ノアスの正体
ことり、と音がして、メルーナーは目をさました。見ると、ノアスがスリンを連れ去ろうとしていた。
「アンプスル」
メルーナーは呟き、ノアスに向かって手を向けた。
その手から光の塊が放たれ、ノアスの手にぶつかった。
ノアスは慌ててスリンから手を離すとメルーナーを睨んだ。その瞳はどろりと濁った緑色だった。
「ディフェンドル」
そう囁いてスリンとディオネを守る結界を築くと、ノアスに向き直った。
「なぜ、邪魔をする」
それは昼間の人好きのする声とは程遠い、ひどく酷薄な声だった。
「友人が連れ去られそうなのを黙ってみておけるか」
怒りを含んだ口調でメルーナーは応戦した。
「それならば黙ってもらいましょうか。
出でよ、オンディノ」
ノアスの声と共に、小さな青い子供が現れた。
「渦」
青い子供の言葉に答えるかのように水がどっと押し寄せてきた。
水に飲まれないように注意しながらメルーナーは呟いた。
「フェリア(精霊使い)か……!
アヴェニル(未来へ)!」
メルーナーの声に星が瞬き、光の渦となって青い子供に押し寄せ、子供は一瞬怯んだように見えた。その隙を逃さずメルーナーは叫んだ。
「アルブレ(木よ)!」
緑色の塊が青い子供にぶつかった。その子は悲鳴をあげて消えた。
「よくもオンディノを」
ノアスの目は激しい怒りに染まっていた。
「そんな低級な精霊じゃ到底イン・ルーナーの魔力には勝てはしない。
レマットル・オブリエル(戻れ、そして忘れろ)」
今度は虹色の光がノアスを包む。
そしてノアスは静かに階段を降りていったのだった。
翌朝、ディオネとスリンは起きたとき周りの音がなにも聞こえなかったのに驚いた。慌ててメルーナーを見ると、メルーナーは疲れた様子でぐったりと眠っている。おそらくメルーナーが自分達を魔術で守ってくれたのだとは思っても、解き方が分からないのでどうしようもない。
二人は顔を見合わせた。
「レヴィエ」
その時メルーナーが呟いた。すると二人の回りに音が戻ってきた。
鳥のさえずる音、風の音。
「悪いな。あの大戯けが君たちをさらおうとしたからな」
「メルーナー、起きてたのか」
「寝てたよ。でもあのままでいたら君たちが困っただろう」
ディオネは頷いた。
「昨日の夜、ノアスはあろうことからスリンをさらおうとした。もちろん私はすぐにそれに気づき、起きてノアスに応戦した。
もう一人の方は分からないが、少なくとも一人のノアスはフェリア(精霊使い)だ。
オンディノという水の精霊と昨日の夜、私は対峙した」
「そうか……」
「安易に人を信用してはなるまい。私たちには今、私たち以外の味方はいないと思ったほうがいい。
人を信用して裏切られたら、それがすなわち私おたちの自由の死だと思ったほうがいい。
私はイン・ルーナーではあるが、私とて最強ではないということがこの間証明された。スリンはおそらく将来は最強のフェリアになるだろうが、今はまだその力が開花したばかりで大して強くはないだろう。だからこそ、人を信用するな」
「 それはいやだな」
スリンが口をはさんだ。
「ねえ、わたくしたちが一体どんな悪いことをしたというの。わたく しはその生まれで、ディオネさんとメルーナーさんはその持って生まれた能力のせいで。わたくしたちに決定権がないものばかりじゃない。それだけでこそこそ したり、人におびえて生活するなんていや。わたくしたちにも自由に生きる権利はあっていいはずだわ。少なくとも、自分たちに決められないもので罪を作るの はいいことだとは思わない。
わたくしはそう思うの」
ディオネとメルーナーは微笑ましい気持ちになった。
スリンの言っていること、それは正しい。しかしそれだけでは生きていかれないのがこの世界。明らかに間違った物語が進行してい るこの世界。
スリンの考え方は二人がもうとっくに失ってしまった光を確実に持っていた。
それはもしかしたらフェリアに必要な一番重要な資質なのかもしれなかった。
「そうなれば、本当にいいのにね」
「おーい、朝餉だよ」
ノアスが下から呼ぶ声で三人ははっとした。
「今行きます」
スリンの無邪気な声が家じゅうに響き渡った。
メルーナーとディオネはなんとなく明るい気持ちになって、階段を下りていく。
「さあ、たんとおたべ」
ほかほかと温かく湯気を立てるパン、きりりと冷えたスープ。そして香草が詰まった羊肉。
一人でこれを用意するのは大変だったはずだ。
ノアスの心づくしが身に染みて、二人はなんとなくきまずくなった。
「とってもおいしいです!」
