序章:馴れ初め
素肌に感じる温もりが暖かで心地良い。
耳には表で作業をする人々の気配が聞こえ、焚き火の燃える微かな煤の香りもする。
すべてが満たされているような、穏やかで柔らかなまどろみの感覚。
そんな何にも代えがたいと思えるほどの強烈な幸福感を覚えるアタシの意識は、まぶた越しに感じる眩しさによって無情にも現実へと引き戻されていく。
―――朝か…
目を覚ました私が目にしたのは、布製の天井だった。
自由の利く左手で瞼を擦る。
まだ体に気怠さは残っているものの、休んだおかげか昨晩寝入ってしまう前よりはマシに思えた。
昨晩、寝る前…
寝ぼけたアタシの脳裏に、その瞬間までの記憶が水を打ったようによみがえった。
そして、アタシは恐る恐る自由の利かなくなっている自分の右腕の方に視線を送る。
至近距離に、女の顔があった。
元々凛と整っていた顔立ちは強かに殴打を受けて目元は腫れあがり、口元や頬には痛々しい青アザがいくつも浮かんでいる。
しかし、未だに寝息を立てているその表情は穏やかだ。
そんな彼女を起こさないよう、アタシは毛布の下の自分の体をまさぐる。
いや、端からそうだろうとは思っていたけど、アタシは全裸だった。
そしてアタシの右腕にしがみ付いて寝ている彼女も、何も身に着けていない感触がある。
そりゃぁ、そうだ。
昨晩、あんなことをしてたんだから…
夢のような時間だった気もするが、夢であってほしい気もした。
アタシ達がいるのは、天幕の中。
国境を越えて侵攻してきた隣国ノイマールの軍を会戦で打ち破り、撤退する敵部隊を追撃している最中だ。
寝坊したとなると、親父殿にぶん殴られるかもしれない。
「おい…おい、起きろ」
「ん…?」
アタシが肩を揺すると、彼女はそんな呆けた声を上げてうっすらと目を開けた。
「悪い、ちょっと時刻を確認しに行きたいから、起きてもらえるか」
「んくっ…朝か…」
彼女はぼんやりとした様子でそう口にすると、アタシの腕を解放して大きく伸びをし、上体を起こす。
ハラリと毛布がめくれて、彼女の上半身があらわになった。
「…!?」
彼女が驚いた様子で胸元を隠す。
寝ぼけた状態から急に目が覚めたのか、慌てて辺りを見回したあと、何かを思い出したような表情を浮かべて視線をアタシに向けてきた。
「…えと、おはよう…?」
「…あぁ、おはよう…」
「…昨日は、その…」
「…いや、まぁ、うん…」
アタシ達は互いに口ごもってしまう。
そりゃぁまぁ、そうだろう。
って、それどころじゃなかった。
「その、悪い、出頭する時間かもしれなくて…身支度して、拘束させてもらってもいいか?」
「あぁ、そうか、そうだな。わかった」
彼女はそう言って頷くと、すぐに気持ちを切り替えてくれたのか、並べた木箱の上に敷き物を掛けただけの簡易寝台から降りた。
アタシも毛布から這い出る。
天幕の中はひんやりとしていて、一層目が覚めてきた。
木製の折り畳みテーブルの上に乱雑にまとめて置いた服を身にまとったアタシは、同じく支度を済ませていた彼女の両脚に枷を履かせ、両手首を体の前に麻紐で縛る。
「きつくないか?」
「あぁ、大丈夫だ」
彼女の言葉に安堵して、アタシは寝台の側に立てかけてあった剣帯を腰に巻いた。
布を濡らして顔をぬぐい、革ひもで髪を後ろに束ねる。
そのまま彼女を連れ出そうと思ったが、ふと気になって、彼女の顔も布でぬぐい、髪も手櫛を通して整えてやった。
「すまない」
「いや、別に」
なんだか気まずいが…まぁ、今はそんなことを気にしているわけにはいかない。
アタシは彼女の手首に繋いだ紐を引いて、天幕の出口まで向かう。
仕切りになっていた布を開けると、そこには、騎兵鎧に身を包んだ体躯の良い中年の男が立っていた。
次の瞬間、男はヒュッと風切り音をさせて半身になる。
あ、やべっ
そう思ったときには、もう遅い。
「ぶべらっ!?」
頬に男の拳がめり込み、アタシはそのままゴロンゴロンと後ろに転がった。
視界が白み、意識が遠のく。
そんな中、男の―――この部隊の指揮官であり、アタシの尊敬する親父殿の怒号が聞こえた。
「貴様っ、人質を折檻するとは、どういう了見だ!?」
* * *
「私はノイマール王国貴族、ノーフォート子爵家が一子、アレクシア・ノーフォート!貴軍をこのまま易々と進ませるわけにはいかない!」
台地での会戦に勝利した我が軍は、国境を越えて侵攻してきた隣国、ノイマール王国軍の追撃の任を受けていた。
台地を東西に貫く街道を西進し、山間に立ち入ってすぐ。
右手には川、左手にはそそり立つ崖という隘路に差し掛かる。
そこで、ノイマール王国軍の殿軍と遭遇した。
殿軍は街道を封鎖するように逆茂木や馬防策を並べて、決死の形相で槍を握りしめていた。
