川と海をまたにかけて
手の平サイズの小さな女の子が川からあがると、服にたくさんについているフリルのようなひらひらがなくなり、すとんとしたシンプルな水色のワンピースになる。青くふわふわした髪も、ストレートの黒髪に変わる。
ぐーっと背が伸び、小さな生き物は人間の女の子になった。
お母さんのわからずや!
水から上がった少女、琴音は強くそう思った。
人間の世界に行きたい。人間の子供と遊びたい。そう水の精の女王である母にいった琴音は、今しがたこっぴどく怒られたところである。
人と遊びたいと思うのはそんなに悪いことなの? 水の精でその女王の娘だってことも、私には関係ないのに。そう思う琴音の瞳からは涙がぽたぽたとこぼれ落ちた。
近くの大きな石に膝を抱えて琴音は座る。水に浸かっている限り母に全部伝わってしまうからだ。
思考が正確に読める程の力はないが、琴音の母は水を通して感情を察したり、多少の干渉ができる。
なんで私は水の精なんだろう? なんでお母さんはその女王で私が跡を継がなきゃいけないんだろう?
答えが出るわけではない問いを、幼い琴音は考えてみようとするが頭の中で質問がぐるぐると回るばかり。止まらない涙を拭きながら、もう精霊なんてやめたい。みんな意地悪なんだもん。と叶わぬ願いを胸の内で強く願う。
川に住んでいる他の者たちも、森の精も、人の姿になる琴音と関係を築こうとはしなかった。琴音は異質のものとして避けられていたのである。
琴音からすれば精霊とは、意地悪で、自分とは遊んでくれない、遠くでひそひそしているだけの嫌いな存在だった。
がさっ。
突然の背後からの物音に、石に座る琴音の体がびくりと跳ねた。恐る恐る振り向くと、そこには人間の男の子が立っている。
「あっ……」
琴音の口から小さな声が出てしまう。
その男の子の名は漱といい、小さい頃から家族でこの川によく遊びに来ていて、最近は一人でやってくることが多くなっていた。
遊びたいと思っていた相手の登場に焦る琴音。遊びたくても母のいうように関わるのはよくないかもしれないと、ずっと琴音は隠れて見ていた相手。
見つからないように気をつけていたのに見つかってしまった。いつもばらばらの時間にくる漱に、いつ来るのか予想がつけにくいから警戒をしていたのに油断してしまったと琴音は後悔する。
「ごめんね」
ただ見つめ合う二人。先に口を開いたのは漱だった。
「どうして謝るの?」
不思議に思い琴音はたずねる。
「見られたくなかったかなと思って。泣いてたでしょ? 大丈夫?」
優しく言葉をかけてくれる漱に琴音は微笑みかける。
「もう大丈夫。お母さんとちょっと喧嘩しただけだから」
琴音の微笑みにつられて、漱も頬を緩めた。
「僕もね、よくお母さんとは喧嘩しちゃうよ。僕は漱。よろしくね」
大きな石や滑る草を器用によけて歩きながら、漱は琴音の元へと近寄る。
「おっと」
草に滑り漱は転びかけるもなんとか体勢を立て直した。
「大丈夫?」
その様子を心配した琴音は立ち上がって声をかける。
「大丈夫だよ。僕ここに何度も来たし、歩き方知ってる」
歩き方を知ってるといいつつも、よたよたと近づいてくる漱のことをハラハラしながら琴音は見守った。
「あっ」
目の前でまた転びそうになった漱の手を琴音は慌てて掴んだ。なんとか踏ん張った漱は体勢を整えて、琴音に笑顔を向ける。
「ありがとう。お名前は?」
「私は琴音。よろしくね」
「手、冷たいね。大丈夫?」
握ったままだった手を見下ろして、漱は心配そうに琴音を覗き込む。まだ暑い季節なのに、その手は水の中みたいに冷たかった。
「そう? いつもだから大丈夫だよ?」
不思議そうにいう琴音に、漱はこれが普通なんだなと納得した。
「僕この川で泳ぐのが好きで、よく来るんだ。琴音ちゃんは?」
「私は川に住……、私も川が好きなの」
「一緒だね。今日は虫取りに来たんだ。琴音ちゃんも一緒にする?」
漱の誘いに琴音は笑顔で頷いて、得意げに虫がよく取れるところに案内する漱の後についていった。
