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クラスメイト  作者: 深月咲楽
2/10

第2章

(1)


「以上で、勉強会を終わります」

 進行役の博士課程2回生、石川尚人の言葉に、皆、がたがたと立ち上がった。

「お疲れ様でした」

「お疲れ」

 参加していた28人が、口々に挨拶しながら研究室を後にする。

「近藤、ちょっとええか」

 声をかけてきたのは中西だった。彼は、講義は休んでいたのだが、勉強会には顔を出していた。

「うん。何?」

 発表のために広げた資料を片付けながら、私は尋ねた。

「心配かけてもうて、悪かったなあ」

 中西はうつむいて続ける。

「ちゃんと話さなアカン思っとってんけど、昨日は何や、頭が混乱してもうて……」

「警察に連れて行かれたんだから、混乱するのは当たり前でしょ。気にしなくていいよ」

 私は片付ける手を休めて微笑んだ。

「おおきに、ありがとう」

 中西は、ほっとしたような表情を浮かべた。

「せやけど、取り調べってきついねんなあ。前の事件の時にも事情は聞かれたけど、あの時は全くお客さん扱いで、すごく丁寧な口調で質問されたもんや。でも、今回はさすがに怖かったわ」

「そう。大変だったわね」

 せまい部屋に、図体のでっかいオッサンと向かい合わせて座らされるのだ。あの圧迫感は、私自身もイヤというほど経験していた。

「そうや、高橋って刑事も来てはったで」

 中西に言われ、あやうくバインダーを落としかけた。

「高橋刑事って、愛知県警の?」

 2年前の事件で知り合いになった、高橋刑事を思い浮かべながら聞く。

「うん」

 彼は頷いた。

「へえ、そうなんだ。で、相変わらずひょろながかった?」

 私が尋ねると、彼は笑った。

「向こうもおんなじようなこと聞いて来とったで」

「おんなじようなこと?」

「うん。『近藤さんは、相変わらず単純か?』って」

 あのひょろながめ。今度会ったら、一発くれてやる。

 でも、どうして京都に来ているんだろう。何か事件でもあったんだろうか。

 不思議に思いながら、バインダーや本などをバッグに放り込んでいると、研究室の入り口から岡村が顔を覗かせた。

「おお、よかった。まだおったんか」

「あ、岡村さん、今晩は」

「まだ大学にいらっしゃったんですか?」

 勉強会は6時半から始まる。今はもう8時を過ぎていた。

「ああ。森山先生と論文のことで話しとってな」

「そうなんですか。大変ですねえ」

 私が言うと、彼はわざとらしく溜息をついた。

「ほんまやで。バイトしながらこんなに勉強せなアカンなんて、俺もイバラの道を選んだもんや」

「いえいえ、岡村さんじゃなくて、森山先生ですよ。こんな時間まで付き合わされちゃって。ねえ?」

 私が中西に同意を求めると、彼は真顔で、ほんまやな、と言い、そして笑った。

「ほんまに、優しい後輩達を持って、俺は幸せやわ」

 岡村が眉間に皺を寄せる。その表情を見て、私は思わず吹き出した。

「で、お前ら、晩飯は食うたんか?」

 岡村に尋ねられ、中西が答えた。

「ええ。勉強会が始まる前に軽く。サンドイッチですけど」

「近藤は?」

 岡村がこちらを向く。

「私も軽く。吉牛で大盛りを1杯ほど」

「それは、軽いとは言わへんねん」

 岡村と中西に同時に突っ込まれ、私は笑顔を作っておいた。

「まあ、ええわ。俺もほとんど食うてへんねん。今日、バイト代が入ったし、なんかご馳走したるわ。時間、大丈夫か?」

 岡村が私達の顔を交互に見る。

「もちろんです」

 私が即答すると、中西は遠慮がちに頷いた。

「よっしゃ、そんなら、フォルクス行こうや」

 岡村はそう言い残し、さっさと研究室を出て行く。私と中西は、大急ぎで彼の後を追った。


(2)


