コンプレックスを愛で溶かしてくれたひと。
私はいつも、下を向いている。
子爵家長女、アンリエット・デセルは、茶髪に青の目、普通の顔で、結構恵まれた人生を歩ませてもらっているとは思う。
唯一、身長以外は。
小さくて可愛い女の子、背が高くてたくましい男の人。
それがこの国におけるモテモテな人達で、女の子として背が高すぎる私は、いつも可愛いとは言ってもらえない。
今まで通っていた故郷の学校でも、同い年の誰よりも背が高くて。
「アンリちゃんは大人っぽいね」
と親戚達はそう褒めてくれるけれど。
「デカ女」と影で言う人がいることくらい、私でも知っている。
そんな私にも、僅かな希望があった。
故郷を離れ、王都にある中央貴族学園に行けば、私は大きい方じゃないだろうと。
だけど、現実は非情だった。
男子を含めても、私は学年で一番背が高い。
十二、三歳の今、女の子の方が成長が早くて背が高い。そう慰めてくれる人もいるけれど、高等部の男子の先輩でも、私より背が高い人はそう多くはなくて。
それも、この国で理想的とされる『女性の身長は男性の肩ぐらい』には程遠く、私よりもほんの少し大きい程度。
だから私は、いつも背を縮めて歩いている。
少しでも小さく見えるように。
少しでも目立たないように。
そうして過ごしている私は、ひどく暗く見えるらしい。
話しかけてくれる人はわずかで、ひとりで過ごすことも多い。
そんな自分が嫌だと思うこともあるけれど、誰かと話すとまた「デカ女」と言われるのではないかと、それにばかりビクビクしてしまう。
私は結局、いつも一人きりだ。
春に入学してもうそろそろ夏。
ようやく覚えてきた校舎内を、教室移動のために歩いていた時。
階段の踊り場でふと目が合った。
一段飛ばしで駆け上がっていく男の先輩の、その瞳に吸い寄せられるよう。
黒い瞳はまっすぐに上を向いていて、力強く輝いている。
なぜかは分からないけれど、一瞬とても気になって、目をそらすこともできなかった。
いつも下を向いてばかりの私にちょうど良い目線の高さで、とっても強い目を持つ人。
たった一瞬すれ違っただけで、強い印象を受けたのだった。
「それ、絶対恋だよっ!」
「え、違うって」
食堂の向かいの席で目をキラキラと輝かせている女の子は、ネリー。
貴族学園に入学してからできた、ほぼ唯一と言っていい友人だ。
私とは適度な距離で接してくれていて、とても居心地がいい。
「それでそれで?」
こんな人がいた、とチラリと話しただけなのに、興味深々で先を促されてしまう。
正直照れるし恥ずかしい。
「目が合っただけでそんなにビビッとくるなんて、運命だよ、それ! 告白しちゃいなよ!」
「いやぁ……うーん……。違うと思うけどなぁ」
ネリーの迫力に負けて、たじたじの私。
「で、その人、いくつなの?」
「制服は高等部のだった。ネクタイ青だし、二年生だよね?」
「じゃあ五つも年上かぁ。いいね、いいね!
