ジルベール
外はすっかり真っ暗。
いつもなら、アタシはもうアレクシアと寝台に潜って寝こけている刻限だ。
けど今日に限ってはアタシもアレクシアもまだ仕事をしている。
アタシ達だけじゃない。
邸内は未だにあちこちで人がバタバタと行きかっている。
まぁ、それも仕方のないことだろう。
一の兄上が、アレクシアの母上、姉上、弟を連れて帰って来た。
その三人だけじゃない。
ノーフォート領都でサラテニア軍に抵抗していた1000人近い人たちを、丸ごと引っ張ってきているらしい。
今日到着したのはその先遣隊で、アレクシアの家族三人と、重いケガを負っている兵士や領民およそ200人ほどだ。
残りの800程も順次街に到着する見込みらしく、状況の報告をしてくれた兄上は、後続隊の進捗を直接確認に行くといって、警護の兵士数人と一緒に再び領都を馬で駆け出て行った。
我が兄ながら、すごい人だよ、うん。
ただ、それに輪をかけてすごいのは、やっぱり親父殿と“夜鷹”の連中だ。
親父殿は、アレクシアの手紙を受け取ったのとほとんど同じころには、サラテニア軍が何がしかの軍事行動の準備をしていることを掴んでいたらしい。
手紙が届いた時点で親父殿はすぐにノーフォート領と、北部戦線に残っていたアレクシアの父上に“夜鷹”を差し向けた。
同時に自分達を輸送するための馬車を空にして、密かにノーフォート領内へと送り出したんだという。
“夜鷹”がノーフォート領都に到達したころにはすでに、サラテニア軍1万五千が攻め寄せている状況だったようだ。
“夜鷹”は日が沈むのを待って領都の中に潜入し、アレクシアの手紙を手立てにして防衛の指揮を執っていたアレクシアの姉上に接触した。
ノーフォート領都で“夜鷹”とアレクシアの姉上、ジルベール様が打ち合わせを行い、次の日の夜半に100人ずつの集団に分かれて一斉に領都を放棄。
“夜鷹”に先導されて分散したまま国境へ向かう街道を進み、途中で親父殿が放っていた馬車とそれぞれ合流して、国境線まで帰還した、というのだ。
簡単に言うが、夜だったとはいえ、そもそもそんな大人数で攻撃を受けている領都から抜け出すなんて至難の業だし、空の馬車を進めるのだって、途中には別の貴族の領地も通らなきゃいけないはず。
そこを察知されずに通過させる方法なんて、アタシなんかがどんなに頭を捻っても考えつかない。
とにかく親父殿は、アレクシアからの要請と現地の情報を集めたうえで、針の穴を通すような方法でアレクシアの家族とノーフォート領の兵士、領都の民を搔っ攫って来たんだ。
本当に恐れ入る。
そんなことをつらつらと考えつつ部屋で次の兄上への報告書と、アレクシアの家族三人の世話に当てる人員計画を書いているアタシの耳に、ガチャリとドアを開ける音が聞こえた。
見ると、アレクシアが部屋に戻ってきたところだった。
「おかえり。三人の様子は?」
「もう眠ったよ。よっぽど疲れていたみたいだ」
「そりゃそうだよ、ノーフォート領からここまで四日で駆けて来たっていうんだから」
アタシはペンを文箱に置いてそう答える。
国境よりも近いところから戻って来たアタシ達でさえ三日掛かった。
ノーフォート領からとなると、その倍かそれよりもさらに長い距離になる。
そんな道のりを四日で駆けてきたということは、ほとんど休まずに移動してきたに違いない。
それだけ急いだのは、とにかく国境線から三人を遠ざけたいと思ったからなのか。
それとも怪我人に一刻も早く治療を受けさせたいと思ったのかは分からないが、その辺りを話す間もなく一の兄上は戻って行ってしまったしな…
「あ、そうだ。父上様の話は聞いたか?」
「父上…?いや、聞いていないが…何か情報が?」
