幸福になれる。そう自分に言い聞かせてきた彼にとって、保護区に住んでいた人間からの言葉はあまり鋭く、致命的で、にわかには受け入れられなかった。
「こんどはこちらから質問させてくれ」リュウジは冷蔵庫から牛乳を取り出しながら言う。「名前は?」
「フユキ」
「年は?」
「十八」
「一緒にいたのは妹か?」
「妹だ。名前はミヨコ。年は十六」
「両親は?」
「どっちも虫に食われた」
「そうか」
リュウジの顔に一瞬、影が差した。気まずさか、あるいは憐れみだろうか。いずれにしてもフユキは条件反射的な苛立ちをおぼえた。フユキは他者からの同情を嫌悪して止まない。D区で泥水をすするような日々を過ごした彼にとって、同情は見下されることと同義だった。べつに自分は不幸ではないと主張するつもりはないし、他人より幸福だと証明したいわけでもない。ただ、自分で自分を不幸だと認めることと、他人から不幸だと評価されることとでは、受け止めかたにも重みにも違いがありすぎるのだ。
「ほかに質問は?」
いいかげんうんざりしていたフユキはこの質疑応答を終わらせるつもりで訊いたのだったが、リュウジは最後に一つだけと断ったうえで言った。
「なぜ拳銃を持っていた?」
その瞬間、フユキの背筋が凍りつく。まさか、拳銃を持っているのがバレたのか。
「言いたくない」
ふるえる声でなんとか答えた。心臓がうるさいほどに高鳴り、視界がホラー映画の安っぽい演出のように歪んでいく。右手にはなにも持っていないはずなのに、拳銃の冷たい感触やずっしりとした重み、そして引き金を引く指に絡まるあの抵抗感が一瞬にして蘇る。おれはあの銃で……。フユキは吐き出しかけた言葉をあと少しのところで呑みこんだ。
「無理に話せとは言わない。だが、銃はこちらで預からせてもらう」
リュウジは水を注いだコップをフユキの前に置いた。フユキは水を一気に飲み干し、すでにキッチンに向き直っているリュウジの背中を見た。がっしりした体格のリュウジがキッチンに立つ姿は少し滑稽だが、同時に生活感もあって、見ていて不思議と心地いい。フユキは幼いころ、夕食を作る母の背中を同じように眺めていたのをふと思い出した。
「お? いい匂いしてんじゃん」
静寂を破るように扉が開けられ、寝癖で髪を爆発させたカホが入ってくる。彼女の背後にはTシャツに短パン姿のミヨコが不安げに隠れていた。カホの服を借りているようだが、もともと体格差があるうえにミヨコはひどく痩せているので丈が余っている。
「兄さん」
ミヨコはフユキのもとに駆け寄り、たがいに手を取りあった。彼女の手の温もりが、フユキの張りつめた緊張をほぐした。
「みんな揃ったな。それじゃあ飯にしよう」
小さなテーブルを四人で囲い、朝食をとる。ベーコンエッグにトースト、サラダに牛乳までついている。こんなまともな食事にありつけるのはいつぶりだろうか。兄妹はゆっくり味わう余裕もなく、目の前の食料を無我夢中で腹のなかに押しこんだ。
「それじゃあ、やっぱり保護区はもうだめなんですね」
朝食を終えて一息ついたところで、フユキはリュウジから聞いた話をミヨコに伝えた。ミヨコは表面上は冷静さを取り繕っていたが、伏せた瞳は左右に激しく動き、かなり動揺しているのがフユキにも伝わってきた。
D区の住民にとって保護区とは地上に残された唯一の楽園であり、そこでは誰もが虫に怯えることなく幸福に生きられると言われていた。だが、楽園は潰えたのだ。あまりにも残酷な現実が兄妹の胸に重くのしかかる。
「これからどうしよう、兄さん」
ミヨコは救いを求めるようにフユキを見たが、フユキにもどうすればいいのかわからない。保護区の望みは絶たれてしまったが、だからといってD区に戻るわけにもいかない。兄妹は来た道も進む道も塞がれ、まったく身動きが取れなくなってしまった。
「ここにいたらいいじゃん」
カホがあっけらかんとして言う。
「だめだ。あんたたちのことをまだ信用できない」
「一緒にご飯を食べたのに?」
「それはそうだけど」
これまで兄妹はいくつもの土地を転々としてきたが、どの土地でもD区の出身というだけで散々な扱いを受けてきた。虐げられたぶんだけ心は削られ、尖り、先鋭化していく。他人は悪だ。ミヨコ以外の人間を信用してはいけない。そんな考えがいつしかフユキを支配していた。
だが、リュウジとカホはいままでに出会ったどの人間とも違う。兄妹を手厚くもてなしてくれたし、彼らの出自を馬鹿にするようなことも言わなかった。
他人は信じられない。しかしこの人たちのことを信じたい。フユキの心は揺れていた。
「無理に信用しろとは言わない。だが、ほかに行く当てもないんだろう。次の目的地が決まるまでここにいればいい」
「おれたちはD区出身の、しかもID無しだぞ」
「IDのことなら心配するな。こちらでなんとかする。それと、言っておくがタダで置いておくつもりはないぞ」
「条件があるってこと?」
不安げな表情を浮かべるミヨコにリュウジは優しく微笑みかけた。
「書店の仕事を手伝ってほしい。人手が足りなくて困っていたところなんだ」




