4月編③ 偶然の邂逅
顧問になった翌日から、河村は“そこにいる人”になった。
部室の隅に立ち、ストップウォッチを持ち、時折声をかける。
だがそれだけだ。
振り付けは大河内が決める。
フォーメーションの修正も大河内。
音楽の編集は黒川。
練習メニューの構成は加藤。
千田は全体をまとめる。
河村は——見ている。
「顧問って、何だ」
その問いが、帰宅後の部屋で膨らむ。
教師は教える者だ。
だが自分は何も教えられない。
競技ダンスの専門知識はない。大会の審査基準も曖昧だ。
ネットで調べ、動画を漁り、専門用語をノートに書き写す。フットワーク、ホールド、シンクロ率。
知識は増えるが、実感は伴わない。
部室では、大河内が淡々と指示を出している。
「カウント遅れてる。四で止まらないで流して」
その声は的確だ。
部員たちは従う。
河村はその様子を見ながら、奇妙な焦燥を抱く。
自分がいなくても、回っている。
顧問の存在意義は何か。
印鑑か。書類か。
練習後、千田が残った。
「ありがとうございます」
礼を言われる理由が分からない。
「まだ何もしていない」
正直に言うと、千田は首を振る。
「いるだけで違います」
その言葉は優しい。
だが河村には、慰めのように聞こえた。
晴嵐高校は、結果を求める学校だ。
顧問としての責任は明確だ。大会に出場し、一定の成果を示す。それが廃部回避の最低条件。
だが今のままでは、勝てる保証はない。
焦りは、夜になると増幅する。
ある日の帰り道、河村は川沿いを歩いていた。
四月の風はまだ冷たい。水面は薄く光を返している。
橋の下に、人影があった。
最初は酔っ払いかと思った。
だが近づくと違うと分かる。
男が横たわっている。頬が腫れ、口元に乾いた血。
服は汚れ、靴は擦り切れている。
「大丈夫ですか」
声をかけると、男は薄く目を開けた。
「放っとけ」
低い声。掠れている。
立ち上がろうとして、ふらつく。
その瞬間、腹が鳴った。
間抜けな音だった。
河村は、ため息をつく。
合理的に考えれば関わらない方がいい。身元不明、怪我、面倒の種。
だが足は動いていた。
「手当てだけでも」
男は舌打ちをするが、拒絶はしない。
自宅は歩いて数分だ。
簡単な消毒と湿布。冷蔵庫の残り物で鍋を作る。
男は無言で食べる。
箸の持ち方が妙に綺麗だった。
乱暴に見えて、動作は洗練されている。
立ち上がるときの重心移動。体幹の安定。
無意識の動きが、妙に整っている。
「あの」
「なんだ」
「名前は」
食後、河村が問う。
しばらく沈黙し、男は短く言った。
「泉晃介」
それだけ。
たったそれだけ。
だが河村は、言葉にできない違和感を覚える。
この男は、ただの流れ者ではない。
「怪我、どうしたんですか」
「昔のツケだ」
曖昧な答え。
それ以上は語らない。
夜が深まる。
腹を満たした泉は河村に礼を告げ、暗くなった夜に消えていった。
泉が去った後、河村は窓際に立ち、川の音を聞く。
部室で感じた無力さ。
名門校の規律。
居場所を求める六人の姿。
そして、橋の下で倒れていた男。
世界は整っていない。
むしろ歪みの方が多い。
顧問として何ができるのか分からない。
だが今日、目の前で倒れている人間を放っておけなかった。
それは、理由ではなく衝動だった。
四月の終わり、桜は散り始める。
晴嵐高校では、生徒会が廃部候補の資料を整理している頃だろう。
期限は近い。
泉晃介という名が、やがてその均衡を崩すことを、河村はまだ知らない。




