指先に込めた勇気に 2
街は相変わらず、静かだった。
駅前に見える背の高いビルに何度か目をやったが、遠目からは何の変化もなく、彼らが、そこで何を見てナイトメアの動向を察知しているのか、分からずじまいであった。
速足で黙々と歩きながら、民家を抜け大通りの橋の辺りまで来ると、分厚い金属を叩くような鈍い音が聞こえて来る。
ナイトメアだ……。
追われた時の緊張がよみがえる。あのスピード、どこから襲われるか分からない、思わず腰の銃に手を伸ばしたが、先を歩くエンドウは、涼しい顔をしたまま駅前のビルに視線を向けただけであった。
歩くペースを落とし、ゆっくりと橋を渡る。
「あまり動きませんね。もう少し、もう少し近づきましょうか」
エンドウの問いかけに、サングラスの男は、無言のまま先に進み始める。
出口が開くのを待っているのだろうか?
憶測は出来ても、何を考えての行動か、今ひとつピンとこなかった。彼らが何を考えているのか分からなくとも、それについて行くしかなかった。
質問を投げかけるよりも先に、前方、まだかなり距離はあったが、前方のビルの合間に爆発音が響いた。
何の音かすぐに思い当たった。
(銃の爆発音だ。……誰かが戦っているのか?)
誰かが銃を撃ったという事は、このメンバー以外にも他に人が居る。そして、今、目の前であの怪人と戦っているのだと思うと、思わず、音のする方に駆け出していた。
走りながら、腰の銃を手に取る。
試し打ちをしたときの威力を思い出し、グッと勇気が湧いてくる。逃げるだけだった前回とは違う。しかし、銃の軽さに弾を込めていなかった事に気が付き、ジャケットの内側から弾を引き抜くと、銃身の中に放り込んだ。
(確か、この辺りだ……。かなり、近くに居る筈だ)
建物の壁に背を預けて、油断なく辺りをうかがう。
爆発音は、一度きりだった。一人であの怪人と戦っているのだろうか? それならば、早く助けなければ、と思うものの、行き成りあれと出くわすのは避けたかった。
焦りと不安が、交互に顔を出し、進むべきか留まるべきか、迷いが生まれる。その時、服の裾をギュッと掴まれた。
「待って……、それ以上、行っては、ダメ……」
追いかけて来たマユが、腕にすがりつくように身を寄せて、声をひそませて囁きかけて来る。
「しかし、誰かが、襲われているのなら、助けないと」
無人の街というシチュエーション、頼りがいのある銃、といった物に後押しされた勇気は、自分の実力や危険を顧みない蛮勇とも呼べるものであったかもしれなかったが、その発言は、至極当然、人として、真っ当な答えであった筈だった。
しかし、それに対する彼女の答えに、驚いて振り返った。
「ダメよ……。助けられない……」
彼女の言葉の意味が分からなかった。「助けられない」それはどういう事だ? まだ、どこに居るか分からない相手を、彼女は知っているのか? その相手が、これからどうなるかも、いや、既にどうなっているのかも、知っているのか?
だが、言葉を選ぶ暇もなく、巨大なハンマーで壁を叩いたような音が鼓膜に張り付く。
バーンと、間延びした音に続いて、ガラガラと、大きな破片が地面に散らばる。
直ぐ近くだ。
壁沿いに顔を出して、音の下場所を探すと、ビルの一つから煙のような粉塵が上がっていた。
ビルの壁には、トラックでも突っ込んだような穴が開いており、薄暗い室内で数人の人影が動いた様な気がした。
目を凝らして、それをよく見ようとする前に、視線は、ビルの外に釘付けになった。
ガチャリ、ガチャリ、重い金属の鎧を着こんで歩く足音。
頭から釣り鐘をすっぽりかぶったナイトメアがそこに居た。
散らばった瓦礫を踏み砕きながら、ゆっくりとビルに開いた穴から、建物の中へと向かおうとしている。
「うおおおー!」
暗闇の中から男の叫び声が響いた。
体格の良い男が、ナイトメアを食い止めようと飛び掛かる。
目と口を極限まで開いた、必死の形相。死を覚悟した、自分の命を顧みない人間の追い詰められた最後の表情に、吸い寄せられた視線は張り付いたまま動かせなかった。
恐怖、絶望、怒り、そんな言葉では言い現せない表情。人の顔が、そんな表情を作る事を始めて知ると共に、湧き上がる言葉に出来ない感情に突き動かされて、万夢のすがりつく手を振りほどいて、引き金を引いていた。
弾丸が放たれた鈍い振動が腕に走り、熱くなっていた頭がすっと冷めて行く。
(外した!)
