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クラスメイト  作者: 深月咲楽
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第9章

(1)


「どういうことやねん」

 岡村が、眉間に皺を寄せて言う。昼食をとった後、共同研究室で私達は話し合っていた。

「俺達の推理が間違ってたって? どこも矛盾してるとこなんて、あれへんやないか」

「昨日の夜、卒業アルバムを見ていて、思い出したことがあるんです。でも、どうしても確信が持てなくて」

 私は続けた。

「もう一度、7年前の夏にあったことを、きちんと調べたいんです」

「そんなもん、この間、高橋さんからさんざん聞いたやないか」

「それは、警察の側のお話ですよね。加害者の側からも、お話を聞ければ……」

 私の言葉に、岡村が目を見開いた。

「加害者の側って、まさか田代先生から話を聞き出そうっちゅうんとちゃうやろな」

「そうです」

 私は頷いた。

「ちょっと待てや」

 岡村が、テーブルに手を付いて立ち上がる。

「お前なあ、誰にでも触れてほしくない部分はあるやろ? 田代先生にとって、正紀さんの出来事は、決して愉快ではない話や。そんなところに、ズカズカと土足で踏み込むようなこと、できるわけないやんけ」

 私は岡村の顔を見た。

「じゃあ、黒幕でもないのにそう思われたまま、生死の境を彷徨っている静世の立場はどうなるんですか? 米倉君の人生を終わらせて、中西君の人生まで滅茶苦茶にしておきながら、のうのうと生きている真犯人が実際にいるかもしれないんです。そのままにさせておいていいんですか?」

 岡村は、何も答えず目を閉じている。

「あの7年前の出来事が、すべての発端のような気がしてならないんです。だから、きちんと話を聞きたい。決して、興味本位で言っているわけじゃありません」

 岡村がゆっくり目を開けた。

「気がするってだけやろ? 田代先生の気持ちも、考えたれよ」

「それは、わかります。だけど……」

 卒業アルバムに残された、みんなの笑顔を思い出す。

「7年前、私達はそれぞれに、未来に向かって一生懸命生きていました。でも、実際に、正紀さんに未来を奪われてしまったクラスメイトがいたんです。そして、今回の悲しい事件を引き起こすことになってしまった」

 大勢の人生が狂わされてしまったのだ。一人の男の残酷な欲望のために。

 私は唇を噛んでうつむいた。岡村がふうっと溜息をつく。

「どれだけ止めても、田代先生のところへ行く気やねんな?」

「ええ」

 私は小さく頷いた。

「さっき時間割を確認したら、この時間、田代先生は授業がないんです。だから、これから行こうと思って……」

 岡村は、じっと考え込んでいたが、やがて顔を上げた。

「俺も一緒に行くわ」

 そして、立ち上がった。

「そのかわり、その真犯人とやらを見つけてくれや」

 私は黙って頷いた。


(2)


 ドアをノックすると、中から、どうぞ、という声がした。

「失礼します」

 ドアを開けて中に入る。

「そんなに怖い顔をして、2人ともどないしたんや?」

 田代助教授が、優しく微笑みながら、私達を見つめる。

「甥の正紀さんのことで、お伺いしたいことがあるんです」

 私は、覚悟を決めて切り出した。田代助教授の顔から、微笑みが消える。

「正紀のこと? 今さら、そんなことを聞いて何になるんや?」

「昨日、中西君が自殺未遂をしました。誰かをかばってのことです。そして、まだ意識は戻っていません」

 私は田代助教授の目を見つめながら、続けた。

「誰をかばっているのか、どうしても明らかにしたいんです」

 私の言葉に、田代助教授が沈痛な面持ちで頷く。

「正紀の財布から、殺害された女性の指紋が検出されたことは、警察から聞いている。そのことが、今回の事件と何か関係があるとでも?」

 助教授の言葉に、私は首を横に振った。

「はっきりとはわかりません。でも、何かヒントが隠されているんじゃないかと思うんです。――当時の状況を教えていただけませんか」

 助教授は顎をさすって何やら考えていたが、意を決したように顔を上げた。

「そんなふうに並んで見下ろされたらしゃべりにくいな。椅子を持って来て、適当に座ってくれや」

「失礼します」

 壁に立て掛けてあったパイプ椅子をそれぞれ持ってくると、助教授の前で広げる。そして、私達はそこに腰掛けた。

「正紀さんが殺された時、どういう状況だったのか、ご存じですか?」

 私は、残酷な質問を投げかけた。助教授は目を閉じてうつむき、小さな声で答える。

「知っているよ」

 そして目を開け、そっと顔を上げた。

「正紀は、私の妹の息子や」

「だから苗字が違うんですね」

「ああ。うちは早くに両親を亡くしていてね。私が妹を育てたようなもんなんや」

 私達は黙って頷いた。

「正紀が生まれた時は、かなりの難産やった。無事に生まれてくれて、とにかく嬉しかったよ」

 彼は遠くを見るような目で、そっと微笑んだ。

「正紀はほんまにいい子やった。飯倉徹郎氏が引退して、父親が跡を継いだのは、あの子が中学に入った頃のことでね。勉強もよく出来たし、生徒会長なんかもやっていて、将来は政治家にって、周りの誰もが期待していたよ。だが……」

