猫の供物
紫陽花が両脇に咲く石段をゆっくりとのぼりながら、額に浮かんだ汗をぬぐった。ズボンのベルトにぶらさげた手ぬぐいは、すでにしっとりとしていて、あまり汗を吸ってくれない。
初夏の空模様は不穏である。ゴロゴロと雷が鳴りはじめて、いつ夕立が来てもおかしくない。薄暗くなった景色の中を、白いレースの日傘がゆっくりと降りてくる。日傘をさした女性とすれ違った。
「一雨きそうですわね」
長い石段の途中ですっかりくたびれて肩で息をしている私に、日傘の女性はそれだけ言うと、返事を待たずに石段を降りていった。
石段を見上げる。お堂はまだ遠い。
私はふと、なぜお堂に向かっているのかという疑問を持った。目の前に石段があったからのぼってみただけで、特に目的があるわけでもない。
石段を見下ろしてみる。日傘の女性の姿は遠く、すでに下の山門のあたりにいた。
ポツポツと雨が降ってきた。重くなった足を持ち上げて、石段を上がる。
ようやく上の山門にたどりついた私は、力強い阿吽の力士像をながめる。衣の流れるような動きと筋肉質な肉体の彫り方の違いが美しい。
突如、稲光とともにあたりが真っ白になった。雷が落ちたらしい。石段の下を見ると、空に稲妻が走っていた。
「もし。そこのお方」
雷鳴にかき消されそうなほどか細い声に顔をあげると、山門の屋根からハチワレ模様の猫がひょいと降りてきて、しっぽをゆらりと動かした。
そこで私はようやく気がついた。
──これは夢なのだろう。猫がしゃべるわけがない。そもそも私には、石段をのぼる理由もない。
「お堂に行かれるのでしたら、こちらをお供えしていただけませんか」
そう言うと、ハチワレの猫はどこからか蛇の死骸をくわえてきて、私の目の前に置いた。
強くなりはじめた雨が紫陽花を揺らした。葉の先から、ぽたりと雨の雫が落ちる。
「いやだよ。蛇になんか触りたくない。ましてや死骸だろう? 供養だと思って、自分でお供えしにいきなさい」
「四つ足のわたくしどもには、少々荷が重うございます。それに、供養じゃございません」
「じゃあなんのお供えだ」
「狩った獲物のお裾分けでございます」
「無体なことをするなあ」
猫は顔などぬぐいながら、ぺろりと小さな舌を出した。雨足が強くなってきた。大粒の雨が山門に当たって、小さなしぶきがかかる。急にくぐもった雨のにおいが辺りにたちこめた。
「仕方ない」
私は紫陽花の根元から手頃な枝を一本拾って、蛇の死骸をひっかけた。だらりと力なく垂れ下がった蛇の尻尾から、雨の雫がぽたりと落ちていく。
山門を通り抜けてお堂にたどり着くと、そっとそれを供えた。坊主が見たら驚くだろう。端に寄せた。
「これでいいのか」
「ありがとうございます」
お堂からハチワレの猫に声をかけると、猫は大きく口を開いてそう言った。遠目にも牙がよく見えた。
「しがない猫の望みを叶えてくれたあなた様には、なにか一つお礼をいたしましょう」
「これは夢だろう。何が起こるわけでもない」
「夢なればこそ、願いを叶えて喜べばいいのじゃありませんか。いずれ消える一時のあぶくのようなものでございましょう」
猫はそう言うと、赤子のような鳴き声を一つあげた。
「それじゃあ、この夢から目覚めたい」
「あら、欲のない方ですね。かしこまりました」
得体の知れない猫に叶えてもらう願いなど、危なっかしい。猫は笑うように目を細くすると、ひらりと宙返りをした。
──布団に落下する感覚で目が覚めた。カーテン越しに日の光が差し込んでいる。
起き上がって枕元を見ると、蛇の死骸が供えられていた。窓の外から「にゃあ」と猫の鳴き声がする。