撃った瞬間に分かる程、煙を上げて飛ぶ弾丸は、大きく反れ、洋服の並んだショウウインドウのガラスをぶち破る。
直ぐに、懐に手をやると、次の弾丸を握り締めた。
焦る気持ちを抑えようと、震え出しそうな指に、力を込めて、ぎゅっと弾丸を握り締めてから、銃身のレバーを引く。
弾を銃にセットしようとした時、指の隙間から、何かの文字がそこに書かれている事に気が付いた。急いで装填しようとしていたが、するりと指を動かしてその文字を見ると、そこで手が止まってしまった。
そこには、『サトウ』と、書かれていた。
一目で意味が読み取れる文字が気になり、手のひらの中で弾を回転させるともう一つ、『トウキ』と書かれた文字が出て来る。
(この文字はどういう意味だ?……、砂糖と陶器?)
単語では意味が分かっても、その二つに、何の関連性があるのか分からなかった。しかし、考えている暇など無いと、すぐに思い直し、弾を銃に押し込む。
慎重に狙いを定めた。
今度こそ外さないように、と。
しかし、構えた銃の威力を思い出し、その弾が人に当たったらと考えると、全身に震えが走った。
(外すわけにはいかない、しかし、当たらずとも、近くにいる人間を爆発に巻き込んでしまったらどうなるのか?)
眼球を素早く動かし、ナイトメアの周囲を探る。
幸い、叫んでいた男の姿もない。
……いや、瓦礫の上に裏をこちらに向けた靴が並んでいる。あの男がそこに倒れているのだ。
ガチャリ、と、ナイトメアが男に向かって足を進める。
最早一刻の猶予もない。
考える間もなく、引き金を引いた。
弾丸は、真直ぐにナイトメアに向かって飛んでいく。
ビルの壁に背中を押し付けて衝撃に備えた。しかし、爆発でナイトメアを吹き飛ばした後、倒れている男を助けなければと思うと、それから目を離せなかった。
試し打ちをしたときの銃の威力。
水柱を上げたその威力は、無残にも消え失せていた。
ナイトメアに当たった弾は、拳を広げた程度の小さな爆発を上げて消え失せた。
(どういう事だ? なぜあの程度の爆発しかしない? ……そうだ、すぐに次の弾を)
次の弾も同じ程度の威力しかなければどうなるのか?
そう考えた時、万夢の言葉が、頭をよぎった。「助けられない」彼女はそう言った。
この結果がそういう事なのか?
彼女にはこうなる事が分かっていたのか?
