第2章
(1)
「以上で、勉強会を終わります」
進行役の博士課程2回生、石川尚人の言葉に、皆、がたがたと立ち上がった。
「お疲れ様でした」
「お疲れ」
参加していた28人が、口々に挨拶しながら研究室を後にする。
「近藤、ちょっとええか」
声をかけてきたのは中西だった。彼は、講義は休んでいたのだが、勉強会には顔を出していた。
「うん。何?」
発表のために広げた資料を片付けながら、私は尋ねた。
「心配かけてもうて、悪かったなあ」
中西はうつむいて続ける。
「ちゃんと話さなアカン思っとってんけど、昨日は何や、頭が混乱してもうて……」
「警察に連れて行かれたんだから、混乱するのは当たり前でしょ。気にしなくていいよ」
私は片付ける手を休めて微笑んだ。
「おおきに、ありがとう」
中西は、ほっとしたような表情を浮かべた。
「せやけど、取り調べってきついねんなあ。前の事件の時にも事情は聞かれたけど、あの時は全くお客さん扱いで、すごく丁寧な口調で質問されたもんや。でも、今回はさすがに怖かったわ」
「そう。大変だったわね」
せまい部屋に、図体のでっかいオッサンと向かい合わせて座らされるのだ。あの圧迫感は、私自身もイヤというほど経験していた。
「そうや、高橋って刑事も来てはったで」
中西に言われ、あやうくバインダーを落としかけた。
「高橋刑事って、愛知県警の?」
2年前の事件で知り合いになった、高橋刑事を思い浮かべながら聞く。
「うん」
彼は頷いた。
「へえ、そうなんだ。で、相変わらずひょろながかった?」
私が尋ねると、彼は笑った。
「向こうもおんなじようなこと聞いて来とったで」
「おんなじようなこと?」
「うん。『近藤さんは、相変わらず単純か?』って」
あのひょろながめ。今度会ったら、一発くれてやる。
でも、どうして京都に来ているんだろう。何か事件でもあったんだろうか。
不思議に思いながら、バインダーや本などをバッグに放り込んでいると、研究室の入り口から岡村が顔を覗かせた。
「おお、よかった。まだおったんか」
「あ、岡村さん、今晩は」
「まだ大学にいらっしゃったんですか?」
勉強会は6時半から始まる。今はもう8時を過ぎていた。
「ああ。森山先生と論文のことで話しとってな」
「そうなんですか。大変ですねえ」
私が言うと、彼はわざとらしく溜息をついた。
「ほんまやで。バイトしながらこんなに勉強せなアカンなんて、俺もイバラの道を選んだもんや」
「いえいえ、岡村さんじゃなくて、森山先生ですよ。こんな時間まで付き合わされちゃって。ねえ?」
私が中西に同意を求めると、彼は真顔で、ほんまやな、と言い、そして笑った。
「ほんまに、優しい後輩達を持って、俺は幸せやわ」
岡村が眉間に皺を寄せる。その表情を見て、私は思わず吹き出した。
「で、お前ら、晩飯は食うたんか?」
岡村に尋ねられ、中西が答えた。
「ええ。勉強会が始まる前に軽く。サンドイッチですけど」
「近藤は?」
岡村がこちらを向く。
「私も軽く。吉牛で大盛りを1杯ほど」
「それは、軽いとは言わへんねん」
岡村と中西に同時に突っ込まれ、私は笑顔を作っておいた。
「まあ、ええわ。俺もほとんど食うてへんねん。今日、バイト代が入ったし、なんかご馳走したるわ。時間、大丈夫か?」
岡村が私達の顔を交互に見る。
「もちろんです」
私が即答すると、中西は遠慮がちに頷いた。
「よっしゃ、そんなら、フォルクス行こうや」
岡村はそう言い残し、さっさと研究室を出て行く。私と中西は、大急ぎで彼の後を追った。
(2)
夕食にはもう遅い時間だと言うのに、店内は結構込んでいる。案内された席に腰を落ち着けると、岡村は、メニューを正面に座った私達の方に向けた。
「中西、遠慮すんなや」
岡村が中西に優しく声をかける。
「近藤、お前は少し遠慮せえよ」
「は?」
メニューを覗き込んでいた私は、思わず顔を上げた。
「昨日もおごったったやろが」
