繋いだ手の温もりに
じっとしてても汗が滲み出るような、重苦しい空気で目を覚ました。
見慣れたワンルームの狭い部屋。ぼんやりと体を起こすと、なぜか靴を履いたままベッドに横になっていた。
「俺は、何をしていたんだっけ?……」
上着をぬぎながらベッドから降り、考えがまとまらないまま冷蔵庫を開けると、中身は空だった。
買い置きしていた飲み物があったはずだがと思いつつ、もう一を部屋を見回してみたが、やはり、そこは、一年前高校に入学してから毎日寝起きしている自分の部屋に違いなかった。
「しかし、蒸し暑いな、何か買いに行くか……、ん? 何だこれは?……」
当てが外れたと、財布を用意して、買い物に出ようとしていると、自分の腰に大きな銃がぶら下がっている事に気が付いた。
腰のベルトに引っかかったそれは、デザインからして一目で銃とわかるが、そうとも言い切れない奇妙な形でもあった。
金属の冷たい触り心地であったが、非常に軽く、複雑な作りのおもちゃのようにも見える。
映画に出て来る光線銃。そういう感じであった。
何度かひっくり返して見ても、どういう構造になっているのか理解できない。
銃身についてあるレバーをいくつか引っ張ってみると、いきなり片側がリボルバーの弾倉が飛び出すように大きく開いて、半円形の受け皿が飛び出したが、肝心の回転式の弾倉は見当たらず、どこに、どういう弾を込めるのかは分からなかった。
少し残念な気持ちが頭を過ぎった。
そして、年甲斐もなく、こんなおもちゃに夢中になっていた自分に、少し恥ずかしくなった。
なぜ、こんな物を持っているのか疑問だったが、それ以上考える事に興味を失って、テーブルの上に置くと、部屋を出た。
今にも雨の降りだしそうな、どんよりと曇った空に、湿気を含んだ重苦しい空気に包まれる。
灰色の空を見上げて、傘を持っていこうかとも考えたが、大した距離でもなく、それを取りに部屋に戻るのもおっくうで、ふらふらと駅前に向かって歩き出す。
辺りは、重苦しい空に似つかわしいほど、静かだった。
いや。
静かすぎる。
その異様な雰囲気がすぐに纏わり付いてきた。
いつもなら聞こえてくるはずの、通りの向こうから聞こえる車の走る音や、人の声、鳥の囀り、僅かな物音でさえ、何一つ聞こえてこない。
街から生き物が死に絶えたかのような静寂に包まれていた。
不意に言葉に出来ない不安が込み上げ辺りを見回したが、周囲の建物からは、そこに居る筈の人々の気配さえ伝えてこず、急ぎ足で向かった大通りには車一台走っていなかった。
とっさに目の前に広がる街に何が起こったのか理解できず、呆然と眺めていたが、微かに、遠くから、金属のぶつかり合う様な機械的な音が聞こえている。
ふぅーっと、大きく息を吐いた。
その音が何の音であるかは分からなくても、誰かがいるという事に、急に安心感を覚えた。
この通りにも、今はたまたま、車が走っていないだけなのかもしれないと。
そんな事はありはしないのだが。
ゆっくりと、吸い寄せられるように音のする方向に向かって歩き出した。
音は建設現場の重機のように、不確かな、それでいて規則正しいリズムを刻んで、ビルの壁に反響し合い響いていた。
音源は一つではないのかもしれない。
しかし、それに不安を覚えなかった。むしろ一人ではないという安堵感の方が勝っていたのだ。
タッタッタッタ。と、金属の軋む重厚な音に混ざって、地面の上を跳ねるような軽い足音が聞こえて来ても、何の不安も感じず、そちらに顔を向けていた。
「待って! はぁはぁ……」
足音の持ち主は、アイドルのようなひらひらとした飾りが沢山ついた服を着た女の子だった。年の頃も同じくらいだろうか。どうすればそんな形になるのだろうかと、不思議に思う程複雑に結い上げられ、溢れ出すように垂れ下がる巻いた髪が、彼女が体を九の字に折り曲げ、大きく息を吐く度に、ふわふわと雲のように揺れている。
「やっと、見つけた。急がなきゃ、早く、こっちへ!」
それだけ言うと、彼女は手を掴んで走り出した。
抗いもせず、大人しく彼女について走り出したのは、格好もさることながら、顔を上げた彼女の可憐さに見惚れてしまっていたからだった。
小さな花のような、いたましいほどの愛くるしさは、普段でも目を離せないだろう。まして、世界に一人きりではないかと言う孤独にさいなまれていた今となっては、なおさらだ。
もう一度、振り向いてはくれないかと彼女の後ろ姿から目を離せなかった。
しかし、しっかりと握られた柔らかい手は、彼女の緊迫した感情を伝えていた。
何を急いでいるのだろうか、と、尋ねるでも無しに、彼女の細い体のラインに沿って視線を下げると、腰にぶら下がっている物に気が付いた。
たすき掛けにかけた小さなポシェットの反対側に、彼女には似つかわしくない物がさげられている。
銃だ。
目を覚ました時に、ベルトに引っ掛けられていた銃と同じデザインの物が彼女の腰にもついていた。
急に不安が込み上げて来る。
(彼女はどこに向かおうとしているのだ?)