凍り付きそうなほどの恐れと不安を感じて、もう一度、彼女に振り返った。自分の背後に、得体の知れない怪物がいるかのように。
彼女はいったい何者なのだ?……。
「お願い、急いで。早く逃げないと」
腕に両手ですがりついた彼女は、今にも泣きだしそうな表情をしていた。
疑念も下心もなく、ただ、人を身を案じるだけの表情。
(俺は何を考えていたのだ。彼女はこんなにも、こんなにも人を心配できる彼女に対して、目の前で繰り広げられる殺戮を食事をしながら眺めるような怪物に向ける感情を、一瞬でも持つなど……)
彼女に、いわれのない疑いを向けたことをひどく後悔した。
そして、彼女に手を引かれるまま走り出した。
無慈悲な殺戮が行われている狂った世界であっても、彼女だけは信じられる。柔らかい手のひらが、しっかりと掴まれた手の温もりが、そう、伝えていた。
近くのビルの開け放たれた入り口に飛び込む。
中には、真直ぐに立てた鉄棒の上に両手のひらを乗せた、サングラスの男が、彫像のように立っていた。
入って来るものを威圧するかのように立つ姿に、一瞬どきりとしたが、その脇を駆け抜けると、彼は踵を返して、大股で歩くようにピッタリとついてくる。
(あの場所で、見張りをしながら待っていてくれたのだろうか?)
そう考えると、不愛想ではあるが、頼りがいのある良い人物に思えた。しかし、長い鉄棒を持って、息も切らさずについてくる彼には、どことなく無機物めいた雰囲気、ナイトメアに追われる感覚にも似た雰囲気も感じていた。
廊下を数度曲がると、突き当りに扉が見える。あの扉を開ければ、そこが出口になっているのだろう。
安心感が湧いてくると共に、彼らの事が脳裏をよぎった。
もしあそこから脱出してしまえば、ナイトメアと戦っていた彼らはどうなるのだろうか?
建物の奥に逃げ込んだ人影は?
「待ってくれ! 彼らを助けないと――」
彼らを助ける手段を思いついたわけではなかったが、コックと呼ばれる彼がいれば、何とかなるのではないか?……。
それは、自分では何もしない善意の押し付け、一方的な他人まかせの考えだ。
しかし、言い終わらぬうちに、天井が悲鳴を上げた。
メキメキと、小さな音は、直ぐに天上一面に広がり、音を追いかけて亀裂が走る。
天井からパラパラ落ちる破片に目を向けた瞬間、廊下の両壁から太い金属の槍が飛び出した。
廊下の真ん中で、先端が交差するように突き出した槍は、前方から順番にファスナーを閉じるように無数に壁を貫き、行く手を遮る。
瞬く間に目の前まで来た槍が、とっさに仰け反った喉元をかすめた。
「うっ……。何だこれは……これもナイトメアなのか?」
近くで見ると、それは槍よりも始末が悪かった。
鋭い穂先を除いて、金属が鱗のように組み合わさり、自在に曲がることが出来るようになっている。獲物を突き刺し損ねた槍は、くねくねと身を捩って、餌食となる柔らかい物質を探していた。
目の前に突き出した槍が、ヘビが胴体をくねらせるように、グィっと90度に曲がろうとした時、甲高い音が廊下に鳴り響いた。
コックが担いでいた長い斧を力まかせに振り下ろした音だった。
切断されはしなかったが、槍は軽く震えると、痛みでも感じたかのように壁の穴へと引っ込んで行く。
呆然と目を見張った。
目の前に立つ男の背中は、巨大な怪物に立ち向かう狂戦士のそれであるように思えたからだ。しかし、万夢と互いに視線を合わすと、力強く無言でうなずいて、彼の後について走り出した。
叩きつけた反動で、さらに次の槍に叩きつける。コックは物凄いスピードで斧を振り回し、何も無い廊下を走るスピードで槍をひっこめて行くが、それが一時しのぎにしかならない事は、すぐに理解した。彼にぴったりとついて先を急がねば、背後で再び次々と現れる金属の触手に串刺しにされていたであろう。
ただはぐれないように、目の前の背中を追いかけ、光の中へ逃げ込むしか出来なかった。
自分一人では、逃げ切る事さえ出来なかったであろう。
誰かを助けるために手を差し伸べても、届く筈もない。
先の見えない程の強烈な光の中、残されたのは自分の無力さだけだった。
その後悔の為か、遠藤の言葉を思い出していた。「あれは本来倒せないはずの物……」その言葉に向けた小さな反発が、鋭い槍となって胸に突き刺さっていた。