 夕食にはもう遅い時間だと言うのに、店内は結構込んでいる。案内された席に腰を落ち着けると、岡村は、メニューを正面に座った私達の方に向けた。

「中西、遠慮すんなや」

 岡村が中西に優しく声をかける。

「近藤、お前は少し遠慮せえよ」

「は?」

 メニューを覗き込んでいた私は、思わず顔を上げた。

「昨日もおごったったやろが」

 割り勘だなんだと言いながら、彼は結局ご馳走してくれたのだった。

「はあい」

 低い声で返事をすると、中西が楽しそうに笑う。

「今、オージービーフのフェアやってんねんな。どうや、このセットメニューは?」

 『おすすめ』と書かれたメニューを指差しながら、岡村が私達の顔を見た。

「ああ、いいですね」

 中西が頷く。

「サラダバーも付いてますよね」

 私が確認すると、岡村は笑いながら言った。

「付いてるで。でも、5杯も6杯も食べんといてや」

「近藤やったら、ほんまにやりそうやからな」

 男2人の大笑いにムッとしつつも、何も言い返せない自分が情けない。

「ほんなら、セット3つでええな。――姉ちゃん、頼むわ」

 岡村が、カウンターの前に立っていたウエイトレスを呼ぶ。

 ミディアムだウェルダンだと注文し終わるとすぐ、サラダバー用のボールが並べられた。銘々、好きなだけ野菜を盛り、席に戻る。

「で、中西、昨日はどういうわけやってん」

 岡村がようやく本題に入った。

「ご心配おかけしてしまって、済みません」

 中西が頭を下げる。

「愛とは、ちょくちょく会ってたの?」

 私が尋ねると、彼は首を横に振った。

「いや、8月に一度会っただけや」

「それなら、何で、愛ちゃんの事務所から出て来るところを見られたんや?」

「それは……」

 岡村に問いつめられ、彼は下を向いた。

「お待たせしました」

 ウエイトレスがワゴンを運んできた。料理が手際よく並べられていく。

「まあ、ええわ。詳しい話は、これ食うてからにしよ」

 岡村の言葉に私達は頷いた。

「美味しそうですねえ」

 ステーキにナイフを入れたその瞬間、背後でガラスの割れる音がした。

「いい加減にしてよ!」

 ヒステリックな女性の声が店内に響く。その声に聞き覚えがあり、私は思わず振り返った。

 席を立とうとする女性の腕を、男性が引っ張っている。彼らの足元には、割れたグラスとこぼれた水が広がっていた。


(3)


