鉄の女、包丁を握る
翌朝。空は鈍い灰色に曇っていた。
鍛錬場に立つレイナは、剣を持っていない。代わりに彼女の手には、一本の包丁。
「こう……か?」
「いえ、それだと指を切っちゃいます。もっと猫の手、こうやって……」
ユリウスが彼女の手をとって、優しく形を整える。
その瞬間、レイナの心臓がトン、と強く鳴った。
──何だ、今のは。
彼女は何百の死地をくぐり抜けてきた。
だが、手を触れられて顔が熱くなるなどという感情は、初めてだった。
「ごめんなさい、痛くなかったですか?」
「……いや。問題ない」
彼女はわざとそっけなく返す。だが、指先がほんのり熱い。
今朝の稽古は、ユリウスの希望でお休みになった。代わりに、彼が提案したのだ。
「レイナさんも、料理……覚えてみませんか?」
剣のことしか知らないこの女に、果たして料理などできるのか。
本人が一番、疑問に思っていた。
「私は剣で人を斬ることはできるが、野菜を斬ることには自信がない」
「大丈夫です。斬るというより、“刻む”ですから」
「似たようなもんじゃないか……」
ユリウスは笑った。
その笑顔に、どこか陽だまりのようなぬくもりがある。
レイナは少しだけ目を逸らした。
この日、彼女が教わったのは「野菜炒め」。
切る、炒める、味を調える──その全てが初体験。
しかし、戦場で鍛えた集中力がここで発揮される。
「ふむ……塩と、胡椒。これで……よし」
「すごい、初めてとは思えません!」
ユリウスの言葉に、レイナは鼻を鳴らす。
「当然だ。訓練と実戦を重ねれば、どんな武器でも使いこなせる。包丁も然りだ」
「じゃあ、これからは僕と一緒に……たまには料理、してくれます?」
「考えておこう」
視線は鍋に向けたまま。でもほんの一瞬、唇の端がかすかに上がった。
──そして、その夜。
二人は薪をくべた炉の前に座り、作った料理を分け合っていた。
火の音が、パチパチと静かに鳴っている。
レイナが一口食べ、ゆっくりと目を閉じた。
「……悪くない」
「ほんとですか? よかった……」
嬉しそうに笑うユリウス。その笑顔を、レイナは少しだけ長く見つめていた。
この男は弱い。剣の筋もろくに通っていない。
だが、彼には別の強さがある。
傷ついた心に寄り添うような、柔らかな手のひら。
戦場の鉄と血の臭いでは決して手に入らなかった、温かさ。
──まさか、自分が、こんなふうに誰かと食事をする日が来るとは。
火の揺らめきが、二人の影を寄せ合って映し出していた。