 田代助教授は、髪の毛を掻き上げると、辛そうに後を続ける。

「進んだ高校が、かなりのエリート校でね。頑張ってはいたようやけど、なかなか成績は上がらへん。そのうちに、完全に落ちこぼれてしまってねえ」

 よくある話だ。高校は、同じような学力の生徒が集まってくる。そして、その中で付けられる順位。トップになる人もいれば、最下位になる人だっているのだ。

「その頃からやったよ。正紀の様子がおかしくなってしまったのは。家庭内暴力を繰り返すようになって……」

「俺の高校でも、それで自殺したヤツがおったわ」

 岡村が暗い表情で溜息を吐く。田代助教授も、大きく息を吐き出した。

「妹の身を案じた私は、無理矢理、我が家に妹をかくまったんや」

 高校生ともなれば、身体は立派な大人だ。どんなにか恐ろしい思いをしたことだろう。

「間もなくして、正紀は警察に連行された。――女の子に暴行を働いてね」

 田代助教授は目を閉じ、しばらく口を開こうとはしなかった。心中を思うと、無理に続きを聞き出す気にもなれない。私達は黙ったまま、彼が再び話し始めるのを待った。

「――きちんと治療を受けるべきやったんや。体裁なんか気にせずに」

 やがて口を開いた田代助教授の目には、うっすらと涙がにじんでいた。

「私は、あちらの家に出向き、そう説得した。せやけど、アカンかった。正紀が警察に捕まると、お金の力にモノを言わせて、事を穏便に済ませてしまってねえ」

「政治家にスキャンダルは御法度ってことか」

 岡村がぼそっとつぶやく。

「お金を積んで大学に進学させたが、正紀の性癖は治らへんかった。何度も婦女暴行を繰り返すようになってしまってね。――私は、正紀が事件を起こす度、被害者の方々に謝罪して回った。飯倉家の人達には、余計なことをするなと、なじられたりもしたがね。力でねじ伏せてしまうことには、どうしても抵抗があったんや」

 助教授は小さく溜息を吐いた。

「そのうちに、私はあることに気付いた。正紀が暴行した女性には、共通点がある、とね」

「何ですか?」

 岡村が尋ねる。

「妹に似とったんや。被害者の女性は皆、雰囲気が妹――正紀の母親によく似とったんや」

 助教授は、自嘲気味に微笑んだ。

「母親に対する歪んだ愛情が、正紀の中に生まれてもうたんやろう。私が、彼から母親を、無理矢理引き離してしまったばっかりに……」

 重苦しい空気が流れる。

「正紀が殺されてすぐ、妹は自殺した。私が殺してしまったようなもんや」

 助教授はそう言うと、胸のポケットから手帳を取り出した。

「これが妹と正紀。謝罪の気持ちで、いつも持ち歩いているんや」

 手帳の間から出されたのは、一枚の白黒の写真だった。赤ん坊をだっこして微笑んでいる、綺麗な女性。

 その姿を見た時、私の中で渦巻いていた疑惑は、確信に変わった。


(3)


「田代先生の気持ちを思うと、胃が痛いわ」

 いい天気に誘われて、私と岡村は賀茂川べりを歩いていた。平日の昼間だというのに、何組ものカップルが楽しそうに語り合っている。

「先生の妹さん、すごい美人やったなあ」

「そうですね」

 私は、空を流れる雲を見上げて答えた。

「たしかに、静世ちゃんとは全然違う雰囲気やったわ。彼女が襲われたとは、ちょっと考えにくい気はするなあ」

 静世もどちらかと言えば美人ではあるが、もっと明るい雰囲気がある。先生の妹、すなわち飯倉正紀の母親が「陰」だとすれば、静世は「陽」。まったく正反対だ。

 岡村は、手にしていた缶コーヒーのタブを開けると、私の方を向いた。

「襲われたんは誰か、お前にはわかってるんやろ?」

 私は黙って頷いた。

「――多分俺も、お前と同じ人物を思い浮かべてると思うわ」

 岡村は、コーヒーを一口すすると続けた。

「せやけど、雰囲気が似てるってだけでは、お話にならへん。何か他に、心当たりがあるんか?」

「ええ」

 私は手にしていたオレンジジュースのタブを開けた。

「B型のロングヘア、正紀さんの遺体に付着していたって言ってましたよね?」

「おお」

 岡村が頷く。

「あの子もB型。当時はロングヘアでした」

「それだけではなあ。該当する人物はいくらでもいてるやろう」

 岡村の言葉に、私はジュースの缶を握りしめた。

「彼女、夏休みの少し前から、学校を休んでいたんです。結局、夏休みが始まるまでずっと休んだままで」

 彼が頷くのを見て、私は続けた。

「夏風邪をこじらせて、肺炎を起こしたって話でした。彼女、美大を目指してたんですけど、そんなことがあって実技が間に合わないって、断念したんです。で、京都の短大の被服科に進んで……。美術部でも素晴らしい作品を描いていたし、浪人してでも頑張ったらよかったのにって、皆で話してた覚えが……」

