第1章
(1)
「おう、近藤、お早う。今日はまた、早いなあ」
共同研究室で調べモノをしていると、2年上の岡村和彦が声をかけてきた。
「あ、お早うございます。明日の勉強会で、発表の順番が回って来るんですよ」
私、近藤京子は顔を上げて答えた。
月に一度の勉強会。修士課程の1回生から博士課程の2回生まで、半ば強制的に参加させられている。
「そうなんか。勉強会のテーマ、今年は何やってるって言うてたかな?」
彼は今年、博士課程の3回生である。既に「引退」した身。
博士課程も3回生になれば、博士号取得を目指して論文作成に全力を注がなければならない。しかし、岡村は11月という差し迫ったこの時期になっても、相変わらずマイペースでのんびり暮らしていた。
「『海外から見た日本』っていうのがテーマです。それぞれの時代で、日本がどう捉えられていたかを見ていこうってことで」
「へええ。で、お前はやっぱり古代の担当か?」
岡村は聞きながら、研究室の隅にあるテレビのスイッチを入れた。8時を過ぎたばかりのこの時間は、ほとんどの局でワイドショーをやっている。
「そりゃそうですよ。だって、他の時代をやれって言われてもわかりませんし」
私が笑うと、岡村も楽しそうに笑った。
「まあ、自分の専門で精一杯やわな」
「ええ。特に私なんて、お情けで入れていただいたようなもんですから」
2年前、私が修士課程の1回生だった時に巻き込まれた事件では、立ち直るのに相当な時間がかかった。一時期は進学を諦めていた私だったが、周りの人達の――特に岡村の手助けのお陰で、なんとか博士課程に進学することができたのだ。
「それにしても、ワイドショーってやつは、どこも同じようなネタ流しとるなあ」
「ホントですね」
あの事件では、私も散々、ワイドショーの餌食にされた。あれ以来、私のテレビ嫌いはますますひどくなってしまった。
「なんや、若いお姉ちゃんが殺されてるで。しかも京都在住の子やって」
岡村が私の方を見て言う。顔を上げてその女性の写真を見た瞬間、私は思わず息を飲んだ。
「愛……?」
岡村の手からリモコンをひったくり、ボリュームを上げる。
――羽場愛。
レポーターが告げるその名前に、私は目を閉じた。
「何や、知り合いなんか?」
岡村が深刻な声で尋ねる。
「ええ。高校のクラスメイトです。北山でブティックをやってて……。3ヶ月くらい前に会ったところなんですけど……」
愛の顔が頭をよぎる。
「深泥池で、水草に絡まって浮いてるところを発見されたって……。すぐそこやがな」
岡村が、レポートの内容を繰り返す。
「一体、何で……」
気持ちを落ち着けようと髪をかき上げた時、研究室のドアが開いた。
「お早うございます」
それは、私の同級生、中西だった。彼も今年から博士課程に進んでいる。
「おお、お早う」
岡村が声をかける。
中西はテレビの方を見ると、一瞬、顔を曇らせた。画面には、愛のお店が映し出されている。
「殺された子、近藤の高校時代からの友達やねんて」
岡村の説明に、中西は頷いて答えた。
「羽場愛さんでしょ? 僕も会ったことあるんで、知ってます」
「ああ、そうか。そう言えば、この間の食事会、一緒に行ってもらったもんね」
私が中西の方を見ながら言うと、彼はテーブルの上にバッグを置きながら頷いた。
「食事会?」
岡村が不思議そうに尋ねる。
「ええ。京都に出て来ている高3の時のクラスメイト達が集まって、食事会をしてるんです。年に一度なんですけど」
私はそう説明した。
「で、何で中西が一緒に行ってん?」
岡村は、どうにも合点が行かない様子だ。
「キャンセルが出たんで、お願いして来てもらったんです。8月だったわよね?」
「ああ。たしか、暑い盛りやったな」
中西が頷く。
「俺には声かかってへんで」
岡村が不服そうに言う。
「岡村さん、たしか学会でどこか行ってはったんですよ。なあ?」
中西が困った顔で私の方を見た。
「そうだったわよね」
