夢と現実の交わるところ
第一日
また、同じ夢を見た。
幼い頃からたまに見ていた夢を、ここ最近毎日のように見る。
その夢は、幼い自分が誰かと約束を交わす夢なのだが、目を覚ました時には、相手の顔も、なにを約束したのかも、まったく思い出すことが出来ない。
俺はベッドから抜け出すと、洗面所にいき、顔を洗い、歯を磨きながら考えた。
あの夢をこんなに頻繁に見るのは、初めてだ。
ただの夢……。そうわかってはいるのに、なんだか胸騒ぎまでする。
「漱起きたの? 朝ごはん食べる?」
キッチンのほうから聞こえる母の声に、俺は口をゆすいでから、いらないと答えた。
今は、あの夢について一人でじっくり考えたい。そう思った俺は、家から歩いて五分程のところにある浜辺にいくために準備を始める。
昔から、なにか悩み事があるとよくこの浜辺にきて、どうするか考えると、不思議と解決の糸口が掴めるのだった。
ジリジリと暑い夏の日差しを感じながら浜辺を歩いていると、俺がいつも座って考えごとをしているあたりに、人影があった。
よく見ると、白いワンピースを着た女の人みたいだ。
また、出直そうか。人がいてはゆっくり考えごとも出来ない。
そう思うのに、足は止まらず勝手に彼女のほうへと近づいていく。
「こんにちは」
彼女の後ろまできた俺は、そういっていた。
足だけではなく、口まで勝手に動き出してしまった。夢のことが気になって、見知らぬ人と楽しくおしゃべり、なんて気分ではないのに、声をかけてしまった以上仕方ない。腹をくくった俺は、相手の反応を待った。
彼女は、しばらくした後、ゆっくりと振り返った。
振り返った彼女を見て俺は息をのんだ。
後ろ姿のときから、綺麗な長い黒髪に、透き通るような白い肌、スタイルも申し分ない、きっと綺麗な人なんだろうと、短い間に想像していたが、想像以上の美しさだった。
俺は、失礼だとわかりつつも、彼女の顔をまじまじと見つめてしまった。だから、彼女の表情が短い間にころころと変わっていくのが、よくわかった。
最初振り返った彼女は、なにかしら? といういたって普通の表情だった。それから、俺のことをちょっとの間見た後、すごく驚いていた。そして、とても親しい人に向けるような満面の笑みを浮かべる。だが、彼女は何かに気づいたのか、顔を曇らせては他人に向ける、よそよそしい笑みを俺に向けたのだった。
俺が知りあいに似ていたんだろうか? そんなことより、俺はさっき彼女が見せた満面の笑みがもう一度見たいと、強烈に思っていた。その笑みは誰もが一瞬で彼女を好きになってしまうような、本当にすてきな笑みだったのだ。
「こんにちは」
彼女は、声までもが美しかった。彼女の言葉には、歌うような響きがある。
俺は多分もう、彼女に恋をしてしまっている。そう思った。
自慢じゃないが、俺はもてる。今までかなりの女の子に告白され、その中のなん人かの子とはつきあいもした。
だが、俺がその子を本気で好きになることなんてなかった。いつも、なにかが違うと思っていた。
そう、いつもはなにかが違うと思うのだ。
だけど、彼女にはそれがなかった。それどころかなにかがパチリとはまったような気さえした。
やっと逢えた。
なぜだか俺は、そう思った。この日を俺は、待ちわびていた、そんな気がする。
俺が彼女に逢うのは初めてのはずなのに、なぜか、俺は彼女になつかしさを感じていた。
しかし、こんなにすてきな一瞬で恋に落ちてしまうような彼女を、忘れてしまうなんてあるのだろうか?