割り勘だなんだと言いながら、彼は結局ご馳走してくれたのだった。
「はあい」
低い声で返事をすると、中西が楽しそうに笑う。
「今、オージービーフのフェアやってんねんな。どうや、このセットメニューは?」
『おすすめ』と書かれたメニューを指差しながら、岡村が私達の顔を見た。
「ああ、いいですね」
中西が頷く。
「サラダバーも付いてますよね」
私が確認すると、岡村は笑いながら言った。
「付いてるで。でも、5杯も6杯も食べんといてや」
「近藤やったら、ほんまにやりそうやからな」
男2人の大笑いにムッとしつつも、何も言い返せない自分が情けない。
「ほんなら、セット3つでええな。――姉ちゃん、頼むわ」
岡村が、カウンターの前に立っていたウエイトレスを呼ぶ。
ミディアムだウェルダンだと注文し終わるとすぐ、サラダバー用のボールが並べられた。銘々、好きなだけ野菜を盛り、席に戻る。
「で、中西、昨日はどういうわけやってん」
岡村がようやく本題に入った。
「ご心配おかけしてしまって、済みません」
中西が頭を下げる。
「愛とは、ちょくちょく会ってたの?」
私が尋ねると、彼は首を横に振った。
「いや、8月に一度会っただけや」
「それなら、何で、愛ちゃんの事務所から出て来るところを見られたんや?」
「それは……」
岡村に問いつめられ、彼は下を向いた。
「お待たせしました」
ウエイトレスがワゴンを運んできた。料理が手際よく並べられていく。
「まあ、ええわ。詳しい話は、これ食うてからにしよ」
岡村の言葉に私達は頷いた。
「美味しそうですねえ」
ステーキにナイフを入れたその瞬間、背後でガラスの割れる音がした。
「いい加減にしてよ!」
ヒステリックな女性の声が店内に響く。その声に聞き覚えがあり、私は思わず振り返った。
席を立とうとする女性の腕を、男性が引っ張っている。彼らの足元には、割れたグラスとこぼれた水が広がっていた。
(3)
「静世?」
それは、羽場愛の相棒、湯川静世だった。腕を引っ張っている男性の方は、こちらに背を向けているため、よく見えない。
「なんや、知り合いなんか?」
岡村が私の方を見る。
「ええ。高校のクラスメイトなんですけど……」
「そうか。痴話喧嘩やったら、止めに入るのも変な話やしなあ」
岡村は困ったように2人の方を見ていた。中西も黙ったままじっと喧嘩の様子を見つめている。
と、静世がバランスを崩して倒れ込んだ。ガシャン、という大きな音が聞こえてくる。
「静世!」
叫んで立ち上がろうとしたのだが、中西が私を制して席を立った。もめている2人の方に駆け寄っていく。
「やめとけや、もう」
彼は2人の間に分けて入った。その拍子に男性がこちらを向く。その顔を見て、私は息を飲んだ。
「あれは……」
愛の高校時代の恋人、米倉利一だ。彼女の後を追って京都の会社に就職したのだが、結局、愛が他の男性と付き合い始め、そのまま別れてしまったと聞いている。
「何だよ、またお前か!」
米倉が中西に掴み掛かる。
「お前の方こそ、ええ加減にせえや!」
中西が米倉を殴りつけた。
「この野郎! 何しやがるんだ!」
テーブルをひっくり返しながらの大喧嘩が始まる。
「もう、やめて、やめてよ!」
静世が泣きながら叫ぶ。しかし、2人の殴り合いはひどくなるばかりだ。
「中西、やめとけや!」
ついに岡村が立ち上がった。
「ほら、お店にも迷惑かかるやろ!」
岡村のがっちりした身体が、中西を後ろから抱え込む。私も走って行き、米倉と中西の間に入り込んだ。静世は流れる涙をぬぐおうともせず、その場に座り込んでいる。
「近藤?」
米倉は、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに険しい顔に戻った。
「どけ! 邪魔すんな!」
突き飛ばされて、隣のテーブルに叩き付けられる。テーブル諸共倒れ込み、床に側頭部を打ち付けた。
「近藤、大丈夫か?」
岡村が私の方を見る。