でもさすがに高等二年じゃあ、名前はわからないね」
「うん」
いかにも楽しそうに、にまにまと私の話を聞いてくれるネリーは良い友人だと思う。
「アンリエットが教えてくれて、私はとっても嬉しいよ。誰にも言わないし、また何かあったら教えてね?」
「うん、ありがと」
そう付き合いの長い友人ではないけれど、ネリーは私のことをよくわかってくれている。
ネリーにこの話をするだけで、とっても勇気が必要だったことも。
だから、無理に何かしろとは言わないでくれている。私がこれ以上、相手に何かできるはずがないって、分かっているから。
- - - - - - - - -▷◁.。
自分から踏み出す勇気は持てないけれど、彼のことは気になってしまう。
あれから毎日、視界のどこかに彼がいないだろうかと、無意識の内に探し続けている。
しかし、中等部と高等部では使う教室が遠いし、それでなくても人の多い校舎内だから、彼を見つけることはできなかった。
そして、翌週。
少しだけ緊張しながら、先週出会ったのと同じ階段を降りていると。
ーーーー来た。
まるで飛び跳ねるかのように、一段飛ばしで駆け上がる彼から、やっぱり目が離せない。
活発で明るいのであろう、人と成りを表すかのような動きを、なんとなく眺めているだけでほんの少し嬉しくなった。
しかし。
「何? 俺に用事?」
しまった、と思った。
しかし、後悔してももう遅い。
少し考えればすぐわかることだったのに。
階段を上る誰かを、足を止めてまで見るのは、明らかにおかしいんだから、何か言われても当たり前だ。
脳はぐるぐると激しく動くのに、肝心の言葉は何も出てこない。
真っ黒で心を見透かすような瞳に、見つめられていることに耐えられなくなって駆け出した。
もう1秒たりともそこにはいられなくて。
「おい、ちょっと!」
何事か声をかけられたみたいだけれど、私の耳にはうるさい心臓の音にかき消されて、言葉として届かなかった。
夢中で走って次の教室に飛び込み、自分の席に座る。
もう何が何だか分からなくて、全てのことに耐えられないような気持ち。
机に伏せて、勢い余っておでこをつけたことすら気にならないし。
体全部がおかしくなったみたいに暑い。
何度も何度も深呼吸して、その後に溢れてくるのは……後悔、それだけ。
あんなに見るんじゃなかった。
せめて足を止めなければ。
変に思われたよね、絶対。
しかも、何も言わずに逃げてきたし。
どれだけ考えても、いいことは何一つ浮かばない。
先生が入ってきて授業が始まったから一応顔を上げたけれど、その後の話は全く頭には入ってこなかった。
その日の昼休み。
「さっきはどうしたの?」
食堂へ向かう私に、ネリーが声をかけてくれた。
「……いや」
なんとなく言葉にしづらくて、濁してしまう私だけれど、ネリーは急かしもせずに続きの言葉を待ってくれた。
「さっきなんだけどね……」
あったことだけを話すと、何ともあっけない。
私が下手なことをして逃げてきた、それだけ。
たったそれだけの話をするのにも、言葉を選びまくって物凄く時間がかかってしまい、もう食事が終わりそう。
その間ネリーはとっても辛抱強く私の話を聞いてくれていた。
「いやいや、いいじゃん! 大進歩じゃん!」
とっても失礼なことをしてしまった、と落ち込む私に、ネリーは明るくそう言ってくれる。
「少なくとも、その先輩はアンリエットのことを知ったんだよ? よかった、アンリエットの片思いで、相手が知ることもなく終わると思ってたからね」
「でも、マイナスイメージ持たれるよりは、いっそ知らない方がいいと思うなぁ」
「それはこれからじゃん」
「でも、私……。何も言わずに逃げちゃったんだよ?」
「そんなこと、どうにでもなるって!」
励ますように肩を叩いてくれるネリーには申し訳ないんだけど。
「無理だって。そもそも会わない方がいいと思うの。あの階段は絶対通らないから」
「ええー! もったいないって!」
「もったいないって何よ。無理なんだって」
「いや、アンリエットお願い! 来週も、絶対あそこ通ってよね」
「なんでよ?」
意味不明な提案をされてしまった。
「いい事あるって! 絶対だよ? 見張ってるからね!」
「何でネリーがそこまでするのよ?」
「いいじゃん! 可愛い友達のことは、応援したいんだから」
「こんなに大きいんだから、可愛いわけないじゃん」
そう。それもハードルの一つだとは思う。
すれ違ったのは階段だから、彼の正確な身長は分からないけれども、そんなに高いようには思えなかった。
「大丈夫、人間見た目じゃないよ。アンリエットは充分可愛いって。本当に通るだけ、通るだけだから!」
「……わかったよ」
熱心に勧めてくれる友人に根負けして、そう約束してしまった。
翌週までの間、私は悩みに悩みまくっていた。
なにせ、先週は大失敗をしているのだ。
その失点を挽回できるような何かを、自分ができるとはとても思えない。