俺がずっと黙っていたからか、彼女がまた口を開いた。
「私は、ことね。あなたの名前は?」
「俺は、漱」
声をかけたのは俺なのに、一人もの思いにふけってしまったことを、悪かったなと思って、あわてて口を開いたせいか、かなり早口になってしまった。
彼女はそんなことを気にもせず、俺にほほえみかけると右手を差し出してきた。
「よろしくね、漱くん」
くんづけで呼ばれたのが久し振りで、なんだかてれくさかった。
よろしく、といって俺も右手を差し出す。
彼女の手はとても華奢で、強く握れば本当に壊れてしまうんじゃないかと思った。そして、彼女の手のひらは、さっきまで海水につけていたんじゃないかと思うくらいに、冷たかった。
「手、冷たいね。大丈夫?」
俺は、なんとなく心配になって聞いた。こんなに暑い日に、その手の温度はふつりあいだ。
すると、彼女はクスっといかにも面白そうに笑う。
なにがおかしかったのかわからなくて、俺は首をかしげた。
「ごめんね。昔私に同じようなことをいった人の表情にあまりにも似ていたものだから、つい」
楽しげに話す彼女につられて俺も思わず笑ってしまう。
「その人は、俺に似てるの?」
「え?」
彼女はキョトンとした。
「だって、さっきあまりにも似ていたって。それに、最初俺を見た時に、親しい人に逢ったような顔をしたし」
「あぁ、そうね。似てるわよ」
そういって笑う彼女は、今俺に似た人物のことを思い出しているのだろうか?
なんだか、ちょっと妬ける。
彼女に、あんなすてきな笑顔で見つめられる奴はどんな奴なんだ?
「その人ってどんな人なの?」
「そうねぇ……」
そういうと、彼女はしばらく黙りこんだ。
俺は辛抱強く待つ。
思い出すのにこんなに時間がかかっているんだ。彼女にとってたいした奴じゃなかったのかもしれない。
妬くまでの奴じゃないな。
「とても、優しい人だった」
内心知らぬ奴に勝った気で少し喜んでいた俺に、彼女がやっと言葉をはっした。
「私のことをとても大事にしてくれて、元気で明るい人だった。大好きだって、いってくれたし、私も大好きだった。今はどうか、わからないけどね」
そういって、彼女は俺に笑顔を見せた。その笑顔は、どことなく寂しそうだった。
「どうして?」
「長いこと逢っていないの。私は今でも彼のこと大好きだけど、彼はもう私のことなんかきっと忘れているわ……」
悲しそうにうつむく彼女。
誰が彼女をこんなに悲しませているんだ。
彼女の悲しそうな姿をこれ以上見ていたくなくて、元気づけようと俺は口を開いた。
「大丈夫だよ。こんなに美しいきみを、忘れる男なんているはずないよ。たとえ、なん年逢っていなかったとしてもね」
「そうだといいんだけど……」
彼女はそういって、悲しそうな顔のまま、無理に笑顔を浮かべた。
誰だか知らないが、相手は思ったよりも手強いらしい。
彼女にここまで思われているなんて、本当にどんな奴なんだ。彼女のいうとおり優しい奴なら、彼女の悲しみを今すぐ癒してやってくれよ。
俺は、見たこともないその男に、怒りと嫉妬を抱いていた。
それから俺たちは、他愛のないことをしばらく話して、別れる。
その会話でわかったことは、彼女が最近この町に来たことと、同い年だということだけだった。
もっとも、彼女の悲しそうな顔を見たくなくて、ベラベラとしゃべっていたんだから仕方ない。
俺は、生活の中での失敗談や笑い話を中心に面白おかしく、ときには脚色をして彼女に話した。
彼女は俺の話しをずっと笑いながら楽しそうに聞いていてくれた。
笑った顔や、その笑い声が、あまりにも綺麗で、俺はもっと見たくて聞きたくて、ついしゃべりすぎて、彼女のことを聞くということを出来ずに終わってしまった。
彼女と別れた後、彼女のことはほとんど知らないのに、俺はその日一日中、彼女のことが頭から離れなかった。
次に逢った時にはなにを話そうか。あたり前のように、約束もしていないのにまた会えると思いながら、ベッドにはいった。
第二日
また、同じ夢を見た。
そして、昨日なんで海にいったのかを思い出す。
それにしても、なんでこう同じ夢を毎日見るのだろう?