「だ、大丈夫……」
頭を押さえて振り返った時、岡村の頬に米倉のパンチが飛んで来た。
「何してくれとんねん、こらあ」
岡村は抱えていた中西を放り出すと、米倉にお返しをした。
「なんじゃ、われえ」
再び岡村が殴られかけた時、床に倒れていた中西が米倉の足を掴んで引き倒した。弾みでテーブルやイスがすごい音を立てて倒れる。
映画か何かを見ているような気持ちで、私はその光景をぼうっと眺めていた。頭がズキズキと痛み、止めに入る気力も起こらない。
「やめなさい!」
そこに、制服を着た警官が数人、走り込んで来た。ふと見ると、窓の外にパトカーの赤色灯が見える。いつの間に駆け付けたのだろう。全然気が付かなかった。
「大丈夫ですか?」
ひとりの警官に尋ねられる。
「大丈夫です」
私は無理に立ち上がろうとしたのだが、かなりの痛みが走り、再び座り込んでしまった。
「痛みますか? 場所が場所ですからね。すぐ救急車を手配しましょう」
その警官は、私の顔を覗き込んでそう言うと、無線で何やら連絡を取り始めた。
イスの背にもたれながら、店内を見回す。と、静世が放心したように何かをつぶやいていた。お化粧は涙でグチャグチャだ。
「静世」
私は頭を押さえながら、彼女に声をかけた。しかし、彼女の目は相変わらず宙を彷徨っている。
「ほーすと……」
静世の口はそう動いているようだった。何のことやら、さっぱりわからない。
私は彼女に事情を聞くのを諦め、3人の男達の方を見た。彼らは警官から尋問を受けている。中西は大分落ち着いているが、米倉と岡村はまだ興奮しているようだ。
「怪我をされているのは、どなたですか?」
しばらくして救急車のサイレンが止まり、白衣を着た人達が店内に入って来た。
「こちらです」
私の横に立っていた警官が手を上げる。
「歩けますか?」
白衣の男性に尋ねられ、私は頷いた。
「多分……」
支えられてゆっくり立ち上がる。岡村達のことも気にはなったが、今はとにかく頭が痛くて仕方がない。
私は促されるまま、救急車へと向かった。
(4)
アパートに戻れたのは、翌日のお昼を過ぎた頃だった。
病院に担ぎ込まれた後、あれこれ検査をされたが、内出血等はみられなかった。念のためということで、昨夜は一晩、病院に泊められることになり、ようやく今、帰宅できたというわけだ。
頭には大きなコブが出来ており、服用した痛み止めのせいで、何だかぼうっとしている。この春、フンパツしてベッドを買っておいてよかった。部屋に入れば、すぐ横になれる。
そんなことを考えながらカギを開けていると、後ろから声をかけられた。
「近藤さん」
驚いて振り返ると、そこには2人の男性が立っていた。1人は安永刑事、そしてもう1人は、彼よりも少し若い感じの男性だ。恐らく彼も刑事だろう。
「あ、こんにちは」
頭を下げると少し痛むので、首だけで挨拶する。
「大変やったね。さっき、病院に行ってみてんけど、一足違いで帰った後やったんや」
「そうでしたか」
安永刑事の説明に、私は小さく頷いた。
「話、聞かせてもうても大丈夫かな?」
安永が遠慮がちに言う。
「ええ。大丈夫ですよ。中、入られますか?」
カギを引き抜いて尋ねると、彼らは頷いた。
「話が長くなるかもしれへんし、いいかな?」
私は返事をする代わりに、ドアを開けた。
「汚いことしてますけど」
本当はすぐに横になりたかったのだが、そうも言ってはいられない。
先に入り、テーブルの上に置きっぱなしになっていたマグカップを片付ける。
「お邪魔します」
安永刑事ともう1人の男性は、そう言いながら中に入って来た。
2人が座るのを確認すると、私は手を洗い、水を入れたヤカンを火にかけた。
「あ、お気遣いなく」
安永刑事が慌てて言う。
「ええ、でも、私もコーヒー飲みたいんで」
私はカップを3つと、インスタントコーヒーの瓶を用意しながら答えた。
「こいつ、山田っていうんや。今年25歳やから、君と同い年かな?」