「夏休みの少し前って言うたら、ちょうどあの事件があった頃やな」

「そうなりますね」

 気持ちの整理を付けるため、私はジュースを一口飲んだ。そして、ふうっと息を吐く。

「被服科か。美的なセンスがあったとなれば、服のデザインもできるやろうな」

 私はゆっくり頷いた。

「ええ。多分、彼女が愛のゴーストだったんじゃないかと思うんです」

「襲われていた彼女を愛ちゃんが助けた。その見返りに、彼女が愛ちゃんのかわりに服のデザインを描く」

「そう考えると、静世のフォルクスでの行動も説明がつくと思うんです」

 私は岡村の顔を見た。

「静世は、そこで初めて、愛にゴーストがいたという事実を知ったんです。恐らく、米倉君から聞かされて」

 岡村がコーヒーの缶をベンチに置く。

「――で、これからどうするんや?」

 私は少し考えてから、続けた。

「安永さんに話をするつもりです。その上で、彼女から直接、真実を聞き出したいと思っています」

「そうか」

 岡村は辛そうにつぶやいた。


(4)


「あの、一体どういうことですか?」

 彼女は不安そうに身を縮めながら、中に入って来た。

 愛の事務所。岡村と安永刑事、そして高橋刑事が、そこにはいた。

「いきなり来いなんて言っちゃって、ごめんね」

 私は微笑んだ。

「どうぞ、ソファに座って」

 私は、部屋の中央に置かれたソファを手で示しながら言った。

「いいわよ。皆さん、立っていらっしゃるのに」

 彼女は、遠慮がちにそう言うと、ソファの背に手を置いた。

「ちょうどこのソファが置かれている辺りで、愛が刺されたの」

「そう」

 私の言葉に、彼女は気の毒そうな表情を作って頷いた。

「刺したのは、米倉君。そして、死体を運んだのも彼だったみたいよ。亡くなってしまったから、話を聞き出すことはできないけど」

「そうよね。びっくりしたわ」

 彼女はその綺麗な瞳をうるませながら、私を見つめた。

「――どうして、愛を殺させたの?」

 私は、少し間を開けて尋ねた。

「何のこと?」

 彼女は、戸惑ったような顔で私を見つめ返す。

「驚かれましたか? すみませんね」

 安永刑事が、申し訳なさそうに口を開く。

「私達もお話をお聞きしたいと思っているんですよ。そのソファに座って下さい。お一人では座りにくいですか? じゃあ、近藤さんもご一緒に」

 言われるまま、私はソファに腰を下ろした。彼女も私の正面に座る。男性三人が私の後ろに立つ形で、話し合いが始まった。

「先ほど、米倉さんの乗っていた車の検分が終わりましてね。その結果、彼は自殺ではなく、他殺である可能性が出て来ました」

 安永刑事は続ける。

「ブレーキオイルが抜かれていたんですよ。崖の下まで落ちれば、車は爆発炎上して、このことは明らかにされなかったでしょう。しかし、途中の木にひっかかって止まりましてね。爆発は免れました」

 彼女は何も言わず、じっと足元を見ている。

「彼がここから乗って出た車は、峰定寺の駐車場で発見されました。おそらくそこで、事故に遭った車に乗り換え、走り始めたんでしょう。花背に向かう山道で、崖下に転落していましたからね」

「車を用意したのは、あなたね」

 私は彼女の目を見つめた。

「何のことなのか、私にはさっぱり……」

 消え入りそうな声で、彼女は首を横に振る。

「バスの運転手が、あなたのことを憶えていましたよ。大悲山口から、昨日の午前中、女性がバスに乗って来たってね。写真を見せたら、間違いないと証言しました。」

 安永刑事が尋ねた。

「私は一度も、そんな所に行ったことはありません。何かの間違いじゃないですか?」

 彼女はそう答えると、不安げに目を伏せる。

「さっき、中西君の意識が戻ったの。彼のお母さんが、本当のことを話すように説得してるわ。もう、時間の問題よ」

 私の言葉に、彼女の整えられた眉がかすかに動いた。

「別に構わないわ。私には何の関係もないもの」

「ええ加減にせえや」

 岡村が低い声で言う。彼女は、その声に、びくっと身体を震わせた。

「米倉に何を吹き込んだんや? ヤツは愛ちゃんに振られて、彼女のことを恨んでいた。その気持ちにつけ込んだんか?」

「つけ込んだだなんて……。そんなひどいこと……」

 彼女が目に涙を溜めて反論した。しかし、岡村はひるまず続ける。

「か弱い女性を演じれば、何でも逃れられると思ったら大間違いやで」

 その言葉に、彼女はその大きな目で、岡村を睨み付けた。岡村も、負けずにじっと見つめ返す。

 張り詰めた空気の中、先に目を逸らしたのは彼女だった。目元をそっと拭うと、ほっと溜息を吐く。

「そう。そうよね」

 彼女は小さな声でそうつぶやき、折れてしまいそうなその細い指でバッグを開けた。

「あなた、京子みたいな子がタイプなんですものね」

 岡村の方をちらっと見ると、中から煙草を取り出す。そして、テーブルに置かれたライターを持ち上げ、ゆっくり火をつけた。

「わかったわよ。話してあげる」

 そう言うと、彼女はふうっと煙を吐き出した。

 その態度の変わり様に、思わず顔を見合わせる。

「で、何から話せばいいわけ?」

 彼女――川上美智江は、上目遣いに私を見た。


(5)