「静世?」

 それは、羽場愛の相棒、湯川静世だった。腕を引っ張っている男性の方は、こちらに背を向けているため、よく見えない。

「なんや、知り合いなんか?」

 岡村が私の方を見る。

「ええ。高校のクラスメイトなんですけど……」

「そうか。痴話喧嘩やったら、止めに入るのも変な話やしなあ」

 岡村は困ったように2人の方を見ていた。中西も黙ったままじっと喧嘩の様子を見つめている。

 と、静世がバランスを崩して倒れ込んだ。ガシャン、という大きな音が聞こえてくる。

「静世!」

 叫んで立ち上がろうとしたのだが、中西が私を制して席を立った。もめている2人の方に駆け寄っていく。

「やめとけや、もう」

 彼は2人の間に分けて入った。その拍子に男性がこちらを向く。その顔を見て、私は息を飲んだ。

「あれは……」

 愛の高校時代の恋人、米倉利一だ。彼女の後を追って京都の会社に就職したのだが、結局、愛が他の男性と付き合い始め、そのまま別れてしまったと聞いている。

「何だよ、またお前か!」

 米倉が中西に掴み掛かる。

「お前の方こそ、ええ加減にせえや!」

 中西が米倉を殴りつけた。

「この野郎! 何しやがるんだ!」

 テーブルをひっくり返しながらの大喧嘩が始まる。

「もう、やめて、やめてよ!」

 静世が泣きながら叫ぶ。しかし、2人の殴り合いはひどくなるばかりだ。

「中西、やめとけや!」

 ついに岡村が立ち上がった。

「ほら、お店にも迷惑かかるやろ!」

 岡村のがっちりした身体が、中西を後ろから抱え込む。私も走って行き、米倉と中西の間に入り込んだ。静世は流れる涙をぬぐおうともせず、その場に座り込んでいる。

「近藤?」

 米倉は、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに険しい顔に戻った。

「どけ! 邪魔すんな!」

 突き飛ばされて、隣のテーブルに叩き付けられる。テーブル諸共倒れ込み、床に側頭部を打ち付けた。

「近藤、大丈夫か?」

 岡村が私の方を見る。

「だ、大丈夫……」

 頭を押さえて振り返った時、岡村の頬に米倉のパンチが飛んで来た。

「何してくれとんねん、こらあ」

 岡村は抱えていた中西を放り出すと、米倉にお返しをした。

「なんじゃ、われえ」

 再び岡村が殴られかけた時、床に倒れていた中西が米倉の足を掴んで引き倒した。弾みでテーブルやイスがすごい音を立てて倒れる。

 映画か何かを見ているような気持ちで、私はその光景をぼうっと眺めていた。頭がズキズキと痛み、止めに入る気力も起こらない。

「やめなさい!」

 そこに、制服を着た警官が数人、走り込んで来た。ふと見ると、窓の外にパトカーの赤色灯が見える。いつの間に駆け付けたのだろう。全然気が付かなかった。

「大丈夫ですか?」

 ひとりの警官に尋ねられる。

「大丈夫です」

 私は無理に立ち上がろうとしたのだが、かなりの痛みが走り、再び座り込んでしまった。

「痛みますか? 場所が場所ですからね。すぐ救急車を手配しましょう」

 その警官は、私の顔を覗き込んでそう言うと、無線で何やら連絡を取り始めた。

 イスの背にもたれながら、店内を見回す。と、静世が放心したように何かをつぶやいていた。お化粧は涙でグチャグチャだ。

「静世」

 私は頭を押さえながら、彼女に声をかけた。しかし、彼女の目は相変わらず宙を彷徨っている。

「ほーすと……」

 静世の口はそう動いているようだった。何のことやら、さっぱりわからない。

 私は彼女に事情を聞くのを諦め、3人の男達の方を見た。彼らは警官から尋問を受けている。中西は大分落ち着いているが、米倉と岡村はまだ興奮しているようだ。

「怪我をされているのは、どなたですか?」

 しばらくして救急車のサイレンが止まり、白衣を着た人達が店内に入って来た。

「こちらです」

 私の横に立っていた警官が手を上げる。

「歩けますか?」

 白衣の男性に尋ねられ、私は頷いた。

「多分……」

 支えられてゆっくり立ち上がる。岡村達のことも気にはなったが、今はとにかく頭が痛くて仕方がない。

 私は促されるまま、救急車へと向かった。


(4)


 アパートに戻れたのは、翌日のお昼を過ぎた頃だった。

 病院に担ぎ込まれた後、あれこれ検査をされたが、内出血等はみられなかった。念のためということで、昨夜は一晩、病院に泊められることになり、ようやく今、帰宅できたというわけだ。

