第3章
(1)
「お早うございます」
荒川助教授の研究室に入ると、修士1回生の峰山穣が声をかけてきた。
「お早う」
峰山の左側に置かれたイスを引き、私は腰掛けた。調べモノに手間取ってしまい、既に遅刻の状態だ。
「先生は?」
部屋の奥にあるデスクを覗いてみたが、不在のようだ。
「まだ来てはりませんね。いつものごとく、遅れはるんとちゃいますか?」
峰山が楽しそうに笑う。
「そうみたいね」
古代史の担当である荒川助教授は、何しろ時間にルーズだ。先日など、講義の時間が終わる5分前に現れ、「ついさっき起きたんだ」などと悪びれもせず笑ってのけた。
「午前中の講義って、たしかに辛いですけどねえ」
テーブルを挟んで正面に座っている修士2回生の前橋渡が、一応フォローらしきものを入れる。
「午前中って、もう11時ですよ」
峰山が呆れ気味に言った。
廊下で生徒を待たせるのも気がひけるということで、研究室の鍵は秘密の場所――といっても、ドアの桟の上という、ベタな場所なのだが――に置かれていた。彼らはおそらく、その鍵を使って研究室に入ったのだろう。
「まあ、授業の時間が終わるまで、まだ1時間近くあるし」
腕時計を見ながら微笑むと、私はバッグの中からルーズリーフを取り出した。
現在、うちの大学院で古代史を専攻しているのは、この部屋にいる3人のみ。他の時代はそれぞれ5~6人ずついるのだが、古代史は人気がないのか、どうにも人数が増えない。
「ああ、そうや。近藤さん、今月の『日本古代史研究』見はりました?」
前橋に尋ねられ、私は頷いた。清愛大学の歴史研究会が主宰している、古代史関係の月刊誌だ。
「あれに、『姓氏録に関する一考察』って論文が載ってたの、憶えてはります?」
「ええ。憶えてるけど」
たしか清愛大学の諸星教授が書いていた。『姓氏録』は氏族史を研究している者にとっては、必ず手にしなければならない史料のひとつだ。「秦氏」の記述について取り上げられており、なかなか面白かったので、記憶にひっかかっていた。
「あの論文、実は俺の友達が書いたんですよ」
「え? 諸星先生じゃないの?」
前橋の言葉に、私は聞き返した。
「あの教授、もう論文は書いてへんみたいですよ。全部院生に書かせて、自分の名前で発表してはるらしいんです」
峰山が言う。
「ただの噂じゃないの? そんなこと信じられない」
「噂やないんですよ。現に、代わりに文章書いた友達から直接話聞いたんですから」
前橋が少し声をひそめて言った。
「でも、そんなことしたら、院生達が黙ってないでしょ?」
私は驚いて前橋の顔を見た。
「俺やったら怒ると思うんですけどね、あいつら、ちょっとおかしいんですよ」
前橋が、人さし指で頭を差しながら言う。
「自分の名前で出すより、教授の名前で出した方が、論文、注目してもらえるって思ってるみたいなんです」
「それに、あの大学、いろいろ生涯学習の講座開いてるやないですか」
峰山が続けた。前橋から、既に話を聞かされているのだろう。
「論文肩代わりした院生が、講座を担当させてもらえるらしいんです。いいバイトになるって、逆に喜んでるって」
「最低ね」
私は溜息をついた。
「教授がですか? 院生がですか?」
前橋が尋ねる。
「どっちもよ」
「せやけど、世の中ってこういうケース、多いらしいですよ。――ゴーストって言うんですか?」
「ゴースト?」
私は聞き返した。
「ええ。ゴーストライターとか言うやないですか」
峰山が答える。
「待って。ゆっくり言ってみて。『ゴースト』って」
「え? 何のゲームですか?」
峰山が笑いながら私の顔を見る。しかし、私が真剣な表情をしていたせいか、困ったような顔をしながら、ゆっくり口を動かした。
「ゴー・ス・ト」
私は頷いた。
「やっぱり」
2人は不思議そうに顔を見合わせている。
「どうしはったんですか?」