「あなたが、愛を……殺させたのね?」

 私は、少しとまどいながら、美智江に尋ねた。

「人聞きの悪いこと、言わないでよ。私は、愛を殺してくれなんて、頼んだ憶えはないわ」

 彼女は、すました顔で続ける。

「愛がいなくなってくれたらいいなって、そう言っただけよ」

 そして再び、煙草を口にくわえた。

 そんな美智江の態度に言い知れない怒りを感じ、私は思わず立ち上がった。

「同じことじゃないの!」

 彼女の煙草を奪い取り、灰皿で揉み消す。

「で、米倉君は、どうやって落としたわけ?」

「落とした? 私の方から、あの男を取り込んだって言うの? 馬鹿馬鹿しい。勝手に私に言い寄って来たのよ。どうせ、愛に振られた腹いせでしょうけどね」

 彼女は私の顔を見上げると、ふっと鼻で笑った。

「座ったら? まったく、京子は全然変わらないわね。正義感が強くて、まっすぐで……。みんなはあんたのこと信頼して色々頼ってたみたいだけど、私はあんたのことなんか、ずっと大ッ嫌いだったわ」

 目線を落として続ける。

「あんたは強過ぎるのよ。単純で鈍感だから、傷付かない。誰にも頼らずに、自分の足で歩いて行ける。そんな人に、私の背負ってる苦しみなんて、わかるわけがないでしょ」

「おい、黙って聞いとったら……」

「いいんです」

 気色ばむ岡村を押さえると、私はソファに座り込んだ。

 強過ぎる女。可愛げのない子。そんなこと、子供の頃からイヤと言うほど投げ付けられてきた言葉じゃないか。

 私は、深呼吸すると彼女を見つめた。

「そうね。私みたいな脳天気な人間に、あなたの苦しみなんてわかるわけないわよね」

「近藤……」

 後ろから、岡村が私の肩にそっと手を置く。私は少し時間を置いて続けた。

「でも、愛はわかってくれたんじゃないの? だから、人を殺し、強盗を装ってまで、あなたを助けてくれた」

「私は悪くないわ!」

 美智江は大きな声を出した。

「気が付いたら……あの男が倒れてたのよ。頭から血を出して。愛と待ち合わせしていた私を、あの男は……」

「でも、愛は助けてくれたんでしょ? だから、あなたは彼女のゴーストを買って出た」

 美智江は唇を噛んでうつむいていたが、やがて顔を上げた。

「別に、ずっとゴーストでいようなんて、思ってたわけじゃないわ」

 そして、新しい煙草を一本取り出した。

「愛も……愛も本当に強い子だった。あの事件からすぐに立ち直って、また受験勉強に打ち込み始めたわ。でも、私はダメ。何をしていても、あの時のことが頭に浮かんで来るの。――それに、私のせいで、愛にまで罪を背負わせてしまったって、そんな気持ちもあって……。とても受験なんて考えられる心境じゃなかったわ」

 美智江は、右手で煙草を弄びながら続けた。

「そんな私に、愛は、かわりにデザイン画を描いてくれって頼んできた。――私は喜んで引き受けた。自分自身が立ち直るきっかけになるかもって、そんな気もしたし。それに、愛は、私を命がけで助けてくれた人なのよ。彼女のためなら何でもできるって、そう思ったの」

 ようやく煙草をくわえ、火をつける。

「私は一生懸命デザインを考えて、衣装を作り上げた。そしたら、どう? 学内だけならまだしも、全国大会でまで優勝しちゃって。脚光を浴びた愛は、もう私を手放せなくなってしまった」

「それで、京都の短大に?」

「ええ」

 美智江は煙を吐き出しながら、頷いた。

「ただただ、愛の役に立ちたいだけたった。その一心でデザイン画を描き続けていったわ。そして、いつしか私は、ゴーストっていう自分の立場が、快感になっていった」

「快感に?」

 私は聞き返した。

「そうよ。快感。だって、愛の運命は私が握っているのよ。そして、そのことを知っているのは、私達2人だけ」

 美智江は鼻で笑うと、私の顔を見た。

「短大を出てすぐ、私は結婚した。ヒマな時間も多くなったし、作品もたくさん作れるようになったわ。愛もブティックを開店して、私に頼る度合いは、ますます大きくなっていった」

「ご主人は、あなたのことに気付かなかったの?」

「気付くわけないでしょ」

 美智江は煙草を揉み消した。

「私は、あの人の出世のために利用されただけなのよ。私の叔父が、あの人の会社で取締役をやっていてね。私と結婚すれば、将来は安泰。だから、彼はこの結婚話に飛びついて来たの」