「あぁ、まだ聞いてなかったか。ひとまず、“夜鷹”が接触できたらしい。その後の情報はまだ届いてないけど、親父殿からは軍を解散して身を隠すように助言したって、一の兄上の報告があったらしい」
「そうか、父上も…」
アレクシアは呟くようにそう言うと、手を胸に当ててほっ、と大きく息を吐いた。
それから、勢いよくアタシの傍に近寄って来たと思ったら、椅子に座ったまんまのアタシにガバっと抱き着いて来た。
アタシはそれを受け入れて、彼女の背中に手を回してポンポンと撫でてやる。
「良かったな」
アタシが言うと、アレクシアはコクンと頷いた。
それから耳元で囁くように
「ありがとう」
と礼を言ってくれる。
「やったのは全部親父殿と“夜鷹”だし…アタシができたのは、あんたを落ち着かせることくらいだった」
「それも、私には必要だったし、嬉しかった」
アタシの体に回されている腕に、ギュっと力がこもった。
それをなだめるように、さらに彼女の背を叩く。
「私はあなたにや伯爵家のために何を返したら良いんだろう」
「お返しなんて気にしなくって良いって」
アタシはそう言ったんだけど、彼女は今度は首を横に振った。
「…あなたは、どうしてこんなに私を助けてくれるんだ…?」
「どうしてって……どうしてだろう…」
彼女に聞かれて、すぐに答えが出てこなかった。
どうして、か…どうしてなんだろう?
天幕に酒を持って行ったのは、申し訳ないことしたかな、と思ったからだ。
ここにくる道すがら、一緒に馬車に乗ったのは、声を掛けた時に嬉しそうな顔をしたからで、こっちにきてあれこれ世話をし始めたのも、同じ理由だった。
サラテニアの侵攻が始まったって話が出たあとは、辛そうにしている彼女を支えたいと思ったからだ。
でも、彼女が聞きたいのはたぶん、そういうことじゃない気がする。
考えてみれば確かに、なんとなく助けてやりたい、というだけで、普通はここまでするだろうか?
相手がアレクシアじゃなかったら、どうしてたんだろう?
そんなとりとめのない思考を走らせていたら、不意にクスクスっと笑う声が聞こえた。
「すまない、ちょっと抽象的すぎることを聞いたな」
「いや、こっちこそ…なんか、うまく言葉にならないや」
アタシはそう言って、彼女をギュッと抱きしめる。
「…でも、迷惑だと思ったことはないし、アレクシアにこうして頼られるのは嬉しいんだ。それだけは覚えといて欲しい」
「うん、ありがとう…あなたも、私があなたの役に立ちたいと思っていることを覚えておいてくれ」
「あぁ、分かった」
アタシがそう返事をすると、アレクシアの腕にまた力がこもった。
それからフッと脱力した彼女は、ホッと小さく息を吐く。
「まだ休まないのか?」
「あぁ、この書類だけ完成させなきゃいけなくて」
「そうか、なら手伝おう」
「それは魅力的な“お返し”だ。ぜひ頼むよ」
アタシ達はそう言葉を交わして、見つめ合い、互いに笑顔になった。
それからしばらく、二人で文面を考え、人員計画を策定してそれに必要な追加の要員を要求する書類を作成した。
作業を終えたアタシ達は、いつも通りにそのまま二人で寝台に潜り込む。
アタシはアレクシアの体温を傍に感じながら、微睡の中に沈んで行った。
「次の兄上、入るぞ」
翌朝、朝食を終えたアタシは昨晩作った報告書と身辺係の人員計画書を持って次の兄上の執務室の前にいた。
ゴンゴンとドアを叩くとほどなくして、侍女が中からドアを開けてくれる。
部屋に入ると、次の兄上は執務机について、書類に羽ペンを走らせていた。
「忙しいとこ悪いな」
「あぁ、なに、どうってことない。何か用事が?」
次の兄上は書類に視線を落としながら、アタシにそう聞いてくる。
「昨日収容した怪我人の詳細と、ノーフォート家の方々の身辺係の人員計画書を持ってきた」
アタシが報告すると、次の兄上は顔を上げて