「8月言うたら、たしかにしばらく福岡の方に行ってた時期はあったけど……」
岡村が寂しそうにつぶやく。
「それにしても、愛ちゃんが殺されるなんてなあ」
中西が腕を組んだ。
「ほんとに、私もビックリしたわ」
私が頷くと、岡村が冷やかすように中西の方を見た。
「なんや、なんや。『愛ちゃん』なんて、馴れ馴れしい呼び方して。一回会っただけなんやろ?」
「ええ。まあ、そうなんですけど……。あの時は、2次会で行ったカラオケもめっちゃ盛り上がりましたし……」
中西はしどろもどろで答えながら、私の顔を見る。
「たしかに、盛り上がったわよね。中西君以外は、全部女の子だったしね」
助け舟にもならない助け舟を出すと、岡村が目を見開いた。
「女の子ばっかり? 何やそれ。そんなんあるんやったら、俺、学会ブッチするんやったのに……」
「お料理もよかったわよね」
更にうらやましがらせるように言うと、岡村はますます悲しそうな表情を作った。
「ああ。そうやったよな」
中西が遠くを見るような目で言う。
「あの時は、愛も楽しそうだったのにねえ」
彼女の笑顔を思い浮かべながら、私はあの食事会のことを思い出していた。
(2)
「僕、めっちゃラッキーやわ」
珍しくネクタイをしめている中西が、嬉しそうに言う。もう日が落ちかけているというのに、相変わらず蒸し暑い。
「岡村さん、この話聞いたら、悔しがるやろなあ」
「たしかにね」
赤信号で停まると、私は中西の方を振り返った。
「でも、あんまり期待しない方がいいんじゃない?」
私はこれから、高3の時のクラスメイト達と食事をすることになっていた。京都に出て来ている子も何人かおり、年に一度、こうしてお互いの状況を報告し合っている。
「せやけど、ほんまに僕が行ってもええのん?」
「普段は男子禁制なんだけどね。キャンセルがひとり出ちゃったらしいし、いいんじゃない?」
たまにはいいところで食事をしようと、懐石料理の店を予約した。しかし、一人、どうしても来られなくなり、穴が開いてしまったのだ。前日までならよかったのだが、当日だった為、材料等の関係でキャンセルが効かなかったらしい。
周りはみな社会人か主婦。まだ学生という身分の私に、その穴埋め役が回って来てしまった。
「岡村さんがいてはったら、絶対来てたやろうけどなあ。学会と重なってしまうなんて、気の毒な話やわ」
青信号で再び歩き出した中西は、また嬉しそうに微笑んでいる。
「来るかなあ。博士論文の方も大変でしょ?」
私は、岡村の顔を思い浮かべながら答えた。
「たしかになあ。僕らも再来年には、忙しい思いをすることになるんやろな」
「修論が終わったばっかりなのに、嫌なこと言わないでよ」
この4月からようやく博士課程に進んだところなのだ。また大変な日々が訪れるなんて、考えたくもない。
「あはは。悪い、悪い」
中西が笑う。私もつられて微笑んだ。
「で、べっぴんさんが多いんか?」
「どうかなあ。巷では『名古屋ブス』とか言うらしいしねえ」
「あ、そうか。お前の高校の友達やったら、みんな名古屋の子やねんな」
中西が、初めて思い出したかのようにつぶやく。
「そうか。お前の友達やもんなあ……。男みたいなんばっかりかも……」
「ん? 何か言った?」
中西のワイシャツの袖を引っ張ると、彼は慌てて、何でもない、と言って大笑いした。
「そういうこと言ってると、連れて行かないわよ」
「冗談やんけ」
中西が汗を拭きながらそう言ったところで、目的の建物が見えて来た。
「あ、あの角のお店みたい」
私が示した方を見て、中西が驚いた顔をする。
「あれ? あの店って、一見さんお断りの店ちゃうの?」
「え? そうなの? 私もよくわかんないんだけど」
実際、京都にはそういうお店が多い。どうせお金持ちの方々にしか関係のない話だと思っていたから、私もびっくりした。
「店の名前、間違えてへん?」
「『きらく』でしょ? ここでいいはずだけど……」
