キク十五歳冬 虫ケラウォー
中学三年の十二月。その日は雪が降っていた。
「サオリちゃんと同じ高校いくんでしょ」
「公立高校で、他に近くて俺でも入れる高校ないでしょ」
俺の上に跨がり、髪を撫でる村上の掌。その優しい手の動きとは裏腹に、顔は不機嫌そうだった。
俺なんかと交際を始めて成績をいくらか落とした村上だが、それでも学年で三十番以内で、底辺の俺から言わせれば、雲の上の存在であった。そして俺はいくらか村上のお陰で成績を伸ばしたのだ。
村上は二年前よりも幾分慣れた手つきで、俺のズボンのファスナーを下ろす。きっとこのファスナーを隔てた向こう側に、俺の本性がいる。
「勉強しないからだよ」
黙れ黙れとお口にファスナー。このままじゃ萎えるだろっと、ヒステリックな動悸に唇で救心。これで目を瞑ったら俺の勝ち。
こういう絶妙に最悪なタイミングで、俺んちのインターホンは二度ベルを鳴らした。
ぴんぽーん
ぴんぽーん。
誰も応答しないと、鍵の掛かっていない玄関を無断で開ける不法侵入者が一人。間違いなくサオリである。
あいつはいつもそうだ。アポなしで人んちに面倒を運んでくる。軽快でリズミカルな足音が止み、ノックの一つもしないサオリが襖を開けた時、村上はショーツもブラもまだろくに着用しきれていない。
「あっ、ちづちゃん……ごめっ」
村上はサオリが言い終わるのを待たなかった。
「もう、あんたたち何なの。どういう関係? 信じられない。信じられないよ」
服を素早く着て、乱れた身なりのまま、俺の部屋を飛びだす村上。
取り繕う暇もなく、俺をこの部屋に置いて行ってしまう。
「めんどくさ」
「どうしてくれるの」
村上に罵声を浴びせられ涙目のサオリ。全くもって俺の台詞である。どのみち近頃サオリと村上は、さほど仲も良くない。本当に仲が良さそうだったのは、一年の時、まだ俺が村上と付き合うまでのことだ。
つまりサオリは孤独なままだったのである。気がつけばサオリの周りは男ばかり。女どもはそれにまた嫌悪しサオリを拒絶していた。陰で『尻軽女』と呼ばれているその詳しい実態を俺は知らない。
「ねえ、そもそもなんで俺を村上に紹介したわけ?」
窓を少しだけ開けて、煙草に火を点ける。身体に染み渡るニコチンやタール。俺の問いにサオリは答えずさめざめと泣いた。傷つき泣き崩れた彼女は綺麗であった。
最近じゃ、ちんぷんかんぷんな授業も、一応出席するようになった。いろんなやつと話すようになった。よく笑うようになったと村上は言う。そんな村上が俺に勉強を教えてくれたので、なんとか俺は高校へ進学することが出来る。
放課後、学校の帰り道、俺はコウちゃんの家に立ち寄った俺は、今日もインターホンを鳴らせずにいる。
暫く悩み、迷い、やはり立ち去ろうとしたところで、コウちゃんの母親であるおばさんが出てきて、俺を中へ招き入れた。
自室にいたコウちゃんの目は透き通っていて、笑顔で俺を出迎える。ベッドから身体を起こしながら。
「キク、久しぶり。どうしたのさ?」
「ちょっとさ、帰りに暇だったからな。なあ、篭りっぱなしだと、体に悪そうだからさ、散歩いかねえか?」
そんな俺の言葉に、察しのいいコウちゃんは、「上着取ってよ」と頼んできたので、クローゼットの中から一番上等で暖かそうなダウンジャケットを選び、羽織らせてやる。
コウちゃんちを出た俺たち。押し慣れない車椅子をおしながら雨池公園を目指す。空からは微かに雪が散っていた。
「リハビリ上手くいってるか?」
「うん。もう少しで松葉杖で歩けるよ」
何事もなく雨池公園まで着く。そこで一息。ベンチに座り、煙草に火を点けて、途中買った缶コーヒーの蓋を開ける。
「煙草は体に悪いよ」
「知ってるさ」
太陽は観えない。雨池には雪を散らかすコールタールみたいな分厚い雲が映しだされている。もしもここに飛び込んだのなら、映し出したそれを取り払い、美しいオレンジの斜陽を手に入れられるのであろうか。公園のベンチに座り、そんな空想に耽る。
「キク。話あるんでしょ?」
「あのさ……正直に答えて欲しいのだけれど、それやったの、トモヤたちだろ?」
缶コーヒーを一口。微糖とは名ばかりの甘ったるいコーヒー。熱くも温くもないそれを口に含んでは飲み込み、煙草を一吸い。肺に溜まった煙が、このままこの身体を蝕み、癌となりいつかタンパク質の塊になってしまえばいい。今じゃ、そんなことにさえ憧れる俺は、きっと健全なる若者なのだった。