虫取りをしているうちに琴音の方が森の中に詳しいことを漱は理解し、琴音の案内で森の散策をしたり、二人とも新しい友だちとの楽しい冒険に夢中になった。
母と喧嘩していたこともすっかり忘れて夢中で漱と過ごすうちに、琴音は今まで離れていたことがない長い時間を水の外で過ごしていた。
「んうっ」
突如、琴音の胸に痛みが走る。胸を押さえて膝をつく姿を見て、漱は慌てて駆け寄り背中に手をあてる。
「琴音ちゃん、大丈夫? 苦しいの?」
優しく背中を撫でながら声をかける漱に、琴音はなんとか息を整えて笑顔をつくった。
「漱くん、川まで連れてって。そろそろおうちに帰らなきゃ」
漱は立ち上がった琴音に肩を貸して出逢った川を目指す。その間に琴音の息はどんどん荒くなり、どうしたらいいのか漱は不安になってしまった。
「着いたよ、琴音ちゃん。おうちはどこなの?」
川辺に着いて漱は声をかける。
おうちまで送ってあげなければと思いはするものの、自分と遊んでいたから琴音はこんなに苦しんでいるんじゃないかと漱は怖くて仕方なかった。逃げ出したかった。
「ここで大丈夫。漱くんはもう帰って」
笑顔を作る余裕もなくなってしまった琴音は、そういってずるりと漱の肩から腕を外して地べたに座る。
「で、でも……」
わずかに恐怖よりも琴音を心配する気持ちが勝って、漱はその場から動けない。
「大丈夫だから……」
今にも消え入りそうな声に、本当に琴音が危ないんじゃないかと思い漱はその場から駆けだした。
ちゃぽん。
背後でした水の中に何かが落ちた音に、漱は振り返る。
琴音がいた場所には何もない。
「琴音ちゃん……」
戻って確かめる勇気はなかった。
家の方に向き直ると、漱は振り返らず全速力で森の中を突っ切った。
川の中で琴音は大きく息を吸った。小さくなった体は、全身で水を吸っているようだ。
深呼吸をする琴音にその母であるコモチが泳ぎ寄る。小さな琴音の体を抱きしめて、コモチは涙を流しながら言葉を絞りだす。
「本当に心配したのよ。こんなに長い時間、水から離れるなんて。苦しかったでしょ? お母さんいい過ぎた。ごめんね、琴音」
ぎゅっと抱きしめられながら母の声を聞いて安心し、恐怖が押し寄せてきた琴音は泣き出してしまった。
「ごめん、なさい」
しばらく泣いた後、母と娘は話し合った。
苦しくなる前に水の中に戻ること。人間と遊ぶにしても、川から離れすぎないこと。水の精だということをばれないようにすること。この約束が守れなかった時は、もう水の中から出ないと琴音は約束をして、漱と遊ぶことができるようになった。
次の日、その次の日と、琴音は漱が来るのを水の中で待っていた。
しかし、漱はもし琴音が水に浮かんでいたらと考えると怖くて、なかなか川に足を向けることができない状態にある。
結局、漱が川に再び訪れたのは、一週間を過ぎた頃だった。
漱がやってきたのを見つけ、琴音は離れたところで水から上がった。
「漱くん。もう来ないかと思ったよ」
背後から琴音は声をかけた。その声に漱はびくりと体を震わせる。恐る恐る振り返り、元気な様子の琴音にほっと息を吐く。
「そんなことないよ。ここは僕のお気に入りの場所だから。今日は何をしようか」
その日から二人はほぼ毎日一緒に遊んだ。
コモチとの約束を守り、琴音は遠くに行くこともなく、時間を忘れて長時間漱と過ごすこともしなかった。
水に入って遊ぶことが好きな漱と、決して水に浸かることができない琴音。
漱は琴音の気持ちを考えて、虫取りやボール遊びを選ぶ。
それでも、上流の水が広く深くたまっている場所で一緒に泳ぎたいなと会う度に琴音を誘った。
断るのは心苦しかったが、約束を破ればもう漱と遊ぶことができない。
それがわかっているから、なんとか琴音は断り続けることができた。琴音にとって漱との時間は日を追うごとに大切でかけがえのない時間になり、毎日漱がくることを心待ちにしていた。
「琴音ちゃん、今日はお別れをいいに来たんだ」
