転げ落ちた後悔に
重い瞼を開けると、見慣れた天井が映る。
最悪の寝覚めだった。
頭が痛い。
首が痛い。
肩が痛い。
背中が痛い。
腰が痛い。
足が痛い。
指の付け根が痛い。
何もかもが最悪だ。
このままもう一度、眠ってしまおうかと、布団を肩まで引っ張り寝返りを打つ。
天井の代わりに、白い壁紙が目の前に迫る。単色ではあるが、その中に、細かな幾何学模様が見て取れ、視線がなぞる度にざわざわと湧き立ち、かえってそれが苛立ちを募らせた。
「くそう!」
拳を握って布団を殴りつけた。
何も出来なかった無力感に、心がささくれ立っていた。
いや……、腹立たしいのは、夢の中でさえヒーローに成れない自分の不甲斐なさだ。
布団を跳ね除けたベッドから降りると、気を紛らわせるためにテレビをつけ、朝食を取り始める。
味はしなかった。
意識しなければ、口に入れても味などしない朝食。しかし、意識をどこに向けていいのかも分からずに、ふらふらと彷徨うに任せていた。所詮は、夢の出来事、考えても仕方がない。
定まらなかった意識が、吸い寄せられるようにテレビのニュースに引き寄せられる。
別段変わったニュースでは無かった。駅前で事故があったとか、そんな、ありきたりなニュースだったが、文を成さずバラバラに耳に入って来る一つの単語は、この街の名前を告げていた。
「……はい、八津夢町の駅前に来ております。現場は、この事件との関連性は分かっておりませんが、ブティック・フェルドナのショウウインドウに突っ込んだ事故で騒然としておりますが、こちらのシートで囲われたビルが、問題の男性の遺体が発見された場所です……、警察は遺体をどのようにして取り出すか検討中との……あっ、今、作業用の建設機械が到着したようです! 壁を破壊するのでしょうか?……」
まとまりのない中継に変わって、司会者がイラストの描かれたボードを使って説明を始める。
「えー、この藤堂正治さんとみられる遺体は、ビルのコンクリートの外壁に図のような格好で、上半身を建物の中に、下半身を外に突き出した形で、仰向けに倒れている状態で発見されまして、……」
不可思議な事件ではあるが、近くで起きた奇妙な事件、ただそれだけだった。しかし、遺体の名前と共に、小さく映し出された顔写真からは、目を離せなかった。
表情こそ違えど、間違いなくあの男、雄たけびを上げてナイトメアに立ち向かっていた男だった。
(どういう事だ? あの男が……死んだ?……)
(いや、何を考えている、あれは夢の話、全ては夢の出来事……)
腹を抱えて笑ってしまう程おかしな考えだ。
たまたま夢に出てきた男と似ていたというだけだ。おおかた、テレビで見たニュースの映像が記憶の片隅に残っていたのだろう。
(今朝のニュースの映像を昨夜の夢で見ただけだ……)
俺は何を言っている?……。
おかしい。
おかしい……。
取り留めのない思考の合間に、瓦礫の上に倒れていた男の姿が見え隠れしている。
(あそこで、あの男は死んだのか?……。それで……、もし、そうだとしたらっ)
テレビの画面に詰め寄った。あの男がどんな体勢で死んでいたのか、それがもし、あの時倒れていた姿だったら……。
それを確かめねばならなかった。しかし、コメンテイターは、既に別の話題に移ろうと、遺体の尊厳がどうのとの一般論を語り始めていた。
「そんな事はどうでもいい、あの男は、どんな格好で死んでいたのだ!」
もちろん答える筈もない。急いでリモコンのスイッチをめちゃくちゃに押して、チャンネルを順番に切り替えたが、それらしきニュースはやっていなかった。
断片的な視覚情報を繋ぎ合わせて、説明で使われたイラストに描かれた男の姿を思い出そうとしたが、司会者の半分笑ったような眼や大げさな仕草が記憶を整理するのを邪魔していた。
(あの男は、破壊された壁のあった位置に倒れていた……もし……もし、あの男が、記憶にある姿で倒れたまま死んでいたのなら……)
(……?……だったら、どうだと言うのだ?……)
(あれは、夢だ、夢だ、夢だ)
(いや、だからこそ……、夢で死んだ男が、現実で死んだ……)
(偶然、偶然、偶然……)
(そんな事が起こりうるはずがない)
頭の中でグルグルと渦巻く言葉は、一体誰のものなのか?