400程はいるだろう。
数は少ないが狭い戦場だ。
こっちは、後方の部隊を展開する余裕がない。
先行している我が家、オルターニア王国伯爵たるバイルエイン家の軍およそ4000は人数も士気も十分だが、相手は覚悟を決めた死兵。
まともにぶつかれば、相当な損害になるだろう。
両軍は、一町程の距離を置いて睨み合う形となった。
そんな中で、敵部隊の指揮官らしい女が防御陣地から馬を駆って姿を現し、名乗りを上げていた。
年頃は、アタシとおんなじくらいだろうか。
陽の光を反射する艶やかな金色の髪を束ね、騎馬鎧に立派なマントを羽織っている。
女性にしては低く、力のあるその声色には、彼女の…いや、彼女達の覚悟が感じられた。
「命が惜しくば道をあけよ!ここは我がオルターニア王国の領地!貴君らのような存在が陣を張ることなど許されん!」
傍らにいた我が家の嫡男、一の兄上が、そう声をあげた。
指揮官たる親父殿は、アタシと一の兄上の後ろで腕を組み、だんまりを決め込んでいる。
「ここを動くつもりはない!押し通るというのなら、命を賭して一戦臨むまで!」
敵は、本気で足止めをする算段のようだ。
たぶん、戦えば勝てるだろう。
でもここは隘路で、数で有利なこっちが相手を包囲するのは難しい。
どうしたって、あの防御陣地に真正面から迫る他にない。
相手はもはや死を覚悟した死兵だ。
もし正面衝突をするとしたら、こっちの損害はばかにならない可能性が高い。
三割損耗なら安い方。下手をすると五から六割を失う危険性すらある。
後方の部隊は意気軒高だし、どこか適当なところで交代して波状攻撃を加えれば、被害を減らすこともできるかもしれないが、これもやはり狭い地形のせいで陣の変換自体が難しそうだ。
交代の隙を突かれでもしたら、それまた大損害に繋がりかねない。
こういうときは、アタシの出番なんだろうなぁ。
「親父殿、アタシに任せてくれないか?」
アタシが振り返って声を掛けると、親父殿は大仰に頷いた。
「ふむ、ティアニーダ。申してみよ」
「あの女とアタシとで、一騎打ちをする」
アタシの言葉に反応したのは、親父殿ではなく一の兄上だった。
「一騎打ちだと!?馬鹿を言うな!それではお前の身が危険にさらされるだろう!?」
「でもよう、一の兄上。ここであの陣地に突撃したって、無駄に人死にを出すだけだぞ?アタシの命一つ賭けて済むなら、それが一番じゃないか?」
「いや、それはそうだが…」
一の兄上は言いよどむ。
兄上がアタシを心配して言ってくれてるんだってのは良く分かる。
こんなアタシだけど、家族として、妹として、大事に思われてるって自覚くらいあるんだ。
でも、伯爵家の令嬢って言っても、所詮アタシは剣を振ることと突撃しか能のない名ばかり騎士に過ぎない。
軍としてはそういう使い方をしても損のない存在だってのも理解しているはずだ。
「向こうは時間を稼ぎたい、こっちは敵を追っ払いたい。なら、取り決めをして一騎打ちするのがてっとりばやいだろう?」
「しかし、向こうがそれに応じるかも分からんのだぞ!?」
「確かにそうか…なら、確かめてみようか」
アタシはチラっと親父殿を振り返った。
親父殿はほんの少し逡巡した様子を見せたものの、やがてコクっとうなずく。
お許しをもらったアタシは馬の腹を蹴って、敵陣の方へと単騎で駆けた。
陣地の敵軍は警戒していた様子だが、女は堂々とした居住まいでアタシを待っていた。
「やぁ、どうも。アタシは、オルターニア王国貴族、バイルエイン伯爵家のティアニーダ・バイルエイン。あんた達の覚悟は良く分かった」
「では、軍を引いてくれるのか?」
女の表情は、挑発的だ。
軍を引けるワケがない、って分かってて言ってるんだろう。
要するに、この無駄なやり取りも、撤退を支援するための時間稼ぎに他ならない。
この女は、死ぬ気なのだろう。
死んでも友軍を国元に帰らせるのだと、そう心に決めているんだ。
良いね、嫌いじゃない。
「そういうわけにはいかないんだけど、どうもあそこに突っ込ませると大事な臣民が無駄死にしそうなんでな」
アタシは敵陣に視線を向けてそう言い、それから女に目を向ける。
「だから、アタシとあんたで一騎打ちする、ってのはどうだ?」
「一騎打ち?」
「そう、アタシが勝ったら、あんたの陣の連中は無抵抗で投降してもらう」
アタシの言葉に、女は少し考えるような仕草をみせ、それからアタシに視線を戻した。
「私が勝ったときには、明日の朝までこの地で行軍を停止して欲しい。その間、撤退する我が部隊への追跡もなしだ」
「明日の朝、か…まぁ、そんくらいならどうにか押しとどめられるかな。あ、でも他の戦線については無理だぞ?」