いつもよりも少し遅くにきた漱は琴音にそういった。
「どういうこと?」
顔を曇らせる琴音に、漱は少し前に両親から聞かされた引越しの話しをする。
「お父さんの会社の近くにお引越しすることになったんだ。今度は海の近くよってお母さんが教えてくれた。確か……」
うろ覚えの町の名前を絞り出し、漱は琴音に伝える。琴音は忘れないように何度も胸の中で町の名を唱える。
「もう二度と会えないの?」
「お母さんはここにはもうこないかもっていってた」
その言葉に琴音はもう二度と会えないのかもしれないのならと思う。
「わかった。今日は泳ごう」
漱の顔がぱっと輝く。
どうせ会えないのなら、漱がずっとしたいといっていたことをしようと、琴音は母との約束を破る決意をした。
川を上り、二人は泳げる場所を目指す。
目的の場所に着くと、漱はさっさと服を脱いで川の中に飛び込んだ。
泳ぐと決めて来たものの、琴音は水の中に浸かる漱をただ立って見ている。
本当の姿を見せて、漱になんといわれるのだろうかと琴音の中はその不安で一杯だった。
「琴音ちゃん、大丈夫だよ」
漱はそういって琴音に手を差し出す。水に入ることをためらう琴音を、漱は水が怖いのかなと勘違いしていた。
琴音はその漱の手を取ることを決めて、漱の元に思い切って飛び込む。
水しぶきが上がり、琴音の勢いで二人とも水の中に沈み込んだ。その中で漱は琴音の姿が変わっていくのを見た。
綺麗な黒の髪は青く波打ち、白のワンピースは水色になってたくさんのフリルが髪と同じく波打っているようだ。
広い空間に琴音は縮むことなく漱と向かい合う。
「ぶはっ」
水面から顔を出した漱は顔を伝う水を拭い、ゆっくりと顔を出した琴音を見つめる。
「琴音ちゃんの姿が変わった!」
興奮気味にいう漱に、琴音は不安げに言葉を返す。
「琴音を嫌いにならない? 怖いとか思ってない?」
漱はぶんぶんと首を横に振る。
「全然! 魔法みたいだった!」
その言葉は琴音の不安を溶かし、笑顔を咲かせた。
「漱くん、私速く泳げるんだよ。一緒に泳ごう!」
そういって琴音は漱に首に腕を回すようにいい、水の中をすいすいと泳ぎだす。
魚のように自在に泳ぐ琴音に掴まり、漱は引越しする不安も何もかもを忘れ水の中を楽しんだ。そしてこれが広い海だったならもっと楽しいだろうなと思う。
琴音は漱と一緒に水の中にいることが嬉しくて楽しくて、お母さんが来ませんように、今だけは邪魔しないでと強く心の中で願っていた。その感情を汲み取ったのかコモチは二人の前には現れない。
ひとしきり楽しむと二人は水から上がった。
「琴音ちゃんは水に入ると姿が変わるから、長いこと遊べなかったんだね」
はあはあと肩で息をしながらも、漱は言葉を発する。漱の中で今まで川の近くで過ごしながらも水の中には決して入らなかったことの理由がわかってすっきりしていた。
「ごめんね。今まで秘密にしてて」
その言葉に気にしてないよと、笑って首を横に振る漱。
「僕引越したら海にたくさん行こうと思う」
「海ってなーに?」
この川の中と森のことしか知らない琴音にとって海は未知だった。
「海はね。この川の先にあるんだ。だから引越したところとここは繋がってると思うんだ」
漱はわかる限りの説明をしたが、漱自身行ったことはないのでわからない。
「ねぇ、漱くん。私と約束しよ」
そういった琴音に漱は首を傾げる。
「この川の先にはほんとに、海っていうものがあるの?」
「うん、僕は、その海の近くに引っ越すんだ」
琴音は小指を差し出して、漱はどんな約束をするのだろうと思いながらもその小指に自分の小指を絡ませる。
「わかった。私、絶対に海に行くから。漱くんは、海で絶対に待ってね」
「僕、絶対に待ってるよ」
「忘れちゃダメなんだからね」
二人は固く約束を交わし、また会えることを全く疑わずにそれぞれの家に帰った。
「琴音。男の子と川に入るってどういうことなの?」
