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あと一日。ギリギリまで救援を待ってから決断しよう。
常識的なノブの提案を、エリは一蹴した。
「救援来たって二日後じゃ間に合わないでしょ。モタモタしてたら、下りる燃料すらなくなっちゃうよ」
目の前で白く煙る息をもどかしげに払いながら、エリがムキになって言葉を重ねる。
「あたしたちは、会社にも、社会にも、人類にも貢献した。だからいいじゃん最期くらい。『死に花を咲かせる』って言葉もあるくらいだし」
「オマエ、『傘』は知らないくせに、そんな言葉は知ってるんだなあ」
褒めたつもりはなかったが、エリの目に得意気な色が浮かぶ。
「だが、あれは良い意味で名を残すってことだろ? 悪名残してどうすんだよ。娘に肩身の狭い思いはさせたくない。保険金も下りなくなる」
「だから事故に見せかけて、よ。ノブならできるでしょ」
ノブは無言で顎をさすった。伸び始めたヒゲが、指に痛い。
Pだからといって能力が低いわけではない。
未開宙域では、予期せぬアクシデントが頻繁に起こる。生か死かの二択しかない、難しい決断を迫られる場面もある。
そのたびに、知恵を絞って生き延びる方法を探し、任務を遂行し帰還してきた。
そんな自分たちの方が、オートシステムの操縦席に収まっているだけのSよりも、腕も頭脳も遥かに上だとノブは思う。
迷いを見せたノブに、エリが畳みかける。
「メインシステムを潰されたんだから、とっくに墜ちててもおかしくない。事故だもん、誰も娘を責めたりなんてしないし、保険金も出る。ノブだって、まだ誰も下りていない星に、一度は立ってみたいでしょ?」
顎をなでる、ノブの手が止まった。
二人がユニットを組んでから、十年が過ぎようとしていた。エリの妊娠・出産を除く八年の間に、切り開いた星は三十を超える。
しかし、そのいずれにも下り立ったことはない。
最初の一歩は金になるからだ。
国の威信を背負ったSや、企業の広告塔である著名人、名を残したい金持ちが、権利を買い、星に自分の歩を刻む。
影で「処女フェチ」と嘲笑される行為だが、現実として、歴史に残るのはそういう者たちの名だ。
「立つったってこの星じゃあ、外に出たとたんに吹き飛ばされるぞ。なんせ、ハリケーン並みの風速だ」
「いいじゃん。二人で手をつないで空飛ぼうよ」
「メリーポピンズかよ」
「何それ」
「知らないのか? 有名な童話……だっけかな」
ノブは首をひねった。
「なんだ、自分も知らないんじゃん」とエリが笑う。
「まあな」
貧民窟には、子供向けのものはひとつもなかった。童話なんて読んだこともない。
「ね、下りよう。うまくいけば船の一部は残るかも。そしたらいつか、うちの娘が、あーこれがパパとママが最後に乗った船かあって、観光に来るかもしれないでしょ」
「観光はおかしい。どっちかって言えば、墓参りだろ」
第一、観光なんてできるのは、よほどの金持ちだけだ。それこそ、緑の鳥を買えるような。
「じゃあ仕事で」
「娘まで船乗りになるのか? それは嫌だな」
顔をしかめながらも、本当にそうなるかもなとノブは思う。
娘は、見た目も性格もエリに良く似ている。自分たちがいなくなっても、たくましく生き延びてくれるだろう。
「この星は、原生生物がいる可能性があるんでしょ? 面白そうじゃん。あたしたちも、この星の生き物になろうよ。水になって、土になって、植物や生物の一部になる。もしリンゴになったらどうする? 創世記だよ。世界の始まりじゃん、あたし」
目を輝かせてはしゃぐエリを、ノブは宇宙人を見るような目で眺めた。
「創世記ならアダムとイヴだろうが。リンゴになってどうするよ。イヴ目指せよ」
「うーん。人類、生まれるかなあ。地球とは進化が違うんじゃない?」
エリは、傾げていた首を縦に戻し、強く頷いた。
「うん、やっぱあたし、リンゴでいいや。で、娘が来て食べるんだ。ほら、娘の名前、エバじゃん? ふさわしいよ」
「ん、何の関係があるんだ」
「エバはイヴでしょ」
「は?」
「創世記に出てくる女の名前は、希望って意味の『エウア』。だからエバって名前の方が近いんだけど、翻訳の音変化でイヴになったんじゃない。ほら、ミカエルがマイケルとかミッシェルになるのと同じでさ」