 頭には大きなコブが出来ており、服用した痛み止めのせいで、何だかぼうっとしている。この春、フンパツしてベッドを買っておいてよかった。部屋に入れば、すぐ横になれる。

 そんなことを考えながらカギを開けていると、後ろから声をかけられた。

「近藤さん」

 驚いて振り返ると、そこには2人の男性が立っていた。1人は安永刑事、そしてもう1人は、彼よりも少し若い感じの男性だ。恐らく彼も刑事だろう。

「あ、こんにちは」

 頭を下げると少し痛むので、首だけで挨拶する。

「大変やったね。さっき、病院に行ってみてんけど、一足違いで帰った後やったんや」

「そうでしたか」

 安永刑事の説明に、私は小さく頷いた。

「話、聞かせてもうても大丈夫かな?」

 安永が遠慮がちに言う。

「ええ。大丈夫ですよ。中、入られますか?」

 カギを引き抜いて尋ねると、彼らは頷いた。

「話が長くなるかもしれへんし、いいかな?」

 私は返事をする代わりに、ドアを開けた。

「汚いことしてますけど」

 本当はすぐに横になりたかったのだが、そうも言ってはいられない。

 先に入り、テーブルの上に置きっぱなしになっていたマグカップを片付ける。

「お邪魔します」

 安永刑事ともう1人の男性は、そう言いながら中に入って来た。

 2人が座るのを確認すると、私は手を洗い、水を入れたヤカンを火にかけた。

「あ、お気遣いなく」

 安永刑事が慌てて言う。

「ええ、でも、私もコーヒー飲みたいんで」

 私はカップを3つと、インスタントコーヒーの瓶を用意しながら答えた。

「こいつ、山田っていうんや。今年25歳やから、君と同い年かな?」

 安永刑事が、もう1人の男性を紹介する。

「あ、山田です」

 彼は太いひものついた警察手帳を示すと、軽く頭を下げた。

「どうも」

 私は小さく微笑んだ。

「まだ、引っ越してへんかったんやね。住所を見て、少し驚いたよ」

 安永刑事が言う。

「ええ。何となく」

 シュンシュンと小さな音を立て始めたヤカンの様子を見ながら、私は答えた。

 2年前、この部屋も事件の現場となった。

 引っ越す方が普通なのかもしれない。でも、私にはこの部屋を捨てることはできなかった。ここに住み続けることで、塀の中で頑張っている彼と共に、苦しみを分かち合っている気がしていた。

 カップにインスタントコーヒーを入れているうちに、お湯が沸いた。コンロを止め、お湯をカップに注ぐ。

「僕が運びましょう」

 お盆にカップを載せたところで、山田刑事が立ち上がり、テーブルまで運んでくれた。

「すいません」

 私はそう言うと、2人と向かい合うように座り込んだ。

「いただきます」

 2人はカップにそっと口を付け、一口すすってテーブルに置いた。

「おいしいっす」

 山田刑事が、人なつこい顔で微笑む。

「そうですか? よかった」

 私もつられて微笑んだ。

「岡村君と中西君、もうすぐ釈放されると思うから。あの2人、喧嘩を止めに入っただけやったんやろ?」

 私がコーヒーを一口すするのを待って、安永刑事が話しかけて来た。

「ええ。静世と米倉君がもめてたもんだから……。で、今日は?」

 早く横になりたくて、私の方から安永刑事に尋ねた。

「ああ、そうそう。それやねんけどねえ」

 安永刑事は、一息入れてから続けた。

「湯川静世さんと、殺された羽場愛さんとの仲は、どうやった?」

 思い掛けない質問に、思わず首を傾げる。

「一緒にブティックをやっているくらいですから、仲はいいんじゃないですか?」

 事実、高校の頃から、アバウトな愛をフォローできるのは、静世しかいない状態だった。

「そうですか」

 山田刑事が、コーヒーをすすりながら言う。

「じゃあ、湯川さんは犯人と違うんですかねえ」

 その言葉に、私は驚いて彼の顔を見た。

「え? 静世が疑われているんですか?」

「いやいや、一応関係者は当たらないといけないからね」

 安永刑事が、山田刑事の脇腹を突きながら苦笑した。

「お店の人が言うには、このところお二人が、あまり上手くいってなかったんちゃうかってお話やったんですよ」

 山田刑事がしれっと答える。かなり口が軽いタイプらしい。

「そうなんですか? まあ、私は8月に会ったきりですからねえ。その時には、2人は本当に仲がいいように見えましたけど……」

 食事会の帰り、愛と一緒にタクシーに乗ったのだが、静世には感謝していると、酔ってロレツの回らない舌で何度も言っていたのだ。あれは絶対本心だった。

「いや、参考になったよ。ありがとう」

 安永刑事が、微笑みを浮かべて立ち上がろうとした。

「ちょっと待って下さい」

 私は急いで彼を制した。

「私の方もお伺いしたいことがあるんです」

「何かな?」

 安永刑事が座り直す。

「先日、高橋刑事が来られてたみたいですけど、今回の事件と何か……?」

 私が探るように安永刑事の目を見ると、彼は困ったように頭を掻いた。

「え? ああ、いや、何でもない……」

「7年前の夏に名古屋で起きた、男子大学生の殺人事件に絡んで、いらっしゃってたんですよ」

 とぼけようとした安永刑事を押しのけ、山田刑事がペラペラと話し始めた。

「7年前の夏って言えば、私達が高校3年の時ですよね。何か関係あるんですか?」

「ええ。実はね……」

「あ、いやいや、ほんまに何でもないねん」

 安永刑事が、大慌てで山田刑事の口を塞ぎにかかる。

「実は、何ですか?」

 山田刑事をじっと見つめたが、彼は安永刑事に睨まれて口をつぐんでしまった。

「では、僕等はこの辺で」

 話が途切れたのを幸いに、安永刑事が立ち上がった。山田刑事も、つられるように立ち上がる。

「昨日の今日で体調が悪い時に、長居してしまって申し訳なかったね。お大事に」

 安永刑事が山田刑事をせき立てるようにして、部屋を出て行った。

「何よ、話聞くだけ聞いといて」

 少し腹を立てつつ、私はドアにカギをかけた。


(5)