バッグから手帳を取り出して確認しようとした時、後ろから声をかけられた。
「京子、何やってるの?」
振り返ると、クラスメイトのひとり、川上美智江が立っている。川上というのは結婚後の名前で、旧姓は富田という。
「あ、美智江。よかったあ。ここでいいんだよね?」
私がお店を指差すと、彼女は微笑んだ。
「うん。私も驚いたんだけどね。なんでも、愛が時々使ってる料亭らしいわよ」
「あ、そうなんだ」
羽場愛は、デザイナーをしており、ブティックもかなり繁昌しているらしい。テレビにもちょくちょく出ているという話を聞いたことがある。仲間内では一番の出世頭だ。
納得して手帳をしまおうとした時、美智江がようやく中西に気付いた。
「どなた?」
小さな声で尋ねる。
「あ、大学院で一緒の中西君。今日、昌美が来られなくなったらしくてね。急遽お願いして来てもらったのよ」
「そう。このお店、当日だとキャンセルできないとか言ってたもんね」
美智江はそう言って頷くと、中西の方を見た。
「川上美智江です。初めまして」
「あ、は、初めまちて。中西統っていいまふ」
中学からずっと男子校だったという中西は、緊張のあまり噛みまくっている。美智江は、そんな中西に優しく微笑みかけた。
「もう6時になりますね。急いで行きましょう」
「はい」
聞いたこともないようないい返事をして、中西が美智江の後を追う。私はいささか呆れ気味にその様子を見ていた。
「おい、近藤、早く来いよ」
美智江が先にお店に入ると、中西が私を振り返る。
「何よ、ずいぶん態度が違うじゃない」
小走りに走り寄り、私は小さな声で言った。
「あったり前やろ。僕は女性には優しいねん。それにあの子、ばりばりタイプやし……」
「私も女性なんですけどね」
私が答えると、彼は驚いたように私の顔を見た。
「ほんまに? 今の今まで知らんかったわ」
そうして、怒りに身を震わす私を置いたまま、お店の中へと消えて行った。
(3)
「お疲れさま。かんぱーい!」
幹事の湯川静世の音頭で、みんな一斉にビールの注がれたグラスを挙げた。中西は私の正面に座って、嬉しそうに周りの人達とグラスを合わせている。
今日集まっているのは、私と中西を入れて全部で6人。
お店の前で出会った川上美智江。デザイナーとして活躍中の羽場愛。この会の幹事、湯川静世。彼女は愛のブティックの共同経営者でもある。そして、高校の3年間、クラスもクラブもずっと私と一緒だった高階純子。
「それにしても、京子が男の人を連れてくるとは思わなかったわ」
愛が笑いながら言った。
「だって、周りに女の子がいないんだもん。ねえ?」
私が中西に同意を求めると、彼はグラスを置いて愛の方を見た。
「修士課程までは、まだ女の子もちらほらいてるんですけどね。博士課程になると、がくっと少なくなりますねえ」
「それにしても、京子が博士を目指すとはねえ」
少し酔っぱらい気味の純子が、右隣から私の顔を覗き込んで言った。
「授業の時、いっつも寝てたくせに」
「そうそう、憶えてる? 地理の時間に先生が『京都は……』って言ったら、『はいっ!』って返事して立ち上がったのよね、京子ったら」
静世がグラスを置いて私の方を見た。皆、頷きながら大笑いしている。
「『京子』って言われたような気がしたんだもん……。なんか、ちょっと寝ぼけてたのよね」
あの時の、呆気に取られた先生の顔と、その後言われた言葉は、今でも鮮明に憶えていた。
『近藤、お前は下手に起きてると迷惑だから、いっそ熟睡しておけ!』
ふと見ると、中西は涙を流して笑い転げている。
「あー、おもろい。お前、昔からそんな感じやねんな」
「昔からって、今でもなの?」
純子が身を乗り出す。
「ええ。授業って言うてもね、5人くらいで受ける授業なんですよ。それでガアガア眠れるんやから、もう、びっくりを通り越して尊敬の域ですわ」
「活字を見ると眠くなる病気なんじゃない?」
純子が呆れたように言うと、再び笑いが起きた。