もしもこれが、小さくて可愛い女の子だったら違ったかもしれないけれど。
私は常々『デカ女』と馬鹿にされている。
可愛いからといって何でも許されるような女の子とは違うんだ。
だけど、ネリーと約束したのは確かだし、友人との約束を正面から破るのはさすがに申し訳なさすぎる。
せめてもの折衷案として、誰にも私とわからないよう、顔を伏せて走って降りることに決めた。
ーーーーなのに。
「やっぱりいた。ちょっといい?」
なんで目の前に立ちふさがるように彼がいて、私のことを見上げてくれているんでしょうか。
- - - - - - - - -▷◁.。
「先週は驚かせて悪かったな」
「……いえ」
「友達にも怒られたよ。中等部の女の子をいじめるなって」
「……いや」
もうまともに返事できてないし、何より近い。
彼の方が二段下に立っているから、いくら顔を伏せても目が合ってしまう。つらい。
「えっと、私のほうこそ、すみませんでした。ジロジロ見て、そのくせ何も言わずに逃げてしまって」
いつもは口下手な私なのに、思っていたよりはすっと言葉が出てきてくれた。
「俺のこと、怖くなかった? 大丈夫?」
「あっ、はいっ! それはもちろん、大丈夫ですっ」
少しでも誤解を解きたくて、必要以上に力の入った返事をしてしまった。
顔も熱くて、多分真っ赤だろうし、もうほんと恥ずかしいのに。
「よかった、怖がられてなくて」
心からの言葉だとわかるくらいに真摯な響きと共に、輝くような笑顔を向けられて。
もうこれ以上赤くはなれないと思っていた顔が、もう一段熱くなった。
次の授業があるから、と言い訳するように逃げてきた教室では、先週と全く同じように机に突っ伏す羽目になった。
先週よりマシだとは自分でも思う。
一応ものは言えたし、笑ってもらえた。
私にとっては存外の幸せで、もう十分だろう。
今日の昼休みにでも、ネリーが1人でいる所を捕まえられたら、ちゃんと報告しないと。
彼女のおかげなんだから。
幸せな充足感に浸った私にとって、このイベントはこれで終わりだった。
誤解されたけど、ちゃんと分かってもらえてよかったね、と。
それが考え違いだと気付かされたのは、その日の昼休み。
「あのさ、1人?」
「……はい?」
食堂でご飯受け取り、空いてる席に座ろうとした時。
私に声をかける人なんて滅多にいないのに、それが現実になっている。しかも。
「よかった、人違いじゃなくて。隣座ってもいい?」
「あ、はっ、はい」
あの先輩だ。
振り返る前に隣に座られてしまった。
「見つかってよかった。名前もクラスも聞いてなかったからな。
俺はルディ・フラリック。君は?」
「アンリエット・デセルです。クラスは1のC」
「俺は5のE。ちなみにあの階段ですれ違った後の授業は……」
フラリック先輩はとても話し上手な人だった。
私は自分のオムライスを食べながら相槌を打つだけで、でも聞きっぱなしにならないように時々は私に何か聞いてくれる。
だけどそれは授業のコマ数だったり、好きな動物だったりと、答えに困らないものばかり。
自分の言葉で話すのがあまり得意ではない私にとってはとても心地よかった。
私がちまちま卵の山を崩す間にも、先輩のポークチャップ定食はみるみるなくなっていく。
これだけ話ながら食べても汚く感じないのはすごいな、なんて思う余裕まであった。
食べ終わってこの素敵な時間が終わってしまうのがもったいなくて、ちまちま時間をかけて食べていたけれど、昼休みは終わってしまう。
予鈴と共になにげなく立ち上がった先輩に釣られるように席を立った時に気付いたことが一つ。
先輩はとっても背が低い。
「あっ、気づいちゃった? 俺、背が低いだろう?」
「いえ全然、全然、全然全然」
目線の高さの違和感がすごくて、それがバッチリ顔に出てしまったらしい。
「あの、すいません。私も身長のこと気にされるのとっても嫌なのに」「そうだよな」
自分がされて一番嫌なことを他の人にしてしまったと謝ったのに、食い気味に共感されてしまった。
「低いなーって思ってるだけならまだいいんだよ。
小さすぎて気になるのはまぁ仕方ない。ただ、可哀想扱いされるのだけは我慢ならん」
「それは本当に思います。好きでこの身長でいるわけじゃないのに」
「だよな!」
トレイが当たりそうな勢いで振り返った先輩の背丈は、男子の中では圧倒的に低い方だろう。
女子の中に入れても、半分よりは下。
理想的な身長差になるほど小さい女の子なんて、数えるほどしかいないんじゃないだろうか。
そして、それは私も全く同じ。
「私、背が高いのが本当に嫌なんですよ。どうにかして縮んでくれないかっていつも思っています」
その言葉はするりと出てきた。いつもの私は、背丈のことは口に出すのも嫌で絶対に話題にしないし、何か言われても微笑んで誤魔化すだけ。
それなのに、フラリック先輩相手なら、こんなにも簡単に話すことができた。
「周りのやつらはチビだなんだと言ってくるが、俺はまだまだ伸びるっ!