「あ、ううん、何でもないの。ごめん」
これだ。この口の動きだ。あの時、静世は「ゴースト」と言ったんだ。でも、どういう意味だろう。
「あの、すみません」
その時、ドアがノックされ、事務のおばさんが顔を出した。
「今、荒川先生からご連絡がありまして」
私達は一斉に彼女の顔を見た。
「今日は休講って伝えてくれとのことです」
「理由は?」
前橋が尋ねる。
「それが、よくわからなかったので、おっしゃった言葉通り書き留めておいたんですけどねえ」
おばさんは、メモを私に手渡すと部屋を出て行った。
3人で覗き込む。そこにはこう書かれていた。
『未だ夢想の地に佇みおり候。許されたし』
「――結局、寝坊ってことですよね」
峰山が呆れたように言った。
(2)
約束の時間にはかなり早かったが、私は南門の前のパン屋を訪れた。結構混んでいて、少し待たなければならないようだ。
「まあ、ちょうどいい時間潰しになるか」
私は店員に名前を告げると、ドアの外に置かれたイスに腰を下ろした。
バッグの中から食事会の時の写真を取り出す。みんなに囲まれるようにして、愛も楽しそうに笑っていた。何だか切ない気持ちになる。
と、ぽん、と肩を叩かれた。
「あ、岡村さん」
「おう、早めに来とってんなあ」
岡村が、隣のイスに腰掛ける。
「荒川先生、また寝坊で休講ですよ」
「ははは、そうなんか。俺の方は、田代先生のところに来客があって、打ち合わせは延期になったわ」
「来客?」
私は尋ねた。
「うん。誰やと思う?」
「さあ」
私が首を傾げると、岡村は答えた。
「高橋さんや。愛知県警の」
「え? 何でまた?」
「詳しいことはわかれへんねんけど、甥のマサキさんのことでどうとか言うとったわ」
「甥のマサキさん?」
「俺もよう知らんねんけどな」
岡村が腕を組む。
「近藤様」
その時、店員の声が響いた。返事をしながら立ち上がる。
指定されたのは、日当たりのいい窓際の席で、道路からは見えない奥まったところだった。ゆっくり話をするには丁度いい。
私達は、日替わりのランチを頼むと、早速、本題に入った。
「写真、持って来ました」
「おお、ありがとう」
お水の入ったグラスとおしぼりを横にどけて、場所を作る。見やすいように、岡村の正面に写真を置いた。お店の人に頼んで撮ってもらった写真。前3人、後ろ3人の二列になっていて、前の3人はしゃがんでいる。
「この、後ろの列の一番右にいるのが、高階純子。3年間、クラスもクラブも一緒でした」
「へえ。快活そうな雰囲気の子やな」
「噂話とか大好きで、情報集めが趣味みたいな子です」
私が言うと、岡村は楽しそうに笑った。
「そらまた、お前とは正反対のタイプや」
「ええ。まあ」
私も笑う。
「それから、その隣が富田美智江。えっと、今は結婚して川上っていう苗字になってます」
「おお、大人しそうやけど、よう見たらごっついべっぴんさんやないか」
「ええ。中西君、思いっきりタイプだって喜んでました」
「それで、ちゃっかり隣に写っとるんか。しかも鼻の下のばして」
岡村が苦笑する。
「で、前の列で、私の隣にいるのが羽場愛。この間、殺されちゃった子です」
「テレビなんかにも出てた、言うてたなあ。たしかに、派手な感じやし、なんて言うんかなあ、こう……」
「華があるでしょ? ぱっと目を惹くっていうか」
「そうや、そうや。そう言いたかったんや」
岡村は何度も頷いた。
「で、最後の一人が湯川静世ちゃんやな。この間会うた時とは、ちょっと雰囲気が違うなあ」
「そうですね。この時は結構オシャレしてましたからねえ。フォルクスで会った時は、普段着だったし、泣いてたし……」
「そうやったなあ」
岡村が腕を組む。
「そう言えば、この間、安永さん来はったって言うてたやろ? 何の話やったんや?」
岡村の質問に答えようとした時、ランチが運ばれて来た。岡村が、写真を横手にどける。