今年の夏休み、コウちゃんは歩道橋から落ち、運悪く通り掛かった軽自動車に撥ねられた。幸いにして命に別条はなかったものの、暫く絶対安静だった為、九月と十月は学校に来ることさえ出来なかった。今だってまだ歩くことさえ出来ずにいる。
コウちゃんは自分の不注意と言い張り、決して歩道橋から落ちた本当の理由を言おうとはしなかった。
コウちゃんは俺の問いに応じようとはしなかったが、何よりもそれが答えだった。コウちゃんは両親の意向により、もう一年中学三年を繰り返さなくてはならない。卒業することができないのだ。
「ごめんな。俺の所為だな。俺の所為なんだな」
「何言ってるのさ。違うよキク。キクには関係がない」
俺は去年から再びちょくちょくコウちゃんと交友を持つようになった。文化祭、体育大会、その他の行事ごとにも僅かではあるが、顔を出すようになった。それは当時の俺からしたら信じられないようなことであった。
それが気に入らないトモヤは、きっとコウちゃんに目を付けていた。
夏のあの日からずっと俺は、コウちゃんの一件はトモヤの差し金なのだと確信する自分と、トモヤを信じたい自分がいた。中学生活の殆どをトモヤと過ごしてきたのだ。俺がここまでになれたのも、トモヤのお陰でトモヤは良き俺たちのリーダーであった。
俺はその夏から、本当にトモヤの周囲に、気付かれないよう慎重に、まことしやかにことを進めた。
最初に声を掛けたのは、トモヤの派閥に属さず、尚且つ俺の腕っ節に惚れ込んでいる郷田とその取り巻き。川向こうに住む何人かの荒くれた悪ガキを味方に付けることに成功する。
トモヤとことを構えるための準備である。
この森本中を始め、近隣の中学に名を轟かす、俺たちの学年の頂点に、上り詰めたトモヤ。
まず圧倒的な数を誇るトモヤの派閥の構成人数。人の心の隙間に取り入るのが上手いあいつには、カリスマ性もあり真っ向から攻めても、その拳はトモヤに届くことなく終わることであろう。
俺は自分が取り入れられるだけの戦力を搔き集めた。郷田は年下なんかの面倒見がよく、学童保育で一緒だった団地の後輩なんかを取り入れた。トモヤに与する者の中にも、不満を持っている者、野心を抱いている者などを言葉巧みに取り入れる。
これで少しは戦争ができる。
次に問題なのはトモヤ本人の腕っ節。不良の上の方ってのは、大概幼い頃に何かをやっていて、常人では考えられないほどの筋力や瞬発性に加えて、何度もこなした修羅場鉄火場の数が、彼を怪物に変えた。
しかしながら、これを言わせて貰えば、俺だって伊達に今日まで肩で風を切りながら、ここで過ごしてきたわけではない。ステゴロで負けるつもりなどさらさらない。
そして、最後にして最大の難関が待ち受けているのではあるが、さてさて、俺がコウちゃんの顔を見ることによって、それを準備する前に、賽は投げられてしまったのだ。
俺はコウちゃんを家まで送り、別れ際の挨拶をする。
「ばいばい。コウちゃん」
俺は飛び切りの笑顔で、そう言った。
同日、深夜零時。
心臓を圧迫するキックの音が流れるフロア、隣町の雑居ビルの地下にテナントする、中学生が出入りなんかできる場末のクラブ。トモヤのグループの溜まり場である。トモヤはいない。やつは必ず年上のタチの悪いOBが来る前に帰るからだ。
「見つけたぞ! おらぁ、一人残らずやっちまえ」
俺の号令と共に、めざし帽を被った数人が、店内で暴れる。鉄パイプを持った俺の寄せ集めた兵隊たちが、トモヤの取り巻きに天誅を下していく。
無関係のやつもいたのだと思う。怯える女連中の腕を掴み、ひっぱり、盗みの巧い郷田の後輩がくすねたハイエースに無理やり乗せる。兵隊には褒美が必要である。
店内のグラスと言うグラスを叩き割る。トモヤの取り巻きの何人かは、頭をかち割られ、倒れている、もしかした死んだかもしれない。確認している暇はない。警察がくる。
阿鼻叫喚の地獄絵図となったクラブのレジから、奪えるだけの金を奪って、逃走する俺たち。まだ捕まるわけにはいかない。
次の日襲ったのは、トモヤたちがよくたむろする、バッティングセンター。勿論トモヤはいない。目ぼしい連中をバンで河川敷まで連れていき、二度と歯向かえないよう、徹底的に殴る、蹴る、川に突き落とす。
一群となった俺たちの箍はこうして徐々に外れていった。
トモヤは俺たちから逃げるように学校に来なくなり、俺たちも学校にはいかなくなった次の週末、俺んちのインターホンは二度ベルを鳴らした。
ぴんぽーん。
ぴんぽーん。
その時俺は、トモヤの居場所が割れたと連絡を受けて、身支度をしていた。筋肉痛でバキバキの体に鞭打ってツナギに袖を通し、俺は玄関の扉を開ける。村上である。
