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私の生まれて初めての屈辱

 


 地階は8フィートくらい階段を下った先にあって、電灯を消せば昼間でもほとんど何も見えない。でも今は、電灯がこうこうと光っている。つまり、収容者がいるってことだ。


 血腥い地階に降りて、牢屋を手前からひとつひとつ、順番に覗いてゆく。時々、威勢が良い奴がいて、猿みたいに格子を揺すったり、私を罵倒したりするんだけど、今はそういう元気な奴はいなかった。まぁ、親父の目の前で私を卑猥な言葉で罵った馬鹿野郎が、仲間たちが見守るなか、ぎりぎりまで生きたまま輪切りにされてからというもの、その噂が広まったみたいで、皆、大人しくなっちゃったからね。


 お目当てのシンクレアは、突き当たりの牢屋のなかにいた。すみっこで膝を抱えてめそめそしている。私は牢屋の前で立ち止まった。シンクレアは真夜中の来訪者に怯えているみたい。両手で顔を覆っている。私が格子を蹴ると、太くて短い指の隙間から、恐々とこちらを覗く。私の姿を見て、目を瞠った。


「きみ、きみは……」


 シンクレアは目をきょときょとさせている。口をもごもごさせて、やっと言った。


「まだ、起きていたのか。こんな、真夜中に。もう、寝る時間だろう?」


 私は呆気にとられた。嘘みたい。こいつは本気で、私をただの子どもだと勘違いしている。


 お門違いも甚だしいと、わからせてやった方が良さそうだ。私はわざと露悪的な笑みを浮かべた。


「パパはとっておきのシャンパンをあけてはしゃいでいるよ。面白い殺し方を思いついたんじゃないかな」


「それは……俺の?」

「もちろん」


 シンクレアが項垂れた。さらされたうなじには、薄茶色の染みが散らばっている。この惨めな男は、可哀想なこどもだと侮った私の前でも、体裁を取り繕えない程度には、参っているみたい。


 ざまあみろ、と私はせせら笑う。私を見つめるスノーウィに目配せして、ウインクして見せた。その仕草にこめた意図が、スノーウィに伝わっているのかいないのか、よくわからないけど

 私の機嫌が良いのはわかるみたい。私の足に頭を擦り付けてきた。私はスノーウィの頭に拳骨を落とす。これ、私の機嫌の良い証拠ね。機嫌が悪ければ蹴りを入れるから。そこのところ、スノーウィもわかっているから、私に寄り添って離れようとしない。まぁ、いいか。シンクレアにぎゃふんと言わせてやれたから。


 ちょっとだけ胸がすっとした。でも、まだ足りない。私はにやりと笑い、追い打ちをかけた。


「どうして、私に見られたくないなんて言ったの? 私はひとが死ぬところなんて、見慣れている。見飽きるくらいにね。私は大きくなったらパパの跡を継ぐの。必要なら、パパと同じようなことをするつもり。だから、おじさんが殺されるところを見ることくらい、私にとって、どうってことないことだったんだよ」


 追撃の言葉はまだ用意してあったんだけど、シンクレアが嗚咽を漏らしたから、そこでやめた。愚か者が己の過ちを悟るには、これくらいで十分でしょ。


 シンクレアは判断ミスをした。可哀想なのは、お前だ。この私を憐れむなんて、屠殺される家畜にはおこがましいことなんだ。


 私は満足して踵を返そうとしたんだけど、足元にまとわりつくスノーウィに躓いて、転びそうになる。スノーウィが私に飛び付いて私を支えたから転ばずに済んだけど、もとはといえばこいつのせいだ。スノーウィが膝立ちになったから、いつもよりも顔が近い。青い首輪につなげたネームプレートがきらきら光っているのが、やけに目についた。


