I戦争 ―この地球の悲しい皮肉―
日本。
私は大学のプレゼンテーションで今、あの戦争について調べることとなった。とりあえず、資料を集めるのが大切だ。この便利な時代、やっぱり一番使い勝手がいいのはインターネットだろう。
私はさっそくパソコンを立ち上げた。
それにしても、この間見たその戦争のドキュメンタリー映画は悲惨なものだった。ポケットティッシュを持ってき忘れたのは相当の痛手だった。鼻をずーずー鳴らしっぱなしで、恥ずかしかったことといったらない。だが、目薬を忘れても問題はなかった。ドライアイな上にコンタクトをしていて、すぐに目が乾いてしまうが、あの映画は私をそういう状態にはさせてくれなかった。命の危険性を考えて学校へ行かない子。瓦礫となった家の屋根。病院は爆弾を受けた重傷者で埋まり、無事な者はベッドに横たわる愛する者の横で神に祈る。遊んでいたら腕が吹っ飛んだという。頭から脳が出ていたという。今、私と同じ時にあんな酷い戦争の痛手を受けた人たちが生きているとは信じがたかった。違う時代なのでは?
パソコンがようやく立ち上がった。インターネットをつけて、キーワードを入れて、検索開始。
やっぱり、日本語ではそうそういい資料は出てこないようだ。でも、英語で調べて読むのも面倒くさいし、時間がかかるのでドライアイにはきつい。けれどやっぱりここは英語で調べるか、プレゼンは英語で行うのだから。
キーワードを英語で入れ、検索を開始した。私は次々とページを覗いていった。だが、やはり英語、読む気がでない。とりあえず、短めの資料を探して、印刷することにした。
戦争主導国。
「ヴァネッサ! 志願兵になったって本当?」
ヴァネッサが家に帰るなり、彼女を迎えたのは弟のこんな言葉だった。大人の体格をしていながら、まだ子供の幼さを残すウィル。座っていた椅子を倒すほど勢いよく立ち上がって、姉をまっすぐ見つめた。
「その話、あんたの耳に入っちゃったんだ」
ヴァネッサは弟から目を背け、コートを脱ぐと、弟のとは反対側の椅子にコートをかけた。
「なんで黙ってたんだ?」
ウィルは鋭い目つきをヴァネッサをから離さなかった。テーブルの上に置かれた両手は震えていた。
「出発する当日に話そうと思ってたの」
ヴァネッサはため息を付きながら、黒髪をかきあげた。
「どうして、そんなことしたんだ!? 戦争なんて……」
ウィルはヴァネッサに詰め寄った。悔しいながらも姉に背の届かないウィルは、姉を下から睨みつける形になった。
「志願すれば、たくさんお金がもらえるんだから。そうすれば、おいしい食事が食べられるだろう。生活もちっとはマシになるだろうさ」
ヴァネッサは椅子に座って、足を組んだ。今度はヴァネッサがウィルを下から見上げるかたちとなったが、ウィルはまだ見下げられている感じがした。ヴァネッサは、自分のしたことが正しいと確信しているようだったが、ウィルは姉の戦争行きを止めようとしているのが正しいのか迷いがあった。彼らにはまだ一人妹がいて、今の状態では三人で生活していくのは厳しかった。妹に満足な食事をさせたことがない。
「でも、やっぱり、それだって絶対お金がもらえるなんて保証はない。死んだらどうするんだ?」
「死んだら、確かにお金はもらえないね。でも、その分、一日にかかる費用が一人分減るだろう」
ヴァネッサはそこで笑ってみせた。
「笑い事じゃないだろ!!」
ウィルは手のひらで思いっきりテーブルを叩いた! 途端、彼の目から涙が溢れ出てきた。
「ウィル。すぐ帰ってくるから、エリーの面倒、ちゃんと見てろよ。戦争なんてもう終盤なんだから」
ヴァネッサはウィルの肩を叩いた。
日本。
どうやら、資料を探し始めて一時間を過ぎちゃったみたい。そろそろ他の授業の宿題もしなくちゃ。
!!