「へえ、知らなかった」
「名前を付ける時、話したじゃん!」
「……そういえば聞いたかも」
「ちょっとぉ」
斜め上に視線を外し、顎をなでているノブを見て、エリが眉根を寄せる。
「ノブは結構いいかげんだよね」
「エリは時々、ねちっこいよな」
しばらくノブを睨んでから、エリは小さく肩をすくめた。
「ま、いいや。とにかくあたしはリンゴになって、娘に食われるの待つよ」
「どんな願いだよ。子に親を食わせんのかよ」
「いや、その時あたしはリンゴだし」
「アダムは誰だ」
「そりゃあ、あの子の夫か恋人じゃない?」
「エバはまだ五歳だぞ」
「あっという間に大きくなるよ。誰かを好きになって、子供産んで、お母さんになって、おばあちゃんになるよ」
静寂が下りた。
機械の稼働音が、わずかに鼓膜を揺らす。
口にしなくとも、お互いがエバの姿を思い浮かべていることは判っていた。
エバは手のかからない赤ん坊だった。寝てばかりいたし、起きている時は機嫌が良かった。
しかし、泣く時は凄まじかった。体をのけぞらせ顔を真っ赤にして、こっちの鼓膜が破れるんじゃないかと思うほどの声で泣いた。
歯が生える時は、痛いのか、珍しくむずがった。
ハイハイのスピードが異常に早く、ノブとエリは、娘の前世がヘビかムカデかで激論を交わした。
初めての言葉はなぜか「パパ」で、本気で悔しがるエリを見てノブは笑った。
地球に戻るたび、その成長の早さに驚かされた。
年に数日しか会えないのに、不思議と親を忘れることはないらしく、迎えに行くと両手を広げて抱きついてくる。
可愛かった。愛しかった。
もしかして、父が自分を手放したのも愛情からではなかったか。
そんな夢物語を、ノブがふと見てしまったほどに。
「たった五年か」ノブはため息をついた。
「うん、たったの五年」答えるエリの声も、珍しく小さい。
「もうちょっと成長を見ていたかったなあ」
「仕方ないよ。あの子が大きくなるまでに、あたしは何とかリンゴになるよ。で、ここで待つ」
「だから人類目指せって」
「ヤマモトさん?」
「いや、サルじゃなくて」
+++
ライフセーブシステムに繋がるケーブルを、ノブは慎重に見極め、ペンチで切った。古典的手法だが、システムを解除する方法はこれしかない。
事故の時に命をつないでくれたこれが、今からの行動には邪魔になる。
ノブは、音がひとつ消えたことに気付いた。
酸素生成システムの稼働音と、折れた翼と機体が時折こすれ合う音。空調。自分とエリの話し声。
それだけが、この静かな宇宙にある音の全てだと思っていたが、緊急時に備え待機してくれていたライフセーブシステムも、細々と声をあげていたのだ。
無くなって初めて認識される音もあるんだな、とノブは思った。
ライフセーブシステムに胸の内で感謝を伝えていると、船外活動からエリが戻って来た。
「ぷらんぷらんの右翼ちゃん、切り離して来たよ。とりあえず傷口に耐熱テープ張っといた。雲を抜けるくらいは持つでしょ」
ヘルメットを外しながら元気に報告したあと、驚いた様子で辺りを見回す。
「あれ? あったかいねえ」
「暖房入れた」
残りの燃料を考えれば、あまり温度は上げられないが、もう息は白くならない。
操縦席に着いたノブは、両手の指を強く握って開く動作を繰り返した。寒さと緊張で、多少こわばっている。
「お。ノブが珍しくやる気出してる」
ニヤニヤ笑ったエリが、からかうように言いながら、目の前を漂っていく。
もうすぐ死ぬっていうのに、こいつの神経はどうなってるんだと呆れつつ、ノブは操縦桿を握った。
「じゃ、行くか」
ノブの言葉に慌てたエリが、壁を蹴ってUターンする。そのまま、ふわりと隣の席に収まった。
操縦桿を倒せば、もう後戻りはできない。
横目で様子を伺うと、エリはベルトを締めながら、いつもと変わらない笑顔で手を振って来た。
やっぱりコイツ、普通じゃない。
小さく首を振ったノブの耳に、意外なほど優しさで、エリの声が届いた。
「さ、行こう。英雄さん」
その声に、からかう調子はなかった。
エリがノブのことを「英雄」と呼んだのは、今まで一度しかない。
それは、この世界で生き続けることの虚しさに、ノブが押し潰されかけた日だ。