「一昨日はごめんね。また連絡するわ。じゃあ」

 2人の刑事が訪れた翌日、本屋のバイトを終えてアパートに戻ると、留守電に静世からのメッセージが入っていた。

「こちらから連絡した方がいいのかなあ」

 鍵とホカ弁入りの袋をテーブルの上に放り投げ、バッグを足元に置くと、私はやかんに水を入れて沸かし始めた。濃いコーヒーが飲みたい。飲んでからゆっくり考えよう。

 しばらくの間、やかんの下で踊る火をぼうっと見ていると、後ろで電話が鳴った。

「もしもし」

 立ったままで受話器を手にした。螺旋状のコードは思いきり伸びている。

「もしもし、俺や。岡村」

「ああ、こんばんは」

 そこで、やかんがガタガタと音を立て始めた。

「ちょっと待ってて下さいね」

 受話器を一旦電話の横に置くと、火を止める。そして、カップにインスタントコーヒーを入れ、お湯を注いだ。電話のところまで持って行き、ようやく座り込む。

「お前、俺を待たせたままコーヒー入れとったな。音、丸聞こえやで」

 あ、保留にしとくの忘れてた。

「あはは。ごめんなさい。今、バイトから戻って来たところなんですよ」

「もう9時過ぎやで。遅いなあ」

「帰りに寄ったホカ弁がなぜか混んでて。時間かかっちゃって」

 私が答えると、彼は笑った。

「間が悪かったんやろな。――ほんなら、飯まだやねんな」

「ええ」

 言いながら、テーブルごと手元に引き寄せる。顔と肩との間に受話器を挟むと、お弁当をビニール袋から取り出した。フタを開け、割り箸を割る。天丼大盛り。なかなか美味しそうだ。