ミックスサンドとクロワッサンサンド。それに、スープとサラダとドリンクが付いて800円。これはお値打ちだ。
私は、ジンジャーエールにストローを差しながら、岡村の方を見た。
「愛と静世は上手くいっていたかって」
「なんや、上手くいってなかったんか?」
「いや、いってたと思うんですけどねえ」
そして、私はあの、タクシーで愛が言っていたことを話した。
「『静世には感謝してる』か」
「ええ」
頷きながら、サンドイッチを頬張る。
「まあ、愛ちゃんの方はそうだったとして、静世ちゃんの方はどうやったんやろ」
私はサンドイッチを飲み込みながら、首を傾げた。
「見た目では、嫌ってる風には見えませんでしたけどねえ」
「ふうん」
「でも、2人の不仲を警察に話したのは、ブティックの人らしいんですよ」
「店員さんやったら、2人にはいつも接してるわけやからなあ。一概に嘘やと退けるわけにはいかんわなあ」
岡村が眉をひそめる。
「そうなんですよ。それで、うちにも聞きに来られたんだと思うんですけどね」
「なるほどなあ」
岡村がサンドイッチを手に、頷く。
「ああ、そうだ」
私は顔を上げた。
「あのフォルクスで乱闘になった時のことなんですけど……。静世が、泣きながらブツブツ言ってたんですよ」
「おう」
岡村が頷く。
「最初は、『ほーすと』って言ってるみたいに見えたんです。で、なんのことかよくわからなかったんですけど、さっきようやくわかりました」
食べかけのクロワッサンサンドを、一旦お皿に戻しながら続ける。
「『ゴースト』って言ってたんじゃないかと思うんですよ」
「『ホースト』『ゴースト』、おお、確かに口の形は一緒やな」
「でしょ?」
「せやけど、どういう意味やろなあ」
「さあ」
私は首を傾げた。
「『ゴースト』って言えば、幽霊やなあ。何か、見たらアカンもんでも見たんやろか」
「だったら、『お化け』とか言うでしょう。日本人なんだし」
私が反論すると、岡村は少し考えて、また話し始めた。
「となると、『ゴーストライター』が思い浮かぶわなあ」
「私も、ゴーストライターの話をしていて、『ゴースト』だって気付いたんですよ」
私は、ジンジャーエールを一口飲んだ。
「でも、愛は別に本なんて書いてないし」
「せやけど、デザインはしとったんやろ?」
「ええ。デザイナーですし」
そう答えてから、私は岡村の顔を見つめた。
「じゃあ、愛のデザインは、誰かその『ゴースト』さんが考えていたってことですか?」
「デザイナーでゴースト使うって言ったら、それ以外にないやろ?」
「まさか」
そう言いながら、高校時代の愛のことを思い出す。
彼女は家庭部に所属していて、あの頃からよく自作の服を作っていた。文化祭で行われるファッションショーでも、最優秀作品に選ばれていたし、県の代表として出場した何とか言う有名な大会でも、全国優勝を果たした覚えがある。たしか、高3の時のことだった。
「昔から、素敵な洋服を作ってましたよ。彼女」
「作風が変わったってことはないか?」
「作風って言われてもねえ」
フリルをたくさん使いながらも、どこかセクシーさがある服。美容院でたまたま読んだファッション誌には、そんな評価がされていた。高校の時の作品は、もちろん今のレベルとは比べ物にならないだろうが、たしかにフリルはたくさん使っていた気がする。
「通じるモノはあったような気がしますけど。私もあんまり興味がある方じゃないんで」
「まあ、そうやろな」
岡村は軽く流すと、椅子の背にもたれかかった。
「その『ゴースト』ってのが、愛ちゃんのデザインを作っていた人やとしたら、一体誰のことやろな?」
「誰でしょうねえ」
私は首を傾げた。
「まあ、常識的に考えたら、静世ちゃんやろな。仕事も一緒にやってたんやし、彼女がゴーストやったとしたら、誰にも気付かれへんかったんちゃうか?」