と、そこに先付が運ばれてきた。無花果の寒天寄せ。器も素敵で、思わず歓声が上がった。
「うまそうやなあ」
中西が嬉しそうにお箸を手にする。
「ホントにねえ。ちょうど今、旬だもんね」
みなそれぞれに頷き、舌鼓を打っている。かけられている胡麻ダレともよく合い、実に美味しい。
ほとんど食べ終わったところで左隣を見ると、美智江が全く箸を付けていないことに気付いた。
「無花果、嫌い?」
声をかけると、彼女ははっと顔を上げて微笑んだ。
「ううん。あんまり綺麗だったから、みとれてただけ」
「たしかに、食うの勿体ないですよね」
中西が頷いて、私の器を覗き込む。
「お前、もう食うてもうたん?」
「うん。美味しかったよ」
「ほんまに、風情のないやつやなあ」
中西が呆れたように言う。美智江は、お箸を取り上げながら楽しそうに笑った。
「で、昌美は何で今日、来れなくなったの?」
反対側の隣では、アルコールが入ってますます調子が出て来た純子が、大声で尋ねている。
「つわりがひどいんだって」
静世が顔を上げて答えた。
「そうか。25歳って言えば、お母さんになる人もいてるんやなあ」
中西が驚いたように言う。
「うちの唯一の女性には浮いた話ひとつないし、そんなこと、考えたこともなかったわ」
「私のこと? 浮いた話はいっくらでもあるんですけどね。全部こちらがお断りしてるんです」
ビールの入ったグラスを持ち上げると、私は中西に言った。
「またまたあ。高校の頃なんてさあ、『私は理想が高いから、好きになる男は相当なもんよ』とかほざいてたクセに」
「ホンマですか?――近藤、お前、そろそろ理想求めるのん、諦めたら?」
純子の言葉を受けて、中西が楽しそうに笑った。
――「理想」という言葉に、ふとあの人の顔が脳裏をかすめる。
2年前のあの事件の後、彼は無期懲役の刑に服していた。私の永遠の片思い。彼は、これからもずっと、亡き恋人だけを思って生き続けるのだから。
「おお、ええこと思い付いたわ。いっそ、岡村さんと付き合ったらどうや?」
中西が膝を打ってこちらを見る。ビールを飲もうとしていた私は、思わず咳き込んだ。
「けほ、けほ……ちょ、ちょっと、なんで岡村さんが出て来るわけ?」
「あららら、ムキになっちゃってえ。――で、その岡村さんって誰?」
純子が早速食い付いて来た。
「近藤のことが大好きな先輩がいはるんですよ」
「いやあ、そんな奇特な人がいるの? ちょっと、京子、愛するより愛される方が幸せなのよ。その人にしといたら?」
静世が笑いながら言った。
「愛される方が幸せって、そう言う静世だって独り者じゃないのよ」
私が口を尖らせて言うと、純子が大笑いしながら答えた。
「この中で結婚してるのって美智江だけなんだから、他の子は恋愛に対して偉そうなことは言えないわよね」
「そんなことないわよ。私はいつでも恋愛してますう」
愛がふざけた口調で言う。
「恋愛、恋愛って偉そうに。あんた、不倫ばっかりしてたら、いまにしっぺ返しを喰らう日が来るわよ」
愛の相棒、静世が笑った。
「はいはい。全く、こういう小姑が付いてるから、なかなか結婚もできないのよね」
愛が口をへの字にして私達の方を見る。その様子が面白くて、私達はまた大笑いした。
「それにしても、愛も頑張ってるわね」
純子がその愛に話を振った。
「大学に行きながらブティックを始めたって聞いた時は、どうするんだろうって思ったけど」
「まあ、うちはパパが色々お店やってるでしょ? それで、空いた店鋪を紹介してもらえたのよ。ラッキーだったわ」
愛が微笑む。
「あの建物ってさあ、2階が事務所になってるの?」
何度か前を通ったことのある彼女のお店を思い出しながら、私は尋ねた。
「そうよ。あそこで、デザインなんかを考えるわけ」
「テレビの取材も、事務所で受けたりするのよ」
静世が付け加える。
「へえ。すごーい」
私は素直に感心した。
「京子の大学も近いんだからさあ。たまにはうちのお店に遊びに来てよ」