 私は腹をたてて、スノーウィを蹴り飛ばす。スノーウィはうんともすんとも言わず、大人しく身をひいた。はっと息をのんだのは、足蹴にされたスノーウィじゃなくて、シンクレアだった。格子の向こう側で、シンクレアが立ち上がっていた。驚愕の表情が、悲痛なものに変わり、しょぼしょぼした双眸から大粒の涙が零れる。


「なんてこった……こんな、こんなことって……。かわいそうに。まだ、まだほんのこどもなのに……嗚呼、神様……どうして……」


 みっともなくしゃくりあげるシンクレアを、私は冷ややかに一瞥した。この男、今度はスノーウィを憐れんでいたいるのか。目の前でスノーウィを甚振ってやったら、泣き叫ぶかも。私を侮ったことを、きっと後悔する。


 うん。なかなか良い思いつきだ。でも、その思いつきを実行にうつそうとした瞬間、咽び泣くシンクレアが、洟を啜りながら言った。


「かわいそうに……あの男の娘に生れたばっかりに、真っ当な人生を取り上げられちまった……どうして、この娘が悪党にならなきゃいけないんだ。この娘だって他のこどもたちと同じ筈だ。この娘だって、これから、何者にもなれる筈だ。それなのに……かわいそうに。かわいそうなお嬢ちゃんだ」


 シンクレアはしくしく泣いている。その涙は宝石よりもきらきらと眩く光っている。私は戦慄した。


 シンクレアには、私の言葉が通じない。シンクレアは私の知らない世界の住人なんだ。シンクレアならきっと、生きたまま身体を輪切りにされて、その一部始終を私が嘲笑ったとしても、私を憐れんで涙するんだろう。


 シンクレアには、私の悪意が通じない。私と彼の世界を隔てる、分厚い壁に阻まれて届かない。私は震えそうになる声を励まして、強気に言い返した。


「可哀想に。おじさん、バカなのね。私は可哀想なんかじゃない。可哀想なのはおじさんだ。おじさんは死ぬんだよ。パパにうんといたぶられて、殺されるんだ。だから、可哀想なのはおじさんだ。私は可哀想なんかじゃない!」


 反論する私の声は上擦り、語尾は悲鳴と殆ど変わらなかった。シンクレアはゆっくりと顔をあげた。善意に溢れた瞳の輝きは、私の悪意を拒絶する。私はシンクレアを罵ろうとした。でも、何も言えなかった。呆然自失して、体のほうが言うことをきかない。


 私の足元に控えたスノーウィが、私を見上げている。不安そうな、気遣わしげな、心配そうな顔をしているような気がする。私がシンクレアを凝視していると、シンクレアを睨みつけ、歯を剥いた。


 シンクレアは死に損ないの老いぼれみたいに、のそのそ這い寄ってくる。スノーウィは私の前に飛び出した。重心を低くして、鼻先に皺を寄せて、低い唸り声を上げて、シンクレアを威嚇する。スノーウィは、シンクレアを私の敵と看做したんだ。


 シンクレアは親父の敵だ。親父の敵は私の敵……本当にそうなのか? どこの世界に、敵を憐れんで涙を流す馬鹿野郎がいるんだ?


 シンクレアは、彼を威嚇するスノーウィを見つめている。その円らな目に涙をいっぱい溜めて。ぶよぶよした体を大きく震わせて、シンクレアは肩を震わせて大泣きする。


「なんてこった……君たちは悪魔でも、犬でもない。何者でもない。これから、何者にだってなれるんだ。……それなのに、なんて酷いことを……愛すべきこどもたちから、未来を奪っちまうなんて……!」


 ブラックジャックでがつんと殴られたのかと思った。それくらいの衝撃を受けて、私の頭はくらくらした。


 シンクレアは頭がおかしい。私と犬を平等に扱うなんて。こんな屈辱は生まれて初めてだ。


 それなのに、私は狂人の涙に魅入られている。それはどんな宝石よりも、スノーウィの緑色の目よりも、綺麗だった。

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