また同じ時間に、俺は浜辺に向かう。
昨日、逢う約束はしなかったけれど、今日も彼女にちゃんと逢うことが出来る気がしていた。
だけど、昨日と同じ場所についても彼女はいない。
待っていたらくるかもしれないと思い、俺は砂浜に腰をおろすと、なん度も見る夢について考え出した。
いつも起きたときに同じ夢を見たと思うのに、俺はその夢の内容をほとんど覚えていない。
かろうじて、誰かと約束をする夢という認識があるだけだ。
大事なことのような気がするからちゃんと思い出したいのに、思い出せない。
「漱くん」
背後からの声を聞いただけで、誰だかすぐにわかった。彼女の歌うような綺麗な声は、すぐに忘れられるようなものではない。
振り向くと彼女は俺のすぐ後ろにたっている。
「なにを考えていたの?」
「え?」
俺がまぬけな声を出すと、彼女は鈴の音のように笑い、俺のとなりに腰をおろした。
「私が声をかけるまで気づかなかったでしょ? 静かに近寄ったわけでもないのに」
俺は、あぁといいながらうなずいて海を見つめた。
「夢のことを考えていたんだ」
少し間があいて、俺はなんとなく彼女に話してみようと思い口を開く。
「ここ最近同じ夢を毎日見るんだ」
「ふーん。どんな夢?」
「よく覚えてないんだけど……。どこかで誰かと大事な約束をする夢なんだと思う。誰とどんな約束をしたのかは、全然覚えていないんだけど」
「そうなんだぁ……」
彼女は夢に悩まされる俺のことをかわいそうだと思ったのか、すごく悲しそうな顔で俺を見た。
「たかが夢だよ。きみがそんなに悲しそうな顔をする必要ないよ」
俺がそういうと、彼女は血相を変えて慌てていう。
「たかが夢なんていわないで!」
俺は、彼女のあまりの迫力に一瞬ものをいうことが出来なかった。
はっとした彼女は一度目を閉じると、落ち着いた声でつけたした。
「ひょっとしたらなにか大事な意味があるかもしれないじゃない」
「大事な意味?」
「そう! なにか引っかかることとかない?」
俺は少し考えてみた。
それを彼女は、神妙な顔でじっと見つめる。
あまりにもじっと見つめるもんだから、なんだかどぎまぎして考えることもまともに出来ない。だから、あまり彼女のほうを見ないようにと気をつけてみるが、ちらちらとつい彼女のことを見てしまう。
ちらっと見ては、はっとして、また考える。
それを続けているうちに、なにを考えていたのかあいまいになっていって、ついに、彼女の顔に見とれてしまった。
見ていると、つくづく彼女は綺麗だと思った。
一種悪魔的というか、普通の人とは比べものにならない魅力が彼女にはある。
「ちゃんと考えてる?」
俺がぼーっと彼女の顔を見て、きっと、鼻の下なんかのばしていたからだろう。彼女の声は、ちょっとおこっていた。
「も、もちろん、考えてるよ」
そういったものの、その声に説得力はなく、彼女は疑いの目を俺に向けている。
そうだ俺は、夢についてなにか引っかかることがないか考えていたのだ。今度はちゃんと真面目に考えようと決心し、俺はうーんとうなり出した。
「強いていえば、意味もなく胸騒ぎがしたんだよね」