 彼女はふっと視線を足元に落とす。

「みんな、私を利用するの。そして、裏切るのよ。みんな……」

「でも、ご主人の浮気相手、愛じゃなかったのよ」

 私は美智江に声をかけた。彼女は顔を上げて微笑んだ。

「知ってたわ。静世でしょ?」

「えっ?」

 私は驚いて彼女の顔を見た。それが動機ではなかったのか。

「あの時、愛の話をしたのは、あなたが純子からその話を聞いているかどうか、確認したかったからよ」

 美智江は、指先を見つめながら続けた。

「食事会が終わってすぐ、興信所に調べさせたわ。そしたら、相手は静世だった。じゃあ、どうして愛からあの香水の臭いがしたのかって、ずっと考えてた」

 美智江は足を組む。

「先月の終わり頃、純子が連絡して来たのよ。主人の浮気をばらされたくなかったら、お金を出せってね。よっぽど切羽詰まってたんでしょうね」

 私は黙って聞いていた。

「純子は、主人の浮気の相手を愛だと思い込んでいた。そして、私は彼女から聞いた話に、耳を疑ったわ」

 彼女は、前髪を障りながら続ける。

「愛がうちの主人に土下座してたって。その上、毎月100万円を払い続けてるって……。そこでようやく、愛があの香水を付けていた理由に気付いたの」

「何?」

 私は尋ねた。

「愛は、静世をかばったのよ。自分が彼女の香水を付けて、あたかも自分が浮気相手であるかのように振る舞ったの。それで、私を失うかもしれないって言うのに、それでも静世をかばったのよ」

 美智江は、膝の上で手を組んだ。その手はかすかに震えていた。

「愛はいつも、私がデザイン画を描いてること、『静世には、絶対内緒にしてね』って言ってた。私は、愛と私の2人だけの秘密を持っているっていう気がして、何だかとっても嬉しかった。でも、そうじゃなかったのよ」

 彼女は目を閉じた。

「あの子は、静世が去って行くことを恐れていたの。自分の作品じゃないってわかって、見捨てられたくなかっただけなのよ。だから……」

 美智江は、一瞬声を詰まらせると続けた。

「裏切られたと思ったわ。私は、愛の為だけに頑張ってきた。なのに、あの子は、私よりも静世の方が大事だったのよ。私は、あの事件の恩を着せられて、利用されていただけだった」

「だから、米倉君に愛を殺させたの?」

 私の質問に、美智江はきっとこちらをにらんだ。

「しつこいわね。殺させてないって言ってるでしょ? 私はただ、愛がいなくなってくれたらいいのにって、そう話しただけよ」

「中西にも、そうやって金を出させたのか?」

 岡村が低い声で尋ねる。美智江はふっと鼻で笑った。

「出させたわけじゃありません。ただ、ゆすられて困ってるって相談しただけ」

「相談、ね」

 思わず溜息が出る。

「まさか主人まで殺されるなんて。静世も、とんでもないことをしてくれたもんだわ」

 私の言葉を無視して、彼女は髪をかき上げた。

「静世を襲わせたのは?――あ、今度も頼んだわけじゃないのかな?」

 嫌みを効かせて尋ねる。彼女は頷いた。

「静世に疑われて、どうしたらいいかわからないって訴えたの。そしたら米倉君、静世を殺しに行っちゃって」

「殺すとは思わなかったとでも言うの?」

 私は美智江の目をじっと見つめて尋ねた。

「じゃあ、どうして車のブレーキオイルを抜いたりしたのよ」

「そんなこと、私はしてないわ」

 美智江が身を乗り出す。

「車の運転はするけど、ブレーキオイルがどこに入ってるかなんて、そんなこと、私知らないもの」

「じゃあ、どうしてあなたの姿が目撃されてるの? 説明してよ」

 私の追求に、美智江は目を伏せた。

「米倉君から……」

「何?」

 先を促す。彼女はしばらく考え込んでいたが、ゆっくり顔を上げた。

「一昨日、電話があって……。静世を殺すから、アリバイを作っておけって。峰定寺は観光客もそんなにいないし、一人だったら、バスの運転手も顔を憶えていてくれるはずだから、そこに行ってみたらどうだって……」