静世が言う。
「行きたいのはヤマヤマだけど、なんせ、お値段が高くってさあ」
一点ものばかりでは、とてもじゃないけど手が出ない。
「そうそう、こいつは苦学生ですから」
中西が茶々を入れる。
「僕が彼女に買ってやりますよ」
「えー? 中西さん、彼女いるの?」
純子が尋ねる。
「ははは。いえ、実はいないんですよ。ちょっと見栄張ってみただけですわ」
中西が頭を掻いてみせる。
「いっそ、京子で手を打ったら?」
愛の言葉に、私は飲んでいたビールを吹き出しかけた。
「何言ってるのよ」
反論しようとした時、中西が眉間に皺を寄せて言った。
「僕は、そこまで焦ってませんから」
再び起こる爆笑の中、私はそっと中西を睨んでおいた。
(4)
「お、そろそろ行かなアカンわ。今日はずっと大学にいてるんか?」
岡村の声に、はっと我に返った。時計を見ると、8時30分を少し過ぎている。
「いえ、午後からバイトなんで、午前中だけですね」
私は顔を上げて答えた。
「岡村さん、用事ですか?」
中西が尋ねる。
「そうやねん。南山科の郷土資料館で、生涯学習の講義することになっとってな」
「ほんまですか? 南山科に郷土資料館なんて、ありましたっけ?」
「おお。一応、村立やねんけどな。過疎の村やし、色々大変みたいや」
中西の質問に、岡村が微笑んだ。
「職員が3人の、あの小さいところですよね?」
以前、史料を見せてもらいに行ったことがあるのを思い出し、私は尋ねた。
「うん。――そう言えば、お前、農具の展示を手伝ったことがあるらしいなあ。館長さんが言うてはったわ」
岡村が言う。あの時の状況を思い出し、私は頷いた。
「史料を見に行ったんですけどね。なんか『地元の農具展』の準備期間中だったんですよ」
「それで、手伝わされたんか? えらいことやな」
中西が呆れたように言う。
「うん。学芸員資格持ってるって言ったら、『ほな、頼むわ~』みたいな感じでね」
「ありそうな話やな。あそこなら」
岡村が腕を組んで頷いた。
「で、そんなところで生涯学習なんかやって、人が集まるんですか?」
中西が尋ねると、岡村は微笑んだ。
「おお。老人の人口は多いからなあ。岩倉具視と南山科の関係を語るってテーマにしたら、結構な人数が集まったみたいやで」
「へえ。過疎地って、やっぱ老人が多いんですねえ」
中西は納得したように頷いた。
「ほな、ホンマに、そろそろ行ってくるわ」
岡村がバッグを手にドアを開ける。と、同時に悲鳴が上がった。
「うわっ!」
驚いて振り返ると、ドアのところで岡村がしりもちを付いている。そして、彼を助け起こしている背の高い男性が姿が目に入った。
「安永さん?」
立ち上がった岡村に謝っている男性に声をかけると、彼はゆっくりこちらを見た。
「ああ。近藤さん。久しぶりやね」
安永光夫。2年前の事件の時に色々お世話になった、京都府警洛北署の刑事だ。
「どないしはったんですか?」
お尻をさすりながら、岡村が尋ねる。
「いや、ちょっと人を探しているんや。中西統君、どこにいてるかわからへんかな?」
驚いて中西の方を見ると、彼は不安気に安永刑事の顔を見ていた。
「あの、僕ですけど……」
「ああ、ここにいはったんですか。下宿の方に行ってみたら、もう出かけられた後やったんで、探していたんです」
安永刑事が、ほっとしたように中西の方を見る。
「羽場愛さん、ご存じですね?」
安永刑事の言葉に、中西の顔色がさっと変わった。
「あの、愛は私の友達ですけど?」
不思議に思い立ち上がると、安永刑事は頷いた。
「高校が一緒やったみたいやね。羽場さんの経歴を見てびっくりしたよ」
「で、何で中西に質問してはるんですか?」
再びテーブルにバッグを置いて、岡村が尋ねる。
「ちょっと情報が入ってね。――中西さん、答えて下さい」
岡村の質問を制して、安永刑事は鋭い口調で中西に迫った。
「ええ。8月に一度だけ、近藤達の食事会で会いました」