コモチは二人が川に入ってからの一部始終を知っていて見守っていたが、約束を破ったことには変わりはない。そのことに関しては母としてきちんと話しをしなければと、戻った琴音に口を開いた。
「漱くんともう会えなくなるから、最後に漱くんがしたいことしたかったの」
「どんなことであれ、約束は約束よ。これから水の中を出ることを禁じます」
「いいもん。私海に出るから」
きっぱりといった琴音に、コモチは川と海の違いを説明し、私たちの肌には合わないと説明する。
「私たちは、川に住む精霊なんだから海には行けないのよ。海水は私たちを焼き、数分ともたずに海水に溶けてしまうの」
コモチの話しは大げさだと、琴音は同じ水なんでしょと軽く考える。
その日からコモチは琴音から目を離さないように常に気を張っていた。
琴音はいい子で過ごし、母の目が離れる隙をうかがい川を下ろうと考えていた。
ある日琴音にとって絶好のチャンスが訪れる。コモチは琴音がおとなしすぎると思いながらも気が緩んでしまい、たまった疲れからうたた寝をしてしまった。
琴音はお母さんの言葉が本当かどうか確かめるだけだと思いながら海に向かった。
淡水に徐々に海水が混じっていく水質の変化に、琴音は遠くまで来たという興奮から気がつかないうちにどんどん塩の濃度は上がっていく。
塩は琴音を徐々に蝕んでいた。白い肌はどんどん赤くなり、綺麗な青色は服も髪もくすんでいった。
変化に気づいた頃にはそこはもう川から離れた海の中だった。息切れとは思えない程呼吸がし辛くなって、琴音は泳ぐのを辞める。
喉を押さえ、息をしようとするのに苦しくなるばかり。体は熱く、突き刺さるような痛み。それでも、引き返そうと思えば琴音は泳げたはずだった。
琴音にとって水の中は安全な場所だ。その水の中で苦しくなっている状況に琴音はパニックを起こし動けない。涙を溢れさせることしかできない。
「琴音!」
このまま私は水に溶けちゃうのかな。苦しい怖い。そんなことを考える琴音にコモチの声が届いた。
声の方を振り返った琴音の目に、コモチが猛スピードで泳いでくるのが見える。近づけば近づくほど、琴音とは比べものにならない速さでぼろぼろになっていく母に、琴音は恐怖を感じる。
私よりも先にお母さんが溶けていなくなってしまう。
琴音の元にたどり着いたコモチは、琴音をしっかりと抱きしめて川に引き返す。
塩の濃度が下がるとともに、コモチは泳ぐスピードを落としていく。それでも、琴音をしっかり抱きしめたままコモチは泳いだ。
息も絶え絶えでコモチは家にたどり着き、自分よりも琴音の手当てを先に始める。
「どうしてもというなら、水の精霊王様に頼んだらなんとかしてくれるかもしれない」
琴音の傷を手当てしながらコモチはいった。
「川から出るともう、戻ってこれなくなると思うから、せめて、もう少しお母さんに時間を頂戴。その先、琴音と会えなくなるとしても、お母さん我慢するから。琴音の為どんなことでも、協力するから」
いいながら、いつのまにコモチの頬には涙が伝っていく。
琴音は自分のせいで母がボロボロになってしまったことと、母が泣いていることがショックで何もいえなかった。
手当てを終えたコモチは寝込み、その看病を琴音は一生懸命にし、完治した後も母から離れなかった。
川の外への憧れ、漱との約束。
何日、何か月、何年。月日が流れても琴音は忘れることはなく、気持ちを押し込めるのは辛く、何もすることがない時にはぼーっと過ごしていた。
コモチはそんな琴音の気持ちを察して、興味ないという演技をする琴音に独り言のように海のことを話した。
海に出ると、私にはもう会えない。戻れるほど甘くはない。
そういうコモチにそれなら海に出た後、失うものないなと琴音と思う。
水の精霊王に会えて、たとえ海に出られる体を手に入れたとしても、海と陸、二人が住む世界は違う。
その話しを聞きながら琴音は、それなら人間になりたいと思う。
会う段取りはなんとかしてあげるからね。
この川の女王とはいえ、コモチにそんな力、人脈があると琴音は信じていないまま時は流れた。