「それで美智江、峰定寺に?」

 美智江は頷くと、悔しそうに唇を噛んだ。

「米倉君、最後に私を陥れようとしたんだわ。やっぱり私は、裏切られちゃったのよ。あの人、私に罪を着せようとして……」

「いや、それはちゃうと思うな」

 岡村が、彼女の話を遮った。

「米倉は、君のことを愛していた。せやから、命がけで君に伝えようとしたんや。もう、人を利用するのはやめろって」

 美智江は、驚いたような顔で岡村を見ている。彼は続けた。

「今回の件で、君は警察から追求されることになるやろう。それを機に、罪を悔いて改めてほしい、やつはそう思ったんとちゃうか?」

「命がけで……。そうかもしれませんね」

 私は頷きながら、美智江の方を見た。

「そんなわけないでしょ?」

 美智江が、頬を引きつらせて反論する。

「あの米倉君が、命をかけたですって? 私のために? そんな馬鹿なこと……」

 彼女はそこまで言うと、突然、両手で口元を押さえた。

「どうしたの?」

 美智江の顔を見つめる。

 彼女は、しばらく迷っている様子だったが、やがて消え入りそうな声で話し始めた。

「静世を殺すって電話をくれた時に、米倉君……」

 額に手を当て、目を閉じる。私達は気長に、次の言葉を待った。

 鼻をすすり上げながら、美智江はようやく口を開いた。

「『俺で最後にしろよ』って……その時は、どういう意味か……」

 うなだれた彼女の目から、涙がこぼれ落ちる。

「俺で最後に、か……」

 岡村が天井を見上げる。やり切れない気持ちで、私は唇を噛み締めた。


(6)


「助かってくれて、ほんまによかった」

 岡村が中西に向かって微笑む。よっぽど嬉しかったらしく、何度も同じ台詞を繰り返している。

「せやから、すんませんって言うてるやないですか」

 中西が、ベッドの上で泣きそうな顔をしている。

「本当に心配したんだからね」

 私も、岡村の横に座って中西の顔を見つめた。

「どうかしとったんやろな、僕。お袋の泣き顔見て、胸が引き裂かれるような気がしたわ」

 中西の容態が安定したということで、彼の母親は、今朝、地元に戻ったらしい。

「元はと言えば、私が食事会に中西君を誘ったからなのよね。ごめんね」

 私が謝ると、彼は優しい声で答えた。

「いや、僕は後悔なんてしてへんで。3ヶ月っちゅう短い間やったけど、僕はマジで幸せやった」

 照れたように微笑んで、彼は続けた。

「自分が、こんなに人を愛せるなんて、思ってもみいひんかったし……。むしろ、感謝してるわ」

 岡村が、私の背中をそっと小突く。私は小さく頷いた。

「それにしても、お前が、自分が犯人やって言い出した時は、びっくりしたで」

 岡村がわざと明るい声を出して言う。

「すみません。てっきり美智江ちゃんが犯人やと思ったもんで」

「美智江は、ボルネオフラワーのタトゥをしていたの?」

 私の質問に、中西は頷いた。

「左腕にな。何度か見たことがあったから、てっきり……」

「そう。愛と一緒に描いていたのかもしれないわね」

 私は腕を組んだ。

「ボルネオフラワー――天国に導いてくれる花、か」

 岡村がぼそっとつぶやく。

「青春まっさかりの時期に、あんな事件に巻き込まれちゃったわけですからね」

 重苦しい沈黙が流れた。

「結局、お前が8月以来、愛ちゃんとは会ってへんっていうのは、ほんまやってんな?」

 岡村が、中西の顔を見る。

「ええ。あの時、電話で『美智江ちゃんが大変なことになってる』って言われたんですよ。愛ちゃんの事務所を指定されて、大急ぎで行ってみたら……」

「血溜まりだけが残ってたってことか」

 岡村が頷く。

「米倉とは、面識があってんな?」

「ええ。美智江ちゃんと別れろって、何度もしつこく言って来て……。美智江ちゃんから、付きまとわれて困ってるって話を聞かされてたし、何度か喧嘩しましたよ」

 中西は自嘲気味に微笑んだ。

「せやけど、結局、美智江ちゃんは米倉を頼りにしてたんですよね。7年前のことも、ゴーストのことも、ご主人の浮気のことも、僕には何も話してくれませんでしたから」

「お前には、ほんまの姿を見られたくなかったんちゃうか? どっちを頼りにしてたかなんて、はっきり言い切れる問題とちゃうで」

 岡村が言う。私も頷いた。

「そんなもんですかねえ」

 中西が大きく溜息をつく。と、そこでドアがノックされる音がした。

「はい」

 岡村が立ち上がってドアを開ける。そこには、安永刑事と山田刑事が立っていた。

「こんにちは」

 中に入って来た2人に、中西が頭を下げる。

「どうだい、具合は?」

「ええ。もうすっかり……。ご迷惑をおかけしました」

 中西はもう一度頭を下げた。

「湯川静世さんの意識が戻ったよ。さっき、話を聞いて来た所や」

 2人の刑事は、中西に促され、その辺に置かれていた椅子に腰をかけた。

「助かったんですね。よかった」

 私はほっとして微笑んだ。

「羽場愛さんを殺害したのは、やっぱり米倉みたいやね。ガレージから出て来た羽場さんの車を運転していたのは、彼やったそうやし」

「愛は、その車で運び出されたんですか?」

 私が尋ねると、安永刑事は頷いた。

「おそらくね。マネキンを包むビニール袋と、在庫を保管していたダンボールが無くなっていたらしい。多分、羽場さんは、そのビニール袋にくるまれた後、ダンボールに詰められて運び出されたんやろう。それで、車から血痕が出なかったんやね」