牛乳も毎日3回ちゃんと飲んでるしな」
確かに先輩のトレイには、定食と一緒に牛乳の瓶が載っていた。好きなのかと思っていたけれど、あれは先輩になりの努力だったらしい。
「そういや俺らの身長差はわりとちょうど良くないか?」
「男女逆でしょう」
「だよな! はははははっ!」
反射的にツッコんでしまったけれど、先輩はツボに入ったかのように大笑いしてくれた。
心の中ではこっそり願ってしまう。
本当に身長が逆だったら良かったのになぁ、と。
- - - - - - - - -▷◁.。
先輩と話せたことをどうしてもネリーに伝えたくて、授業後に初めて、自分からネリーに話しかけた。
「あのね、ネリー。本当にありがとう」
「どう? うまくいった?」
「うん。ちゃんと話せたし、お昼ごはんも一緒に食べたんだよ」
「すごいじゃんー! えっ、お相手確定じゃない?」
「全然、そういうんじゃない、とは、思うけど……」
ネリーに言われて、少し意識し始めてしまった。
この貴族学園に通う大きな目的の一つ、お相手探し。
よほど大きな家の嫡男であれば、家の決めた婚約者がいるかもしれないが、幼いうちに婚約するのは『どう育つかわからないから』と積極的でない家も多い。
互いに相性の良い相手と一生を過ごす方がその家は繁栄する、という考え方が主流なこの国では、普通結婚相手を学園で探す。
もちろん卒業後に出会って結婚するカップルもいるが、在学中に出会うことの方が多いらしい。
もちろん私もそれは分かっているけれど、今はまだ1年生が始まったばかり。
相手探しをそこまで考えてもいなかったのに、急に言われてもわからないというのが正直なところだ。
「そういえば、先輩には決まった方はいるのかなぁ」
「さすがにいないでしょう。もしいたらそのお相手に失礼すぎるもの」
「確かにそうね」
2人でお昼を食べるのはそう特別なことではないけれど、私たちにこうして意識されてしまっている点でダメだろう。
先輩は遊び人という雰囲気でもなかったし、まだ決まった人はいないのかな。
「そうだったらいいのにな」
ぽろりとこぼれ落ちてしまった言葉は、自分が全く意識してもいなかったのに、紛れもなく本心からの願いだった。
「うん、そうね。アンリエット、好きな人が見つかって良かったね」
「……すきなひと?」
「えっそうでしょう?」
「……そうかなぁ……。でも、会ったばっかりだよ? まともに話したのは、今日が初めてだし」
「それなのに、そんなに恋する乙女な顔してるんだから、十分好きなんじゃない?」
「えっ!?」
恥ずかしくてぱっと手で顔を覆った。
「どんな顔、してた?」
「アンリエットが幸せなんだな、って顔。
それに今日は珍しくアンリエットから話しかけてくれたから、それも嬉しかったんだよ」
ネリーはあまり上手くもない私の話を真剣に聞いてくれて、その上本気で相談に乗ってくれるとっても大切な友達だ。
その友達に私からもなるべく誠意が伝わるようにまっすぐにお礼を言いたい。
「ネリー、本当にありがとう」
「アンリエットの役に立ったみたいでよかったよ」
そういう彼女の朗らかな笑顔に背中を押してもらえている気がした。
次の日からの私の学園生活は、昨日までと比べ物にならないくらいに輝き始めた。
他の人から見たら全く代わり映えのしない日々なのだけれど、来週また先輩に会えるかもと思うだけで有頂天だった。
もう何があっても楽しく生きていける。
それくらいには幸せなのに、これ以上のことがあっていいのかな。
「よっ、アンリエット。今日はナポリタンか」
「あ、はい」
いつものように、食堂でひとりご飯を食べようと席に着いた時。
ごく自然なことのように、フラリック先輩が隣に座った。
「昨日のオムライスといい、やっぱり女子っぽいメニューが好きなのか?」
「えっと、そうですね」
「食べる量も少ないし、それで足りるのか?」