なんかおもしろそうなページを見つけたぞ。
そのページの中央では何桁もの数字が目まぐるしく移り変わっていた。どうやらその数字はあの戦争で使われている軍事費を表しているようだ。$235, 361, 48.…。どんどん数字は増えていく。$235, 361, 51.…。
ただ見ているだけでも桁がわからない、数学嫌いな悲しい私。一から数えてみることにした。一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億、千億ドル! それは単純計算で百を掛ければ、十兆円ってことで、約23兆円……もう規模がわからない。このお金の使いかたはもったいないと思うのだけれど、それは日本人だからだろうか。この“もったいない”を世界にもっと広めないと。それにしても、まだこの数字の増加は終わらない。
戦争主導国。
ヴァネッサは出発の準備をしていた。と言っても、ほとんど持っていくものはない。少しの着替えと家族が写っている一枚の写真と十字架のペンダント……こんなものだろうか。
コンコン。
部屋に扉はなにが、その代わりが壁をノックだ。
「何だい。ウィル」
ヴァネッサはウィルに背中を向けたまま、返事をした。
「あのさ、ヴァネッサの代わりに俺が戦争に行く」
ウィルは壁にもたれて、そんなことを言い出した。
「ヴァネッサがエリーの面倒をみるほうがいいと思う。俺、料理できないから」
「何言ってんの!」
ヴァネッサは後ろを振り返り、立ち上がった。
「私が勝手に決めたことなんだから、私が行くに決まってるでしょ!」
「でも、考えてみろよ。女より男のほうが戦力にな……」
ウィルは目を見開いた。ヴァネッサが彼の頬を力いっぱい引っ叩いたのだ。部屋に衝撃音が響き、静けさに飲み込まれた。
ウィルは叩かれた右頬をさすった。ヴァネッサは本気で叩いたようで、痛みはだんだん麻痺していった。彼は頬をさすりながら、ちらっとヴァネッサを窺った。ヴァネッサの目は本当に怒っていた。だが、すぐに目が細められ、口角が吊り上げられた。
「性差別の話をするのは、どこの口だ?」
ヴァネッサはウィルの頬を掴んで、ぎゅーっと横に引っ張った。
「やめろよ!」
もちろん、ウィルはそれから逃れようとしたが、ヴァネッサに抱きしめられた。急なことでウィルは動きを止め、ヴァネッサが優しく言うのを聞いた。
「ウィル。ありがとう。あんたを愛してるよ。私はねえ、あんたより生きて帰ってくる自信があるんだ。私がお金もらって帰ってきた時のために、何しようかエリーと考えときなよ」
「……わかったよ。ちゃんと大人しく待ってる。だから、その代わり、俺たちを喜ばせろよ」
二人はお互いに背中を叩き合った。
日本。
ページの真ん中で戦争の費用を表す数字はまったく止まらず、増えていく一方だ。どういうことだろうか?
私はちょっと考えて、気がついた。
そうだ、これは今まさに使われているお金がリアルタイムで表示されているのかもしれない。だから、次々と更新されているということだろうか。
$235, 361, 57.…。$235, 361, 58.…。
何にお金が使われていってるんだろう。食費、医療、武器、燃料、給料……。どうして、こんなに莫大なお金になるのかわからない。こんなにあったら、もっと他のことができると思うけど、何かいい使い道はなかったんだろうか。あっ“compare to the cost……”って、この戦争費を他の何かの費用と比較ができるってこと?