成し得なかった行為に、果たせなかった責任、圧し掛かって来る後悔が自分の姿で追いかけて来る。それらを振り切ろうと、足早に歩いて学校へと向かった。
多くの学生がゆっくりと進む急な坂道を、縫うように追い越して行くと、次第に息が上がって来る。小さく鋭い空気を唇の隙間から吐き出すと、圧し掛かってきた不安が一つづつ、転がり落ちて行く。
このまま、坂を上りきれば、門をくぐる頃には無心になれるかもしれない。
(この急な坂も、たまには役に立つものだな)
頭の中で、そう、呟くと、さらに足を進めるペースを上げた。
靴を履き替え、混濁した思いを脱ぎ捨て、軽く疲労した足をゆっくり廊下に踏み出すと、珍しい物に出くわした。廊下を急いで駆けて来るクラス委員長の朝比奈だった。
別に彼女が珍しい訳ではなく、普段は、冷静沈着を御題目に生きているかのように慌てるそぶりも見せず、廊下を走る生徒がいれば、小言を並べて注意するまじめな委員長が、今は、パタパタと足音を鳴らして走っていた。
「明野君、ちょうどよかったわ。一時間目は自習になると思うの、みんなに伝えといて」
「ああ、それはいいけど……」
差し迫った用事でもあるのか、委員長は返事も聞かずに足早に去っていった。
珍しい事もある物だ、いつもなら聞いてもいない説明までする彼女だが……、何か用意しなければいけないものでもあるのだろう。そう言えば、一時間目は担任の白井先生の授業だった筈だ、俺も2年連続同じ担任でよく知っているが、朝比奈の従妹だとか聞いた気がする。それと関係あるのだろうか?
などと考えながら教室のドアを開けると、始業前ではあったがいつも以上にみんなざわついている感じがした。
カバンを席に置きながら、挨拶がてら真に話しかけた。
「何かあったのか?」
「何かあったじゃないよ、今朝のニュースを見てないのか?」
今朝のニュース、一瞬にして、置き去ってきた記憶が頭の中にフラッシュバックする。壁に埋まったという男のニュース、ナイトメアの前で倒れていた男、断末魔のような雄たけびをあげる表情。
そのどれもが、頭をふらつかせるほど強烈に、語り掛けて来る。
目の前で死んだ男、それが自分とは無関係ではないと……。
「これだけの大事件だからな、この街も、ようやく有名になるな。突然ビルの壁から突き出した死体。俺が思うに、元々埋まっていたのか、それとも、切断された遺体を壁に貼り付けてあるのか……、そこのと事がポイントだと思うね」
「もう、気味悪い話はやめてよ!」
小日向ひな子が耳を塞ぐポーズを取りながら会話に加わって来る。
「しかし、これほどの事件だぞ、今、この街で起きているほかの事件と関係あるかもしれん……」
「他の事件?」
「例えば、一家バラバラ殺人事件。これはとある民家での話だが、外から見た様子では何の変化もなかったのだが、内側は、爆弾でも爆発したかのように、壁や家具がめちゃくちゃに壊され、死体も原形をとどめていなかったのだが、警察が死体を集めた所、そこに住んでいる家族に混じって、身元を特定不可能な死体が混ざっていたとか……」
「それで、その家はどこにあったのよ?」
「いや、それは、極秘事項という事で分からないんだけど……」
「まったく、そんな都市伝説みたいな話で大げさなニュースにするから、おかげで、今朝の駅前は大混雑だったのよ。先生も、何人か遅れているみたい」
ひな子の言葉通り、混雑に巻き込まれた生徒も大勢いるのだろう。もうすぐ始業のベルが鳴るというのに教室には空いた席がちらほらあった。
「そういや、委員長が、一時間目は自習だって言ってたな」
話題をそらすチャンスとばかりに、合いの手を入れたが、頭からあの男と、ナイトメアの姿を追い出すことが出来なかった。
