花を愛でる
依頼の少女は指定した時間ぴったりに入り口から入ってきた。
安さの代償のマズいコーヒーを飲む手が、ふいに止まる。おろおろとあたりを見回すその姿に、つい釘付けになってしまったのだ。
ふと見やれば、他の客たちも彼女に気づくやいなや、興味よりも上の感情を込めた視線をしきりに投げかけているのだった。
白い肌を包む衣服は、同じく白いワンピースである。ともすれば嫌味としか映らないコーディネートが見事に調和しており、まるで絵本の中から出てきたようだ。小さな顔に掘られた大きめの目はしきりに泳ぎ、気弱そうな性格がうかがえる。清楚な黒髪とも相まって嗜虐的な心がくすぐられるようだ。
あまりにも見つめすぎていたためだ。少女と目が合い、一瞬きまずい空気が漂う。すかさず手を挙げて「ここだ」と伝えた。ほんのちょっとの優越感を感じていた。
おずおずと歩み寄ってきた彼女に着席を促す。ゆっくりとした動作で座り、その顔は今、俺の目の前にあった。よりいっそう、その美しさが感じられた。
「樹島華さん、でよろしいですか?」
カウンセリングシートをシャーペンで叩きながら問う。それに彼女は小さく頷いた。
「かしこまりました。それではカウンセリングを始めます……が、その前に冷たい飲み物でもどうかな?」
煤茶けたメニュー表を差し出しながら、カウンセラーになってよかった。と、心からそう思った。
オレンジジュースの氷がカランと音を立てる。飲む姿もいじらしく、まるで一輪の清楚な花のようだ、名は体を表すというが、ここまで顕著な例もなかなかお目にかかれないだろう。
冷たいものを飲んで幾分かリラックスしたのだろう。その目に『隙』が宿るのを、俺は見逃さない。
「じゃあそろそろ話を聞かせてもらえるかな」
心の隙間に刃を突き立てるように、そう問いかける。カウンセラーの世話になる人は心を閉ざしているのが基本だ。だから、『心理の機微を見逃さない』ことが、我々の最重要スキルといって過言ではない。俺は生まれ持っての才があるようで、カウンセラーは天職だった。
「は、はい……」
目論見は成功したようで、今までは頷く以上のことをしなかった彼女の声を初めて聴くことができた。やはり美しい声だった。依頼の電話は彼女自身ではなく家族によるものだったから、サプライズ感もひとしおだ。
「あの……私、この話……」
何かを話そうとはしたが、口ごもったきりうつむいてしまった。
こういう手合いは、例えば犯罪歴であったりそれに繋がりかねない性癖だったり……とにかく、己の話に負い目があるのが大抵だ。
だけど……『勘』としか言いようがないが、そういうパターンではないような気配がした。
「お気になさらず。どんな話でも、僕は信じますから」
なんとか捻り出した一手だったが、どうやら正解のようだ。
彼女は決心したように面を上げ、ぽつぽつと語り始める。
これは、一般には到底信じがたいような、不可思議な話をするということの証左でもあった。
「私の故郷は……神手村という……小さな村でした」
「神手村……」
覚えがある。記憶を辿ろうとするよりも早く、彼女がその答えを提示した。
「六年前に、大火で消えてしまった村です」
ああ、そうだ。そんな村だった。カウンセラーの世界で、そこそこ大きく取り上げられたことを覚えている。
まあ本当は大火よりも重大な事実についてだったのだが。
「私はその頃十歳でした。自分で言うのもなんですがとても可愛がられて……幸せに過ごしたことをありありと覚えています」
目に懐かしむような色が宿る。オレンジジュースで口を潤して、話を続けた。
「……『それ』が起きるようになったのは、大火の日でした。その日私は、おばあちゃんたちに早く起こされて、一緒に山登りをしようと持ち掛けられたんです」
「なるほど、健康的ですね」
「いえ……その、私は体が弱くて、山登りなんてさせてもらえなくて。だからすごく嬉しかった。いっぱいおめかしして、村の人たちみんなで一緒に遊べるんだって」
「村の人たちみんな?」
「はい。私なんかのために、全員が揃って遊んでくれたんです」
物憂げだが、どこか嬉しそうな彼女に反し、俺はキナ臭いものを感じていた。頭の中でひとつの仮説が形を作る。だが、それを指摘しても仕方がない。今は彼女の話を聞くことにつとめた。
「……村を出て山に行こうとしたその時です。ふと、めまいがしたんです」