「あの……はい。これ以上大きくなりたくないので」
いつもだったら絶対に言わないような本音がスルリと零れ落ちた。そう、大きくなりたくない。
「そうだよなぁ」
身長について何か言われるのが嫌で、話題に出さないのに。
言ってしまった、と後悔したのに、先輩は大げさなくらいに共感してくれた。
「俺は大きくなりたいからさ、とにかくいっぱい食べて、牛乳飲んで、ってやってる。
将来は騎士になるつもりだから、体も鍛えてるしな。それだけやっても筋肉がつくけど、背は伸びないんだよ。
人生思い通りにいかなさすぎるぜ、まったく」
「本当にそうですよね」
人生思い通りにいかない。
まさにそうだ。
「でもな、小さくても弱くはねぇから。
俺は強い騎士になるんだ。三男だからやりたいことをやらせてもらえてるしな。その分自分で稼がないといけないけど。
今の目標は、秋の剣術大会で優勝することだ」
そう語る先輩の瞳は真っ直ぐで、希望に満ち溢れている。
「頑張ってくださいね、応援しています」
「ありがとう」
私の素直な応援の言葉に、照れたようにはにかむ笑顔がとっても素敵だった。
- - - - - - - - -▷◁.。
あの日から毎日、先輩と一緒にお昼を食べている。
自分から声をかける勇気はないけれど、いつも同じ席に決めて、先輩が来るまでは立って待っていることにした。
人が多い食堂内でも、私は見つけやすいと思うから。
背が高いことのいいところは、人混みでも見つけやすい所。なんて、以前の自分だったら絶対に思えなかっただろう。
だけどほんの少しだけ、自分のことが嫌いじゃなくなれた。だって、先輩は明るくて素敵な人だから。
ちょっとだけでも、先輩みたいになれたらいいなって思ってるんだ。
「遅くなってごめんごめん」
いつもより少し遅れて食堂にやってきた先輩は、なんだかものすごく楽しそうだった。
「何かあったんですか?」
「いやそれがさあ! さっきは馬術の授業だったんだけど」
授業中に起こったちょっとした出来事をこうして面白おかしく聞かせてもらうのが、大好きになっていた。
私は友達も少なくて、クラスでは何か起こっても一番端っこで見ているだけ。
こんな風に楽しめることなんてないのに、先輩の話を聞いているだけで、とっても楽しい気持ちになれた。
まるで自分がそこにいるみたいに思えるから。
それに、私が笑うと、先輩はとっても嬉しそうにしてくれる。気のせいじゃないと思うし、先輩が嬉しそうだと私も嬉しくて。
男の子はすぐに私のことを『デカ女』って言うから正直苦手だったけれど、先輩は全然違ってとっても優しい。
だから、少しだけ勇気を出して、自分の話をしてみることにした。
「私の友達に、ネリーって子がいるんです。その子はとっても優しくて、この前は算術の授業で分からないところを教えてくれたりしたんですよ」
先輩の話と比べたら面白くもなんともないと思う。
それでも先輩は優しく微笑んでくれた。
「良かったな、いい友達がいて」
「はいっ!」
ほんの些細な会話だけれど、自分で言えただけでとっても嬉しくなった。
教室では相変わらず引っ込み思案でおどおどしていて、ネリーくらいしか話し相手はいない。
だけど、先輩と話すようになって、他の人と話すのが楽しいってことにようやく気づいた。
だから。
「あのね、ネリー」
めずらしく教室でネリーに声をかけた。
「あらデセルさん。どうしたの?」
ちょっとつり目で気がキツそうなクラスメイトに返事をされてしまった。
いつもなら、ネリーが1人でいるところを見計らって声をかけるのに、タイミングを見計らうのを忘れていた。
「あ、うん、ごめんなさい。後で大丈夫」
慌てて逃げようとしたのに。
「別にいいわよ? 話していけば?」
「そうだよ。デセルちゃん、あんまり話してくれないし。私はインフェント・イレーヌ。イレーヌって呼んでね。アンリエットちゃんって、呼んでもいいよね?」
「う……うん」
