第6章
(1)
「どういう風の吹き回し?」
愛のブティックを訪れた私に、静世が微笑んだ。
「もう閉店するって、この間言ってたでしょ? だから、一度くらいと思ってね」
適当なことを答える。
昨夜一晩、さんざん考えた末、中西が血痕を見たと言う現場を、直に見てみようと思い立ったのだ。
「ここじゃなんだから、とりあえず事務所の方へ行きましょ」
静世はそう言うと、不思議そうに私を見ていた店員に一言声をかけ、歩き始めた。ふと見ると、正面に置かれた姿見に自分の姿が映る。
ヨレヨレのトレーナーにすり切れたジーンズ。どう考えてもこのブティックには不似合いだ。
「素敵なお店ねえ」
誤魔化すように店内を見回しながら、私は彼女の後に続いた。
「一段一段が狭いから気を付けてね」
カウンターの後ろ側にある螺旋状の階段を上りながら、静世が言う。その手すりには、バラの蔓が巻き付いた装飾が施されていた。
「なるほど、ここを上がったところが事務所になっているのね」
納得しながら上がって行くと、静世が振り返った。
「外から直接事務所に上がる階段もあるんだけどね。お店の中からはここと、奥にあるエレベーターが、事務所につながってるわ」
「エレベーター?」
私は驚いた。
「2階建てなのに?」
「地下も入れたら、3階建てになるのかな。――うちね、まとまった仕入れの時には、トラックを地下に入れてもらうのよ。この辺、道幅がそんなにないでしょ? 路上に停めてたらジャマになるから。――で、そこから、ダンボールを運んだりするのに使うわけ。布地も、たくさんの量になると、半端な重さじゃないのよ」
「なるほどねえ」
私は頷いた。
「さあ、どうぞ」
静世が、木製の重厚なドアを開ける。
「うわあ、かっこいい」
室内の壁紙や天井は木目調で統一され、落ち着いた雰囲気をかもし出していた。
部屋の真ん中には2つのモスグリーンのソファが、すりガラスのテーブルを挟んで向かい合っている。その応接セットの奥には、どっしりした木製のデスク。そして、その後ろの壁は一面、天井や壁と同色の木目調の本棚で覆われていた。
「作り付けの本棚なんて、いいわねえ。うち、本が溢れてて困ってるのよ」
入り切らない本が散乱している、自分の部屋を思い出しながら溜息をつく。
「デザインブックとか、布の見本とか、きちんとまとめて置けるように、書架は大きなモノを用意したのよ」
静世が、微笑みながら説明してくれた。
「そうなんだ」
次に私は、目を足元に転じた。
絨毯はベージュとブラウンの大きめの格子になっており、細かい花模様がちりばめられている。毛足は短く、絨毯と言うより、布製のタイルといった雰囲気だ。
「この絨毯も素敵ね」
この部屋のど真ん中に血痕が広がっていたんだ、そう思いながら床を見回す。しかし、その場所には応接セットが置かれている。
「この格子、一枚一枚、取り外せるようになってるのよ。で、汚れたところだけ洗えるってわけ。部屋の広さ分の絨毯を洗うとなると、業者に頼まなくちゃいけないんだけど、これなら自分でも手入れできるでしょ? 経済的なのよ」
静世が微笑んだ。
「愛のデザインを元にして、特注で作らせたの。あの子、ああ見えて、意外と現実的だったから」
中西が言っていた通りだ。しかし、いくらスペアがないとは言え、綺麗に洗ってしまえば誤魔化せるような気もする。
「どうぞ、座って」
静世が、デスクの椅子に座りながら、応接セットを手で示す。
「あ、どうも」
私は一旦、考えるのを止め、モスグリーンのソファに座り込んだ。3人掛けても、まだ余りそうな大きなソファ。表面はスウェードらしく、手触りがとてもいい。
「この間、警察が捜査に入ってね。ルミノール反応っていうの? なんか、液体をかけて光を当てて……もう、参っちゃったわよ」
ルミノール? それなら、例え洗ったとしても、血液反応が出るはずだ。
「何の反応もなかったの?」
私が探るように尋ねると、静世は私の目をじっと見て答えた。
「なかったわよ」
そして、ふっと微笑む。
「1階からも2階からも。車の中もガレージも、ありとあらゆるところを調べられたわ。でも、全く反応は出なかった。つまり、ここには、初めから血痕なんてなかったってわけ」
「え?」