スリンは一人ご機嫌で、ノアスの料理をほめている。
「そうだろう。これには、隠し味に、あるものが入っている。さあわかるかな? 」
「えーと、もしかして、リメロ(薬草の一種。よい香りがする)ですか?」
「正解だ。よくわかったな」
スリンはとてもうれしそうだった。それもそうかもしれない。わずか八歳の子供が、急に父親から離されたのだ。しかもその父親の生死すらわからない。
ノアスが父親のような気がするのかもしれなかった。
そう思うには二人は年を取りすぎていたが、ノアスのしたことを笑って許せるほど大人ではなかった。二人も十代の時に両親から引き離されたのだ。親の愛情というものに飢えていたのはむしろ二人かもしれなかった。
ノアスも早くに子供に死に別れたらしい。それは、調度品の数々を見ていればわかった。
そこまで考えていたメルーナーはふと 、あることを思いついて、ディオネに耳打ちした。
「ノアスの父親としての心にならはいれるのではないか」
ディオネは一瞬何のことかわからない、という顔をしていたが、ややあってすべてを理解した顔になった。
「やってみよう」
ディオネは意識を統一させた。
普段はここまで気を付けはしないが、なにせ、二重の人なのだ。
万が一何かあって帰ってこれなくなると困る。
ディオネは慎重にノアスの心に入っていった。
「どうしてお前は死んでしまったんだ、わが息子、メイラよ」
「おまえはわが妻の命と引き換えに生まれてきた。ならばもっと生きるのが義務ではないのか――」
「お前をおれはどうしても取り戻したい。そのためにはおれは人を殺すことも否まない」
「そのためにはあの娘が必要だと言われた」
「それは本当か?この娘を殺していいものか」
たくさんの思いがばらばらとあふれていて、どれが本当のノアスの思いなのかわかりづらい。
しかしそこはリメーア。暗い緑の瞳のノアスと明るい緑の瞳のノアスの思いをそれぞれ分けていく。
フェリアになったのは、スリンをとらえるため。一人のノアスが述懐する。
しかし実際スリンと話すうち、この子をとらえてはいけないいう思いが強くなった。もう一人のノアスが言い聞かせる。
二つの思いは打ち寄せ、離れ、せめぎあっていた。少しでも 均衡を崩したら、崩壊する――。
「ノアスさんってお父さんみたいです」
ああ、均衡が崩れる。
「お前に何がわかる?息子を亡くした親の気持ちが子にわかってたまるか。お前なんかに、父親と呼ばれたくはない」
スリンの表情がみるみるこわばっていくのがわかる。気を付けろ、スリン。
ディオネはそれだけ祈ると、急いでノアスの心の中から脱出した。
急がないと、自分もこの渦に巻き込まれてしまう。そうしたら一生この人の中で生きねばならぬ。
「ああ、間に合った」
戻ったとき、ディオネは開口一番そういった。
「メルーナー。スリンは・・・・・・」
メルーナーは黙って指をさした。
そこにはノアスと対峙している スリンの姿があった。
「おじさんは逃げているだけよ。自分の息子さんの影ばっかり追い求めて。息子さんに悪いと思わないの?」
「お前に何がわかる」
「わかるわけないじゃないの。あってすぐに人のことがわかったら、すれ違いなんて起きないわ。
おじさんは、息子さんが亡くなったことを嘆いていらっしゃるけれど、人を殺してその親御さんのことは考えないのね?そのことを考えたらそういう発想は思い浮かばないはずよ。
そういうことをして息子さんが万が一よみがえったとしてよ。息子さんはそれを喜ぶかしら」
「お前に言われなくてもそんなことはわかっている。しかし、理性と感情は別物だ。おれはそういうことをしなければやっていられないの だ。この悲しみを埋めるためにおれはすでに悪魔に魂を売ったも同然のことをしている。本来与えられなかったフェリアになり、弱いながらも 精霊を手に入れた。そのかわり、おれはお前たちをムツィオに引き渡す、という契約を結んだ。
それがなしえないときには・・・・・・」
ノアスはその先はいうことができなかった。メルーナーからの激しい殺気を感じたからだ。
「それ以上言ったら私がお前を殺す」
低く、無声音でささやかれたそれは、たしかにノアスの耳に届いたようだった。
ノアスはしぶしぶといった体でうなずき、引き下がった。
「頼むから、でていってくれ。おれを一人にしてくれ」
ノアスは絶叫した。
「ああ、出ていく。しかし俺らのことは誰にも言うなよ。言ったら最後お前の命はないと思え」
ディオネも低く、ノアスを脅迫した。
ノアスは操り人形のように首肯し、三人を通した。