ネリーと話していた2人に、逆に話しかけられて、おどおどしてしまう。どうしよう。
「私は、イザベル・カトリーヌよ。よろしくね。
アンリエットちゃんには、あの先輩のことも教えてほしいのよねぇ。どうなの?」
「どうって……」
ツリ目の子にしっかり見つめられて、めちゃくちゃ怖い。
「だって気になるじゃない! フラリック先輩は辺境伯家でしょう? 身分差も年齢差もあるのに」
ここまで聞いて逃げ出した。
続きは絶対に聞きたくない。
だけどもう、聞きたくなかったことを言われてしまった。
先輩の家柄は知らないようにしていた。
こう言われるのが怖くて、知りたくなかったから。
でも普通に見たらやっぱりそうなんだ。
デカ女のくせに、身分が上の先輩に恋して、身の程しらず。
これが可愛い女の子なら良かったかもしれないけれど、私だから許されるわけがない。
その後も、ネリーやイザベラが話しかけてこようとするのから逃げ続けた。
もちろん先輩にも会いたくなくて、食堂へも行かずに外で食べるものを買ってひとりで食べた。
その日帰ってからはとてもふさぎ込んでいたし、次の日の行きたくなさはいっそ異常なくらいだった。
ただ、休んではいけない。
きちんと学園へは行ったけれど、ネリーも先輩も避けて1日を過ごして。
下校しようと校門出る直前、声をかけられた。
「アンリエット、待ってくれ」
先輩だった。
会いたくなくて逃げ出した。
でも、私がいくら走ったところで、先輩には簡単に追いつかれてしまう。
「アンリエット、少しだけ話を聞いてほしい」
真摯な声と真っ直ぐな瞳。
私の大好きな先輩に言われて立ち止まった。
「本当にごめん。何か気に障ることをしたのなら、教えてほしい。やり直すチャンスをくれないか?」
ガバッと頭を下げられてしまって、状況についていけない。
「俺が何かしたんだろう? 改善するように努力するから、教えて欲しい」
いつも真っ直ぐな黒い瞳が、不安に揺れていて。
それを見た瞬間に頭を下げた。
「ごめんなさい」
謝るのは私の方だ。
勝手に思い込んで、勝手に避けて。
それなのに先輩は追いかけてきてくれて。
悪いのは私。
頭の中では色々考えるのに、ぐるぐるしすぎて言葉が出てこない。
その代わりに、涙が次から次へとボロボロ溢れてきて。
「ああ、ごめん。どうした?」
慌てて先輩が近寄ってきてくれて、でもどうしていいかわからないかのように、手が宙をさまよっている。
「ごめんなさい。私、身分違いで可愛くもなくて、なのに先輩の隣にいたいとか思ってしまって……」
全くうまく言えていないし、しゃくりあげるみっともない声だし。
それでも何とか言うことは言えた。
怖くてずっと顔を伏せたまま、何とか言い切って。
意を決して顔を上げたら、先輩はなぜかとっても嬉しそうだった。
「アンリエット、ありがとう。そんなに俺のことを思ってくれていて、とってもとっても嬉しいよ。
それで、今日ちゃんと伝えたかったんだ。
俺と、付き合ってくれませんか?」
「……ふぇっ?」
その瞬間に涙も引っ込んでしまった。
それくらいには意外なことだった。
「どうしてもダメ? 俺じゃ嫌?」
少し悪戯っぽく笑う先輩は、でも本当に嬉しそうで。
「よろしく、お願いします」
肯定の返事を一言返すのが精一杯だった。
それでもその瞬間の先輩の笑顔は、夏の太陽に負けない位に輝いていて。
一生忘れられないくらいに綺麗だった。
- - - - - - - - -▷◁.。
「一つ気になったんだが、身分差とか言ってたの、は誰に言われたんだ?」
「えっと、クラスの子に……」
事のあらましを軽く説明すると、うーん、と少し考えた後に。
「それ、アンリの勘違いじゃないか?」
「えっ?」
というか、サラッとアンリって呼ばれた。
ちょっと嬉しい。じゃなくて。
「勘違い、ですか?」
「そのイザベラって子は、俺のことを知っていたんだろう?
