蒼の死神とひょろ男
風が、枯れた草原をなでていた。
剣の鍛錬場と化したその丘に、ひときわ鋭い音が響く。
──ギン。
刃と刃が擦れ合う、金属音。
重い長剣を軽々と振るう女の姿があった。
レイナ・ヴァルティス。
名を聞けば、王都の兵士ですら背筋を伸ばす。かつて百騎の盗賊をたった一人で討ち滅ぼし、「蒼の死神」と呼ばれた女。
肩にかかることもない短髪。剣筋に邪魔だと切り捨てた髪型。
厚手の革鎧は傷と煤にまみれ、化粧も装飾もない。
剣以外に何も求めなかった。誰からも女と呼ばれたことはなく、むしろ「漢より漢らしい」と囁かれていた。
だが、今日。そんな彼女の静寂を乱す者がひとり、鍛錬場の入口に立っていた。
「……あの……すみません。レイナ・ヴァルティスさん、ですよね?」
細い声だった。
振り返ると、そこに立っていたのは──ひょろりと背の高い、若い男。
痩せぎすで、どこか頼りなげな印象。
肌は白く、剣どころか鍬すら握ったことがなさそうな、そんな男だった。
「……何の用だ」
レイナの声は低い。鋼のように固く冷たい。
男は一瞬だけ怯んだが、それでも目を逸らさずに口を開いた。
「僕に……剣を教えてほしいんです」
「は?」
まったく予想外の言葉に、レイナは片眉を上げた。
この男が剣を? こんな風に風に飛ばされそうな体で? 笑わせる。
「剣が……? 冗談じゃないなら、帰れ。命が惜しいならな」
「本気です。命をかける覚悟は、できてます」
目が、揺れなかった。
彼女がどれだけの人間を斬ってきたか、その目を見れば分かる。
だがこの男は、怖れていなかった。怯えても、逃げようとはしていなかった。
レイナは静かにため息を吐いた。
「……名前は?」
「ユリウス、といいます」
「ふん。じゃあ明日の朝、ここに立て。剣は貸さねぇぞ」
「わかりました。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、ユリウスは帰っていった。
華奢な背中を見送りながら、レイナは肩をすくめる。
(どうせ半日で逃げ出す……そう思っていた)
けれどその予想は、すぐに覆される。
──翌朝。
「……来たか、ユリウス。まだ帰らんのか」
「ええ、もちろんです。今日は手作りの朝食、持ってきたんですよ」
そう言って彼が取り出したのは、布に包まれた木箱。開ければ、湯気の立つスープと焼きたてのパン。
「……おまえ、料理もするのか?」
「得意なんです。料理も、掃除も、洗濯も。むしろそれしか取り柄がなくて……あ、良かったら、どうぞ」
差し出されたパンを渋々かじると──
「……なにこれ、うまっ」
思わず漏れた声に、ユリウスが照れくさそうに笑った。
剣を教える代わりに、レイナは料理を教わることになった。
それは自然な流れだった。毎朝、ユリウスは食事を用意し、レイナは彼に剣の構えを教える。
鉄臭い鍛錬場に、香ばしいパンの香りが混じり始めた頃──
レイナの中で、今まで感じたことのない感情が芽生え始めていた。
やさしい香りと、静かな声。
鋼で覆ってきた心が、少しだけ、ほころびを見せ始めていた。