「食いながら聞いてくれたらええわ」

 とっくの昔に、そのつもりだ。

「じゃあ、お言葉にあふぁえて」

「お言葉に甘える前に、もう食うとるやないか」

 岡村は笑いながら突っ込むと、うん、と咳払いをした。

「頭の怪我の方、どうや?」

「ああ、ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」

 私は答えた。

「ほんまか。警察釈放されてから、すぐに病院に寄ってみてんけど、お前、退院した後やったから」

「岡村さん、今日は、大学へは来られなかったみたいですね」

 共同研究室も覗いてみたのだが、彼の姿はどこにもなかった。

「おお。今日は、大阪の方の資料館で、資料見せてもらうように申請入れとってなあ。どうしても行かなアカンかったんや」

「そうだったんですか。大変ですねえ」

 博士論文提出の日も近付いて来ている。のほほんとしているようでも、やることはきちんとやっているようだ。

「中西には会うたか?」

「いえ。中西君も来てなかったみたいですよ」

「そうか。俺も気になって電話かけたりしてんねんけど、つながらへんねんなあ」

「例の乱闘騒ぎで、何の話も聞けませんでしたからねえ」

 私は、お箸で小さくしたちくわの天婦羅を口に放り込んだ。

「まあ、しゃあないわな。で、ちょっと俺なりにいろいろ考えてみてんけどなあ」

「へえ」

 今度は、さつまいもの天婦羅を口に入れながら相槌を打つ。

「俺も直接顔を知らん子ばっかりやろ。名前聞いてもようわかれへんねん」

「ほうでひょうへえ」

 そうでしょうねえ、と言ったつもり。伝わったのか伝わらなかったのかわからないが、岡村は話を続けた。

「それでやなあ、明日、大学にクラスメイトの子達の写真、持って来てくれへんか?」

「写真ですか?」

 コーヒーで口の中身を流し込んで、聞き返した。

「ああ、そうや。どうもイメージが掴み切られへんねん」

 鈍感に見えても、意外と勘は鋭い。前回の事件で、私が得た岡村の印象だ。

「わかりました。たしか、この間の食事会の時に撮った写真があるんで、持って行きますね」

「おう、話はそれからゆっくりしようや。色々聞きたいこともあるし」

「はい。えっと、明日の予定は?」

 電話の横に貼られたカレンダーを見上げながら尋ねる。

「午前中に田代先生とミーティングがあんねんけど、昼からは予定ないわ」

「私もお昼から4時まで空いてます。ホントは夜まで空いてたはずなんですけど、急に本屋のバイトが入っちゃって」

 風邪をひいた子がいて、ローテに穴が開いてしまったのだ。バイト代、ちょっと上乗せするから、と頼まれてしまったら、断る訳にはいかない。

「ほんなら、昼に学食で待ち合わせするか。あ、それやと、他の誰かに会ってまうかもしれへんな」

「『ポケット』は?」

 駅前にある喫茶店の名を告げる。

「ああ、かめへんけど、あそこのピラフから、この前ゴキブリの足が出て来たらしいで」

「え? ホントですか?」

「おお。ラグビー部の後輩が言うとった。まあ、新しいのに換えてもらった上にただで食えたし、ラッキーやったらしいけどな」

 換えてもらっても食べる気なんかするか? さすがにラグビー部。なかなかツワモノが揃っている。

「ほんなら、違うとこにしましょうか」

「何とか屋ってパン屋はどうや?」

「ああ、南門の前に新しく出来たところですか?」

 赤い屋根の、かわいらしいパン屋さんだ。私はまだ入ったことはないんだけど。

「おう、あっこのサンドイッチ、上手いらしいで」

「そしたら、そこにしましょう。12時半でどうですか?」

「わかった。ほんなら明日また」

「はい。おやすみなさい」

 受話器を置いて、再び発砲スチロールで出来たどんぶりを手にする。すっかり冷めてしまってはいるが、買った以上、食べなければもったいない。

「レンジでチンするか」

 どんぶり片手に立ち上がろうとした時、再び電話が鳴った。

「また岡村さんだわ。きっと」

 俺、おやすみなさいって言うたかな? とか言って、よくかけ直して来るのだ。よし、先手を打とう。

「おやすみなさ~い!」

 受話器を手に大声で叫ぶと、ややあって女性の声が聞こえた。

「あ、あの、近藤さんのお宅じゃあ……」


(6)