「たしかに、そうですけど……」
私は岡村の顔を見た。
「昨日、岡村さんからお電話いただいた後、その静世から電話があったんですけど」
岡村が頷く。
「その時の話振りでは、そんな風には思えませんでしたよ。お店も畳むつもりみたいですし」
「そうなんか」
岡村が驚いたような顔をした。
「ゴーストやったとしたら、静世ちゃんには、愛ちゃんを殺害する動機があると思ってんけどなあ」
「動機? 何ですか?」
「ゴーストって言えば、言わば日陰の身や。そろそろ日の当たるところに出たいと考えたって、不思議はないやろ?」
「でも、あのブランドは愛のブランドですよ。仮に、本当は静世のデザインだったとしても、愛の作品として認められている以上、いくら愛を殺したって自分のブランドにはならないんですから」
「たしかになあ」
岡村が頷く。私達は黙り込んだまま、食事を進めた。
(3)
「そう言えば、愛が不思議な行動をとってたとか、言ってましたよ、静世」
クロワッサンサンドの最後の一口を飲み込むと、私は岡村の方を見た。
「不思議な行動?」
サンドイッチを頬張っていた岡村が、顔を上げる。
「ええ。お店のお金を黙って持ち出したりしていたようですよ。静世は、他にパートナーがいたんじゃないかって思ってるみたいでしたけど」
「へえ。何や、ようわからんなあ」
沈黙が流れる。私は、サラダの器を持ち上げて残っていた分を食べ切ると、器をテーブルに戻した。
「あ、そうだ。高橋さんの件も気になりませんか?」
「高橋さん?」
岡村が聞き返す。
「前に中西君も、高橋さんに会ったらしいんです」
「そうなんか」
岡村は真剣に聞き入っている。
「で、この間、安永さんがうちに来られた時に、聞いてみたんですけどね」
残っていたジンジャーエールを飲み干すと、私は続けた。
「安永さんは『何でもない』の一点張り。でも、山田さんが教えて下さったんです」
「この間の取調べの時に会ったけど、あの兄ちゃん、口が軽そうやからのお」
岡村が苦笑する。
「で、何て?」
「何でも、7年前の夏に大学生が殺された事件がどうとか」
「名古屋でか?」
「ええ」
私は頷いた。
「ほんなら、それがその『マサキ』なんかな?」
「田代先生の甥って言う?」
「ああ。――当時の新聞調べてみたら、載ってへんやろか」
「そうですね」
岡村の提案に軽く答えてから、私は慌てて聞き返した。
「調べるって? 日にちも何もわからないんですよ? どうやって?」
「夏って言われたら、大体何月くらいを想像する?」
「6月から8月くらいですかねえ」
「ほんなら、7年前のその辺りで『マサキ』って名前の大学生が殺されてへんか、調べたらええやんけ」
「全国誌じゃあ、載ってないかもしれませんよ。名古屋の事件だし」
大変なことになってきてしまった。何とか岡村の意思を変えようと試みる。
「それに、その『マサキ』さんが、殺された大学生とは限らないんですよ」
「違ったら違ったで、また考えたらええやんけ。とりあえず、調べてみようや」
「今からですか?」
「今からや」
あからさまに不服そうな表情を見せると、岡村は怒ったような顔で言った。
「無駄な調査は慣れてるやろ。論文書く時なんて、駆けずり回って集めた資料の一割使えれば御の字やねんからな」
「たしかにそうですけど……」
「ほら、行くで。人間、無駄を恐れたらアカン」
岡村が、伝票を手に立ち上がる。
「もう」
言い出したら聞かないんだから。私は溜息を吐きながらバッグを手にした。
(4)
「まずは、毎朝新聞から行くか」
資料館に着いた私達は、早速、新聞のバックナンバーが並べられているコーナーに出向いた。時間は午後1時。4時からバイトなので、3時半にはここを出ないといけない。
「えっと、7年前って言うと、1994年か」
「そうですね」