「あぁ、その件か。助かるよ」
とペンを置いて、アタシが差し出した書類を受け取った。
兄上は素早く書類に視線を走らせると、二度、三度うなずいて見せる。
「負傷者の収容には問題なさそうだな…危険な状態の8名については、峠を越えられると良いが」
うちの衛生隊の話では、特に胸や腹に矢を受けた兵士と槍で脇腹を深くやられた兵士が特にまずいらしい。
懸命に治療はしているようだけど、感染症の兆候も出始めているとのことだ。
「かなり厳しい状況のやつも数名いるらしい。後続で避難してくる人の中に家族でもいれば、せめてそれが間に合うと良いんだけど…」
「そうか…そればかりは、祈る他にないか」
「うん」
一瞬、どちらとも黙ってしまう。
うちの兵士じゃないとはいえ、圧倒的劣勢の中で自領や民のために戦った者が倒れるというのは、辛いもんだ。
「…それはそうと、第二陣の収容はどうなった?」
アタシは、空気を換えようとそう話題を投げかける。
明け方に、ノーフォート領からの避難民の第二陣が領都に到着していた。
こちらの一行は領民なんかの非戦闘員がほとんどで、怪我人もそれほど多くはなかった。
なんでもそのほとんどが、南に転封される前からノーフォート家の領地にいた領民で、転封になった際もわざわざ一緒に引っ越しをしたらしい。
多くはノーフォート家に務める兵士や従者なんかの家族たちなんだそうだ。
「ひとまず、第一陣の一部を収容した兵舎に分散させて収容させている。バタバタはしているが、領民たちも秩序だっているし、混乱はない」
「そうか、それならひとまずは、だな」
「あぁ、ひとまず、な」
アタシの言葉に、次の兄上はそう繰り返してうなずいた。
第一陣、第二陣はなんとかなったが、それでもあと数日で第三、第四陣が到着するとなると、さすがに今ある伯爵家の設備だけでは収まりきらない。
次の兄上の指示で、営舎の建て増しが始まる予定になっている。
それから食料なんかの手配も済ませてくれたようだ。
そりゃぁ、1000人を一気に受け入れなきゃいけないとなったら、バタバタもする。
それをこなしてしまう次の兄は親父殿や一の兄上とは違った意味ですごい人だ。
「身辺係の人員計画も、ひとまずこれで問題ないだろう」
次の兄上が、アタシの渡したもう一枚の書類に目を通してくれた。
「ちょっと多すぎかなとも思ったけど、念のためな」
「備えは万難を排してこそ、と父上もおっしゃってるしな。今日の午後にでも各員に声を掛けて、明日から仕事に就けるように頼む」
「あぁ、わかった。そっちもアタシで差配するよ」
「頼む」
次の兄上はアタシの言葉にうなずいて返すと、書類を纏めて机の上にあった木箱に収めた。
それから、ふぅ、と大きくため息を吐く。
朝だって言うのに、疲れてるように見えた。
今朝は第二陣の到着の報でたたき起こされたって言ってたし、この様子じゃ、昨日の夜もロクに寝れてないのかもしれない。
「無理はするなよ、兄上」
「わかってるさ」
そう言った兄上は、アタシの渡した書類を整理箱に入れ、再びペンを持って書類に目を落とした。
あんまり仕事の邪魔をしてもまずいし、このあたりで退散することにしよう。
「じゃぁ、何かあったら呼んでくれ」
「ああ、そうさせてもらう」
アタシは次の兄上の言葉を聞いてから、執務室を出て自分の部屋へと戻った。
アレクシアは朝食後、ご家族にお貸ししている部屋へと様子を見に行っている。
一人の部屋は、何となく広く感じられるような気がした。
侍女は一人隅っこに控えてはいるんだが。
侍女にお茶を頼んで、それに口をつけながら散らかった執務机を片そうとしていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。
「通してくれ」