安永刑事が、もう1人の男性を紹介する。
「あ、山田です」
彼は太いひものついた警察手帳を示すと、軽く頭を下げた。
「どうも」
私は小さく微笑んだ。
「まだ、引っ越してへんかったんやね。住所を見て、少し驚いたよ」
安永刑事が言う。
「ええ。何となく」
シュンシュンと小さな音を立て始めたヤカンの様子を見ながら、私は答えた。
2年前、この部屋も事件の現場となった。
引っ越す方が普通なのかもしれない。でも、私にはこの部屋を捨てることはできなかった。ここに住み続けることで、塀の中で頑張っている彼と共に、苦しみを分かち合っている気がしていた。
カップにインスタントコーヒーを入れているうちに、お湯が沸いた。コンロを止め、お湯をカップに注ぐ。
「僕が運びましょう」
お盆にカップを載せたところで、山田刑事が立ち上がり、テーブルまで運んでくれた。
「すいません」
私はそう言うと、2人と向かい合うように座り込んだ。
「いただきます」
2人はカップにそっと口を付け、一口すすってテーブルに置いた。
「おいしいっす」
山田刑事が、人なつこい顔で微笑む。
「そうですか? よかった」
私もつられて微笑んだ。
「岡村君と中西君、もうすぐ釈放されると思うから。あの2人、喧嘩を止めに入っただけやったんやろ?」
私がコーヒーを一口すするのを待って、安永刑事が話しかけて来た。
「ええ。静世と米倉君がもめてたもんだから……。で、今日は?」
早く横になりたくて、私の方から安永刑事に尋ねた。
「ああ、そうそう。それやねんけどねえ」
安永刑事は、一息入れてから続けた。
「湯川静世さんと、殺された羽場愛さんとの仲は、どうやった?」
思い掛けない質問に、思わず首を傾げる。
「一緒にブティックをやっているくらいですから、仲はいいんじゃないですか?」
事実、高校の頃から、アバウトな愛をフォローできるのは、静世しかいない状態だった。
「そうですか」
山田刑事が、コーヒーをすすりながら言う。
「じゃあ、湯川さんは犯人と違うんですかねえ」
その言葉に、私は驚いて彼の顔を見た。
「え? 静世が疑われているんですか?」
「いやいや、一応関係者は当たらないといけないからね」
安永刑事が、山田刑事の脇腹を突きながら苦笑した。
「お店の人が言うには、このところお二人が、あまり上手くいってなかったんちゃうかってお話やったんですよ」
山田刑事がしれっと答える。かなり口が軽いタイプらしい。
「そうなんですか? まあ、私は8月に会ったきりですからねえ。その時には、2人は本当に仲がいいように見えましたけど……」
食事会の帰り、愛と一緒にタクシーに乗ったのだが、静世には感謝していると、酔ってロレツの回らない舌で何度も言っていたのだ。あれは絶対本心だった。
「いや、参考になったよ。ありがとう」
安永刑事が、微笑みを浮かべて立ち上がろうとした。
「ちょっと待って下さい」
私は急いで彼を制した。
「私の方もお伺いしたいことがあるんです」
「何かな?」
安永刑事が座り直す。
「先日、高橋刑事が来られてたみたいですけど、今回の事件と何か……?」
私が探るように安永刑事の目を見ると、彼は困ったように頭を掻いた。
「え? ああ、いや、何でもない……」
「7年前の夏に名古屋で起きた、男子大学生の殺人事件に絡んで、いらっしゃってたんですよ」
とぼけようとした安永刑事を押しのけ、山田刑事がペラペラと話し始めた。
「7年前の夏って言えば、私達が高校3年の時ですよね。何か関係あるんですか?」
「ええ。実はね……」
「あ、いやいや、ほんまに何でもないねん」
安永刑事が、大慌てで山田刑事の口を塞ぎにかかる。
「実は、何ですか?」
山田刑事をじっと見つめたが、彼は安永刑事に睨まれて口をつぐんでしまった。
「では、僕等はこの辺で」
話が途切れたのを幸いに、安永刑事が立ち上がった。山田刑事も、つられるように立ち上がる。
「昨日の今日で体調が悪い時に、長居してしまって申し訳なかったね。お大事に」