「めまい?」
「はい。軽いもので、すぐに冷めました……」
そこまで言って、目に見えて顔色が変わった。ただでさえ白い肌の血色がさらに悪くなっていく。なにか恐ろしいものを必死で思い出そうとしている。そう確信した。
「あの、無理をなさらず」
「いえ、大丈夫です。私が目を覚ましたら……」
一呼吸置き、二の句を継いだ。
「村が、焼けていたんです。その、大火で」
「……」
言葉が見つからなかった。ある程度ならマニュアル外の事項にも対応可能だが、ここまで突飛なものは想定の範囲外だ。
「ほ、本当なんです! 私……」
「……失礼いたしました。続けてください」
「続ける、と言われても、本当にそれだけだったんです。いつの間にか村が焼けていた。一瞬の出来事、思い出が全部なくなって……」
「わかりました、無理をしないで、少し休みましょう」
彼女の目に涙が浮かぶのを見ていた。こういう時は下手に声をかけず、そっとしておくに限る。他の客どもが余計な気を利かせて、あるいはその後のロマンスを期待して声をかけてこないかが心配だったが。
「落ち着きましたか?」
「はい……。その後、警察の人が来て、そこからは目まぐるしく世界が変わっていきました。施設に引き取られてこの町に来て、全然違う世界で戸惑うことばかりで、でも……みんな優しくしてくれました。感謝しているんです」
「そうですか。それは何よりです」
当然のことだろう。口には出さないが、そう確信できる。
残酷なことだが、ただ見た目が『美しい』。その一点だけで人は世を渡ることができる。
言葉は悪いが、世話に手間がかかる花や動物をただ愛玩の目的で手元に置く人間がどれほど多いか。その事実が証明しているのだ。
「でも私、それからもずっと……不定期でめまいを起こすんです。気が付いたら全く別の場所にいたり、夜までその場に立っていたり……。お医者様にも原因はわからないと言われて、私は迷惑しかかけていなくて……!」
最後まで語り終えたのだろう。糸が切れたように机に顔を伏せ、泣き始めた。
その後頭部を見つめながら、俺は様々な考えを巡らせていた。導き出した答えたちの中にひとつある『異常』な答え、おそらくそれが最も正解に近い。
……いや、正解なのだろう。俺は身震いを感じながら、ただ後頭部を見つめるだけだった。
「恐らく、PTSDでしょう」
「PT……SD?」
「はい。強烈なショックを受けた精神がもたらす様々な現象のことです。あなたの心は、『喪失』を選んだのです」
「え……?」
彼女の瞳が俺を見つめている。見透かされてはいないか。内心で冷や汗をかきながら、嘘の理論を紡いでいく。
「つまり、忘れてしまうということです。大火という恐ろしい経験を忘れ、精神は安定を保とうとした。そのことが癖になったのでしょう。紙の折り目を消せないように、心の機能がそのように変化したのです」
「……」
「あなたの日頃のめまいはそのサインなのでしょう。【ふと気が付いたら】の間で、あなたは何かしかの心理的ストレスを感じているのだと考えられます」
「じゃあ……私はどうすれば……」
震える手を、両手で優しく包んだ。
このくらいは許してくれるだろう。小さくて綺麗な手だった。
「私は精神科医ではありません。薬を処方することはできませんが、別のアプローチを提示することはできます。これからはもっと明るく生きるべきです」
「えっ」
意識の外から不意打ちを受けた人間特有の表情を浮かべる。できた隙を見逃さず、言葉を植え付ける。
「決して忘れられない記憶もあるでしょう。でも、それにわざわざ向き合う必要はないのです。背を向けて、世界の中で必死に生きること。それがあなたには必要なのですよ」
「……」
「ただの精神論だと無下にするのは簡単です。でも、一度だけでも試してみてはくれませんか? あなたの笑顔はきっと、魅力的ですよ」
我ながらクサい台詞を吐いたな。ちょっと後悔する。
だけど、届いてくれたようだ。
「ありがとう……ございます」
彼女が、笑顔をつくる。
少しぎこちなかったが、輝く未来を示唆するような、暖かな光を感じられる笑みだった。
カウンセリングを終え、店を出ていく背中を見届け、俺は深いため息をついた。一仕事を終えた達成感ではない。死線をくぐり抜けた安堵だ。