(この無人の世界で、腰に銃を下げて、彼女は何をしているのだろうか?)
(あの銃は、何のために……。)
その答えの一つは、すぐに向こうからやって来た。
ガシュゥ!
突然背後で、重く硬い物が空から降ってきたような音がして、走りながら後ろを振り返った。
走り去って来た通りの向こうに、でこぼこした模様の付いた金属の円柱が立っていた。
いや、それは二本の足で地面を踏みしめて立っている。
甲冑を着た騎士に頭からすっぽりと上半身を覆う釣り鐘を被せたような格好だった。その縁から申し訳程度に出た金属の両手に、細長い鉄の柄が握られていた。
相手を威圧する不気味な雰囲気を携えた、金属の塊のような姿。
一目で友好的な相手ではないと知れた。
彼女が必死で走って、この場から逃げ出そうとしている理由も。
だが、それ以外は、見誤った。
釣り鐘は、鈍重そうな見た目とは裏腹にものすごいスピードで、まさに、飛ぶように追って来た。地面から蹴りだされ、一直線に放たれた巨大な銃弾は、うなりを上げて背後に迫って来る。
走って逃げきれる速度では無かった。とっさに、手を引いて走る女の子の体を抱き寄せると、歩道からビルの入口へと飛び込んだ。
その重量とスピードが生む慣性から、急に止まる事も向きを変える事も出来なかったのであろう。そこに居ればただでは済まないと、簡単に理解できるほどの風を撒き上がらせながら、弾丸は通り過ぎて行った。
飛び込んだ勢いで、顔に冷たい床の感触が伝わって来る。
彼女も何事かと慌てた様子で体を起こしたが、入り口の外に目を向けるとすぐに事態を飲み込み、建物の奥の階段へと走り出した。
跳ねるような彼女の足音に続いて階段を駆け上がる。
走り通しで、さらに階段を上がるのはきつかったが、得体の知れない釣り鐘から、少しでも遠くに離れたいという気持ちが勝っていた。
だが、このまま上へと上がれば、ますます逃げ場を失ってしまうのではないだろうか?
それならば、何処かに身を潜めれば、まだ、やり過ごせるかもしれない、しかし、追って来るあれが、何なのか分からないままでは対策を考える事も出来なかった。
「待ってくれ、あれはいったい何なんだ?」
走りながらも呼吸を整え放った言葉に、彼女は目を見開いて振り返った。
そして、改めて頭から足の先まで、じっくりと見るように視線を動かすと、さらに驚いた様子であった。
その視線は、腰の辺りを探るように動いている。
彼が持っている筈の銃を、身に着けていない事に酷く不安を覚えているようであった。
「あぁ、その銃なら、家に置いて来てしまった……」
その答えに納得したのか、小さく息を吐いて緊張を緩めると、話し始めた。
「あれは、ナイトメア、みんなそう呼んでるの。ロボットだと言う人も、鎧を着た生き物だと言う人もいるけど、本当の所は、誰にも分からないわ。ただ、見つかれば、襲い掛かって来るという事しか」
彼女は酷く言いにくそうに言葉を詰まらせ、間を置いた。階段を走るために息が切れただけかもしれなかったが。そして。
「だから……。だから、私たちはこの銃で戦わねばならないの」
前を向いたまま、腰の銃に軽く手を触れていた。
強く振れれば崩れてしまう積み重なったピースに触れる危なげな指先に感じる不安が込み上げて来る。
銃を置いてきたことを後悔し始めていた。
彼女があの釣り鐘の怪人――ナイトメアを待ち伏せて戦おうとしているのなら、丸腰では足手まといにしかならないのではないかと。
しかし、あの中に弾は入っていなかった。
空の銃で何が出来る?
