私の欲しいもの2
どうして? どうしてシンクレアは私を見ないの? 私はシンクレアの命を救ってあげようとしているのに、シンクレアは私に媚を売ろうとしない。私に媚を売るスノーウィを見つめている。シンクレアがいつまでたってもうんともすんとも言わないから、私は焦れて、シンクレアをせっついた。
「選択の余地は無いはずだよ。ここで私を拒絶したら、おじさんは魂を引っこ抜かれちゃうんだから」
シンクレアはのろのろと顔をあげた。シンクレアの眉間に深々と刻まれているのは苦悩だろうか。
ひょっとして、シンクレアは悩んでいる? 私の厚意を突っぱねようとしている?
私はぎょっとして、シンクレアに訊ねた。
「どうして悩まなきゃいけないの? 私を拒絶して、おじさんに何のメリットがあるって言うの? 素直に私の犬になれば、おじさんは助かるんだよ」
「そうかもな」
「ひょっとして、私を疑ってる?」
「いや」
シンクレアの返答は要領を得ない。私は苛立ち、地団駄を踏んで金切声をあげた。
「だったら、答えはイエスしかないでしょ! なにをもったいぶっているの? さっさとイエスって言いなさい!」
癇癪を起こす私の足許で、スノーウィが目をぱちくりさせている。興奮する私を宥めようとするかのように私の爪先に額を擦り付ける。私は反射的にスノーウィの顔面を蹴りつけた。シンクレアが銅鑼声を張り上げる。
「乱暴はよせ! その子を傷つけるんじゃない!」
「うるさい! 私に指図するな!」
いけない。かっとなって怒鳴ってしまった。背後で親父が苦笑している。
交渉で主導権を握るには、まずは鷹揚に構えること、そして注意深く相手を観察すること。そう、親父に教わった。最も重要なのは相手を知り尽くすことだけど、私はシンクレアのことを何も知らない。だから、この場で知るしかないんだ。冷静にならなきゃ。感情的になって喚き散らすなんて愚の骨頂だ。
深呼吸をして落ち着きを取り戻す。いつも通り、四つん這いになって私を見上げるスノーウィを一瞥してから、シンクレアに視線を向けた。もったいぶった口調で言う。
「ねぇ、おじさん。こいつに傷がつくのがそんなに嫌? こいつが綺麗だから?こいつの体、傷だらけで気持ち悪いよ? 服に隠れて見えないだけで。見せてあげようか?」
シンクレアが何か言おうとしたけどお構い無しに、私はスノーウィの傍らにしゃがみこむ。スノーウィの、スラックスにしまいこまれているシャツの裾を引っ張り出して、ぺろりと捲り上げた。剥き出しになったスノーウィの背中を目の当たりして、シンクレアは絶叫した。
「この子に一体何をしたんだ!?」
「私のせいじゃない。最初からこうだったの。ねぇ、パパ?」
私は耳を塞いだまま親父を振り仰ぐ。親父は大真面目なふりをして頷いた。
「これでも、出来る限りの努力をして整えさせたんだ。だがいかんせん、元の状態が酷かった。垂れ流しにならなくて良かったよな。可愛いお顔も無傷だった。本当に良かった」
「うん、まぁ、そうだね」
親父の下品な軽口に素っ気なく返して、私はスノーウィの背中に目をやった。
スノーウィにはいつも服を着せておくから、体の傷痕は気にならない。顔に傷があったら、ちょっと気になったかもしれないけど、この肌にはどんなに醜い傷痕も映えると思う。顔の傷だって慣れればそのうち、綺麗だと思えるはず。でも、シンクレアはそうは思わないだろうな。その証拠に、ほら。さっきから、落ち着きなく肥満体をゆさゆさ揺すってる。
スノーウィの背中にはしる金継ぎのような傷痕を指先でなぞりながら、私は言った。
「スラックスを脱がせたらもっと凄いの。 見たい? 見たくない? どっち?」
スノーウィの体がびくりと跳ねて、私はぱっと手を引っ込めた。擽ったかったのかな? こいつ、痛みには強い癖に擽ったがりだから。
項垂れていたシンクレアが顔を上げる。私を捉える目は、怒りに濁っていたけれど、光を失ってはいなかった。シンクレアは憐れみの眼差しで私を一撫でしてから、私の背後に立つ親父に視線をうつす。震える眼差しで親父を睨み付け、震える声で啖呵を切った。