侍女にそう声を掛けると、彼女は一礼してドアを開ける。
そこにいたのは、アレクシアだった。
「あれ、アレクシア。もう戻ったのか?」
アタシが声を掛けると、彼女は少し改まった様子で
「ティア。少し良いか?」
と尋ねてきた。
「あぁ、良いけど…どうした?」
「実は、姉上がエルデール様とお話になりたいと言ってるんだ」
「次の兄上に?」
「うん。とにかく会って、感謝をお伝えしたいと聞かなくてな」
「そっか…そういうの、あんまり気にしなくても良いんだけど…アレクシア達にしてみたらそうもいかない、か」
逆の立場になったときのことを考えれば、そう思う気持ちもよくわかる。
「うん。伯爵家の方々は皆我々に良くしてくださっているが、正直それを甘受するばかりなのは心苦しい」
「そうだよな…分かった。とりあえずアタシがお話を聞きに行こう。次の兄上にも声を掛けて、時間をもらえるように頼んでおく」
「そうか、ありがとう」
「今からでも大丈夫か?」
「あぁ、感謝する」
「いいって」
アタシはアレクシアにそう言って、飲みかけだったお茶のカップを侍女に手渡すついでに次の兄上に「時間を作ってほしい」と伝言を頼んで部屋を出た。
三階へと続く階段を上がって、警護の兵が守るドアをノックする。
「姉上、アレクシアです」
アレクシアがそう声を掛けると、すぐに中から
「どうぞ」
と声が掛かってドアが開いた。
アレクシアの後ろについて部屋に入ると、そこにはアレクシアと同じ綺麗な髪をした女性が、カウチに腰かけて侍女が茶を淹れ終わるのを待っている姿があった。
彼女はアレクシアの後ろにいたアタシに気が付いたようで
「まぁっ」
と慌てた様子で立ち上がり、速足でこちらに近づいてくる。
「姉上。こちら、バイルエイン伯家のご令嬢、ティアニーダ・バイルエイン様です」
アレクシアの紹介に合わせて、アタシはビシッと礼を取る。
「ティアニーダです。お加減がお戻りになられたようで、ご安心いたしました」
「アレクシアの姉、ジルベールと申します。それもこれも、バイルエイン伯やお屋敷の皆様のおかげです。感謝のしようもありません」
彼女はそう言って、胸に手を当てて頭を下げた。
昨日は乗馬着姿だったけど、今は簡易なものだけどきちんとドレスで礼装をしている。
アレクシアと同じ色の髪もきれいに整えられ、うっすらと化粧も施されているようだった。
これは、侍女のサフィアの仕事だろう、さすがだな。
彼女の顔立ちはアレクシアに似てないこともないんだが、アレクシアに比べるとずいぶん温和そうな雰囲気に見える。
特に目元かな、アレクシアは切れ長で凛々しい形をしているけど、ジルベール様はどちらかというと丸くて垂れ目だ。
物腰はたおやかで、アレクシアのように武芸に秀でているようには見えない。
アタシやアレクシアが型外れなだけで、本来の貴族のお嬢様はこうだよな、と思わせるような華のある人だった。
…いや、待てよ?
“夜鷹”がノーフォート領都から脱出させるまでは、この方が防衛戦の指揮を執ってたって話じゃなかったか?
実はこう見えて、内面は親父殿や一の兄上みたいな性格してたりするとかあるんだろうか?
一瞬、頭の中をそんな失礼な考えが過ったので、アタシはそれを無理矢理に追い出して
「とにかく、お掛けください。ゆっくりお話を聞かせていただきたく思います」
と彼女にカウチを進め、自分も彼女の向かいに腰を下ろす。
さすがにアレクシアはアタシではなくジルベール様の隣に座った。
侍女が手早く三人分のお茶を用意してくれたので、まずはそれに手を付ける。
さて、どう話を切り出したものか…
ノーフォート領都での戦闘のことを聞いておきたい気もするけど、いきなりそこに立ち入っても良いものだろうか?
もうちょっとこう、平和な話題から始める方が無難かな?