夢についていえば、ほとんど覚えていないわけで引っかかることなど思いあたるはずもなく、なん度も見ているということも話した以上、無理矢理ひねり出した言葉だった。
こんなことなんの意味もないと思っていったのに、彼女は思いの外真剣で、目が先をうながしていた。
「幼い頃から、ちょくちょく見ていた夢で、今まではなかったのに、ちょうどきみに逢った日のなん日か前から毎日見てて、逢った日には、なんだか胸騒ぎがしてたんだ」
話し終わった俺から目を離し、なん度かうなずくと、彼女はいった。
「やっぱり、なにか大事な意味があるって。だいたい、同じ夢をそんなに見てる時点でなんかありそうな気がするじゃない」
俺が、そうかなぁ?という目で彼女を見ると、彼女は力強くうなずいた。
「だから、その夢のこと大事にして」
それが、心からの願いなんだというふうに彼女はいった。
俺は彼女の目を見て、深くうなずくことにした。
それからは、俺が他愛のない話しをして、彼女が笑っているという感じだった。
今はなん時だろうか? そろそろ一時間ぐらいたったんじゃないか、とぼんやりと俺は思いながら話しを続けていた。
すると、
「うっ……」
と短くうめいて、彼女は胸を押さえた。
そして、大きく息を吐いて、大きく息を吸う。息が荒い。
「だ、大丈夫か?」
突然のことにあわてた俺は、ただあたふたと彼女のようすを見ていることしか出来なかった。
「うん、大丈夫だよ」
息を整えた彼女は、なにごともなかったように俺に笑顔を向けていった。
「本当に大丈夫なのか?」
大きくうなずき、ほほえんだ彼女は、俺の顔を見つめながら
「本当に大丈夫だよ。だから、そんなに心配そうな顔をしないで」
といった。
「でもなんだか、疲れちゃったから今日はもう帰るね」
少し間を開けてそういった彼女はたち上がる。
それにつられてたち上がった俺の顔を見た彼女は、顔を曇らせた。
「もう、そんなに心配そうな顔をしないでっていってるでしょ」
そういって、彼女はほほをふくらませた。
そんな顔も美しいと思いながら、自分ではそんな心配顔をしているつもりはなかったので、自分がどうしてここまで心配するのかが、不思議だった。
「家まで送るよ」
そういったけれど、彼女は首を横に振った。
「本当に大丈夫だから、心配しないで、じゃあまたね」
そういいながらほほえむと、彼女は駆けていった。
途中一度振り向いて俺に大きく手を振ると、後は振り返ることもなく砂浜の向こうへ走っていってしまった。
あれだけ元気に走っていったのだから、本当にたいしたことはなかったのだろうと、俺は思うことにして、尻についた砂を手で払う。
第三日
彼女といると、なんだか自分の扱いに困る。
自分が思う以上に彼女のことを心配していたりする。彼女に対して、過剰に反応しているんじゃないかって思う。
けど、彼女といてそこまでどきどきしたりは、なぜかしない。彼女を、どうしようもなく、好きと自覚しているのに。
それは、多分彼女といると、なんとなくなつかしいような気がするからだ。
そもそもなんでほぼなにも知らない、二日前に出逢った彼女に、ここまで想いを寄せてなつかしさを感じるのだろう?