「京子、それを確かめに来たんでしょ?」
お見通しならば仕方ない。私は素直に頷いた。
「うん。ごめん。――その血液の検査をした時、このソファはちゃんとどけたの?」
「血痕をソファで隠したとでも言いたいの? ――そのソファの底、小さい車がついててね。出し入れできるようにしてあるのよ。移動させやすいように、特注で作らせたんだけど……」
静世は遠くを見るような目をして、続ける。
「愛って、ホントに模様替えするのが好きだったの。朝来てみたら、事務所の中がガラッと変わっちゃってることもあったりしてね。本当に、困った子だったわ」
彼女は私の顔を見た。
「ソファが移動させられることなんて、警察にだってすぐわかることだし、ちゃんと動かして調べてもらったわよ」
「そう」
私は頷いた。
「実はね。さっき、警察の人が来たのよ。中西君、犯行を自供したそうじゃないの」
静世が足を組み、煙草に火をつける。
「それは……」
「中西君、愛を呼び出して屋外で殺害した後、遺体を深泥池に捨てたそうよ。で、車を返しに来て、キーをこの事務所に戻した時に、誰かに目撃されてしまったんですって。だから咄嗟に血痕があったなんて証言したって話だったわ」
「嘘よ」
私がつぶやくと、静世はふうっと煙を吐き出した。
「でも、警察の人がそう言ってたのよ。これで、愛が車で出掛けていった訳も、血痕がどこにもなかった理由も、すべて説明が付くじゃない」
「ここから車で出て行ったの、本当に愛だったの?」
「どう言う意味?」
静世が少しむっとしたように言う。
「私が愛を見間違えるわけないでしょ?」
「たしかなのね」
「当たり前よ」
静世は乱暴に、灰皿で煙草を揉み消した。
「で、愛は普段からタトゥをしてたの?」
私はなおも質問を続けた。
「さあ。知らないわ」
静世は、気のない風に答える。
「知らないって?」
私は思わず立ち上がった。
「静世、いつも一緒にいたんでしょ? それくらいのこと……」
「ちょっと、そんなに大きな声、出さないでよ。お店に聞こえたらどうするのよ」
静世が眉間に皺を寄せ、私を見上げる。
「たしかに、愛といる時間は長かったわ。でも、プライベートまでずっと一緒だったってわけじゃないし。半袖のシーズンならまだしも、今は長袖着てるのよ。タトゥをしてたかどうかなんて、わかるわけないでしょ」
私は、気持ちを落ち着けるために大きく深呼吸した。
「ごめん。――最後にひとつだけ聞かせてもらってもいい?」
「何?」
「8日の夜、何してた?」
「ちょっと待って」
静世は立ち上がり、腰に手をあてて私を見た。
「今度は純子の事件の時のアリバイ? いい加減にしてよ」
彼女は横を向き、これ見よがしにハアッと息を吐くと、再び私の方を見た。
「死亡推定時刻は午後10時から11時の間だったわよね。9時から10時まで、私は取引先との打ち合わせで、向かいのファミレスにいたわ。そして、その後は1時頃まで、ここで仕事をしていた。その間、夜食にピザもとったし、お得意先にファックスも送ったわよ。――何なら、ピザ屋さんとお得意先の電話番号も教えようか?」
「よくわかったわ。どうもありがとう」
私は軽く頭を下げて見せた。
「今度は、もっと楽しい話がしたいわね」
静世はそう言ってデスクの椅子に再び腰掛けると、くるっと背を向けた。
(2)
大学に行くと、私はまっすぐに共同研究室に向かった。岡村を探すためだ。
昨夜、中西が警察に連れて行かれた後、私達は混乱してしまって何も考えることができなかった。だが、さっき静世の話を聞いたことで、少しは何かが見えてきたような気がする。
「お早う」
ドアを開け、中でたむろしてしゃべっている後輩達に声をかける。
「あ、近藤さん、お早うございます」
峰山がこちらを向く。
「日曜日なのに、みんな集まってどうしたの?」
私が尋ねると、近世史を専攻している田尾真一が答えた。
「府立博物館で、『源氏物語絵巻』についての講演会があるんですよ。2時からなんですけどね。で、みんなで聞きに行こうかっていうことで、集まってるんです」
修士1回生は全部で8人。気が合うようで、何やかやとよくつるんでいる。
「そう。面白そうね」
「近藤さんもどうですか?」
2人の女の子の内の1人、渡辺芳美が声をかけてくれる。