琴音は十五になろうとしていた。
「一週間後に水の精霊王に会えることになったから、心の準備だけしておいてね」
突然のコモチの言葉に頭の上にクエスチョンマークを浮かべる琴音。
「そろそろいい時期かと思って話しをつけてきたのよ」
今朝ちょっと川下の方へ出がけてくるわといって出かけたコモチ。夕方に帰ってきてなんでもないことのようにいう母の言葉を、琴音は理解するのに時間がかかった。
「えっ、でも、お母さん……」
自分の意志を無視してここで跡を継ぐといおうとする琴音を、コモチは首を振って止める。
「行きたいなら行きなさい。お母さんのことは気にしなくていいから」
コモチの目力に本心を見透かされているような気がして、琴音は頷きこの川の外へ出ることを決めた。
水の精霊王に逢う前日。
「ねぇお母さん、私のお父さんってどんな人?」
親子で過ごす最後の夜。二人は並んで寝床についていた。今まで二人の話題に出なかった父のことを、ついに話す時がきたかとコモチは起き上がった。
「あなたのお父さんは、素敵な人だったわよ。川の中をじっと見つめる瞳がかっこよかった」
「川を見つめるって、私と同じように川の外にお父さんは出れたのね」
琴音は自分が水の外で自由に行動できる理由を知り、興奮気味に声を出しながら起き上がる。コモチは琴音を見つめ首を横に振った。
「ううん、川の外に出られたんじゃなくて、元々川の外の住人だったの」
母の告白に琴音は理解が追いつかない。
「琴音、今まで黙っていてごめんなさい。あなたは、人間と精霊の間に生まれた子なの。お父さんも遠くに行くことになって、お母さんは追いかけなかった。だから、どこにいるのかも知らない。でも、あなたはお母さんの子だから。それだけは忘れないで」
人間と精霊の子なんて聞いたことがなかった。水から上がって自分のように人間の姿になる精霊を見たことがなかったのはこういうことなのか。琴音は今まで自分だけ違っていた理由に納得がいく。
「お母さん、ありがとう。別にお父さんと会いたいとかじゃないから。自分のこともう少し知っていたいなって思っただけなの。もう一つ聞いてもいい?」
「今しか答えられないかもしれないから、なんでも聞きなさい」
「私の名前はどうやってつけたの? 私がこの先変わらずに持っていけるのは名前だけだから聞いておきたくて」
「人間の世界にある琴という美しい音を出す楽器があるらしいの。琴の音で琴音。その時一緒に暮らしていたお友だちがつけてくれたの。人間の世界にあるものの名をつけた時から、あなたが人間の世界に惹かれるのは決まっていたのかもしれないわね」
母の優しい声を聞きながら、琴音は寝転がる。
「そのお友だちはどうしたの?」
「その子もここに流れ着いてきただけだったから、元の居場所に帰ってしまったわ。琴音が生まれて、しばらくの間は一緒にいたのよ」
「そうなんだ。全然覚えてない。また会ってみたいな」
どんどん瞼が重くなってくる琴音のお腹を、コモチはとんとんと子どもにするように優しく叩く。
「会えるわよ」
呟いた後に聞こえてきた琴音の寝息にコモチは頬を緩め、おでこにキスをした。
翌朝、コモチと琴音は川と海の水が混じり合うところまで下り、豊かな髪をなびかせる上品で威厳がある水の精霊の女王と向き合った。
「ご足労いただきありがとうございます」
話しで聞いたことがあるだけのすごい人が本当に来るなんてと驚きながら、深々と頭を下げるコモチにならい琴音も頭を下げる。
頭を下げながら、お母さんと女王の関係ってなんなの? 昨夜聞いておけばよかったと後悔をする琴音に女王が声をかけた。
「それで、琴音はどうして海に出たいの?」
自分の名前を呼ばれたことで頭を上げ、女王にも自分にも正直に琴音は答えた。
「会いに行きたい人間の男の子がいるのです。絶対に海に行くと、幼い頃に約束しました」
その言葉に女王は大きくため息を吐く。
「あなたも人間に恋したのね。でも、人間の男の子はもう忘れているかもしれない。海水に住める体になれば、もう川の水は体に合わなくなる」