それに、銃があったとして、あの重厚な鉄の塊に通用するとは思えない……いや。
「君は、今までもあの怪人と戦ったことがあるのか?」
走りながら返事をする彼女は、一度ゆっくりと息を吸い込んでから話し始める。
「ええ、何度も。……もちろん、一人ではないけれど、みんなの所まで行ければ……」
他にも仲間がいるという言葉に、気が楽になったが、それでは、なぜ、彼女は一人で行動しているのだろうという疑問が浮かんでくる。
どういう理由があるのかは知らないが、彼女を危険な目にあわしている、その仲間に、軽い腹立たしさも覚えていた。
「あさと」
考え事をしていたためか彼女の言葉の意味が分からなかった。だが、聞き返すまでもなく彼女は、肩越しに振り返って、言葉を続けた。
「安里万夢。私の名前」
少し頬が赤いのは走っているためか。
向けられた笑顔は、階段を駆け上がる疲れを吹き飛ばす程の魅力を宿し、追って来る怪人の事さえ、一瞬で忘れ去っていた。
考えるより先に、海辺を走る爽やかな疲労の中で、自分の名を答えていた。
「俺は、明野嶺士」
その返事に被せるように、足の下から鈍い金属を打ち合わせる音が響く。
ゴーン、ゴーンと、地の底から終末を告げるかのように、壁に反響しのぼって来る音に、冷水を掛けられ一気に緩んだ筋肉が縮み上がった。
安里まゆが階段を上るペースを速めた。
言葉は無くても、急がねばならない。それだけは理解できる。
追いつかれればどうなるのか、と言う恐怖は、拭いきれないものであったが、ゆっくりとしたリズムできざまれる鈍い金属音は、一歩づつ階段を踏みしめて登ってくるようにも感じ、足り続ける限り追いつかれはしない安心感も感じていた。
あれをどうやって倒すのか。
その時、何が出来るのだろうかと、気を回せるほどに。
前を走る彼女に再び声を掛けようとした時に、それは起こった。
思わずしゃがみ込んで耳を塞ぎたくなるような轟音。
今前を通り過ぎたばかりの、すぐ下の階で室内と階段を隔てる分厚い鉄の扉をぶち破って、釣り鐘のナイトメアが現れた。
それは、一歩づつ階段を上がって来ていたのではない。壁や扉に体当たりをし、破壊しながら進んでいたのだ。
突然、ビル全体が揺れたように足元を揺さぶられた。
釣り鐘のナイトメアは、扉を突き破った勢いそのままに壁に激突し、大きな振動をビル全体に伝えていた。上へと伝わる度に震えは大きくなり、やがては、立っていられない程に。
走るどころか転げ落ちないようにするのが精一杯だった。
床に手をついて見上げると、少し先で安里まゆも同じように階段にしゃがみこんでいる。
(何とかしなければ――でも、どうやって?)
僅かな希望に、すがるような気持ちで、釣り鐘のナイトメアに振り返ったその目がそこで釘付けになった。
軋むような音を立てる釣り鐘の背後から、一人の男が悠然と、慌てるそぶりも見せずに、歩いて来る。目の前にいる怪人など見えないように、ゆったりと廊下を歩いて来る……。
敵なのか味方なのか、その姿からは判断できなかった。
だが、薄いサングラスをかけたその男は、壁にぶち当たった体を起こそうとしているナイトメアの直ぐ後ろに立つと、急に素早い身のこなしで、胸くらいまでの長さのあるバールのような物を振りかざし、釣り鐘のナイトメアの足を、薙いだ。
鉄の棒の折れ曲がった先は、薄く小さな斧の刃のようになっていたが、金属の足に引っ掛けて、振り抜くと、重心の悪そうな釣り鐘は、階段の下へと転がり落ちる。
こらえきれないほどの音が鳴り響いた。ゆっくりと伝わる音が反響し合い、建物を、空間を揺らしているかのような音が。
思わず耳を塞いで膝を付きそうになる。だが、音の切れ間に、安里まゆの声が聞こえた気がした。
「――今の――早く――――急いで、――時間が――」
途切れ途切れの声は、何を言っているのか聞き取れなかったが、とにかく、彼女に続いて階段を駆け上った。
頭を揺らす轟音の中、足音もなく走り続けると、まるで水の中を進んでいるかのように視界が揺れ動き、脱兎のごとく走っているのか、亀のようにのろのろと進んでいるのか分からなくなったが、不意に視界の先に強い光が見えた。
階段が途切れ、開け放たれた扉から、光が漏れている。
(屋上への出口だろうか?)
瞬いた視界の中で揺らいだ影は、誰かが手招きしているようにも見えた。
その先に続くものが何であるか考えるよりも、今はただ、鳴り響く轟音から逃れようと、彼女に続いて光の中へと飛び込んだ。