「あ、そ、そうですけど」

 焦ってどんぶりをテーブルに置く。

「もう、びっくりさせないでよ」

 それは、さっき留守電にメッセージを残してくれていた、湯川静世だった。

「ああ、ごめん、ごめん。知ってる人だと思ったもんでさあ」

「知ってる人には、いきなり『おやすみ』って言うの?」

「いや、今回だけ……」

 ごにょごにょ言っていると、彼女は笑いながら言った。

「まあ、京子にもそんなイイヒトがいるってわかって、ちょっと嬉しいわよ」

「イイヒトって、いや、違うってば……」

 弁解する隙も与えず、静世は話を変えた。

「でさあ、この間はごめんね。頭、大丈夫?」

「もうすっかり大丈夫」

 私は明るく答えた。

「ホントにごめん。なんか申し訳なくってさあ」

 静世はひたすら謝っている。

「だから、大丈夫だって。刺激受けて、少し頭の出来が良くなったかもしれないよ」

 私は笑いながら言った。

「病院にも行かなくちゃって思ってたんだけど、取り調べとかで何か混乱しちゃって……。本当にごめんね」

 彼女はまだ申し訳なさそうに謝り続ける。

「わかってるって。警察なんかに連れて行かれたら、誰でも混乱するよ」

 私は話題を変えることにした。

「それにしても、あんなところで会うなんて、ビックリだよね」

「ホント、今まで偶然会うなんて、全く無かったもんねえ」

 静世の声が少し明るくなった。

「食器の弁償とかって、どうなった?」

 私は前々から気になっていたことを尋ねた。

「ああ、あれは気にしないで。元はと言えば、私が悪いんだし」

 静世が答える。

「半分持つよ」

 私がテーブルを倒した時に、一番たくさんの食器が割れた覚えがある。

「いいって、いいって。今日は、病院でかかったお金を教えてもらおうと思ってね」

 静世が言った。

「それはいいよ。そんなに大した額でもなかったし」

 本当はかなり痛かったのだが、無理して答える。

「でも……」

 情けない声を出している静世を制して、私は言った。

「だって、米倉君に押されたんだから、医療費請求するなら米倉君にするわよ」

 もちろん、請求する気なんてないけど。

「悪いねえ。ホントに」

 静世はまた謝った。

「いいってば。――ところで、これからお店の方はどうするの?」

 私はまた話題を変えた。

「どうしようかなあと思って。あの場所、愛のお父さんのご厚意で貸していただいてる場所だしね。その上、愛がいなくなっちゃったら、新作も出せないし」

「そうだよね」

 私は頷いた。

「それに、あのお店には、愛との思い出がいっぱい詰まってるでしょ? 正直言って、いるだけでも辛いのよ」

「わかるような気がするなあ」

 愛の華やかな笑顔を思い浮かべると、私も胸がつぶされそうな気持ちになる。

「お得意さまに注文されている分をお渡ししたら、お店は畳もうかなって思ってるの」

「で、名古屋に帰るの?」

 私の質問に、少し間があってから返事が帰って来た。

「名古屋に帰っても仕事もないしね。これから先の細かいことは、後片付けしながらゆっくり考えるつもり」

「そっか。その方がいいかもね」

 私が答えると、静世は、うん、と言ったきり黙り込んだ。

「――静世、どうしたの?」

 少しの間待っていたのだが、耐えられなくなり、私は声をかけた。

「あ、ごめん。実は聞きたいことがあって……」

「何?」

 私は尋ねた。

「愛のことなんだけどね」

「うん」

「最近、ちょっと様子がおかしかったのよ。お店のお金を勝手に持ち出したりして。理由を聞いても、どうしても話してくれなくてね」

「そう」

 私が頷くのを待って、彼女はまた話し始める。

「京子、愛から何か聞いてない?」

「別に何も……。だって、夏に会って以来、全然連絡取ってないし」

 私は少しためらいながら答えた。

「でも、あの食事会の後、愛と2人でタクシー乗って帰ってたよね?」

「うん、帰ったよ」

「愛の方が、けっこう強引に京子のこと誘ってたから、何か話でもあったのかと思ったんだけど」

「ああ、あの時ねえ」

 バスで帰ろうとした私を引き止めた愛の、真剣な顔を思い出す。タクシー代、私が持つからとか言って、半ば強引に一緒の車で帰らされたのだった。

「でもね、特別、話はなかったんだよ」

 車に乗ると、彼女は急に饒舌になり、色々な思い出話を始めた。そして、そうこうしている間に、タクシーは私のアパートに着いてしまったのだ。何だったんだろうと思ったのだが、愛は降りようとした私を引き止めもせず、車を発進させた。

「他にパートナーが出来たとか、そんな話はしてなかった?」

 真剣な声で、静世が言う。

「パートナー?」

 私は驚いて聞き返した。

「そんなこと、一言も言ってなかったよ。思い出話がほとんどだったんだけどね、それも静世の話ばっかりでさあ。愛は、ホントに静世のことが好きなんだなって、そう思ったよ」

「私のことばかり? ホントに?」

「ホントだよ。警察の人にも話したんだけどね、酔っぱらってる時って、つい本音をしゃべっちゃうことがあるでしょ? だから、私は本心だと思うなあ。愛は心から、静世のことを信頼してたんじゃないかな、きっと」

「そう」

 静世はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「もっと早く、その話、聞いておけばよかったな……」

 声が震えている。泣きたいのを堪えているようだ。

「静世?」

 心配になって呼び掛けると、彼女は急に元気な声を出した。

「あ、ごめん。なんかしんみりしちゃったね。また、これからのことが決まったら、電話するから」

「うん、わかった」

「じゃあ」

「あ、静世」

 切ろうとした彼女に、慌てて声をかける。

「無理しないようにね」

 少しして、静世の声が聞こえた。

「ありがとう。京子も、がんばって博士になってね。応援してる」

「ありがと」

 そうして、電話は切れた。

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