昨日は夕食を食べられたか、とか、よく眠れたか、とか、そういうことから始めようか。
そんなことを思っていたら、ジルベール様が姿勢を正してアタシに視線を向けた。
「ティアニーダ様。まずは、貴女様に感謝を。妹と、我が臣と領民の命を助けていただきました」
「いやそんな…アタシはただ、バイルエインの兵を守るためにアレクシア様と一騎討ちをしただけです」
「しかし、それがなければ妹と領民はあの場で露と消えていたかもしれません…それにあなたが兵や領民を領都に返してくださらなかったら、サラテニアの侵攻に耐えることができなかったでしょう」
ジルベール様は、そう言って深々と頭を下げた。
そういわれても…正直、困ってしまう。
それは結果的にそうなった、ってだけで、あの場でアタシはアレクシアを殺そうとしていたわけなんだから。
「結果的にはそうですが…アタシはアレクシア様を叩き斬るつもりでしたよ?」
「それでも、です。貴女様の思惑はどうあれ、その結果に救われたのですから、私個人の想いとして感謝をお伝えしたいのです」
そういう言い方されちゃうと…うん、受け入れる外にないよな。
「…分かりました。お言葉、恐縮です」
アタシがそう言うと、ジルベール様は満足そうにうなずいた。
なるほど…見かけに騙されるトコだった。
思った以上に意思が強いし、持って行き方もうまい。
「…それはさておき、姉上。領でいったい何が?」
アタシとジルベール様の会話を割って、アレクシアがそう尋ねる。
するとジルベール様は表情を引き締めて彼女にうなずき、私に視線を向けた。
「詳しくお話いたします。まず、7日前の未明に領内を巡回していた私兵隊から、1万余兵あまりがサラテニアから侵攻してきたとの報告がありました。領都内の警護に当たっていた私兵団に指示を飛ばして領民を屋敷に集め、昼前に私兵団も含めた臨時の防衛隊を結成したころには、すでに領都の包囲がはじまっておりました」
ジルベール様はうつむいて、膝に添えていた手をギュッと握りしめた。
「夕方前には、サラテニア軍の攻勢が開始されました。外壁にある4つの門を守るために200ずつの兵を配置して、弩弓での応射と、長槍で対応させました。初日と二日目は、それでなんとか均衡を保てていたのですが、昼も夜もない攻撃と物資不足で、三日目にはかなりの劣勢になり、死傷者の多くはその日に…」
ジルベール様の声が詰まった。
隣に座っていたアレクシアが彼女の肩を抱き、握りこまれた拳に手を添える。
「四日目には矢玉が尽きかけ、動ける住民に領都の中の建物を破壊させて石礫として投下しました。非戦闘員から有志を募って、新たに防衛に参加もさせました。それでも、圧倒的な寡兵で手の打ちようがなく、その日の夜は正直なところ、絶望的な雰囲気が漂っていたのです。実際、自決か、玉砕か、などと言う者もおりました。そんな折、屋敷の入り口に立ってくれていた侍女が、私の執務室に駆け込んできたのです。アレクシアの手紙を持った者が訪ねてきている、と」
それを聞いて、アレクシアがアタシに視線を送ってくる。
「“夜鷹”か」
アタシの言葉に、ジルベール様が小さくうなずいた。
「そう名乗られていました。若い男性で、彼の持っていた手紙は確かにアレクシアの筆跡でした。帰還した私兵団から一騎討ちで勝敗が付かなかったとは聞いており、無事だということは分っていましたが、うれしかった。本当にうれしかったのです。しかし、それだけではありませんでした。“夜鷹”を名乗るその方は、領民と私達を脱出させる手筈が整っている、と話し、具体的にその案を提示してくださいました。他に選択肢がなかったということもありますが、私達は領都を離れる決断をしました。その日のうちに、彼が手配してくれた100名ほどの人員を加勢として領都内に招き入れ、翌日の戦いを何とか耐え忍びました」
加勢に100名、か…そいつは“夜鷹”じゃないな。
おそらく、親父殿の手元にいた私兵団員だろう。
“夜鷹”の手引きで潜入したに違いない。
「そしてその晩、領都から脱出し一晩中山道を駆けました。皆で怪我人を抱えて、一心不乱でした。そうして明け方になって、街道に待機していた荷馬車の列にたどり着いたのです」
ジルベール様はそう言って、ほうっと息を吐き、握っていた拳の力を緩めた。
強張っていた肩も、いつのまにかすっと脱力している。
「包囲されている領都から、どうやって脱出を…?
