序章「魔法少女ブルーム・ジェンハリー」
東京近郊にあるベッドタウン、夜鷹市の町並みに、突如現れた巨大な怪物。
白い蛙のような四足歩行の怪物は、その町の人々の暮らしを踏み潰して破壊していく。突如現れた怪物に対して人々は、叫び声を上げ、恐怖の中で逃げ惑う。中には怪物の侵攻に巻き込まれ、逃げ遅れる者も少なくなかった。
悲鳴が町並みにこだまする中で、一人の少女がマンションの屋上にある飛び降り防止フェンスへ器用に立っている。赤いドレスに身を包んだその少女は、暴れまわる怪物と町の様子を慎重に観察していた。
少女――魔法少女ブルーム・ジェンハリーは、にやりと笑っている。自分は今から、あの怪物を一人で相手しなければならない。旧知の親友であり頼れる魔法少女の仲間である、ブルーム・ティアラビイとブルーム・グランダーは今近くにおらず、あの巨大な怪物から夜鷹市の人々を救えるのは自分だけなのだ。
一見逆境に見える状況でも、むしろ彼女はそれを楽しんでいた。自分こそが人々に希望を与えられる人物だという事実に、むしろ瞳をメラメラと炎で燃えたぎらせている。
「――ジェンハリー、そろそろいける?」
後ろから一匹の人形が、浮遊しながらやってきた。可愛らしい熊のぬいぐるみのような人形を一瞥し、ジェンハリーは屋上に吹く風で乱れた赤い髪を手ぐしで整える。
「大丈夫だ。――怪物退治の時間だな!」
ジェンハリーは脚から力を抜くような形で、ふわりとフェンスから飛び降りる。そしてマンション屋上の縁を蹴って一気に加速、怪物の方へと飛び出していった。
次々に夜鷹市の建物を跳び移り、怪物との距離を詰めていくジェンハリー。その体がものの数秒で、怪物の体へと到達した。
怪物は突如飛んできた真紅の弾丸に成すすべなく、ただ驚きの反応を浮かべることしかできない。
ジェンハリーはまず一発、蛙のような怪物の顎に拳を入れた。ジェンハリーの数十倍の背丈がある怪物が、一瞬上半身を浮き上がらせる。
彼女は怪物へ体勢を立て直す隙を与えないよう、続けて額の部分へ火の粉を舞わせながら蹴りを入れる。少し浮き上がっていた怪物の体はそのまま、一気に近くの大通りへと吹き飛ばされた。
ジェンハリーも後を追うように大通りの広いアスファルトへ飛んでいき、中央分離帯の看板の上に器用に立つ。ようやく体勢を整えた怪物の眼が、ぎろりと彼女の方を向いた。
(初撃は成功だ。こっから相手がどう仕掛けてくるか、だな)
ジェンハリーは口角を上げて、白い歯を見せる。心に火は灯っているが、頭は冷静に対応できていた。
妖精の国にいるという悪の組織が放った怪物は、いつもこの日曜日の朝に我々の世界へと襲撃してくる。彼奴らと戦うために妖精の国は地球へ魔法少女の力を提供し、世界各地で現れる怪物と戦う力を少女たちに与えた。
まだ怪物と戦うことになって一ヶ月程度しか経っていないが、ジェンハリーは怪物の対処に慣れてきている自分にワクワクしていた。自分たちが持っている使命は大きいものだが、奴ら怪物を倒すことが出来るのは、選ばれた魔法少女だけ。そして自分はその一人なのだ。
ジェンハリーは怪物の生々しい眼球と視線を合わせながら、大きく一息。怪物の腕が大きく上がり、こちらに攻撃を仕掛けようとしてきた。
蛙のような怪物は、その平べったい手のひらをジェンハリーに叩きつける。ジェンハリーは素早く中央分離帯から飛び降り、その攻撃を回避した。
しかし攻撃の風圧がジェンハリーを襲い、着地の際に少しだけバランスが崩れる。
続けて怪物は長い舌を口から伸ばしてきた。その軌道は明らかに、ジェンハリーを捕まえようと狙ったものだ。
舌の攻撃を紙一重でかわし、怪物との距離を詰めていくジェンハリー。対して怪物は、むしろジェンハリーのもとへ体当たりしようと大きく跳ねる。
