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第一話「ネズミ」


 十八時半の同情大橋は家路につく車や輸送帰りのトラック、疲れ果てた顔の人たちを運ぶバスでごった返している。つい先ほどまでにわか雨に降られていたせいで行き交う車のボディには水滴が付着し、雲間から覗く夕日の光を鋭利に反射していた。


 リュウジは『オリハラ書店』とプリントされた白いハイエースの運転席からその輝きを眺めていた。もう三十分は橋のうえで立ち往生している。隣町に納品へ出かけた帰りだった。東西を二つの川に挟まれているここ抒情市では、隣町に行くためにはこの同情大橋を渡るしか方法がないから朝夕のラッシュ時にはこうして大渋滞が起こってしまう。


 どこかでクラクションと怒号が鳴り、それに対してべつの誰かがすかさず応酬した。これもまた、この町ではよく見る光景だった。


 まるで動脈硬化を引き起こした血管みたいだ。この町では誰もが同情することを忘れてしまったくせに他人の同情を求める欲深さだけは健在で、だからこういう醜い光景がそこかしこで広がっている。カーラジオではアナウンサーが汚染度予報を伝えていた。防護マスクの装着は法律で義務づけられていますという決まり文句が、予報の合間にくどいくらいに差しはさまれている。


 そこかしこで鳴らされるクラクションの音に負けない声で、リュウジは助手席のカホに訊ねた。


「晩飯はどうしようか?」


 助手席の窓から屈辱川を見下ろしていたカホは運転席のほうを振り向いた。防護マスク越しでも彼女の顔に笑みが浮かんでいるのがわかった。


「『ホープ』で済ませればいいんじゃない? 帰ってから作るのも面倒くさいし」

「あそこは月曜定休じゃなかったか?」

「頼めばチーズステーキくらいは作ってくれるって」


 リュウジは溜め息をつく。『ホープ』は橋を渡り、書店を超えたさらに先にあるダイナーだ。そこまで向かう手間に比べれば、冷蔵庫の食材の余りを使って適当に料理したほうがはるかに楽だろう。


「おまえ、さてはチーズステーキを食いたいだけだな」

「バレたか」


 カホはシートを倒し、ご機嫌に鼻歌をうたいはじめた。いかにも夏らしい爽やかなメロディラインにはリュウジも聞き覚えがあった。確か町でよく流れている流行歌だったはずだが、名前がどうしても思い出せない。名前が思い出せないということはとくに好きな曲でもないというわけで、ならば無理をして思い出すこともない。それなのにカホの鼻歌を聴いていると、リュウジは頭の奥がむず痒く感じるのだった。


「なあ、それなんていう曲だっ……」


 リュウジの言葉を遮るように、激しい音と振動が車を襲った。


「なんなの、いったい」


 外では長い髪を後ろ手に結わえた女が、涙を流しながら助手席の窓を叩いていた。マスクもつけず、丸裸の口を大きく開いてなにか叫んでいるが、周囲のエンジンとクラクションの音にかき消されて聞こえない。詰まっている車の奥から制服を着た男たちが駆けつけ、女を連行しようとした。女は激しく抵抗し、ハイエースになんとかしがみつこうと必死にもがいていた。しかし制服姿の一人が電撃棒を女の首筋に当てると、女は激しく痙攣したのち動かなくなった。


 女を乱暴に引きずっていく男たち。その一人がリュウジたちを睨みつけ、こちらを見るなとでも言いたげに手で払う動作をする。男の胸には金色の鷹の紋章が光っていた。


「警備隊員か」

「じゃあ、さっき連行された人はID無し?」

「おそらくな。だが、警備隊がこのあたりまで出張ってくることはめったにない。もしかすると密告があったのかも」

「私たちも気をつけないとね」


 カホは鞄から二人分のIDを取り出し、表と裏を確認してから戻した。


「心配ない。そいつのできは完璧だ。警備隊でも見抜けないさ」

「わかってる。でも、あんなことがあったばかりだから……って、なによ、あれ?」


 カホの指さす先、屈辱川の河川敷に人が倒れていた。それも、一人ではなく二人である。たがいの体を抱きしめあい、下半身は川にすっかり飲みこまれている。


「まさか、入水自殺でもするつもりか」

「ううん、違う。川から這い上がろうとしてるんだよ」


 確かによく見ると、二人は土手を目指して川から這い出ようとしているようだった。とすれば、このあたりでも屈指の広さである屈辱川を向こう岸から泳いできたというのか。いったいなぜ。