「近藤は6月を見てくれへんか? 俺は7月を見ていくから」
「わかりました」
私は頷いて、94年6月分の分厚い冊子を選び出した。岡村は、その隣の冊子を手にする。
「殺人系のニュースって、大体テレビ欄の裏ですよね」
「そうやな。その辺りを中心に見ていこか」
テーブルに向かい合って座ると、私達は1枚1枚、ページをめくり始めた。
「――なかなかありませんねえ」
15日まで読み進めたが、該当する記事は見当たらない。岡村は顔に似合わぬ几帳面さを発揮し、まだ7月9日までしか進んでいなかった。
「お前、早いなあ。ちゃんと見てるんか?」
「ええ。まあ」
言いながら心配になってくる。とりあえず30日まで見たら、もう一度戻ろう。
「どうせ、大雑把に見てるんやろ」
「あはは」
誤魔化し笑いをしながら、壁に掛けられている時計を見上げた。午後2時。もう1時間も経っているのか。
「何や、字が小さなってるから、目が疲れるなあ」
バックナンバーはA3版に一面分が収められているため、文字が小さい。たしかに私も、先ほどから目がちらちらしていた。
「もう30分ほど頑張ったら、ちょっと休むか」
「そうですね」
見つかるわけないのに、という心の声と闘いつつ、紙面に目を走らせる。
「――お、これちゃうか?」
「え?」
岡村の声に、驚いて顔を上げた。彼は11日の紙面を見ている。
「現場は名古屋市熱田区。名産大2年の飯倉正紀っていうやつが殺されとるわ。おお、こいつ、当時国会議員やった飯倉徹郎の孫やって」
岡村が腕を組んで顔を上げる。
「飯倉徹郎って、昔、厚生大臣やってた、あの飯倉徹郎ですか?」
「ああ、そうや。そう言われたら、この事件憶えてるわ。国会議員の孫やし、俺と同じ歳やし、なんか印象に残ったんやなあ」
「でも、田代先生とは苗字が違いますよねえ? それに、先生が飯倉徹郎の親戚だなんて、聞いたこともないし」
私は首を傾げた。
「奥さん方の関係かもしらんやろ? それに、『7年前の夏、名古屋で殺された「マサキ」って名前の大学生』なんて、何人もいてるはずないやん」
「そう言われてみれば、そうですね」
納得して頷く。
「まあ、他にもないか、後で確認しとくわ」
岡村は私の方を見て微笑むと、紙面に目を戻した。
「それにしても、いまだに捜査が続いてるってことは、この事件、まだ解決してへんのやろなあ。なんや、かなり変な殺され方しとったって話やったし」
記事を読みすすめるうちに、はっきりと思い出して来たのだろう。岡村は続けた。
「そうそう、何かなあ、草茫茫の空き地の中で、頭を殴られて亡くなっとったらしいわ。それが、傷口が前と後ろと2箇所にあってなあ。前は大した傷でもなかったらしいねんけど、後ろの方が致命傷になったって書かれてる」
「2箇所?」
「おお。死亡推定時刻は前日の午前11時から12時の間。人通りの少ない淋しい場所やったし、目撃者も出えへんかったみたいやなあ」
「ええ? でも、まっ昼間ですよ。目撃者がいないっていうのも、不思議な感じですね」
「住宅街ってやつは、結構昼間の方が人が通らへんかったりするんちゃう?」
「たしかに、それはありますけどねえ」
私は頷いた。
「財布から金が抜き取られとったし、結局、物取りの犯行なんちゃうかってことになったと思うねんけどなあ」
岡村は腕を組んだ。
「これが、何で今更ほじくり返されてんのやろ」
「山田刑事の言い方では、今回の事件とも関係がありそうな感じでしたよ」
私は手元にあった冊子を閉じて、岡村の顔を見た。
「名古屋で7年前に起こった強盗殺人と、今回の愛ちゃんの事件。接点は名古屋だけやんなあ」
「ええ。それに、名古屋って言っても、愛の実家はたしか瑞穂区ですしねえ」
私達は、紙面を見ながら考え込んだ。
(5)
少し遅い夕食が終わったのは、8時頃だった。
「昔はちゃんと作ってたんだけどねえ」