ナイトメアに襲われて死ぬ。そんな事件がこの街のどこかで、これまでも起こっていたのだとしたら。
夢の中に居る見えない襲撃者。そんな物からどうやって身を守ればいいのか……。
(サングラスの男、コックと呼ばれていたあの男なら、何か知っているかもしれない……)
現実で会って、話を聞ければ。と、考えていたが、真が急に顔を寄せて話を振ってきたために驚かされた。
「そんな事より、神納木牡丹とはどうなったんだよ?」
「えっ、いや、何もないって……」
「何もない事は無いだろう、告白されたんだぞ」
「今度の休み、明後日か、二人で出かける約束はしたが……」
「デートか、デートするんだな、あの牡丹ちゃんと! 羨ましいぞ! 何で嶺士なんだ! それで、何処に行くんだ?」
「まだ、何処に行くかは、決めてないけど」
「初デートだしな、慎重に考えねば……」
マコトは、まるで自分の事のように、腕を組んで真剣に頭を悩ませているようであった。
友達想いのいいやつだと思いたかったが、手紙の時もある。どうせ、面白おかしくネタにしようと考えているのだろう。
「そういや、駅前にある『ムーア』って店知ってるか?」
真が鋭い視線を向けて振り返ったかと思うと、肩に手を乗せて、がっくりと頭を下げるように目を閉じた。
「あのな、嶺士。初デートで気合が入るのもわかるが、身の丈に合った選択と言う物があってだな……」
「何よ、あんた、そんな所に行くつもりなの! ムーア何て学生がとても入れる値段じゃないわよ!」
「いや、違うんだ、そこで働いているコックさんが知り合いで……」
横からすごい剣幕で詰め寄って来たひな子の迫力に気圧されそうになり、慌てて弁明しようとしたが、それが、下手な言い訳にしか聞こえないと、話すほどに自分でもよく分かっていた。
「ああいう店は、コックというよりシェフじゃないのか? コックでもいいのか?……」
「ああ、もう、まったく! あんた達になんか任せてられないわよ、私が、あんたの予算にあったプランを考えてあげるわ! 明後日ね……、ちょっと待ってなさい」
俺はひな子の作ったデートプランを実行する事になるのか。告白の時のように、行く先々で先回りして監視する姿が思い浮かんだが、追い込まれた受験生のような表情で、机に広げたノートにペンを走らせる彼女は、とても反論できる様子では無かった。
(それもいいか……)
心配事が一つ減ったと考えればいい。二つ三つ増える気もするが……。
しかし、今は、ナイトメアに対して何が出来るのか考えなばならなかった。
差し迫った、直ぐ傍にある脅威。夢の中の悪夢……。
本当にナイトメアが脅威なのだろうか?
あの怪人に襲われれば、現実で死ぬ。それなら、夢を見なければ、あの怪人に襲われる心配も無いのではないか?
眠らずにいる事などできない、まして、夢の選択など……。
あの悪夢から解放される日は来るのか? それまで、遠藤の言うようにひたすら逃げ続ければ、それで、解決するのだろうか?
答えの出ない問いに時間だけが過ぎて行き、朝の慌ただしさも、いつの間にか、なりを潜め、普段通りの日常が流れて行く。強いて言えば、委員長の朝比奈が始業開始のベルから、ずいぶん遅れて教室に戻ってきた事が気になった程度であった。
どの様な事件であったとしても、時間とともに話題にあげられる事も無くなり、夢のように忘れ去られて行くのだろう。
帰りがけに、サングラスの男に会いに行こうかと思ったが、押し寄せた報道機関で混雑している駅前をうろついて、名前も知らない相手を探すのは、暴挙に思えた。
焦らずとも会えるのだ。眠りさえすれば。……悪夢の中で。