「それは承知している…後ろの陣に詰めているのは、父から預かった領民兵と代々使えてくれている私兵団の生き残りだ。軍の他の連中はともかく、彼らだけでも無事国許に返してやりたい」
そう言って、彼女はアタシを見た。
その表情には、先ほどの覚悟とは違う、何か別の感情が漏れ出しているようにも思える。
アタシは、背後の陣に視線を送った。
彼らもきっと、彼女に忠義を尽くす者達なんだろう。
そんな奴らを…むざむざと死なせたくはないよな。
立場が逆なら、アタシもそう願うだろう。
自分の命一つを賭けることで死なせずに済むなら、アタシはそれを選ぶ。
「…そうだな」
彼女の言葉に、アタシはそうとしか答えられなかった。
すると女は、ハッとした様子でアタシの顔を見た。
「…存外、話の分かる方だな」
「回りくどいのが苦手なだけさ」
アタシが肩を竦めると、彼女はクスっと声を漏らして笑った。
「そうか。しかし、多少手間でも証立てくらいはしてもらえるだろう?」
「そりゃぁ、当然だ。でなきゃ、意味がない」
アタシが言うと、女はほんの少し、安堵したような顔を見せそれからコクっとうなずいた。
「ならば、異心ない。あなたとの一騎打ち、受けよう」
「分かった。調印の準備をさせる。そっちの証人を選んどいてくれ」
「承知した」
女はそう言うと、マントを翻して陣の方へと馬を走らせて行った。
アタシも陣に戻って、親父殿と一の兄上に報告をする。
「あの女、一騎打ちに同意したぞ」
「バカなっ…」
「後ろの陣地のやつらを、むざむざと死なせたくないとさ」
「……」
一の兄が絶句する。
親父殿は、相変わらず反応が薄い。
それでも何も言わないところを見るに、承諾したと思って良いだろう。
「親父殿、誓いの承認になっていただけるか?」
「良かろう」
アタシの願いを、親父殿は受け入れてくれた。
「よし…ペンと皮紙を持て!あと…テーブルも!」
* * *
半刻もしないうちに、両陣の狭間で宣誓と調印が行われた。
相手からは、さっきの女と、その直属の部下らしい男が同行してきた。
アタシは、親父殿と親父殿の護衛を一人だけ連れて参加している。
勝利した際に得られる条件を書き入れ、約束を違わない旨の宣誓書を二枚作成した。
内容に間違いがないかを確かめて、アタシは書面に調印する。
彼女も署名し、証人である親父殿と彼女の副官もそれぞれ名前を書き、血判を押した。
証明書を持って、一度陣内へと戻った。
アタシは馬を降りて、軍装を整える。
水を軽く飲んで、隠し持ってきていた砂糖漬けの干し果実を口の中に放り込む。
準備は整った…あと、やり残したことがあるとしたら…
アタシはそう思って、親父殿の前に跪いた。
「父上、ティアニーダ・バイルエイン、行って参ります」
「うむ」
親父殿は、そう言って頷いた。
そして、アタシの頭をポンと撫ぜてくれる。
「我が娘よ、誇りに思う」
「アタシも、父上の娘であること、誇らしく思います」
「武運を祈る」
「はっ、ありがたく」
そう応じてアタシは立ち上がった。
陣から踏み出す際に、隊から一斉に鬨の声が発せられる。
それに背を押されるように、アタシはさっき調印を行った場所まで歩いた。
ほどなくして、敵陣からも鬨の声が聞こえた。
あの女がこっちへと歩いてくるのが見える。
威風堂々としていて、凛とした、立派な騎士の姿だ。
正直に言って、うらやましいと思った。
アタシのような荒くれに、あんな佇まいはだせないだろう。
我が家、バイルエイン家は代々武の家だ。
アタシも二人の兄のように立派な騎士になりたかったけど、どうにもうまく行かなかった。
領内の政ではドジばかり、部隊の指揮もおぼつかない。
アタシにできるのは、剣を振って馬を駆り、敵を打ち倒すことだけだった。
それがアタシのできる唯一の役割だった。
女が、アタシの五歩前で足を止めた。
アタシに注がれる視線に、不安や恐怖の色は見えない。
あるのは覚悟と殺意。
立ち居振る舞いからして、並みの腕ではないことが分かる。
アタシもふぅっと息を吐いて、腹を決めた。
「ノーフォート子爵家が一子、アレクシア・ノーフォート」
「バイルエイン伯爵家の当主の娘、ティアニーダ・バイルエインだ」
アタシ達は改めて名乗り合う。
そして、どちらからともなく剣を抜いた。
「参る」
「来い」
最期の言葉を交わして、アタシ達は構えた。
どっちも得物はロングソード。
鎧にしても、鎖帷子と胸甲にタセット、肩当に手首甲で、どっちも標準的な軽騎兵らしい装いだ。
装備の差はない。
純粋に剣の技量だけの勝負になる。
構えも伴に中段だ。
アタシは神経を研ぎ澄ませる。
相手の気配を探り、殺気を飛ばして反応をうかがった。
息の詰まるような時間がただただ流れる。
不意にアレクシアの剣先が微かに震えた。
来る!