自分がわからないというよりも、ピースがいくつかたりていない感じだ。
そんなことを、ぼーっと考えながら、今日も浜辺に向かう。
やはり、今日も同じ夢を見た。
いつもと違い、ぼやけた景色を覚えている。
それは、目の前に人がいるのと、その後ろに広がる緑の風景。
どうして繰り返しこの夢を見るのかはまだ全然わからない。
いつもの浜辺が見えて、俺はたち止まってしまった。
初めて逢ったときと同じように彼女がたっていて、横顔が見えた。その横顔が、あまりにも綺麗だった。悲しそうに遙か遠くを見つめるその顔は、どこか憂いをおび、儚げだった。
俺は、急に彼女の元へ駆け出した。
彼女に出逢ってから、俺の体は俺の意思より先に動き出すようになってしまったみたいだ。
砂にちょっと足をとられながらも、必死で駆ける俺の足音を聞いて彼女が振り返る。その彼女を俺は抱きしめた。
彼女は俺の胸の中にすっぽりとおさまった。
抱きしめた時にやっと、ここまで必死に駆けてきた理由に気づいた。
彼女を失うかもしれないと、どうしようもなく不安になったのだ。
出逢ったばかりの、名前しか知らない彼女と突然逢えなくなるのは別に不思議でもなんでもない。
でも、そういう単に逢えなくなるとかじゃなくて、失ってしまう気がしたのだ。なにか得ていたわけでもないのに、失うのが怖くて仕方なかった。
「どうしたの……?」
しばらく俺に黙って抱きしめられていた彼女が、そうつぶやくようにいった。
「君を失うような気がしたんだ」
俺はそういった。彼女は理由も聞かずに、黙ったまま俺の背中に腕を回した。
俺たちはしばらく、ただそうやって抱きあっていた。
水を抱いているようだった。
確かに彼女はそこにいて、俺は彼女を抱いている。彼女の体は、最初に握手をした時の手のひらのように冷たく、抱いている実感がなかった。
「失いたくないと思ってくれるのなら……」
彼女はそこで、俺の顔を見上げた。
「私のことをちゃんと見て、ちゃんと感じて」
そういう彼女の顔を見つめていると、彼女が顔を紅くしていくのがわかった。見つめあうことに耐えきれなくなったのか、こらえ切れないというように彼女は顔を背ける。
そんな彼女を俺はたまらなく愛おしいと思う。
俺は、彼女の顔をのぞきこもうとするが、反対方向に顔を背ける彼女。
背中にあった手の感触が消え、彼女は身をよじり、俺の腕の中から逃れようとする。
「ちょっと、離して。なんか恥ずかしくなってきた」
そういう彼女がなんだか、かわいくて仕方なくて、俺はさらに腕に力をこめた。彼女の体と俺の体がぴったりと重なる。
しかし、彼女の胸のふくらみを感じて、俺のほうがなんだか恥ずかしくなったきてしまった。
彼女が嫌がっていないかと下を見ると、彼女も俺を見上げている。
彼女の顔がさらに紅くなっていく。それと同じように俺の顔も紅くなっていっているだろうことが簡単に想像できた。
俺は腕を彼女の背中から離し、顔をうつむき加減にして、ごめん、といった。
彼女をちらっと見ると、首を横になん度も激しく振っていた。
「そんなに激しく振らなくてもわかるよ」
あまりにも激しく首を振る彼女がおかしくて、俺は笑いながらそういった。
首を振るのをやめた彼女は笑っている俺を見てつられたのか、くすくすと笑った。
ひとしきり笑ったあと、俺はあることを思い出した。
「そういえば、今日花火大会があるんだよね。暇だったら、一緒にいかない?」
俺は、つとめてなんでもないことのようにいった。
「花火大会?」
首をかしげる彼女。
「電車だけでも、三十分ぐらいかかるし、人も多いいけれど、すっごい綺麗らしいから一度誰かといってみたいなって思っていたんだ。どうかな?」
うーん、としばらくうなった彼女は、ようやく口をひらいた。
「すっごくいきたいんだけど、あんまりここから遠くにはいけないんだ」
「なんで? 親がうるさいとか?」
まぁそうゆうとこかな、とあいまいに彼女はいって美しい髪を指に巻きつける。
内心かなり落ちこんでしまった俺だけど、それをさとられないように明るく、
「それじゃあ仕方ないよね」
といった。
彼女は、海のほうを向いてすとんっと腰をおろすと、つぶやくようにこういった。