中西はうつむいて、小さな声で答えた。肩が小刻みに震えている。私がちらっと岡村の方を見ると、彼も私の方を見ていた。
「本当に一度だけですか?」
「ええ。一度だけです」
中西が、目を逸らしたまま答える。
「では、先週の木曜日、11月1日の午後10時から12時の間、どちらにおられましたか? 羽場さんの死亡推定時刻と思われる日時なんですけどね」
安永は追求の手を緩めない。
「それは……。ずっと下宿にいてました」
中西がそう言うと、安永刑事は首を傾げた。
「おかしいですね。午後11時頃、羽場さんの事務所から、あなたが飛び出して来るのを見た人がいてるんですけどねえ」
「ほんまなんか?」
岡村が驚いたように中西に尋ねた。
「いえ……。いや、あの……。っていうか……」
中西は落ち着かない様子で、何かもごもご言っている。
「とにかく、署でお話を聞かせていただけますね?」
安永刑事の一言に、中西は諦めたようにゆっくり頷いた。
「では、行きましょうか。――お騒がせしましたね」
安永刑事が軽く頭を下げる。中西は、のろのろとバッグを持ち上げた。
「大丈夫?」
思わず声をかける。
「ほんまに、僕は関係ないから。信じてな」
彼は泣き出しそうな顔でそう言い残し、ドアの向こうに消えた。
「どういうことや?」
岡村が私の方を見る。
「私にもわかりませんけど……」
今は首を傾げることしかできない。
テレビから聞こえるわざとらしい笑い声だけが、室内に響いていた。
(5)
「しっかしまあ、ほんまに、よう食うやっちゃなあ」
カルビを鉄板に並べながら、岡村が呆れ顔で言う。その夜、京都駅のそばにある焼肉屋で、私と岡村は落ち合っていた。
「だって、腹が減っては戦はできぬって言うじゃないですか」
ジョッキを片手に反論してみる。
「世の中では狂牛病や何やって、焼肉食うやつ、少ななってる御時世やで」
岡村が苦笑する。
「今更そんなこと言われたって、今まで散々食べてきてるんだから、どうしようもないでしょう?」
私は、ジョッキを置いて言った。
「ははは。たしかにな。――まあ、狂牛病は置いておくとして、今、お前の置かれてる状況を考えてみろや」
「置かれてる状況って?」
私は顔を上げた。
「お前、また殺人事件に巻き込まれかけてるねんで」
「巻き込まれかけてるって、どういうことですか?」
私が尋ねると、岡村は私の顔をじっと見た。
「どういうことって、そうやろ? お前の高校時代からの友達が殺されて、現在仲良くしている同級生に容疑がかけられてる。お前は、思いっきり渦中の人やないか」
「でも、中西君から釈放されたっていう連絡もありましたし、私は直接かかわってるわけでもないし」
「釈放されて、ハイおしまいなんて、そんな甘いもんとちゃうことくらい、お前もよう知ってるやろう。中西の疑いが完全に晴れたとは思われへんわ」
「まあ、たしかにそうですけどね」
鉄板の端の方でコゲかかっているタマネギを取りながら、私は頷いた。
「で、その、殺された友達の葬式には、行かんでええんか?」
焼けたシシトウをお箸でつまんで、岡村が尋ねる。
「さっき、別の友達から連絡があったんですけど、解剖とか色々あって、お葬式はかなり後になるみたいですよ。しかも、事情も事情だし、親戚だけで密葬って形にするって」
美智江の落ち込んだ声を思い出しながら、私はそう答えた。
「たしかに、そうやろなあ。3日間も水の底に沈んどってんから、色々大変やわなあ。さっき見たニュースで言うとったけど、刺殺やって?」
岡村が気の毒そうに言った。
「ええ。でも、殺害された場所がわからないらしいんですよ。事務所にも愛の自宅にも、荒らされた痕跡も何もなかったし、周りの人達も、まさか殺されてるなんて、思ってもいなかったらしくて」
「ニュースでも言うてたわ。3日間くらい、ふらっと出かけることもあったし、家族も周りも全然心配してへんかったって」
岡村が腕を組む。
「せやけど、恨みとか買いやすいタイプやったんか? その愛って子」