安永刑事が山田刑事をせき立てるようにして、部屋を出て行った。
「何よ、話聞くだけ聞いといて」
少し腹を立てつつ、私はドアにカギをかけた。
(5)
「一昨日はごめんね。また連絡するわ。じゃあ」
2人の刑事が訪れた翌日、本屋のバイトを終えてアパートに戻ると、留守電に静世からのメッセージが入っていた。
「こちらから連絡した方がいいのかなあ」
鍵とホカ弁入りの袋をテーブルの上に放り投げ、バッグを足元に置くと、私はやかんに水を入れて沸かし始めた。濃いコーヒーが飲みたい。飲んでからゆっくり考えよう。
しばらくの間、やかんの下で踊る火をぼうっと見ていると、後ろで電話が鳴った。
「もしもし」
立ったままで受話器を手にした。螺旋状のコードは思いきり伸びている。
「もしもし、俺や。岡村」
「ああ、こんばんは」
そこで、やかんがガタガタと音を立て始めた。
「ちょっと待ってて下さいね」
受話器を一旦電話の横に置くと、火を止める。そして、カップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いだ。電話のところまで持って行き、ようやく座り込む。
「お前、俺を待たせたままコーヒー入れとったな。音、丸聞こえやで」
あ、保留にしとくの忘れてた。
「あはは。ごめんなさい。今、バイトから戻って来たところなんですよ」
「もう9時過ぎやで。遅いなあ」
「帰りに寄ったホカ弁がなぜか混んでて。時間かかっちゃって」
私が答えると、彼は笑った。
「間が悪かったんやろな。――ほんなら、飯まだやねんな」
「ええ」
言いながら、テーブルごと手元に引き寄せる。顔と肩との間に受話器を挟むと、お弁当をビニール袋から取り出した。フタを開け、割り箸を割る。天丼大盛り。なかなか美味しそうだ。
「食いながら聞いてくれたらええわ」
とっくの昔に、そのつもりだ。
「じゃあ、お言葉にあふぁえて」
「お言葉に甘える前に、もう食うとるやないか」
岡村は笑いながら突っ込むと、うん、と咳払いをした。
「頭の怪我の方、どうや?」
「ああ、ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
私は答えた。
「ほんまか。警察釈放されてから、すぐに病院に寄ってみてんけど、お前、退院した後やったから」
「岡村さん、今日は、大学へは来られなかったみたいですね」
共同研究室も覗いてみたのだが、彼の姿はどこにもなかった。
「おお。今日は、大阪の方の資料館で、資料見せてもらうように申請入れとってなあ。どうしても行かなアカンかったんや」
「そうだったんですか。大変ですねえ」
博士論文提出の日も近付いて来ている。のほほんとしているようでも、やることはきちんとやっているようだ。
「中西には会うたか?」
「いえ。中西君も来てなかったみたいですよ」
「そうか。俺も気になって電話かけたりしてんねんけど、つながらへんねんなあ」
「例の乱闘騒ぎで、何の話も聞けませんでしたからねえ」
私は、お箸で小さくしたちくわの天婦羅を口に放り込んだ。
「まあ、しゃあないわな。で、ちょっと俺なりにいろいろ考えてみてんけどなあ」
「へえ」
今度は、さつまいもの天婦羅を口に入れながら相槌を打つ。
「俺も直接顔を知らん子ばっかりやろ。名前聞いてもようわかれへんねん」
「ほうでひょうへえ」
そうでしょうねえ、と言ったつもり。伝わったのか伝わらなかったのかわからないが、岡村は話を続けた。
「それでやなあ、明日、大学にクラスメイトの子達の写真、持って来てくれへんか?」
「写真ですか?」
コーヒーで口の中身を流し込んで、聞き返した。
「ああ、そうや。どうもイメージが掴み切られへんねん」
鈍感に見えても、意外と勘は鋭い。前回の事件で、私が得た岡村の印象だ。
「わかりました。たしか、この間の食事会の時に撮った写真があるんで、持って行きますね」