戦争主導国。
「じゃあ、行ってくるよ。しっかりな」
ヴァネッサは肩にあまり荷物の入っていないリュックを背負って、玄関に立っていた。
「ああ……ちょっとは料理うまくなっておくよ。そっちこそ、しっかりな」
ウィルはヴァネッサの肩をたたいて、口角を片方つりあげ、笑みでみせた。その隣には、今日姉の戦争行きを告げられたばかりのエリーが影を背負った表情で、立っていた。
「エリー。笑ってくれよな。でないと、向こうで思い出すお前の顔が、こんな暗い顔になっちまうだろう」
ヴァネッサはエリーの黒くて細かく巻いた髪を撫でた。すると、途端にエリーはぼろぼろと涙を流し、ヴァネッサに抱きついた。ヴァネッサも優しく抱き返した。
エリーは何度も口を開けた。けれど、何を言葉にすれば良いのかわからなかった。何か言ったら、それはまるで今生の別れを告げてしまうようで怖かった。
「愛してるよ、エリー」
「愛してる、ヴァネッサ」
二人はお互いに頬に口付けした。
エリーと離れると次は、ヴァネッサはウィルと抱擁した。
「愛してるよ、ウィル」
「愛してる、ヴァネッサ」
そして、お互いに頬に口付けした。
「手紙を書くかもしれないから、よろしくな」
最後にヴァネッサはそう言ってエリーとウィルの肩を叩くと、扉を開けた。午後の光の中に、ヴァネッサの黒い後ろ姿が吸い込まれていった。
ウィルとエリーは抱き合いながら、二人して声を上げて泣いた。
戦場。
ヴァネッサはその腕の中に黒く重い殺人兵器を持っていた。
銃弾が飛び交う音が彼女の耳を覆っていた。指示する声もどこか遠く、銃撃音の隙間を縫ってようやく耳に届く、という感じだった。人が叫ぶ声も聞こえているような気がしたが、それは意識には届かなかった。何日も戦場にいるうちに、そんなものは自然とシャットダウンされるようになっていた。もう何人も殺したはずだが、どこでいつ殺したか、どんな顔かだったかどんな体型だったかなど誰一人覚えていない。覚えていたら、今この場で銃撃音を発射などできない。ただ腕の中の重い殺人兵器を握り締めた。恐怖が神経を研ぎ澄ませた。たとえ銃撃音が耳を覆い、叫び声が聞こえなくても、身の危険を示しそうな音はなんでもはっきりと聞こえた。だから、背後でちょっと草が擦れあった音がしただけで、振り返り銃を構えた。だが、ただの虫だった。それでも音が怖かった。音一つが身の破滅を招くようだった。影も怖かった。空を飛ぶ鳥の影さえ、手榴弾か何かに思えてならなかった。誰が味方で誰が敵なのかさえ、わからなくなってきた。いつの間にか、狂気に取り込まれていた。自分だけはまともだと思っていても、戦場がそうではないのだと見せ付けた。黒い殺人兵器は命に思えた。死体は人形のように見えた。銃撃音はいつの間にか日常の音として慣れてしまった。疑い深くなっていた。人がみんな敵に見えた。だから、一心に銃撃音を発射する。
カチッ、カチッ。
弾が切れた。ヴァネッサは狭く暗い路地に身を引いていった。装弾しなければいけない。ドラム缶やゴミの袋が積まれた向こう側に身を隠し、装弾することにした。装弾ももうなれたものだ。すっかり戦争生活が身に染みて、元の生活に戻れないかもしれない不安が時々よぎる。
装弾し終えると、ヴァネッサはすぐ戦線へ戻ろうと、完全に立ち上げる前に地面を蹴った。それがいけなかった。不覚なことに、ビニールのゴミ袋で足を滑らせてしまった。自らの体が倒れていくのを感じながら、ヴァネッサは、自分は戦場で傷を負わされる、のではなく、自分で傷を負う間抜けな種類の人間なんだな、と思いながら、ドラム缶に頭を打ち付けて、気を失ってしまった。
日本。
どうやら、八つの項目と戦争費を比べられるようだ。どれにしようか。
大学の奨学金という項目を見つけた。大学の奨学金と比べられるらしい。大学生として、これは興味を引かれる。
私はその項目を押した。ページがかわり、そこには短い文が書かれていた。それによると、戦争費の代わりに公立大学四年間の奨学金を11,425,064の生徒に提供できるらしい。
この数は日本でセンター試験を受ける数より多いのでは? これだけの子どもに提供できるなら、奨学金を受けられる枠に入ろうと必死に勉強している子たちも、余裕で枠に入っているだろう。このお金で一体どれだけの子の未来が開けたことか。戦争に使うより、未来の頭脳を育てるほうがよっぽど国の利益になると思う。
他には何と比べられるだろう。
私は世界の飢餓という項目を見つけた。
きっと、この戦争費で世界の飢えている人たちを何人救える、という類だろう。
とにかく、私はその項目を押した。
戦場。