「俺の答えはノーだ。俺は人間だ。犬にはならない。あんたの思い通りにも、決して。煮るなり焼くなり好きにしろ」
「どうして?」
考えるより先に、私は疑問を口にしていた。
「どうして? あんた、死にたくないんでしょ? 痛いのも苦しいのも嫌なんでしょ? それなのに、どうして?」
シンクレアが私を見る。そして、微笑んだ。
「俺は臆病者だ。死ぬのが怖いし、痛いのも苦しいのも怖い。だが、それより何より怖いのは、信念を貫けないことなんだよ」
醜い顔に浮かび憫笑のような自嘲のようなそれは、私の目には光輝いて見える。
これだ。私が欲しいのはこれなんだ。外側じゃない。私が欲しいのは、醜い外側を透かして見える、光輝く内側だ。それは皮一枚の美醜なんかより、もっとずっと、価値のある物なんだと思う。
私は光に誘われる夜光虫みたいに、シンクレアに歩み寄る。彼の入れられた牢の鉄格子にすがりつく。驚きつぶらな目を見張るシンクレア。欲しい。この男が欲しい。どうしても。
「お願い。私のものになって。あなたが欲しい」
私は鉄格子に顔をくっつけて、ぽかんとしているシンクレアの目を真っ直ぐに見つめる。
「私を可哀想だと思うなら、私のものになって。可哀想な私を慰めてよ」
私の口唇からありのままの私の気持ちが滑り出す。それが耳の孔からするりと頭のなかに戻ってくる。私は私の正気を疑った。
信じられない。嘘でしょ? この私が「お願い」した? 打算じゃなくて、心から誰かに「お願い」した?
違う。なんだか、よくわからないけど、こんなのは違う。私は頭を振って、自分を取り戻そうとする。
そうだ。シンクレアが私を普通の女の子だと思い込んでいるなら、それらしく振る舞ってやればいいんだ。さっきので正解なんだ。シンクレア脅しは通用しない。それなら、下手に出て掌で転がしてやれば良い。
私はしおらしくシンクレアに懇願した。泣き落としも試みた。最初は戸惑っていたシンクレアは、私が言葉を重ねれば重ねるほど、殻にこもるように頑なになっていった。
なりふり構わず口説き落とそうとする私を、親父はおもしろがっていたけど、そのうち飽きて「ほどほどにしておけよ」と言い置いて去っていった。
それでも私は諦めなかった。私はシンクレアを求め続けた。私の声が枯れた頃、シンクレアは貝のように固く閉ざした口を開いた。
「なぜ、俺が欲しいんだ?」
私は息をのんだ。この質問に対する回答はシンクレアの気持ちを左右するかもしれない。よく考えて答えなきゃいけない。それなのに、疲れきった私の頭は鈍くなっていて、考えるより先に本当の答えを垂れ流す。
「あなたは、綺麗だから」
私の嗄れた囁きを聞いて、シンクレアが目を見開いた。しまった。と思ったときにはもう遅い。豚のように醜いシンクレアに「綺麗だから」って。嫌味にしか聞こえない。どうしよう。なんて言い繕うべき?
頭を抱える私に、シンクレアは囁いた。
「もし、俺が君の犬になったら」
えっ? 今の聞き間違えじゃないよね? シンクレアの口から、仮定とは言え妥協の言葉が飛び出した?
私が顔を上げると、シンクレアが私を見つめていた。泣き腫らした私の顔を心配そうに覗きこむスノーウィをちらりと見て、シンクレアは言った。
「パパのようにはならないか? 優しい人になれるか? その子の善き友人になってくれるか? 君が、それを約束してくれるなら、俺は……犬にでもなんでもなってやる」
シンクレアは泣いていた。大粒の涙をぼろぼろ流して、洟を垂れして、泣いていた。みっともない。滑稽だ。笑えるのに、笑えなかった。だって、みっともない泣き顔さえ、きらきら眩しく光っていたから。
誰もが皆、私におべっかを使い、おためごかしを言う。親父が怖いから、私のことも怖がる。誰もが皆、私のことを守るべき、愛すべき子どもだとは思わない。私が親父の娘だから。
でもシンクレアは、私を普通のこどもと同じように見ている。シンクレアは親父の恐怖に屈しない。シンクレアは親父の娘の私を憐れみ、彼の信じる正しい道へ私を導こうとする。
こんなひと、他にはいない。シンクレアが欲しい。どうしても欲しい。