「ありがとう。でも、ちょっと用事があるから、やめとくわ。――ねえ、岡村さん見なかった?」
私が面々の顔を見回すと、峰山が思い出したように口を開いた。
「そう言えば、さっき、図書館に入って行きはるとこ、見ましたよ。ここに来る前やから、10分くらい前かな?」
「そう、どうもありがとう」
私は軽く手を上げて微笑むと、研究室を後にした。
(3)
「殺害現場は愛ちゃんの事務所と違う?」
岡村が大声で尋ねる。
「小さい声でお願いします」
図書館のロビー。階段を上がりかけていた学部生が、驚いたように振り返る。
「ああ、すまん。――せやけど、それ、どういうことやねん」
岡村が、眉間に皺を寄せて尋ねる。
「実はさっき、愛のブティックを訪ねて、静世と話して来たんです」
そして私は、彼女との会話を話して聞かせた。
「――ルミノール反応はなかったんか。つまり、嘘をついているのは、中西やって言うのか?」
岡村が、険しい表情で腕を組む。
「まったく、中西が『自分が犯人や』なんて言い出すから、話がややこしくなってもうたんや」
「そう、それなんですけどね」
私は、岡村の顔を見つめた。
「あんなに頑に『はめられた』って言ってた中西君が、なんで急に自供したんでしょうね」
「何の話をしとったかな。あの時」
岡村が、思い出そうと目を閉じる。
「何でしたかねえ」
私も一生懸命、記憶の糸を辿っていた。
「携帯に残された発信元を見て、それから……」
「お前がボルネオフラワーのことを聞いたんちゃうかったか?」
私の方を指差しながら、岡村が言う。
「ああ、そうそう、そうでしたね。たしか中西君、知ってて……」
「最初は、それが何か? とか言うとったのに、3人の遺体にタトゥがあったって聞いてから、取り乱し始めたような気がすんねんけどなあ」
「そうでした。間違いありませんよ」
あの時の中西の放心したような表情を、私ははっきり思い出していた。
「ボルネオフラワーのタトゥに思い当たる節があったってことやな」
「ええ」
私は頷いた。
「たしか、愛ちゃんがボルネオフラワーのグッズを集めてたって、安永さん言うてはったよな」
「でも、それなら、初めにボルネオフラワーの話をした時に、何か反応があったんじゃないですか? 中西君の様子がおかしくなったのは、タトゥの話をしてからでしたよ」
私が言うと、岡村は頷いた。
「ということは、思い当たる人物は愛ちゃんではないってことやな」
「そうですね」
岡村は何か考え込んでいたが、やがて顔を上げた。
「俺なあ、どうしてもひっかかってることがあんねん」
「何ですか?」
私は尋ねた。
「あの、フォルクスで大げんかになった時、米倉が中西に向かって『またお前か!』って言うたん、憶えてるか?」
「ああ、そう言われてみれば、そうでしたね」
私は頷いた。
「2人はどこで知り合ったんやろう」
「どこでしょうね?」
「食事会に、米倉は来てへんかったんか?」
「ええ。集まるのは、いつも女の子だけですから」
私が言うと、岡村が首を傾げた。
「直接知り合ったわけちゃうねんな。ほんなら、食事会に来ていた誰かを通じてって可能性が大きなるなあ」
「そこが接点ってことですか」
「ああ」
岡村が頷く。
「中西がかばってる人物とも、何か関係があるんとちゃうやろか」
「ということは、今回の事件に、米倉君が関わってるかもしれないってことですか?」
私は岡村の顔を見つめた。
「なあ、米倉の連絡先、わかるか?」
「わかりませんねえ」
「そうか。ほんならしゃあないな。――警察行こう」
「は?」
岡村の突然の提案に、私は思わず聞き返した。
「何でですか?」
「米倉のアリバイを聞きに行くんや。他の人達のアリバイはわかってるやろ? わかってへんのはヤツだけやからな」
「ああ、言われてみればそうですね。――わかりました」
私は頷いた。
「ちょっと待っててくれ。今、バッグとって来るから」
岡村はそう言うと、階段を駆け上がって行った。
(4)
「またまたお揃いで、何のご用かな?」
受付で待っていると、安永刑事が現れた。
「僕達も日曜返上で捜査に走り回ってるけど、君達もそうなんやねえ。ご苦労なこっちゃ」
微笑んではいるが、嫌味たっぷりだ。