ジェンハリーは更に襲いかかる数本の怪物の舌を避けつつ、怪物の体当たりには届かない所へ避難する。
しかし怪物は一本の舌を地面に設置させ、のしかかりの挙動を変えた。その体の軌道が変わり、ジェンハリーの逃げた地点へとアクロバティックに着地する。
着地の反動でアスファルトが大きく割れ、間一髪その体当たりを避けたジェンハリーはバランスを崩してしまった。
それを狙ったように怪物は平たい手のひらでジェンハリーに攻撃する。
「――くそっ!」
動きだけで避ける事が最早できなくなっていたジェンハリーは、足元で炎を爆発させて、吹き飛ばされる形で怪物の攻撃を避けた。
その回避行動は成功こそしたが、体がアスファルトに叩きつけられ、転がってようやく止まる。ジェンハリーの肌と衣装に、傷があちこち付いてしまっていた。
「頭いいなあいつ……こうなると長期戦は危険だな」
ジェンハリーは肩で呼吸をしながら、怪物に向き直る。少し距離を取ることは出来たが、怪物は町を壊している時と変わらず、平然とこちらの様子を伺っていた。
再びジェンハリーは炎による爆発を駆使して、怪物の方へと急接近する。怪物は数本の舌を伸ばして彼女の進行を妨害しようとするも、ジェンハリーは爆発で吹き飛ばされたようには思えないほど俊敏な動きで、攻撃をかわしていく。
しかしその舌はぐるんと軌道を変え、ジェンハリーの背中へとその魔の手を伸ばした。ジェンハリーは成すすべなく、舌に巻き付かれ、その体を拘束される。
舌に捕まってしまったジェンハリーは必死に抜け出そうと、体を動かして藻掻いた。しかし怪物のぬるぬるとした唾液によって思うように体を動かせず、また舌のひだでしっかりと体を固定されて、動くことが出来ない。ジェンハリーは歯を見せて苦悶の表情を浮かべる。絶体絶命の状況だった。
そのまま怪物は大きな口をさらに大きく開けて、少女を拘束する舌を戻す形で、ジェンハリーを飲み込もうとする。依然ジェンハリーは拘束から抜け出すため体を動かそうとするが、怪物の舌の力強さにそれも叶わない。
魔法少女に希望を抱いていた人々は、彼女の危機に悲鳴を上げる。倒すことが出来ないと諦め逃げ出す人もいれば、自分の命が助からないと絶望しその場に泣き崩れる人もいた。
「ジェンハリー! 頑張ってーっ!」
しかしその絶望的状況に一人、声を上げる人物がいた。母親に守られるよう抱きしめられながら、ジェンハリーの事をじっと見つめている。その瞳には少し涙が浮かんでいたが、希望の光は決して消えていなかった。
「……おうよっ!」
ジェンハリーはその女の子の声に、口角を上げてお得意の笑みを見せる。殺されるという恐怖や怪物の唾液に塗れた気持ち悪さなど、その声によって吹き飛ばされてしまった。
怪物は少女の声に反応すること無く、舌で拘束した容赦なくジェンハリーを飲み込もうとする。相変わらず舌の拘束からジェンハリーは抜け出すことが出来ない。
「――今だ!」
ジェンハリーがそう叫んだ瞬間、彼女を包む舌の間から、溢れるように広がる炎。
反射的に怪物はジェンハリーの拘束を思わず解いて、ジェンハリーは口の直前で空中に放り出された。目の前には彼女を飲み込もうとしていた大きな口。ジェンハリーは息を吐いて、怪物を嘲笑する。
「文字通り食らえ、ブルーム・ボルケーノ!」
ジェンハリーは怪物の口に両手のひらをかざし、特大の炎柱を叩き込んだ。
怪物の体は内側から焼けていき、破裂して、その肉塊をアスファルトに散らす。ジェンハリーは魔法の反動で後ろに飛ばされるが、今度はバク転をしながら見事に着地する。
怪物の肉塊はやがて、灰のようにさらさらと霧散し、消えていった。
「……蛙の肉はしばらく食えねぇな」