「領都の北東部の防壁の下に、いくつもの穴が掘られていました。あれは“夜鷹”の方々の仕事だったんでしょうか?」
ジルベール様がそういって、アタシに視線を送ってきた。
穴…モグラ戦術の応用か。
大きさや数にもよるだろうけど、どちらかと言えば工兵の仕事のような気がするな。
「もしかすると、私兵団に所属する工兵も同行していたのかもしれません」
私の言葉に、ジルベール様はまたほぅと息を吐いた。
「いったい、どれほどの方々にお世話になったのか…」
「こう言っては何ですが、アタシもちょっと驚いています。親父殿がいったいどれくらいの人数をノーフォート家に派遣したのか…その方法も含めて、不思議です」
防御壁で抗戦した兵士に、工兵隊、それに“夜鷹”も、となると、おそらく150か200くらいの規模になる。
それを敵領の奥深くに忍び込ませるなんて方法が、アタシにもどう考えても思いつかなかった。
帰ってきたら、聞いておかなきゃいけないな…
「そのこともありますが」
そんなことを考えていたら、ジルベール様はそう言ってアタシに視線を向けた。
「今はまず、伯爵家様を裁量されている方に助けて頂いた御礼と、保護のお願いをさせていただきたいのです」
あぁ、そうだった。
ジルベール様は次の兄上と話がしたいんだったな。
しかし、そう急ぐことかな?
これからまだまだ避難民が到着することになっているらしいし、ジルベール様も疲労が抜けてはいないはずだ。
もう少しゆっくりしていても良いと思うんだけど…
「個人的には、そう急がなくとも良いように思いますが…」
アタシがそう言ってみたけど、ジルベール様は首を横に振った。
「今のままでは、伯爵家のご迷惑になりかねません」
「迷惑…?方々をお迎えすることも、領民を受け入れることも、大変ではありますが迷惑とは思っておりませんよ」
「そうではなく…正式な依頼や書き付けもないままに他国の貴族を隠匿しているという事実は、あまり好まれるものではありません」
好まれない、か。
誰に?なんて、わかりきっている。
他の貴族家や王家だ。
まぁ、我が家はそういう方面からの信頼はそうとう厚いけど、外聞が良くないってのは分かる。
こと、ノーフォート家は今まさに戦争しているノイマールの貴族だ。
いないとは思うけど、政治的には突きやすい隙にもなりかねないのは事実だろう。
そう考えれば、一刻も早く次の兄上に会ってもらう必要があるし、ことと次第によっては王家の人間にも面通しをしておいた方が良いくらいだ。
アタシはそこまで考えて、ジルベール様を見つめる。
彼女は、力強く真剣な表情でアタシを見つめ返していた。
「バイルエイン家の立場に悪影響が出かねない、ということですか」
「はい、おっしゃる通りです」
アタシの言葉に、ジルベール様はそう答えてうなずいた。
おっしゃってることはごもっともだし、筋は通ってる。
でも…どうもそれが本音じゃないような気がした。
これは、最初のアタシへの礼と同じだ。
そういう言い方をされたら、否とは言えない…そういう話の持って行き方だ。
「…それで、本当のところは?」
アタシは、改めてジルベール様にそう尋ねた。
すると彼女は、その表情を柔らかく緩めて
「お助け頂いているのですから、感謝は伝えねばなりません」
と、静かに目礼をする。
本当にそうされたいお気持ちが強いのだろう。
なんというか…かえって恐縮してしまうな。
「…分かりました。今、兄上に手透きの時間を問い合わせておりますので、後ほどお知らせに参りましょう」
アタシの言葉に、ジルベール様はホッとしたような表情を浮かべて、胸をなでおろされた。