そう感じた刹那に、アタシは最小限の動きで手首に剣先を振り下ろす。
しかし、アレクシアはそれをハンドガードで受け止めた。
振らされたか!
アタシが剣を引くのと、彼女がアタシの剣を払ったのはほとんど同時だった。
アタシの剣を払った彼女の剣先が、眼前に伸びてくる。
弾かれた剣を反射的に振り上げて、それを払いのけた。
彼女は追撃を警戒したのか、素早く距離を取る。
なんというか、研ぎ澄まされた剣技だ。
流麗…っていうんだろうか。
流れるようで、素早く、キレがある。
身体の使い方がうまいんだろう、剣を重ねた瞬間に感じる重みも相当なものだ。
おそらく、差し合いの技量では完全に彼女が上だろう。
それなら、手数と勢いで圧倒するのが賢明か。
アタシは彼女の剣先を軽く弾いて袈裟懸けに切りかかった。
それは難なく受け止められるが、それは想定の範囲内。
そのまま剣の腹を滑らせて、懐に一歩踏み込んでいく。
下から上へ、かちあげるようにして全身を伸ばして、彼女を押し込みながら一歩外へと踏み出した。
同時に手首を返しながら、剣を走らせ胴を薙ぐ。
しかし彼女は素早く身を反転させながら体制を維持し、アタシの剣に自分の剣を重ねて防ぎ切った。
すぐさまアタシは、返し刃で剣を首元目掛けて切り返す。
彼女はそれすら、剣を立てるだけの小さな動きで防がれた。
次の瞬間、フッと彼女が一歩踏み込んできた。
アタシの剣を防いでいた彼女の剣が、視界の外に消えている。
―――マズイ!
アタシは反射的に剣を握っていた両手を下方に突き出した。
ガツン、と鈍い衝撃が走ったのと、アタシの剣のハンドガードが斬り上げてくる彼女の剣の刃を捉えたことに気付いたのはほとんど同時だった。
その剣の勢いに身を任せる形でアタシは後ろに飛びのきながら、追撃に備えて上段に剣を振り上げる。
想像していた通り、彼女の剣先がアタシの首元を狙って動いて来た。
アタシは剣を振り下ろしてそれを弾き落とし、彼女から5歩ほどの距離に着地する。
ドクンドクンと心臓がなり、全身から汗が噴き出していた。
ほんのわずかでも気を緩めれば、彼女の剣はアタシの体を捉えるだろう。
おそらくそれは、致命の一撃になる。
彼女の返し技を一手の読み違えもせずに攻め手を増やし、アタシの攻撃を捌く彼女に生じる微かな隙を狙う…勝ち筋があるとすれば、そこだろう。
アタシは、いつの間にか乱れていた呼吸を整える。
彼女の方も、剣をギュッと握り直していた。
アタシは彼女に斬りかかった。
上段から振り下ろし、斬り上げ、胴を薙ぎ、喉を突く。
彼女はことごとくそれを受け止め、いなし、弾き返し、アタシの攻撃の合間を縫うようにして剣を繰り出してくる。
見たことのないくらいの、綺麗な剣筋だった。
無駄のない、研ぎ澄まされた、それでいて凶悪な剣。
本当にほれぼれするくらいに、恐ろしい。
そんな彼女に勝ちたいと、そう思った。
彼女の体に剣を突き立てたとき、アタシはどんなに晴れ晴れしい気持ちになるだろう。
あとから考えればそれは、ある種の陶酔に近かったんだと思う。
けど、そのときアタシは確かにそんな想いに支配されていた。
勝ちたい、彼女を殺したいと、純粋に、そう思っていた。
そして、そんな欲が、アタシに隙を生んだ。
剣を打ち合わせ、ハンドガードの競り合いになった次の瞬間、彼女は手首を返しながら腕をしならせた。
アタシの剣は噛み合ったハンドガードで固定され、しなった彼女の腕の勢いに払いのけられる。
そして、アタシの手からスポッとすり抜けて行った。
しまった、と思ったのと、彼女が上段に剣を振り上げたのはほとんど同時だった。
アタシはとっさに左手を突き出しながら、彼女の胸甲に守られていない彼女の下腹を蹴り付ける。
同時に振り下ろされてきた彼女の両腕を突き出した左手で払いのけた。
身体を前のめりに折らせた彼女の手から、剣が滑り飛んでいく。
それでも彼女はその場にたたらを踏んで堪えていた。
そんな彼女の顔面に向けて、アタシは拳を振り抜く。
ガツっと鈍い衝撃を感じたものの、彼女はすぐさま体制を立て直してアタシの腰に組み付いて来た。
互いに鎧と鎖帷子を纏っていることもあって、打撃戦ではほとんど急所がない。
それでもただただ闘うことしか頭にないアタシは、とにかく彼女を殴り蹴り、組み敷こうと必死にもがく。
彼女の拳も容赦なくアタシの顔面を捉え、関節を固めようと執拗に狙って来た。
親父殿曰く、その様子はまるで獣同士の争いの様だったらしい。
その意図はつまり、端的に言って、それはそれは醜い有様だったのだということだ。
親父殿のいうことは、もっともだと思う。