何となく言い訳をしながら、お弁当の空箱をゴミ箱に捨てる。
はす向かいにお弁当屋さんが出来たのが、ちょうど1年ほど前。下手に自炊するより安いこともあって、最近ではすっかり常連になっている。
冷めたコーヒーを口に運び、私はバッグから1枚のコピーを取り出した。
今日のお昼に、岡村と一緒に見つけた例の記事。他に該当しそうなものはなかったため、やはりこの事件なのだろう。
「被害者は、頭部を何度も殴られていた。前から数回。そして、後ろから1回。この後ろの傷が致命傷になった、か」
前頭部はあまり固くない棒状のモノで殴られており、凶器は特定されなかった。傷も、それほど深いものではなかったらしい。一方、後頭部を殴ったと思われる石は現場で見つかったが、当日降っていた大雨のせいもあり、指紋は検出されなかった。
『現場近くの路上で、被害者のものと思われる財布が見つかった。中に入っていた現金が全て抜き取られていたことから、捜査本部は犯人が逃走途中で捨てていったものと断定。財布からは、被害者の指紋の他にもう1種類の指紋が検出されたが、前歴者に該当するモノはなかった。警察は目撃者探しに全力を上げている』
それから7年。いまだに犯人は捕まっていない。
「これが、愛の事件とどう関係するんだろうねえ」
溜息を吐いた時、電話が鳴った。手にしていたコピーをテーブルに置き、受話器を取る。
「もしもし」
それは、高校3年間、ずっと一緒だった高階純子からの電話だった。
「元気してる?」
「うん。純子は?」
「めっちゃ元気」
彼女はからからと笑うと、話し始めた。
(6)
「ところでさあ、この間の夜は大変だったらしいじゃない?」
「この間の夜?」
咄嗟には何のことかわからず、私は聞き返した。
「ほら、フォルクスでの事件よ」
相変わらずの早耳だ。私は苦笑いしながら尋ねた。
「誰に聞いたの?」
「あのフォルクスに、元カレがおってさあ。静世の顔を憶えてたのよ。前に会ったことがあるもんでね」
「それで、連絡があったわけね」
「『近藤』とか呼ばれてる女の子がいたって言うし、あんただろうなあと思ってさあ」
純子は、とにかく付き合いが広い。広く浅く、そして時には深く。持っている情報網も半端ではない。高校の頃からそうだった。
「どこにでも情報屋がおるんだね。変わっとらんわあ」
半ば呆れ、半ば感心しながら言うと、純子は楽しそうに笑った。
「あんたは相変わらず、他人様のことには興味なし、ってとこでしょ?」
「まあね」
変わらないのはお互い様か。
「で、どうなったの? 愛の事件の手掛かり、なんか掴めた?」
好奇心一杯の声で、純子が尋ねて来る。
「掴めるわけがないでしょ。こっちが聞きたいくらい」
純子の質問は続く。
「喧嘩ってさあ、誰と誰がやってたわけ?」
「最初は静世と米倉君。で、止めに入った中西君と米倉君が殴り合いになってさあ」
「中西君って、この間、食事会に来とった子でしょ?」
「そうそう。で、間に入った岡村さんまで巻き込まれて、もうてんやわんや」
思い出すだけでもうんざりする。私は溜息をついた。
「岡村さんって、例の、あんたのこと好きっていう物好きな人?」
「物好き?」
思わず聞き返す。
「まあ、それはいいとして。あんたは救急車で運ばれたって聞いたけど」
純子に言われ、ムカツキつつも私は答えた。
「米倉君に突き飛ばされてさあ。もう、痛いの何のって。まだコブになっとるくらい」
「で、大丈夫なの?」
純子が心配そうに尋ねる。
「まあ、大したこともなかったし、こうして無事に生きてるわよ」
私は冗談めかして答えた。
「静世は、どうなの?」
「静世?」
放心状態だった彼女の様子を思い出す。
「なんかもう、どうしていいかわかんないって感じだったわ」
「米倉君との喧嘩の原因は?」
「知るわけないじゃん、そんなの」
私が答えると、純子は呆れ声で言った。