「ビニール袋にくるまれて……」

 静世が愛を見た時、彼女は生きていたと言っていた。運び出された時点では、もう意識は無くなっていたと思いたい。

「その直後、中西が事務所を訪れたってわけやな」

 岡村が中西の顔を見た。

「そうやろうね。湯川さんは、打ち合わせが終わって事務所に戻ってから、絨毯を入れ替えたみたいやし」

「せやけど、部屋の真ん中にはソファが置かれてましたよね? 血液反応がなかったってことは、愛ちゃんが刺された時は、なかったってことですか?」

 岡村が安永刑事に尋ねた。

「事件が起こった時、羽場さんは模様替えをしていたようでね。ソファは部屋の隅に移動されていたそうや。しかし、湯川さんが絨毯を敷きかえた後、万全を期してその上にソファを持って来たらしい」

 安永刑事が辛そうに答える。

「湯川さんは、運転していた米倉を羽場さんやと言いくるめ、その上、ビニール袋やダンボールが無くなっていたこともずっと黙っていた。現場があの事務所だとは、どうしても思われたくなかったんやろうね」

「自分に疑いがかかるのを防ぎたかったんやろか?」

 岡村の言葉に、私は首を横に振った。

「それだけじゃなかったと思います」

 岡村が意外そうな顔をする。

「愛を見捨てたっていう事実から、目をそむけたかったんじゃないでしょうか。多分」

 私が言うと、安永刑事が驚いたような顔をして頷いた。

「その通りや。湯川さんもさっき、そう証言したよ」

「そうか。なるほどなあ」

 岡村が納得したようにつぶやいた。

「せやけど、それやったらどうして、静世ちゃんは米倉を共犯者に選んだんや?」

 岡村の疑問に、安永刑事が答える。

「羽場さんを殺したことを警察にバラす、と言って手伝わせたそうや。そして、機を見て彼も殺害するつもりやったらしい」

「それなのに、逆に殺されかけてもうたってわけですか」

「ああ」

 安永刑事が頷いた。

「フォルクスでの口論は、一体、何だったんですか?」

 今度は私が尋ねた。

「羽場さんの件を問いつめていたらしい。しかし、逆にゴーストの話をされ、取り乱したようやね」

 安永刑事は続ける。

「米倉は、美智江さんのことは一言も言わなかったそうや。羽場さんを殺した動機は、昔の恨みからやって言い張ってたって」

「そうなんですか」

 私はちらっと中西を見た。彼は黙ったまま、じっと目を閉じている。

「せやけど、どうして静世ちゃんは、タトゥを2人の腕に描いたんですか?」

 岡村が新たな質問を投げかけた。

「ああ、それやねんけどねえ」

 安永刑事が答える。

「あのボルネオフラワーは、羽場さんが大好きな図案やったってことは、前に話したね」

 私達は頷いた。

「天国に導いてくれる花やということを、湯川さんは羽場さんから聞いて知っていた。それで、あの2人の腕にも描き込んだそうや」

「手にかけはしたけど、天国に行ってほしかった。――そういうことか」

 岡村が天井を見上げる。

「羽場さんよりも湯川さんの方が、イラストを描くのは得意やったらしい。それで、羽場さんの腕に、湯川さんが描き込んであげることもあったそうや。亡くなった時、羽場さんの腕に描き込まれていたタトゥも、前日に彼女が描いてあげたものやったって」

「そうなんですか」

 頷きながら、どこか虚しさを憶える。

 愛は、彼女の望み通り天国に昇れたのだろうか。

 ボルネオフラワーは、彼らを天国に導いてくれたのだろうか。

「美智江ちゃんが腕に描いていたタトゥは、愛ちゃんと関係があったんですか?」

 岡村が尋ねる。

「ああ。もともと、羽場さんが東京に行った時に、あの粉を見つけてきたそうや。『これで、私達も天国に行けるよ』って、嬉しそうに美智江さんに渡したらしい」

「そうだったんですか」

 高3の時に犯した罪。彼女達はずっと、その罪悪感を抱えて生き続けていたのだ。

「湯川さんが使ったトリックは、近藤さんの推理の通りやったよ。せやけど、ひとつだけ違う点があった」

「何ですか?」

 安永刑事の目を見つめる。

「動機や。湯川さんが川上さんを殺害した、動機。『美智江が憎かった』って方の」

「え? 美智江が川上さんの奥さんだったから、ってことじゃないんですか? 嫉妬っていうか……」

 私が尋ねると、安永刑事が答えた。

「嫉妬は嫉妬や。せやけど、その対象は川上さんやない。――羽場さんやったんや」

「どういうことですか?」

 よく意味が掴めず、私は彼に尋ね返した。

「美智江さんが羽場さんのゴーストやったことを知った湯川さんは、かなり傷付いたそうや。羽場さんが一番必要としていたのは、自分ではなくて美智江さんやったんと違うか。そう考えて、随分悩み抜いたらしい」

「それじゃあ、あの『美智江が憎かった』っていう言葉は……」

「ああ」

 安永刑事が頷く。

「湯川さんが恨んでいたのは、『川上さんの妻である美智江さん』ではなく、『羽場さんのゴーストだった美智江さん』やったんや。せやから、美智江さんを困らせてやろうと考えた」