最終的にアタシと彼女は、互いの頭を抱えて、互いの首筋に歯を立て合っていたくらいだからだ。
頸動脈を噛み破れば勝てる、殺せる、とそういう思いがあったことだけは覚えている。
ただ結果的に、互いが顎に力を込め始めた直後、駆けつけた親父殿と兵士達によってアタシ達は引き離されることとなった。
羽交い絞めにされてもなお、ふーふーと唸りながら彼女に向かっていこうとしていたらしいアタシの目に映っていたのは、同じくうちの兵士に羽交い絞めにされて制止されている彼女だけだった。
「止めだと言っておるだろうがこのバカ娘がっ!」
親父殿が何か吠えているのは聞こえていたけど、それすらも耳に入らないほどに。
* * *
それから、数刻。
アタシは自分の天幕に居た。
昂った気持ちは少し収まったが、それでも、まだ心臓は強く速く脈打っている。
さっきまでは両手を縛られ、足枷まで付けられていた状態だったけど、様子を見に来てくれた一の兄が二言三言話しかけてくれて、
「絶対に無茶はするなよ」
と釘を刺してから、解放してくれた。
今は、気持ちを落ち着けよとの命を受けて、お茶を飲むべく焚火でお湯を沸かしているところだ。
一騎打ちの方については、結局勝敗付かず、ということになった。
いや、実際問題、あれはアタシが負けだろう。
剣を弾き飛ばされた時点で、アタシは死んでた。
当て身で相手の剣を跳ね飛ばして組み合いに持ち込むなんて、乱戦の中ならさておき、一騎打ちで取って良い作法じゃない。
向こうの証人にそれを主張されていたら、アタシの首は飛んでたところだ。
それがなかったのは、ひとえにあっちもあっちで、アタシと醜い取っ組み合いに積極的に応戦したからだ。
アタシ達が引き離されたあと、親父殿と向こうの証人とで話し合いが行われたらしい。
そして、親父殿は相手の部隊の撤退を認め、ここで明日の朝まで待機することを約束した。
代わりに、こっちは彼女、アレクシア・ノーフォートの身柄を人質として抑えた。
捕虜ではなく、人質だ。
丁重に扱い、講和の際に身代金さえ支払われれば、故国に返す。
それで両者ともに納得、となったわけだ。
親父殿は後方にいる王国本軍の司令部に事態の説明と謝罪に向かっている。
まぁ、一騎打ちで決めたんだから、仕方ないと納得はしてもらえるだろう。
多少の叱責はあるかもしれないけど、この戦場の状況からして、無理責めしても損害の方が大きかったろうしな。
まぁ、そんなわけで、アタシ達は明日の朝までここで立ち往生。
明日の朝になったら国境まで追撃は再開されるだろうけど、到底追いつくことはできないだろうし、指揮官を失ったノーフォート家の部隊は軍には合流せずに自領を目指して帰還中だろう。
これでひとまず、戦闘は終わりと思って良さそうだ。
アタシは淹れたお茶を飲みながら、天幕でダラリと怠惰な時間を過ごしていた。
どれくらい経ったか、外から声が掛かったので許可をすると、天幕の入り口を開けて、小間使いが夕食を運んできた。
あまり腹が減った感覚はなかったが、戦場では食える時に食わねばならない、が親父殿の教えだ。
小間使いは夕食の他に、ワインの瓶を一本付けてくれていた。
木製のカップに注いで口を付けると、香りが広がって鼻に抜ける。
なんとなく気持ちが落ち着く気がした。
そして、気持ちが落ち着いてきて、ふと、彼女のことが思い出された。
美しくて、強くて、気高い女性だった。
そんな彼女を醜い食い合いに付き合わせてしまったのだ、と思うと、なんとなくうしろめたい感覚が湧いてくる。
アタシ自身は獣だなんだと言われても別に気にしないが、あの凛とした彼女の誇りを汚してしまったのではないかと思うと、申し訳ないような気がした。
これからは人質として扱われることになるだろうし、顔を合わせることも増えるだろう。
今のままでいると、なんだか心苦しくなってしまいそうな気がした。
「あぁ、悪いんだけど、ワインの残りってまだあるかな?」
小間使いに尋ねると
「はい、ティアニーダ様。お持ちしますか?」
と応じてくれる。
「うん、頼むよ」
「かしこまりました」
アタシが言うと、彼は小走りに天幕を出て、ほどなく新しいワインを一瓶追加してくれた。
アタシは木彫りのカップを二つに夕食の皿を両手に、ワインのボトルを二本小脇に抱えて天幕をでた。
目指す場所はもちろん、アレクシア・ノーフォートを預かっている天幕だ。
入り口のところで警備の兵に止められたけど、小遣いをやって黙らせる。
天幕に入ると彼女は、出された食事には手を付けず、箱を並べただけの寝台に腰掛けてぼんやりとしていた。
「あー、失礼する」