「おう、話はそれからゆっくりしようや。色々聞きたいこともあるし」
「はい。えっと、明日の予定は?」
電話の横に貼られたカレンダーを見上げながら尋ねる。
「午前中に田代先生とミーティングがあんねんけど、昼からは予定ないわ」
「私もお昼から4時まで空いてます。ホントは夜まで空いてたはずなんですけど、急に本屋のバイトが入っちゃって」
風邪をひいた子がいて、ローテに穴が開いてしまったのだ。バイト代、ちょっと上乗せするから、と頼まれてしまったら、断る訳にはいかない。
「ほんなら、昼に学食で待ち合わせするか。あ、それやと、他の誰かに会ってまうかもしれへんな」
「『ポケット』は?」
駅前にある喫茶店の名を告げる。
「ああ、かめへんけど、あそこのピラフから、この前ゴキブリの足が出て来たらしいで」
「え? ホントですか?」
「おお。ラグビー部の後輩が言うとった。まあ、新しいのに換えてもらった上にただで食えたし、ラッキーやったらしいけどな」
換えてもらっても食べる気なんかするか? さすがにラグビー部。なかなかツワモノが揃っている。
「ほんなら、違うとこにしましょうか」
「何とか屋ってパン屋はどうや?」
「ああ、南門の前に新しく出来たところですか?」
赤い屋根の、かわいらしいパン屋さんだ。私はまだ入ったことはないんだけど。
「おう、あっこのサンドイッチ、上手いらしいで」
「そしたら、そこにしましょう。12時半でどうですか?」
「わかった。ほんなら明日また」
「はい。おやすみなさい」
受話器を置いて、再び発砲スチロールで出来たどんぶりを手にする。すっかり冷めてしまってはいるが、買った以上、食べなければもったいない。
「レンジでチンするか」
どんぶり片手に立ち上がろうとした時、再び電話が鳴った。
「また岡村さんだわ。きっと」
俺、おやすみなさいって言うたかな? とか言って、よくかけ直して来るのだ。よし、先手を打とう。
「おやすみなさ~い!」
受話器を手に大声で叫ぶと、ややあって女性の声が聞こえた。
「あ、あの、近藤さんのお宅じゃあ……」
(6)
「あ、そ、そうですけど」
焦ってどんぶりをテーブルに置く。
「もう、びっくりさせないでよ」
それは、さっき留守電にメッセージを残してくれていた、湯川静世だった。
「ああ、ごめん、ごめん。知ってる人だと思ったもんでさあ」
「知ってる人には、いきなり『おやすみ』って言うの?」
「いや、今回だけ……」
ごにょごにょ言っていると、彼女は笑いながら言った。
「まあ、京子にもそんなイイヒトがいるってわかって、ちょっと嬉しいわよ」
「イイヒトって、いや、違うってば……」
弁解する隙も与えず、静世は話を変えた。
「でさあ、この間はごめんね。頭、大丈夫?」
「もうすっかり大丈夫」
私は明るく答えた。
「ホントにごめん。なんか申し訳なくってさあ」
静世はひたすら謝っている。
「だから、大丈夫だって。刺激受けて、少し頭の出来が良くなったかもしれないよ」
私は笑いながら言った。
「病院にも行かなくちゃって思ってたんだけど、取り調べとかで何か混乱しちゃって……。本当にごめんね」
彼女はまだ申し訳なさそうに謝り続ける。
「わかってるって。警察なんかに連れて行かれたら、誰でも混乱するよ」
私は話題を変えることにした。
「それにしても、あんなところで会うなんて、ビックリだよね」
「ホント、今まで偶然会うなんて、全く無かったもんねえ」
静世の声が少し明るくなった。
「食器の弁償とかって、どうなった?」
私は前々から気になっていたことを尋ねた。
「ああ、あれは気にしないで。元はと言えば、私が悪いんだし」
静世が答える。
「半分持つよ」
私がテーブルを倒した時に、一番たくさんの食器が割れた覚えがある。
「いいって、いいって。今日は、病院でかかったお金を教えてもらおうと思ってね」
静世が言った。
「それはいいよ。そんなに大した額でもなかったし」