「なんで学校来ないの? 今がどういう時期か解ってるの?」
「どいてくれよ。今から大事な用があるんだ」
俺は村上を軽く突き飛ばす。気が立っていた。村上がいることなんて、お構い無しにブーツを履く俺は、ティンバーランドの紐を固く固く結ぶ。そして鍵も掛けずに部屋を出る。
「いくなーーーー! バカーー! そっち側に行くなー」
村上は俺の背中で、わんわんと大声上げて泣き喚いた。村上の慟哭に気づかないふりをする俺は、セルモーターでエンジンを掛ける。
ごめんな。もうダメなんだ。どうしようもないんだ。
トモヤがヤサにしていたのは、年上の鳶職をしている先輩のアパートだった。
オンボロアパートを、鉄パイプをもって包囲するクソガキどもの群れは、どう見ても壮観であった。その数およそ三十。
いよいよ観念して、アパートから出てきたトモヤの目は、怒気に満ちた呪う様な目だった。
「キクぅー。お前いよいよ、調子に乗って、来るところまで、来ちまったんだな」
この時、この目、この声に、俺は長年連れ添った悪友を失うことを理解する。
「俺のバックにはさ、広田くんがいるのを知ってんだろ?」
そう。これが対トモヤとの、最大の脅威。
広田三兄弟。この街で尖って生きるなら、この広田三兄弟は避けて通れない暗黙のルール。
地元じゃ有名な広田三兄弟。一番上は正真正銘の筋もんで、某指定暴力団の三次団体の組員である。また広田の二番目の兄は、ある意味筋もんの兄貴以上の有名人で、在日外国人が通う学校の生徒を目の敵にし、去年の暮れ終業式帰りの中学生の少年をつかまえ、集団で暴行し殺害した狂人中の狂人で、現在服役中である。
末っ子である広田昭典は、そんな家系で育ち、数多のアウトローの中でもサラブレッドみたいなもので、その余りにもの狂人っぷりに、同級生はみな彼を避け、取り巻きは常に年下を連れている。
トモヤは広田の幼馴染で昔から可愛がられている。
「知ってるよ。でもな。残念だけれどさ……」
その時、悪ガキ三十人の人だかりが割れる。その最後尾から、ノソノソと一人の男が現れる。この田舎街の頂点に立つ広田である。
「俺のバックにも、広田くんいるんだわ」
タバコを咥えようとした広田に、俺は自前のオイルライターで火を点ける。
「ってことなんだ。悪いなトモヤ」
悪びれるわけでもなく上機嫌に言う広田。そして広田の傍に肩を抱かれるようにしてくっついているのは、他の誰でもない。サオリである。
「あっくん。すご〜い。サオリね、強い男って好き〜」
俺は、俺は、俺は、サオリを使って、広田に取り入ったのだ。
「まあ、トモヤ。別に俺はキクにつくってわけじゃねぇ。お前は俺の可愛い弟みたいなものだからな。ここはさ、男らしくタイマンで決着つけろって言いに来ただけだ」
何がタイマンだ。自分は散々大人数でボコボコにしてきたくせに。何がタイマンだ。トモヤはこんな人数に囲まれて、もう息をすることさえ苦しい筈なのに。こちらの裸の大将の言葉に腹が立ち、敵であるトモヤに同情さえする。
全てを諦めて、意を決するトモヤ。
「キク。最初からお前のこと気にいらなかったんだ」
「ああ、俺もさ」
三年にも満たない儚い友情であった。
トモヤは長い髪の毛を後ろにくくると、俺に一歩一歩ノーガードで近づいてくる。
トモヤは不良だけれど頭が良くて、物を知らない俺に様々なことを教えてくれた。金持ちのくせにいつも金がなくて、バカやった時は本当に楽しそうに笑って、協調性のない俺たちを纏めるのが上手くて、何考えているかわからないくせに、平等だとか世界平和だとかの話をするのが好きで。
僅かに空気を吸い込み息を止める。世界がスローモーションで回り出す。
トモヤが突き出した稲光りのような速い拳が、空を切り裂く。俺が躱すことに成功したのだ。しかし俺はこれまで何度も見た。躱されたと見せかけ、ここから肘を打ち出すのが、トモヤの常勝パターンである。だから俺は、それを先読みして、追撃もすれすれで避ける。
言っちゃ悪いが俺も中々どうして、他校に知れ渡るほどには、喧嘩慣れをしている。だからこそ解るのだ。今の追撃も含めた二撃は、トモヤが完全に俺を仕留めにきたことを。
「キク。どうしてもこうならなくちゃいけなかったのか?」
「ああ、こうなっちゃ仕方がない。今日まで楽しかったぜ相棒」
「そっか」
「ばいばいトモヤ」
トモヤは再び俺目掛けて走り込んでくる。それと同時にまた今日もコールタールみたいな分厚い雲から、ミルク色の雪がはらはらとパラつき始めて、地面に溶けていく。
それは師走のことだった。