アタシが声を掛けると彼女はハッとした様子でアタシに視線を向けた。
そしてほんの少し警戒した様子で、寝台から腰を上げる。
両手は前で縛られ、両脚には枷がはめられていた。
捕虜ではなく人質とはいえ、ここはまだ前線だから、こういう扱いはしかたのないことだ。
「何か用が…?」
彼女は、低い声でそう聞いてくる。
「いや…その、謝ろうかと思って…」
「謝る…?」
「うん、なんか、ひどい一騎打ちにしちゃって、悪かった…」
そう言って、アタシは彼女に目礼する。
怒られるか、邪険にされるか、と思っていたのに、彼女から帰って来たのは微かな笑い声だった。
「意外だな、そういうことを気にする性質だとは」
バカにされた、とは思わない。
アタシ自身が気にしないのは本当だ。
でも、そういうことを大事にしているという人間がいることも理解している。
「あんたは気にするかなと思ったんだけど」
「…ここは戦場だ。一騎打ちだろうがなんだろうが、そこに卑怯も道理もないと思うが」
騎士の誉れとか貴族の誇りとか気にするんじゃないかと思ってたけど、どうやら思った以上に現実的なところがあるらしい。
それでいて、あの堂々としていて凛とした立ち居振る舞いだったのか。
しなやかさと、芯の強さ、その両方を持ち合わせた人間なんだなと、素直に感心してしまう。
「それこそ、意外だな」
アタシが言ってやったら、彼女は
「よく言われる」
なんて言って笑った。
「ワインしかないんだけど、良かったら一緒に飲まないか?」
アタシはワインの瓶を掲げてそう誘ってみた。
「毒殺か?」
言葉に反して、彼女の顔には笑みが浮かんでいる。
「回りくどいのは苦手だって言ったろ?」
「あぁ、そう言えば言っていたか。そこの部分にはあまり意外性はないな」
そんな軽口をたたきながら、彼女は寝台を離れてテーブルに着いた。
アタシも隅っこにあった予備の折り畳みイスを引き寄せて腰を下ろして、縛られていた両手を外してやってからカップにワインを注ぐ。
「んじゃぁ…ひどい一騎打ちに…?」
「互いに生き残れた幸運に、かな」
「そうか、幸運か…うん、互いの幸運に」
アタシ達はそう言葉を交わして、カップをぶつけた。
アタシも彼女も、カップを一気に煽って空にする。
はぁ、というため息が重なった。
「あなたの御父上、あの方がジリアン・バイルエイン伯爵なのだな」
「あぁ、そうだけど。知ってた?」
「ジリアン・バイルエイン伯爵と言えば、武名に秀でたお方だからな。15年前の北方モガルアからの侵攻を退けた手腕は、ノイマールでも教本になっているほどだ」
「まぁ、世間的にみれば立派なんだろうなぁ。アタシも尊敬しちゃぁいるけど、身内としては、堅物で怖い親父殿って印象のが強いかな」
「そうか…しかし、あなたのことはいたく心配されていたようだ」
「そうかねぇ、さっき『あんな醜い一騎打ちをするくらいなら潔く死ね』くらいのこと言われた気がするけど」
「それは方便だろう…本当は無茶をするなと怒鳴りたかったのではないかな?」
「そうかな…そうだと良いけど」
アタシが肩を竦めて言うと、彼女はクスクスっと笑い声を漏らせた。
「ノーフォート家、って言ってたっけ、あんたの家は」
「そう、父はジキュエール・ノーフォート」
「あ、ジキュエール・ノーフォート子爵か!ノイマールの賢臣っていう!」
「あぁ、うん。そのジキュエールだ。もっとも、今は南部の辺境に押し込まれてしまったがな」
「南部…国境線か。押し込まれたってのは穏やかじゃないけど…何かやらかしちゃったのか?」
「5年前に、王位交代があった折にな…新王は、父の諫言を煙たく思ったらしい」
彼女は、そう言って微かにうつむいた。
「…そういえば、今の国土拡張策を打ち出しているのが、その新王、か」
「あぁ、そうだ…今は敵陣の中だからいうが、あれは愚王だ」
「ずいぶんと手厳しいな。それほどか?」
「あぁ、そう言い切れる。もっとも戦術的な能力は高い。が、内政には爪の先ほどの興味も才覚もない。国内が貧しいのであれば、他所から奪えば良いと考えている節がある。国内の生産消費の拡大を訴えた父は、先王への忠義など知らんとばかりに左遷にあった…すまない、個人的な感情も込みの評価だな、これは。現実はもう少しマシな王なのかもしれないが」
「アタシがこんなこと言うのもなんだけど、そんなこと口にしない方が良いんじゃないか…?」
アタシが言うと、彼女は怪訝そうな表情でアタシを見つめて来た。
「えと…あなた、尋問に来たんじゃないのか?」
彼女の言葉に、今度はアタシの方がびっくりした。
尋問…尋問、そうか。