本当はかなり痛かったのだが、無理して答える。
「でも……」
情けない声を出している静世を制して、私は言った。
「だって、米倉君に押されたんだから、医療費請求するなら米倉君にするわよ」
もちろん、請求する気なんてないけど。
「悪いねえ。ホントに」
静世はまた謝った。
「いいってば。――ところで、これからお店の方はどうするの?」
私はまた話題を変えた。
「どうしようかなあと思って。あの場所、愛のお父さんのご厚意で貸していただいてる場所だしね。その上、愛がいなくなっちゃったら、新作も出せないし」
「そうだよね」
私は頷いた。
「それに、あのお店には、愛との思い出がいっぱい詰まってるでしょ? 正直言って、いるだけでも辛いのよ」
「わかるような気がするなあ」
愛の華やかな笑顔を思い浮かべると、私も胸がつぶされそうな気持ちになる。
「お得意さまに注文されている分をお渡ししたら、お店は畳もうかなって思ってるの」
「で、名古屋に帰るの?」
私の質問に、少し間があってから返事が帰って来た。
「名古屋に帰っても仕事もないしね。これから先の細かいことは、後片付けしながらゆっくり考えるつもり」
「そっか。その方がいいかもね」
私が答えると、静世は、うん、と言ったきり黙り込んだ。
「――静世、どうしたの?」
少しの間待っていたのだが、耐えられなくなり、私は声をかけた。
「あ、ごめん。実は聞きたいことがあって……」
「何?」
私は尋ねた。
「愛のことなんだけどね」
「うん」
「最近、ちょっと様子がおかしかったのよ。お店のお金を勝手に持ち出したりして。理由を聞いても、どうしても話してくれなくてね」
「そう」
私が頷くのを待って、彼女はまた話し始める。
「京子、愛から何か聞いてない?」
「別に何も……。だって、夏に会って以来、全然連絡取ってないし」
私は少しためらいながら答えた。
「でも、あの食事会の後、愛と2人でタクシー乗って帰ってたよね?」
「うん、帰ったよ」
「愛の方が、けっこう強引に京子のこと誘ってたから、何か話でもあったのかと思ったんだけど」
「ああ、あの時ねえ」
バスで帰ろうとした私を引き止めた愛の、真剣な顔を思い出す。タクシー代、私が持つからとか言って、半ば強引に一緒の車で帰らされたのだった。
「でもね、特別、話はなかったんだよ」
車に乗ると、彼女は急に饒舌になり、色々な思い出話を始めた。そして、そうこうしている間に、タクシーは私のアパートに着いてしまったのだ。何だったんだろうと思ったのだが、愛は降りようとした私を引き止めもせず、車を発進させた。
「他にパートナーが出来たとか、そんな話はしてなかった?」
真剣な声で、静世が言う。
「パートナー?」
私は驚いて聞き返した。
「そんなこと、一言も言ってなかったよ。思い出話がほとんどだったんだけどね、それも静世の話ばっかりでさあ。愛は、ホントに静世のことが好きなんだなって、そう思ったよ」
「私のことばかり? ホントに?」
「ホントだよ。警察の人にも話したんだけどね、酔っぱらってる時って、つい本音をしゃべっちゃうことがあるでしょ? だから、私は本心だと思うなあ。愛は心から、静世のことを信頼してたんじゃないかな、きっと」
「そう」
静世はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「もっと早く、その話、聞いておけばよかったな……」
声が震えている。泣きたいのを堪えているようだ。
「静世?」
心配になって呼び掛けると、彼女は急に元気な声を出した。
「あ、ごめん。なんかしんみりしちゃったね。また、これからのことが決まったら、電話するから」
「うん、わかった」
「じゃあ」
「あ、静世」
切ろうとした彼女に、慌てて声をかける。
「無理しないようにね」
少しして、静世の声が聞こえた。
「ありがとう。京子も、がんばって博士になってね。応援してる」
「ありがと」
そうして、電話は切れた。