 と、そこまで思案したところで、先ほど連行された女の顔が浮かぶ。もしや、警備隊が張っていたのはあの女ではなく彼らを捕まえるためではなかったか。


 すると、ふいに男のほうがこちらを向き、目が合った。少なくともリュウジにはそんな気がした。


「すまん、運転を任せる」

「ちょっとリュウジ、いったいどこに行くつもり?」

「あの二人のもとへ行く」


 リュウジは車を降り、車の隙間をかいくぐって河川敷へと走った。何台かの車にクラクションで威嚇されながらもようやく橋を渡りきり、土手から河川敷に下りると、視界が一気に開けて夕日が目を灼いた。まるで光の刃物で瞳を切り裂かれたかのようにこぼれ落ちる水滴を指先で拭いながら、リュウジは二人のもとへと急いだ。


 二人は川から上がりきったところで力尽き、抱き合うように倒れていた。顔立ちの幼さからしてまだ十代だろう。どちらもひどく痩せて、濡れて貼りついたシャツに肋骨の形が浮き出ている。おまけに防護マスクもつけていない。


「おい、大丈夫か?」


 呼びかけるものの返事はない。気を失っているのか、あるいは。最悪の考えが浮かぶ。


 リュウジはひとまず二人を仰向けに寝かせ、それぞれの口元に耳を近づけた。呼吸はあるようだった。それに目もうっすらだが開いている。意識はあるが、息が上がっていて話せないのかもしれない。


「リュウジ!」


 土手の上に停められたハイエースからカホが駆け下りてくる。


「死んではいない。まだ意識もある。だがそうとう弱っているようだ」

「まだ子どもじゃないの。いったいどうしてこんなこと」


 すると、少年のほうが息も絶え絶えに口を開いた。


「妹は……」


 起き上がろうとする少年の肩をリュウジが抱きかかえる。


「大丈夫だ。息はある。いったいなにがあった?」

「向こう岸から泳いできた」

「なぜ?」

「橋を渡れないんだ。IDを持ってないから」

「IDがないって、じゃあこの子たち、廃市から来たってこと?」

「おそらくな。おまえたち、出身は?」

「D区だ」


 リュウジとカホは顔を見合わせる。D区といえば、汚染度が最も深刻だと言われているエリアだ。都市機能はとうの昔に崩壊し、いまや悪党や過激な政治団体が我が物顔で跋扈する無法地帯と噂されているが、誰も近寄ろうとしないので真相は定かではない。とにかく危険だから近寄るなという警告と必ずセットで語られる町である。


 やはり、警備隊はこの二人を狙っていたのだ。D区出身のID無しといえば、彼らが最も目の敵にしている種類の人間ではないか。


 リュウジは作業服の胸ポケットから簡易の測定器を取り出した。


「いまからいくつか質問をする。深く考える必要はない。直感で答えるんだ」


 少年は小さく頷いた。


「最も古い記憶は?」

「汚れたブランケット」

「最も難しいことは?」

「星を数えること」

「雨の公園で子犬が血を流して倒れている。犯人は誰だ?」

「わからない。おれかもしれない」


 リュウジはふたたびカホと目を合わせた。カホが眉間にしわを寄せ首を横に振るが、リュウジは無視して質問を続けた。


「目の前に木が植わっている。枝は何本ある?」

「一本もない」

「なぜだ?」

「ぜんぶ、折れてしまった」


 少年の目から涙がこぼれ落ちる。リュウジは測定器の画面に表示された数値をカホに見せようとしたが、彼女は顔を背けた。


「見なくても結果はわかってる。で、どうする?」

「連れて帰る。このままでは二人ともさっきの女のようになるだろう。放ってはおけない」


 抱きかかえた少年の体はおそろしいほどに軽く、頼りなかった。


「相変わらずお人好しが過ぎるね、リュウジは」


 小言を漏らしながらもカホは少女を抱きかかえる。


「ひとまず車まで運ぶぞ」


 二人は兄妹を抱えて土手をのぼり、後部座席に座らせた。周囲を見渡して、警備隊員の姿がないことを確かめる。


「これはどうする?」


 カホが手にしているのは兄妹が抱えていたバッグだった。兄のバッグにはネズミの、妹のバッグにはネコのキーホルダーがぶら下がっている。絵のタッチが似ているから、揃いで買ったものだろう。どちらもそこかしこに傷がついていた。


「一緒に持って帰ろう」


 リュウジはバッグを預かると、トランクの空のかごに入れようとしたが、兄のバッグがやけに重たい。それに、下ろしたときの音からしてそうとう固いものが入っているようだった。リュウジはかごに押しこむふりをしてそっとバッグを開けてみる。


「これは……」


 入っていたのは拳銃だった。回転式の古めかしい代物だが、手にすると独特な重みがある。シリンダーを振り出すと、装填されたままの弾が水に濡れて冷え冷えと輝いていた。


 本物だ。少年が持っていたのか。しかし、いったいなぜ。リュウジは後部座席で未だに息を切らしている少年と手元の拳銃を見比べた。


「どうしたの。行かないの?」


 助手席のカホが痺れを切らして言う。


「ああ、いま行く」


 リュウジは拳銃を自分のバッグに移し替え、運転席に戻った。

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