敵軍の情報とか、国内情勢とか、そういうのを聞き出すのか。
確かに、人質相手にならそういうことをしても良いんだよな。
返還するときのことを考えたら拷問にかけるようなことはしちゃダメなんだろうけど、情報収集をするのは当たり前だ。
「…普通に一緒に飲もうかと思っただけなんだけど…」
「…そうなると、前線で人質にお酒を飲ませたりしても平気なのか、ということが気になるのだが…?」
「それは、丁重に扱うってことを約束してるから問題ないとは思うけど…じゃぁ、尋問ってことにしとく?」
アタシが言ったら、彼女はまたクスクスと笑う。
「…そうか…いや、私に飲ませて問題ないのなら、そちらに付き合うよ。息抜きをするつもりだったのに仕事をさせてしまうことになるのは忍びない」
「じゃぁそうしよう。尋問するときは、酒じゃない飲み物を持ってくることにするよ」
こうして、アタシ達の夜は始まりを告げた。
翌日、せめてワインは一本にしておくんだったと後悔することなど知る由もなく。
* * *
「ちょ…親父殿、違っ…」
「言い訳を申すな!昨晩複数の兵が、この天幕より呻き声と打擲音を聞いておるのだ!」
親父殿は大声で怒鳴りつけると、肩を怒らせながら天幕の中へと押し込んで来て、転がったアタシの胸倉をひっ捕まえ
「さぁ、どういう了見か説明いたせ!」
と迫ってくる。
言い訳はするな、説明はしろ、って無茶苦茶だろう。
アタシはぶん殴られてクラクラする脳を働かせて考える。
昨日の夜は、酔っぱらった。
たぶん、お互いにワインを一本ずつは開けているはずだ。
ただ、記憶はあるし、欠片ほどの理性は残ってもいた。
そしてその記憶が正しければ、アタシ達は殴ったり蹴ったりしたわけではなかった。
兵士の報告にあるような、呻き声や打擲音なんかでるはずはない。
しかし、別の物音が出ていなかったかと言えば、もしかしたらそうでもないかもしれない。
いや、流石に陣中の天幕の中だし、お互いに声は出ないように気を付けてはいたんだ。
いたんだけどもさ、その、あの、あれだ…勢いってものも当然あったところはあったわけで…
「いやあの…親父殿、誤解だっ…」
「何が誤解か!?」
「殴ったりなんてしてない!昨晩はただ、酒飲んでくっちゃべってただけだ!ほら、そこ、テーブルに!」
アタシは必死にそう言いながら、天幕内のテーブルを指さす。
そこには、昨晩食べ散らかした夕飯の皿と空になったワインのボトル、二つのカップが転がっていた。
「アタシらは、その、あれだ!互いのその、健闘を称え合っていただけで…」
「ほう、健闘を称え合うと呻き声や打擲音が聞こえるものなのか…!?」
「いやぁ、それは、その…あの…なんでしょうね?アタシらの天幕から聞こえた音ではないのでは…?」
何とか言い逃れできないものかと考えてはみるが、良い案が浮かばない。
と言うか、そもそも聞かれてたんだとしたらものすごく恥ずかしいんだが。
「いや、複数の兵から聞き取っている!間違いなくこの天幕から聞こえていたとな!誰もが、お前が一騎打ちの仕返しをしているのではないかと恐れて今朝一番に報告に来よったわ!」
何人も聞いてたのかよ!
「いやいやいや、待ってくれ、そんなことは絶対にしてない!」
「していないのなら何を隠すことがある!?」
いっそ白状してしまおうか?
恥ずかしいが、少なくとも人質を痛めつけるようなことはしていないと納得はしてもらえるかもしれない。
恥ずかしいけど。
ものすごく恥ずかしいけど…。
いやでも、待て…白状するにしても、アタシは良いが、アレクシアはどうだ?
アタシ自身だけじゃなく、彼女にも恥辱を与えることになってしまう。
アタシが辱めを受けるだけなんだったら、いくらでも被ろう。
けど、彼女にそれを強いるのは違う気がする。
怒りに任せた親父殿に首を落とされそうな状況だけど…彼女の名誉を傷つけて守るべきものなのだろうか?
「ぐぬぬっ…」
逡巡した結果、アタシの口から漏れたのは、そんなうめき声だけだった。
不意に、親父殿が握った拳を振り上げる。
あぁ、クソっ、またキッツいのが来るぞ…!
覚悟を決めて、歯を食いしばった瞬間だった。
「バイルエイン伯」
そう親父殿に声を掛けたアレクシアが、その場に傅いた。
それを見た親父殿の手が止まる。
「あぁ、ノーフォート令嬢…この度は愚娘が申し訳のたたないことをした」
「いいえ、バイルエイン伯。私はティアニーダ様に暴行などはされておりません」
アレクシアは、そうハッキリと言い切った。
その顔は、まるで夕焼けに照らされているように耳まで真っ赤だ。
おい、まさかあんた…言う気なのか…!?