それなら、俺が三男で、身分とか気にする立場じゃないって分かっているはずだよ。
単に話を聞きたかったんじゃないのか?
辺境伯家の先輩と結ばれるなんてロマンチック! とか、女の子なら言いそうだけど」
「そうなのかなぁ……」
確かに、イザベラちゃんの目つきが鋭くて、怯えてたし、そう言われてみればそんな気もする。
それにネリーがあの場にいたのに、特に何も言わなかったってことは、私を傷つけようとはしてなかったのかも。
「あのー、先輩。もしかしたら、そうかもしれません」
考えれば考えるほど、それはありえそうな気がしてきた。
「そうだろう?」
「それなら私、とっても失礼なことをしちゃってます」
「そうかもな。明日会ってちゃんと謝ろう?」
「…………はい」
そうしないといけないと、分かってはいるのに、とっても怖いし出来る自信もない。
「大丈夫だ。俺もついていって、ちゃんと見ててあげるから」
そう言ってもらえたら、なんだかちゃんと謝れるような気分になってくるから不思議だった。
「それに、今回のことは俺も悪いんだ。アンリはまだ1年で、時間はたっぷりあるだろう?
俺はもう卒業まで1年半しかなくて、焦っているけれど、それに巻き込んでしまったらいけないと思って」
「焦っていたんですか? 先輩かっこいいのに」
そういった次の瞬間、先輩の顔は一気に真っ赤になった。
「アンリはそう言ってくれるけれどな。『自分より背が低い人はちょっと』とか言って断られ続けてるんだよ、俺は」
少し投げやり気味な先輩が可愛く感じた。
失礼かもしれないけれど。
「私がそんなこと言われたら立ち直れないかもしれませんね」
「一生言われないから、安心しとけ」
もう、先輩は顔どころか耳まで真っ赤だ。
それは私も同じだろうけれど。
無言でぎゅっと握られた手は、温かくて力強くて。
やっぱり大好きだなぁ、ってそう思えた。
翌日。
わざわざ先輩に教室までついてきてもらって、ドアの前で待っていてくれた。そして。
「あの、イザベラちゃん」
「ごめんなさいね、アンリエットちゃん!」
話しかけたのをかき消される勢いで謝られてしまった。
「ネリーに聞きましたの。アンリエットちゃんは繊細なんだから、あんな言い方しなくても、って。
確かに、好きな人とのことを悪く言われたら嫌よね。本当にごめんなさい」
「ううん。私も、ちゃんと聞かずに逃げて、ごめんなさい」
ちゃんと言えた、と達成感とともに振り返ると、先輩は柔らかく微笑んでくれていた。
そして軽く手を上げてから去っていく。
「えっ、どういうことですの!? とってもとっても、かっこいいじゃないの!」
それを見ていたイザベラちゃんは叫びだす勢いだ。
「いや、あの、えっと……。恋人に、してもらいました」
「えっ、どういうこと!?」
「教えてくれますわよね!」
横で見守ってくれていたネリーと、イザベラちゃんとの両方に迫られて、たじたじではあるけれど、嫌な気はしない。
「あのね、えっと……」
少しずつ話していくだけで、イザベラちゃんはとっても楽しそうに目を輝かせてくれる。
「年上の先輩、しかも身分も上の方との恋ですもの! ロマンティックですわ!」
他の女の子も集まってきて、一緒に盛り上がってくれる。
その時間はとっても楽しくて、だけど自分ひとりでは絶対に出来なかっただろうこと。
先輩に出会えて良かったなって、本当に本当にそう思えたんだ。
ありがとうございました。
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