神手村……彼女の故郷。大火で焼失したというのが一般的には有名だが、俺たちの業界では別の意味で有名だった。心理学のとある分野の重要なモデルケースであるからだ。
なかなか直球なネーミングセンスである。神手村は、『信仰心理』の奴隷と化した村だった。
いつ頃からの風習なのだろう。山に棲む『神様』に、村人は『生贄』を捧げ続けてきたのだ。特異な点として、それが大火で焼失するまでずっと、密かに行われてきたことが挙げられる。
『いっぱいおめかしさせられて、村の人たちみんなで一緒に遊べるんだって』
彼女の言葉を思い出す。山を登るのにめかしこむ理由とは。村人全員がそれに参加した理由とは。
彼女は、生贄にされかけていたのだ。
そして、彼女のめまいの理由。それも察しがついていた。
突如人間が消える。この現象は世界的に確認されていて、それ故名前がついている。
「神隠し……」
ぽつりと呟き、やはりマズいコーヒーを一気に煽って伝票を片手にレジに急ぐ。外は暗くなりかけていた。
美しいという一点だけで、人は世を渡ることができる。
その理由は単純。魅了することができるからだ。
ただ、彼女の場合は人だけではなく……我々が【神】と呼ぶ存在すら、魅了してしまったようだった。
そう考えると、大火の日に彼女が体験した現象にも説明がつく。
生贄という風習は、所詮人間が考え出したものだ。なぜ殺せば神様のもとに送られるのか。なぜ神様は生贄を欲していると思うのか。多くの人は「そういう風習だから」と答えるだろう。
なぜ生贄文化が生まれたのか……その開祖となった人間の心境を、俺は察することができる。
伝承で主に処女の美少女が生贄に選ばれていることから、それを始めた誰かは、単に異常性癖者だったのだ。
とにかく、神が望んでいない生贄とやらで、美しい少女が殺されようとしている。
花の周りに雑草が蔓延り、それが原因で枯れかけていたら、人はどうするか。簡単な話だ。
そして、彼女のおどおどとした性格と美しい顔は、一部の男の劣情を刺激するのに十分すぎた。時折起こると言っていためまい……その背景で何が起こったか。それは警察の仕事になるだろう。村ひとつ滅ぼす荒ぶる神の怒りを解明できるかは不明だが。
俺はこの結論を自分だけで抱えることにした、他人に言ったところで信じないだろう。俺だって、『あれ』を見なければこんな考えを抱かなかった。
机に泣き伏せる彼女に……つい俺の悪い癖がかま首をもたげた。その瞬間、凄まじい圧力が彼女の背後から漂った。幼い日のサファリパークでライオンの群れに絡まれたときの百倍の恐怖。背中を見るのが怖くて、つい後頭部ばかりを見つめてしまった。
神は、お気に入りの花が泣き喚いている原因を、俺だと勘違いしたのだろうか。
いや、神のことだ。きっと察知していたのだろう。
だから、彼女に救いを与えた。おどおどした性格だけでも治す方向に背中を押せば、少しは周囲の危険に気を配ってくれると信じて。
とにかく、俺は怒りから逃れた。と信じたかった。
考えを巡らせていたら、自宅についていた。鍵を開けて靴を脱ぎながら、さらに思考を練っていく。
今の日本は、消失した人間のことを神隠しではなく行方不明と呼ぶ。
俺は、神隠しという呼び方の方が好きだ。
神様呼ばわりされるなんて、なんだか愉快じゃないか。
トン、トン、と階段を下りていく。漂う血の臭いに、俺は興奮を覚えていた。
カウンセラーは俺の天職だ。
心を紐解き、救いを与える。その過程で多くの出会いがあり、美しい花に出会うことができる。
優しい言葉で簡単に靡く病んだ花。この世で最も美しい存在だ。
今回の花は、実に惜しかった。(施設の人間ではあるが)家族がいることのリスクを天秤にかけてでも、欲しかった。
でも仕方がない。また次の出会いに期待すればいいさ。
花の愛でかたは二種類ある。
ひとつは、それを庭に飾り大っぴらに見せびらかすこと。
もうひとつは、誰の目にも触れないよう、独占すること。
神は前者で、俺は……。
キイ。と鉄の扉が鳴る。
中には、怯えた目の少女がいた。樹島華には及ばないが、美しい少女だ。
もう限界だろう。最後の仕上げの時間だ。
誰の目にも触れさせない。俺の心のコルクボードに、その美しい姿の写真を貼ろう。
究極の独占が、完成するのだ。
壁に立てかけられた鉈を拾う。こびりついた血で錆色になっている。
弱弱しくもがく少女に向かい、俺は渾身の力で鉈を振り下ろした。