「だんだん、高橋さんに似てこられたんじゃないですか?」
私が言い返すと、安永刑事は苦笑いする。
「――で、ほんまに何の用事なんや? 中西なら、もう少しこちらにいてもらうことになりそうやけど」
「中西って、呼び捨てですか? ヤツが犯人やと決めつけているような言い方ですね」
岡村が安永刑事の目を見て言う。
「本人が自白してんねんから、彼が犯人なんやろう」
「犯人なんやろう、ってそんないい加減な……」
安永刑事の言葉に、私は思わず食ってかかった。
「2つの事件は同一犯によって引き起こされた。関係者の中で、その両方共にアリバイがないのは、中西だけや。他に考えようがない」
「公衆電話から中西の携帯にかかってきた電話は、どう説明するんですか?」
「自分で自分の携帯にかければ、いくらでも細工できることや。そんなものは、何の証明にもならへんね」
岡村の質問にも、安永刑事はぶっきらぼうに答える。
「純子の口座にお金を振り込んだ理由、中西君はなんて言ってるんですか?」
今度は私が尋ねた。
「だんまりを決め込んでいる」
安永刑事は溜息を吐きながら続けた。
「事実、彼はその前日、自分の貯金を全額下ろし、足りない分を消費者金融から借りている。彼自身が支払ったことは、間違いないね」
「どういうことや」
岡村がつぶやく。
「とにかく、本部は中西が犯人やという方向で捜査を進めている。これ以上のことは、君達のような部外者に話すことはできへんね。帰ってもらいましょうか」
「部外者って……」
冷たく言い放たれ、思わず返す言葉を失う。
「わかりました。警察がその気なら、中西の無実は僕らが証明してみせます」
岡村が厳しい顔で言い返す。
「ほう、それはたくましいねえ。ほんなら、お手並み拝見といこうか」
安永刑事は馬鹿にしたようにそう言うと、くるりと背を向けた。
「ひとつだけ、教えていただきたいことがあるんです」
行きかける安永刑事の腕を、岡村が掴む。
「何や?」
安永刑事が、眉間に皺を寄せて振り返った。ピリピリした空気が流れ、息苦しい。
「米倉のアリバイは、ちゃんと調べはったんですか?」
「米倉? なんや、殴られた腹いせに、彼に目をつけたんか?」
安永刑事が鼻で笑いながら、岡村の手を振りほどいた。
「どうなんですか?」
岡村は取り合わず、もう一度尋ねる。
「さっきも言うたやろ。君なんかに言われへんでも、関係者は抜かりなく調べてある」
安永刑事は不機嫌そうな顔でそう言うと、手帳を取り出した。
「1日の夜は一晩中、家にいたそうや。実際、午後11時頃、同じアパートに住んでいる何人かが、彼が誰かと口論する声を聞いている」
「そんなもん、テープでも使えば、いくらでも細工できるじゃないですか」
私は思わず口をはさんだ。
「まあ、そう言われてみればそうやねえ」
安永刑事がとぼけた答えを返す。私と岡村は、思わず顔を見合わせた。
「8日の夜は?」
気を取り直して、岡村が尋ねる。
「午後10時頃、京都市内で喧嘩騒ぎを起こしていてね。翌朝まで白川署で世話になっていたようや」
安永刑事は顔を上げた。
「犯人は同一人物や。8日の夜のアリバイは動かへん。従って、彼はシロ、というのが、本部の見解や」
「口論に喧嘩か。ほんまに戦闘的なやっちゃなあ」
岡村が呆れたように腕を組む。
「昔からか?」
「そうですねえ」
岡村の問いかけに、私は首を傾げた。
「高校の時は、かなり真面目だったんですけどねえ。どちらかと言えば優しいイメージが……」
派手好きな愛とは不似合いだと、みんなから言われていた憶えがある。
「そうなんか」
安永刑事が小さな声でつぶやく。
「え?」
私が聞き返すと、彼は誤魔化すように目を逸らした。
「安永さん、ほんまに中西が犯人やと思ってはるんですか?」
岡村が、伺うように安永刑事の顔を覗き込む。安永刑事は、岡村の目をじっと見つめ返した。
「『本部は中西が犯人という方向で動いている』と、そう言うとるやろう」
その言葉に、岡村はふっと微笑んだ。
「わかりました。どうも失礼しました」
岡村は小さく会釈すると、回れ右して玄関に向かった。安永刑事も、ぷいと後ろを向いて奥へと歩き始める。
「おい、行くで」
玄関から岡村に声をかけられ、私も振り返った。