「美智江ちゃんも、同じようなこと言うてたなあ」

 岡村が顎に手をあててつぶやく。

「どこかですれ違ってもうたんやろうなあ。それぞれの心が……」

「友情に順位なんてつけられるわけがないのに」

 私はそっとつぶやいた。

「友情の順位か……」

 岡村が目を閉じる。

「食事会の時、香水を交換して着けよう、と言い出したのは羽場さんやったらしい。その時は、単に羽場さんの気まぐれやと思っていたそうや。――さっき、美智江さんの話を聞いて、湯川さんは泣き崩れたよ。もっと早くに羽場さんの気持ちに気付いていたらって」

 安永刑事が辛そうに言う。私は頷いた。

「愛がタクシーの中で繰り返していた言葉を伝えた時も、静世、同じようなことを言ってました」

 しばらくの間、誰も口を開こうとはしなかった。


(7)


「そうや」

 山田刑事が、静寂を破って突然顔を上げた。

「湯川さん、あなたに感謝してはりましたよ。あんなにひどいことをした自分なのに、何の躊躇もなく抱き締めてくれたこと、ほんまに嬉しかったって」

 山田刑事が、私の方を見て微笑む。

「本当ですか?」

 胸が熱くなる。美智江に言われた「大ッ嫌い」という一言が、心に刺さっていたからかもしれない。

「あなただけは昔と全然変わってへんかったから、タクシーの中で羽場さんも本心を伝えられたんと違うかって。そうも言うてはりました」

 岡村が、嬉しそうに私を見て頷いた。私も小さく頷き返す。

「近藤、お前はホンマにすごいやつやな」

 それまで黙っていた中西が、ぼそっとつぶやいた。

「え?」

 振り返り、聞き返す。

「美智江ちゃんも、よく言うてたわ」

 彼は顔を上げ、私を見た。

「お前のこと、尊敬してるって。どんなことに対しても、逃げずに真直ぐ向き合うことができるからって」

「美智江が?」

「うん」

 中西が頷く。

「彼女、ずっと憧れてたらしいで、お前に」

「美智江が……」

 目頭が熱くなるのを感じ、急いで窓の外に目を遣る。やはり、人前で涙を見せるのは苦手だ。

 岡村が、私の腕をそっと小突く。

「よかったやんけ」

 私は何も答えず、小さく微笑んで見せた。

「僕も逃げへん」

 中西がきっぱりとした口調で言う。私は彼の横顔を見つめた。

「美智江ちゃんが罪を償ったら、もう一度、彼女と向き合ってみるつもりや。米倉は、自分が死ぬことで、美智江ちゃんに本当の愛情を伝えようとした。僕は生きて、彼女に人を信じるってことを教えてあげたい」

「中西君……」

 その横顔は、これまでよりもずっと、たくましいものに見えた。


(8)


 それから3日後、中西は退院した。これまで通りの生活に戻るにはもう少し時間がかかりそうだが、彼ならきっと、立ち直ってくれるだろう。

 静世も日に日に回復している様子で、取り調べにも素直に応じているという。そして、美智江も、殺人教唆の事実を認め、きちんと事情聴取を受けている、と安永刑事から教えられた。

「愛ちゃんは、7年前の事件で送検されるらしいな」

「被疑者死亡のまま、ってやつですね」

 先日会った、高橋刑事の顔を思い出す。彼は辛そうにそのことを告げると、名古屋へと戻っていった。

 私は、ベンチから立ち上がった。賀茂川べりに吹く風は、もうかなり冷たくなっている。

「おお、寒。冬はもう、すぐそこやな」

 岡村は大袈裟に身体を震わすと、私の横に並び立った。

「まったく、今回も悲しい事件やったな」

 かがみ込んで、小石を手に取る。私はそんな彼の様子を、じっと見つめていた。

「なあ、お前、美智江ちゃんに言われた言葉、ずっと気にしとったやろ?」

 岡村が、石を川面に投げながら尋ねる。

「『大ッ嫌い』って、あれですか?」

 私は、足元にあった小石を拾って尋ねた。

「おお。そうや」

 岡村が振り返る。

「平気だったって言ったら嘘になりますね。でも、中西君から聞いた話で、全部吹っ飛んじゃいました」

 私は勢いよく、小石を川に投げ込んだ。

「そうか。相変わらず、単純なやっちゃな」

 岡村が楽しそうに笑う。

「ええ。お陰様で」

 私も笑い返した。

「俺は……」

 岡村が空を見上げて続ける。

「誰が何と言おうと、お前を裏切ったりせえへんからな」

 高い雲が、夕日できらきらと輝いている。

「ありがとうございます」

 私も空を見上げて答えた。

「なーんて、な。まあ、そういうことや。これからも元気で頑張ろうや」

 岡村は、私の右肩をばしっと叩くと、土手を歩き始めた。

「痛いなあ、もう。少しは手加減して下さいよ」

 左手で肩を押さえながら、彼の後を追う。

 比叡山は、今日も変わらず、私達を優しく見守っている。


<完>

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