ジェンハリーが笑みを浮かべて悪態をついた瞬間、人々の歓声が響き渡る。彼女を信じていた者、信じきれず絶望した者もみな、彼女に称賛のシャワーを浴びせていた。
ジェンハリーを祝福する声に彼女は気恥ずかしくなり、それでも笑みを隠しきれずに、すぐに裏路地へと入っていく。
そんな彼女の姿を、一台のドローンカメラが追っていた。
「人助けは悪くないけど、こればっかりは慣れないぜ」
ジェンハリーは誰もいない裏路地で、ぼそっと呟く。その声を聞いていたのはドローンだけだった。
『花にも命があるんだよ 楽しく咲かなくちゃ!』
ジェンハリーのワイヤレスイヤホンから、軽快な音楽が流れ始める。ジェンハリーの歌声と、あともう二人、彼女の親友であるティアラビイ、グランダーの歌声だ。
少女の人生謳歌が唄われたこの曲は、少し前にジェンハリーと親友たちでスタジオで収録したものだった。ドローンは既にジェンハリーの見えない所に行ってしまっている。今頃ちょうどエンディングの映像が流れているだろうと、ジェンハリーは一息ついてリラックスした。
『気に入らないことは その場でやめちゃえばいいんだ 大事な人生にそんな時間は必要ないよ』
エンディングテーマを聞いて足踏みしながら、ジェンハリーは魔法少女としての変身を解こうとする。
「――へっ?」
その時、突然ジェンハリーの体が吹き飛ばされる。何が起きたか分からず、ただ吹き飛ばされる瞬間の光景をフラッシュバックさせながら、ジェンハリーは裏路地に面するビルに叩きつけられて倒れている自分に気が付いた。
『こんにちはも さようならも みんなとまた会える魔法なんだ』
依然、エンディングテーマはジェンハリーの耳元で流れ続ける。叩きつけられた衝撃か、それとも攻撃の余韻か、辺りは白煙が埋め尽くしており、ジェンハリーを襲った者の姿は見えない。
否、そのシルエットがジェンハリーのもとへ近付いてくることだけが分かった。
「……てめぇ、何もん、だ」
ジェンハリーが抵抗するようにそう呟くと、白煙の中のシルエットは彼女に手を伸ばして、その華奢な首を掴み、少女を地面に叩きつける。
『花にも命があるんだよ 楽しく咲かなくちゃ!』
エンディングテーマは一番のサビを楽しそうに歌い上げる。
なんとか襲撃者の拘束から抜け出そうと、ジェンハリーは魔力を手元に集中させた。
だが反抗の意志を放つための魔法はいつまでも発動せず、代わりにジェンハリーの表情が驚愕と恐怖の入り混じったものへと変わっていく。
(……魔法が、魔力が全然集まらねぇ、なんだ、これ)
まるで魔力が自分から抜き取られてしまっているかのような感覚を、ジェンハリーは感じていた。
「――ぁ、っ!」
首を捕まれジェンハリーはうめき声を上げる。薄れゆく意識の中で、ジェンハリーは襲撃者の正体を眼に焼き付けた。
黒く無機質な仮面を被った者の表情は伺えない。ただ同じく黒いコートの大きさから推測できる身長は、ジェンハリーと同じくらい、いやむしろ小さいくらいだった。ジェンハリーの首を絞める手のひらも柔らかく華奢で、彼女と同い年くらいの小さな女の子を想起させる。
その華奢な腕で、魔法少女から変身を解除していないジェンハリーが力で押し負けるはずはなかった。魔法少女の身体能力は、一般人と比べて飛躍的に向上している。だからこそ自分よりも数十倍も大きさがある怪物と戦う事ができるのだ。
とすれば、ジェンハリーが行き着く思考の先は一つ。
(こいつ、魔法少女、なのか……!?)
目の前の存在は、自分と同じく身体能力が向上している存在――魔法少女なのだと。
『明日も咲こう! みんなが憧れちゃうくらい!』
ジェンハリーは魔力が抜き取られる感触とともに、腹の底から声にもならない悲鳴を上げる。
その声を聞くものは、目の前の謎の仮面……黒い魔法少女以外にはいなかった。