諦めなさいといわんばかりの声で女王は言葉を紡ぐ。
「それでも、私はもう一度男の子に会いたい」
意志の強いはっきりとした声で琴音は訴えた。
「会ってどうするの? どちらにしろ住む世界が違うわ」
「私、半分は人間なんです。人間として暮らすことだってできるはずだって思うんです」
「男の子はあなたを受け入れないかもしれない。それでも、人になりたいの?」
勢いよく返答していた琴音が言葉を詰まらせ、一つ大きく呼吸をしてゆっくりと大きく頷く。
「はい。例え受け入れられなくても、私は人として世界を見てみたい」
ちょっとやそっとの言葉では琴音の意志は変わらないと察した女王は、淡々と言葉をならべだす。
「人になれば、こちらの世界には戻ってこれない。簡単に行き来ができるほど曖昧な境界線じゃないの。甘い世界ではない。最初はよくても、ずっと男と仲良くできるとは限らない。人の心は移りゆくもの。その人に捨てられれば帰る場所はないわ」
「どうなるかはわかりません。でも、この選択の責任は自分でちゃんと取ります」
琴音の表情に迷いなどなかった。
女王は琴音に近寄り手を取って顔をまっすぐ見つめる。
「もう聞いてはいると思うけれど、陸に上がればもうこちらの世界と関われない。お母さんも例外ではないわ。本当にいいのね?」
初めて逢った女王とは思えない程気遣いがある優しい口ぶりで女王はいった。
「はい」
しっかりと目を見て頷き、優しい手を握り返した琴音。女王が優しく笑う。琴音はその顔を見てなつかしさに襲われた。
「あの、どこかで……」
「そこまでの覚悟があるならば、海に出られる体にしよう。そして、約束を男が忘れていても一週間以内に思い出せば、人間になれると約束しましょう」
琴音の言葉を遮り、女王はいう。
そして女王は耳に揺れるピアスに触れ、軽く手を上げたまま目を閉じた。その手の間に光と泡が集まっていく。大きくなったそれは、琴音に向かい包み込んだ。
光と泡の中で琴音の足は魚のヒレに変わり、顔つきもどこか大人びて美しく変化した。
「さあ、これで海の中ならどこへでも行けるわ」
自分の姿が変わったことに驚きながら、今までと勝手が違う泳ぎ方に慣れようと、琴音はゆっくりと海に向かって泳ぎだす。
「琴音」
コモチの声に振り返ると、その顔は痛みに耐え苦痛に歪んでいる。慌てて近寄った琴音はコモチを海水の薄いところへと押した。
すると今度は痛みはないものの琴音の息がしづらくなって、本当に川の中には戻れないのかと琴音は実感する。
「お母さん。ここまでで大丈夫よ。今まで本当にありがとう。私お母さんの子どもでよかった。私がお母さんに触れることも見ることもできなくなっても、ここに逢いにくるからね」
苦しいながらも精一杯の感謝を込めて琴音はひと言ひと言大事に口にする。
「琴音、元気でね。あなたが人間になっても変わらずにお母さんの子よ。お母さんはずっと、会えなくても琴音のことを愛しているからね」
最後にぎゅっと琴音を抱きしめたコモチは笑顔で手を振り琴音を海へと送り出した。
琴音はどんどんどんどん沖合に向かって泳ぎ、その間振り返ることをしなかった。
母との別れは寂しく、知らない世界に飛び出すことに不安がないわけではない。それでも、漱を探す旅にでる。
目に映るものはどれも新鮮で琴音の心はすぐに奪われる。
色とりどりの魚。奇妙な形の生き物や変わった色の岩のようなもの。どこまでも続く海の中。
琴音はふと昔聞いた人魚の話しを思い出した。琴音の中で海といえばその話の舞台であり、今の自分の状況にぴったりだと思う。。
人魚の恋は実らず、泡となって消えてしまう。琴音は泡となって消えたりしないが、そうなっても構わないくらいに漱のことで心は一杯だった。
でも、逢いにいくその前にこの広い世界を見回ってもいいかな。あなたに逢って叶わぬ恋だったとわかった時に、後悔しないですむように。
琴音はそう思い広い海の中を気の向くままに進んでいく。