ヴァネッサは目を覚ました。頭部にはまだ鈍痛を感じたが、なんだが頭がすっきりしたような変な感覚があった。だが、何よりも早く戦線へ戻らなければいけない。再び黒い殺人兵器を抱え、立ち上がった。だが、すぐに彼女は異変に気づいた。銃撃音がしないのだ。ここでの戦いは終わってしまったかもしれない。それでも、敵はまだいるかもしれない。彼女は黒い殺人兵器を構えて、路地を出た。
ヴァネッサは言葉を失った。
さっきまで戦場だった場所に武装した人たちはいなくなっていた。彼女は味方の部隊に置いていかれたようだ。でも、それは彼女にとって重要ではなかった。彼女の目に映ったのは血溜と死体の山だった。すっきりした頭は死体を人形ではなく、先ほどまで生きていた人間だと再認識した。そして、赤い液体が苦痛の跡だと思い出した。
ヴァネッサは胸を引き裂かれる思いがした。黒い殺人兵器を握る手が、初めて人を殺したときのように震えた。
彼女が見たものが死体だけだったら、まだ楽だったかも知れない。死体は苦痛の悲鳴は上げない。けれど、そこには体の一部を失って痛みを訴え、内臓が見え隠れする腹を押さえて泣き叫ぶ者たちがいた。また愛する者を失って泣きじゃくる者たちがいた。そして、そんな彼らの応急処置をしたり、励ましたりする者たちがいた。そんな光景を目にして、ヴァネッサは首を絞められるかのように感じた。罪悪感が塊となって喉をふさぐようで、吐き出したいと思った。けれど、それは喉に引っかかったままで、さらに意地の悪いことに、その塊は少しだけ空気の気道を残しているから、窒息で死ぬことはない。生き続ければ、この戦争が終わるまで人を殺し続けなければならない。
「何てことをしてしまったんだ……」
彼女は黒い殺人兵器を下ろした。
彼女の近くに動かない男のからだを抱えて泣き叫ぶ女と男がいた。女と男はヴァネッサと同じぐらいの年頃に見えた。
ヴァネッサが彼らに目を向けると、怒りと悲しみが入り混じる女の鋭い目と合った。女はヴァネッサのわからない言葉で荒々しい怒りをぶつけてきた。理解ができなくとも、ヴァネッサは女の憎しみを感じた。ヴァネッサは、自分たちの攻撃が火となって女の皮膚の下の血を煮えたぎらせたに違いない、と思った。
「けれど、こっちだって生活がかかっているんだ……」
ふいに漏れ出たものは、女の怒りに対する虚しい反論だった。けれど、ヴァネッサはただ、弟と妹の笑顔が見たいだけなのだ。
「生活がかかっているだと!」
ヴァネッサの反論に対して、思わぬ声があがった。女の隣にいる男だった。男はヴァネッサの言葉を解すようだ。
「お前らに殺された者たちは生活すら奪われた! お前らの言う“解放”とはこういうことなのか? 彼らが大量破壊兵器に見えるか? 生物兵器だと言うのか?」
男は動かなくなった人間たちを指し示した。
ヴァネッサはこの戦争は“解放のための戦争”なのだと信じていた。だが、目の前の光景が彼女の信念を揺らがしはじめていた。
「人殺しめ! お前は俺たちの弟を殺した!」
男が言った言葉がヴァネッサの胸に深く突き刺さった。脳裏にちらついたのはウィルとエリーの最後の笑顔。とうとう、彼女は命の黒い殺人兵器を落としてしまった。
「お金のために……」
立ち尽くしたヴァネッサの元に黒い武装集団がやってきた。
日本。
……人殺しをするなんて、こんなに人を救える額のお金で!
私は束の間思考を停止した。
ウィンドウには次のように書かれていた。
戦争に使う代わりに、その費用で世界の飢餓撲滅運動に九年間資金を提供し続けられたらしい。この戦争費を飢餓撲滅運動に当てていれば、どれだけの人が一日でも多く生きられただろうか。どれだけの子が空腹に泣かずに済んだだろうか。
ヒーローは人を殺すものではなく、人を救うものじゃないんだろうか?
ドキュメンタリー映画に出てきたあの女の子はかわいい子だった。目を片方失っても、笑っていた。
戦争主導国。
「ウィル」
エリーは、穴の開いた靴を縫っている兄に呼びかけた。
「何だ、エリー」
ウィルは顔をあげて、後ろにいる妹を見た。
「食料もらってくるね!」
彼女はにっこり笑ってそういうと、部屋を出て行った。彼女の背中を「切符を忘れるなよ!」という兄の声が追ってきた。
「分かってるよ!」
少女は食糧配給切符を握り締め、玄関を出て行った。
この小説で資料にさせていただいたHPのアドレスを載せておきます。http://nationalpriorities.org/index.php?option=com_wrapper&Itemid=182
HPは英語ですが、英語が苦手な方でも重要な部分は理解できると思います。私なんかが言うのもなんですが、私たちの税金の一部があの戦争にまわされた以上、私たちもあの戦争に参加したということなのです。