「あんたさあ、自分も巻き込まれとるんだでさあ、もう少し真剣に考えたら?」
「真剣にねえ」
考えたところで何がわかるわけでもないだろう。そう思っているうちに、ふと静世の言葉を思い出した。
「ゴースト」
「へ? 何?」
純子が受話器の向こうから尋ねる。
「いや、何でもない。――実はさあ、頭打ったから、よく憶えてないんだよね」
純子に知られたら、どれだけ尾ひれを付けて言いふらされるか、わかったもんじゃない。私は慌てて取り繕った。
「そっか。救急車で運ばれたんだもんね」
純子があっさり引き下がってくれて、ほっとする。彼女は少し間を開けて、再び話し初めた。
「でさあ、今度は愛の話なんだけどさあ」
「何?」
私は尋ねた。
「この間の食事会の時、静世が、不倫がどうのこうのって言っとったの、憶えとる?」
純子に聞かれ、頷く。
「うん。憶えとるよ」
あの時は、本当にみんな楽しそうだったのに……。
「実はさあ、私、見ちゃったんだよね」
「何を?」
「愛が、ホテルのロビーで男ともめとるとこ」
「へえ」
男ともめることくらい、誰だってあるだろう。愛みたいに、バリバリ社会進出している女性となれば、なおさらだ。
「ちょっともう、何でそんなに気のない返事してるのよ」
「だってさあ、男ともめてただけでしょ? だから不倫だなんて、乱暴過ぎない?」
「でも、話の内容が聞こえちゃったんだもん」
「純子、盗み聞きしたの?」
私が呆れ気味に尋ねると、純子は怒ったように言った。
「人聞きの悪いこと言わないでよ。『聞こえちゃった』って言ってるでしょ」
「ああ、そう。ごめん、ごめん」
意識してるから聞こえるんだろう、と思いつつ、言い返すのはやめにした。
「『別れたくない』とか『好きだ』とか、男の方が一生懸命言っててさあ」
「へえ、そうなんだ」
そりゃ、誰が考えても痴話喧嘩だ。
「ちょうどそこで、待ち合わせしとった友達が来ちゃってさあ、それから後の話は聞けなかったんだけどね」
純子が残念そうな声を出す。
「ホテル出る時に振り返ったら、愛が男に頭下げてたのよ。テーブルにこう、手を付いて、土下座してるみたいな感じでさあ」
「愛が?」
私は驚いて聞き返した。
「そう。あのプライドの高い愛が、頭下げてたのよ。きっとよっぽどのことだって」
「よっぽどのことかあ」
愛と土下座。どうしても結びつかない。
「愛はどうしてもその男と別れたかったのに、男の方は別れたくなかった、って感じじゃない?」
「たしかにね。――でも、それがどうして不倫になるわけ? その男の人が妻帯者だって、何でわかるのよ」
私が尋ねると、純子は一瞬言い淀んだ。
「別に、言いたくなければ言わなくていいよ」
私は急いで付け加えた。愛の殺人事件になにか関係しているかも、とは思ったが、あまり詮索するのもどうかという気がする。
「ううん、別に言いたくないってわけでもないんだけどさあ。――ま、いいか。京子、クチ固いもんね」
純子は何やら独り言を言うと、話し始めた。
(7)
「美智江と年賀状、やりとりしとる?」
「うん」
急に話が変わって驚いたが、私は頷いた。
「じゃあ、ご主人の顔、知っとるよねえ」
「知っとるよ。あそこ、いつも写真入りだもんね」
美智江の年賀状には、毎年、ツーショットの写真が載せられていた。年が離れているせいか、かなり落ち着いていて、渋い二枚目といった感じの男性だ。
「で、それがどうしたの?」
私は不思議に思って尋ねた。
「私もさあ、年賀状で見て知っとるだけだから、アレなんだけど」
純子は一拍置いて続けた。
「愛ともめたてた男、美智江のご主人だったような気がするのよね」
「まさか」
私は思わず笑ってしまった。
「だって、この間の食事会でも、美智江からさんざん、ノロケ話聞かされたよ」
「それ、ホントのことだと思う?」
「当たり前じゃん」