「うーん、まあ、確かにプライドが高いところはありましたけど……」
言いながら、カルビを裏返す。
「絶対、弱い部分は見せないって言うんですか」
「ああ、ようおるな、そういう肩ひじ張って生きてるヤツ」
岡村が眉間に皺を寄せる。
「でも、悪い子じゃなかったと思いますよ。私、よく帰りにアイスおごってもらったりしたし」
「ははは」
岡村が笑う。
「お前、食いモンおごってくれるヤツなら、みんないい人やと思うタイプやろ?」
「ええ。岡村さんもいい人ですから、今日は払って下さいますよね?」
私が尋ねると、彼は目を丸く見開いた。
「お前の方がぎょうさん食ってるのに、何で俺が払わなあかんねん」
「え? じゃあ、割り勘ですか?」
「割り勘でも俺がソンするくらいやわ」
そうして、ははは、とまた楽しそうに笑った。
「まあ、何があっても食欲が落ちひん、ってことはええことや」
岡村の言葉に、焼けたカルビをお箸で摘み上げながら、私はにっこり微笑んだ。
「何を嬉しそうな顔しとんねん。ほんまに単純なやっちゃなあ」
そう言いながらも、岡村は焼けている残りのカルビを、私のお皿に入れてくれる。
「――で、中西と愛ちゃんはどういう関係やってん?」
ようやく事件の話に戻る。
「さあ。留守電に釈放されたってメッセージが入ってただけですから、細かいことは聞いてませんねえ。連絡もつかなかったし」
岡村との約束の時間まで大分あったので、バイトの後、私は一旦アパートへ戻った。留守電を聞き、中西の下宿にも携帯にも電話を入れてみたのだが、どちらも応答はなかったのだ。
「携帯の方にもかけてみたんか?」
「ええ。でも、電源切られてて、つながりませんでした」
「そうか」
岡村が腕を組む。
「ところで、生涯学習の方は間に合ったんですか?」
安永刑事の刑事の思い掛けない訪問のお陰で、彼が研究室を出たのは、既に資料館に着いていなければいけないような時間だった。
「30分くらい遅れてもうたけどな、館長がつないでおいてくれはったわ」
「よかったですね」
頷きながら、人の好さそうな館長の姿を思い出す。どこやらの研究機関を定年退職した後、郷土資料館の館長におさまったと聞いている。
「終わった後、ヒマなご老人達と昼飯食いに行ってんけどなあ。戦争の時の体験談とか、繰り返し聞かされて往生したわ」
「へえ、それは大変でしたね」
鉄板の上に新たにロースを乗せながら、私は微笑んだ。
「まあ、俺よりも若いやつらが、お国の為、とか言うて命張って闘っとったんやからな。ほんまに、平和な時代に生まれてよかったで」
「たしかに、日本は平和ですよねえ。いまだに、闘いが続いている国々だってあるわけですから」
テロだ、報復だと、多くの命が失われている。平和という言葉をかみしめつつ、私は頷いた。
「そうや、思い出したわ。今度は古代の話を聞きたいって人がいはってなあ。うちの後輩に優秀なのがいてますよって、お前のこと紹介しといたったから、そのうち話が来るかもしらんわ」
岡村にさらっと言われ、私は思わずお箸を落としそうになった。
「ちょ、ちょっと、何言ってくれてるんですか。私に生涯学習の講師なんて、できるわけがないでしょう?」
「いやいや、大丈夫、大丈夫。お前みたいな毛の生えた心臓持ってるやつなら、何も心配いらんで」
岡村が、きっぱり断言する。
「毛の生えた心臓……?」
反論しようとしたところで、店員から、ラストオーダーです、という声がかかった。
「どうします?」
岡村に尋ねると、彼は驚いたような表情をする。
「お前、まだ食う気か?」
「いえ、どうかな、と思って聞いただけです」
カルビを追加しようと思っていたのだが、ここは大人しく引き下がった方がよさそうだ。
「焼けたみたいですよ」
「俺、もうええわ」
「じゃあ、私、片付けちゃいますね」
焼き上がった最後のロースを2枚一度に口に運ぶと、岡村はまた呆れ顔で言った。
「――お前、ほんまによう食うなあ」