「このような娘を庇うことはない。実際に、それらしき物音が聞こえたと報告があがっておるのだ」
「いえ、伯爵。それは暴行する物音でも呻き声でもありません」
「では、なんだったと申す?」
親父殿の問いに、アレクシアは大きく深呼吸をして口を開いた。
「私とティアニーダ様は、酒と友誼を交わしたあと、盛大に酔いました」
「ふむ」
「その結果、体を重ねました」
言った。
言ったよ、この女。
アタシは呆気にとられ、そしてその潔さをちょっと尊敬した。
しかし、親父殿の反応が鈍い。
ほんの僅かに、沈黙が続く。
「体を…ん?すまん…どういうことか?」
親父殿はなんとか、と言った様子で再度アレクシアに聞き返した。
いや、その…分かれよ親父殿!
しかし、そんな親父殿の反応を目にしてもアレクシアはひるまなかった。
「私がティアニーダ様を抱いた…いや、抱かれた…?あぁ、いや、それはともかく…つまり、一騎打ちと酒で昂った心と体を鎮めたく、性行為を致しました。兵の方々聞いた呻き声や打擲音というのは、おそらくそういったことかと」
言った!
言い切った!
アタシはもう、聞いているだけで恥ずかしくって、両手で顔を覆ってしまった。
すごいよ、アレクシア。
あんたのその度胸、ホントにすごい。
アタシはもう、穴を掘って埋まってしまいたい気分だ。
親父殿は、茫然とした様子で固まってしまった。
どれくらい経ったか、その口から漏れたのは
「いやその…どちらも女であろう…?」
と明らかに戸惑った声色の言葉だった。
女同士でそういうことになるっていうのは、まぁ、びっくりすることではあるんだろう。
ただ、他家に嫁入りする前に情事の手ほどきを受けるときは、たいてい経験豊富な侍女かそれ専門の女家庭教師みたいな人に頼むもんだ。
王都の社交界なんかに参加する令嬢達の間じゃそういうアソビをするやつもいるって聞くし、浮気にならないって屁理屈を付けて屋敷の中で好みの侍女を囲ってるご令嬢がいる、なんて話しもないではない。
それでも、親父殿にとってはちょっと想像できないことだったらしい。
親父殿の戸惑った言葉を聞いたアレクシアは、顔を真っ赤にしたまま、それでもまるで好機を逃すまいとする軍師のように引き締まった顔つきで親父殿に問うた。
「はっ。しかし、私とティアニーダ様は、互いに生死を賭して戦いました。そして、互いに生き残った。互いの戦いぶりを誇り、称え合った私達は絆で結ばれました。そこに敵味方、まして性別の差異など関係がありましょうか?」
こいつ、何言ってんだ?
何言ってんだ、こいつ?
いやまぁ、そう、そうだよ。
嫌いじゃないよ、あんたのことは。
殺し合いをした仲だけど、人となりは好感を持てたし気の合うヤツだとは思ったよ。
騎士然とした立派な姿には憧れを感じたし、尊敬できるところもたくさんある。
酒と戦闘の興奮が残ってた影響だったからといって、体の関係をもったことも別に後悔はないよ。
しかし、その…そんなハッキリ言葉で言うかね?
親父殿は唖然としていた。
アタシは羞恥に身悶えしていた。
「…………ティアニーダ、ノーフォート嬢の申す事に、相違ないか?」
親父殿は、絞り出すような声色で尋ねて来た。
アタシは顔を覆ったまま、小さく、しかしなんどもコクコクと頷くしかなかった。
親父殿は
「そうか…」
と小さく呟き、アタシの胸倉から手を離した。
地面に崩れ落ちたアタシは、もう身動きすら取れない。
恥ずかしい…もう、全部が恥ずかしい。
「そうか…」
親父殿は再びうわ言のようにそう言った。
けど、どうやら疑いは晴れたのは確からしい。
親父殿は多少混乱してはいるようだけど、どうやら事実をきちんと把握してくれたようだ。
…あれ?
それはそれで、まずくないか…?
アタシはハッとして顔をあげる。
するとそこには、先ほどまでの呆気に取られていた親父殿が浮かべていたのとは違う表情があった。
相手を威圧して押しつぶすようなただならぬ雰囲気の、割とよく見る顔だ。
「だからといって陣中でまぐわうなど、貴様ら軍規をなんだと心得ておるか!」
ですよねぇ。
そうですよねぇ。
軍規違反については、弁明の仕様がない。
よく考えてみれば、報告した兵士がどういう意図を持って親父殿に話をしたのか。
仮にアタシが人質を殴打してるんなら、そのときに止めないとダメだろう。
だって勢い余ってそのまま殺しちゃうかもしれないじゃないか。
そんな状況にあったのに、今朝まで何も報告しなかったのは、なぜか。
推測の範囲でしかないけど、理由は簡単だ。
たぶん、何をしていたのかは思い切りバレていたに違いない。
そして『マジメに不寝番してんのにどこの誰かは知らないが盛りやがってふざけんなよこの野郎』くらいの気持ちで告げ口されたんだろう。
うん、いや、まぁ、それに関しては申し訳ないと思う。
アタシは火照った顔の温度が急速に冷えていくのを感じた。
アタシは素早く居住まいを正して、アレクシアの隣に傅く。
こればかりは、言い訳のしようもない。
アタシ達はそのまましばらく、説教を身に浴びる他になかった。