私は答えた。
「でもさあ、美智江のご主人、今、ほとんどホテル暮らしみたいだよ」
「ホテル暮らし? どういうこと?」
私は尋ねた。
「実は、うちの会社、美智江のご主人の会社と取引があってさあ」
「ああ。同じ業界だもんね」
純子は保険の代理店に勤めている。美智江のご主人は、たしか損保関係の会社に勤めていたはずだ。
「で、仕事通じて仲良くなった子が、たまたまご主人と同じ職場でさあ。そこから聞いたんだけどね」
出た。広過ぎる交友関係。
「一応、仕事が忙しくて自宅に帰れない、って言うのが、ホテル暮らしの理由らしいんだけどさあ」
「自宅に帰れないって、ご主人の職場、京都市内じゃないの? 自宅は大山崎だし、タクシーだって何だって、帰れる距離じゃない?」
「そうでしょ? やっぱ、京子もそう思うよねえ」
私の質問に、純子は我が意を得たり、と言う風に話し始めた。
「それなのにさあ、三条にある京都クリスタルホテルに泊まりっぱなしらしいよ、あそこのご主人。で、愛ともめてるとこ見たのも、そのクリスタルホテルのロビーだったの。これって、本人の可能性高くない?」
「なるほどねえ」
私は溜息を吐いた。たしかに美智江のご主人だったのだろう。
「それに、美智江のご主人、愛のブティックの保険、担当だったらしいのよ。接点もあるでしょ?」
「へえ」
反論する気も失せ、私は適当に相槌を打った。
「でさあ、私が思うに」
他に誰に聞かれるわけでもないのだが、純子は声をひそめた。
「うまくいってないんじゃないのかな。あの夫婦」
「でも、年賀状の写真では、あんなに仲よさそうにしてるじゃん」
「カムフラージュ、カムフラージュ。保険業界って信用が第一なのよ。離婚なんてしたら、昇進に関わっちゃうじゃん」
「そんなもんなの?」
私は半ば呆れ気味に尋ねた。
「そうよ。うちの社員も、『夫婦仲良く』っていっつも言われてるし」
「へえ」
別に社員が離婚したからと言って、会社全体のイメージが下がるってもんでもなかろうに。
「――それにしてもさあ、友達のダンナに手を出すなんて、愛も節操ない女だったわよね」
「純子、そんな言い方、よくないよ」
思わずたしなめる。
「でもさあ……」
純子が不服そうに言った時、音声が聞き取りにくくなった。
「あ、ごめん、キャッチ入っちゃった。ちょっとそのまま、待っててくれる?」
「うん、わかった」
私が答えると同時に、にぎやかな音楽が鳴り始める。その電子的な旋律を聞きながら、私はぼうっと天井を見ていた。
大人になるってこういうことなのだろうか。高校時代にはあり得なかったような出来事が、次々に起こっている。
「ごめん、ごめん。ちょっと出かけることなっちゃってさあ。またかけ直すわ」
純子の声に我に返る。
「出かけるって、今から?」
時間はもう8時半を過ぎている。私は驚いて尋ねた。
「うん。すぐ帰るから大丈夫よ。それに、バス停だってすぐそこだし」
「そう? でも、道、暗いんだから気を付けてね」
最近は変な人も多いし、何だか心配になってしまう。
「ありがとう。って、京子だって一人暮らしなんだから、遅くに一人で出歩くこともあるでしょ?」
そう言われてみれば、その通りだ。
「ああ、そうか。昨日も家に帰って来たの、9時過ぎだった」
私の言葉に、純子が大笑いする。
「あははは。京子って、ホントに変わっとらんよね。ずっとそのままでいてよ」
「何言ってるの。純子だって変わってないじゃん」
私が笑いながら言うと、彼女は少し暗い声で答えた。
「変わっちゃったよ。自分でも、どうしていいかわからないくらい」
「純子?」
思わず呼び掛けると、彼女は明るく笑った。
「えへへ。なーんてね、ちょっと大人ぶってみた。じゃ、またね」
「うん。じゃあね」
まったくもう。やっぱり変わってないじゃん。
私は少しほっとしながら、受話器を置いた。