「漱くんと、花火見たかったなぁ」
その言葉は、あまりにも切実にひびいた。
「見れるよ」
「でも……」
「遠くにいけないんなら、ここで花火を見せてあげるよ。花火大会みたいにすごいのは無理だけど、手持ち花火や、ちょっとした打ち上げ花火ならどこにでも売ってるし」
そういって、提案したのはいいけれど、そんな花火で喜ぶのは中学生くらいまでなんじゃないかと思い直す。
しかし、俺のそんな心配は杞憂に終わる。
彼女がたち上がってやったーと、嬉しそうな声を上げたからだ。
夜八時にここに来ることを約束した後、俺たちは別れた。
俺は家に着くと自転車に乗り、花火を買いに出かけた。
近くの大型スーパーまでは自転車で約二十分。
急いで買いにいく必要はなく、夜まで時間はたっぷりあるというのに、ペダルをこぐスピードが自然に上がっていった。
スーパーの花火売場に着いて、花火の種類の多さに俺はしばらく呆然とたちつくした。
二人でするには、どれくらいの量がちょうどよいのだろう。
花火は去年もやった。
学校の男友達とそいつらが呼んだ女子と、計六人で、花火をした。
その時は、俺の友達が代表で花火を大量に買ってきて、みんなでやるんだからこんなものなのかなと思っていたのに、花火をし終わるのにかなり時間がかかった。
今回は二人だから少なくて問題ないよな。
そう思って、俺は打ち上げ花火類がはいったのを一つだけ買って、夜に備えることにした。
夜が待ち遠しかった。
時間がくるのが待ちきれなくて、三十分も前に家を出てしまう。
いつもの場所に着き浜辺に腰をおろし、となりに花火の袋とチャッカマンやろうそくをいれたバケツを置いた。
浜辺で海をぼーっと見ていると、五分もしないうちに砂を踏む音が聞こえ、その方向を見ると彼女がこっちに向かって歩いてくる。
俺がたち上がって、ぱんぱんと尻の砂を払い、彼女が近くにくるのを待った。
「これはなーに?」
近くに来た彼女は、俺のとなりにある袋を指差し首をかしげた。
「これ?」
俺は、同じものを指差し確認する。
まさか、花火を初めて見るのか?
彼女の顔を見ると、大きくうなずいている。
「花火だよ。もしかして初めて?」
「これがあの花火なの!?」
興奮した声でいう彼女はさらに続ける。
「お空にばーんと大きくてとっても綺麗なお花を咲かす、あの花火なの!?」
そういって目を輝かせ俺を見る彼女に、違うなんていいづらかった。
「厳密には、あれの小さい版というか、手で持って出来るやつというか……」
彼女をがっかりさせたかもしれないと、顔をうかがうと、きらきらした瞳はそのままだった。
「手で持って出来るの? すごいね! 危なくない?」
今どき手持ち花火も知らないなんてめずらしい子だなぁと思いながらも、こんなに楽しそうにしてくれるとは思わなかったので、なんだか自然と口元がゆるんでしまった。
「とりあえず、してみよう!」
そういって、俺は花火の準備を始めた。
火を消すための水をバケツにくんできたり、袋から花火を出して取りやすくしておく。
彼女は、俺の後ろをちょこちょことついてきたり、やっていることにいちいち感心していた。
とりあえず、打ち上げ花火をしてしまおうと離れたところに、まずは花火の筒を一つ置いた。
この時も彼女は俺の後についてきていた。
打ち上げ花火にはチャッカマンで火をつける。
火がついた瞬間、俺は他の花火が置いてあるところまで走った。
彼女もよくわからないなりに走ってついてくる。
振り返ると、ひゅ~~~ん、ドーン! と花火が上がった。
それと同時に彼女が短い悲鳴を上げた。
なにごとかと彼女を見ると、彼女はてれたようにちょっと笑うといった。
「あぁ、音にびっくりしちゃった。でも、綺麗だね」
それから、花火に次々と俺は火をつけていく。
彼女が火をつけについてきたのは、最初の一回だけで、後は出番を待っている花火の横にたち、俺が花火に火をつけるのをまだかまだか、とまっていたのだった。
彼女は花火が上がるたびに、綺麗だといい、子どものようにはしゃぐ。
打ち上げ花火も底が着き、俺たちは手持ち花火をすることにした。
ろうそくを砂の中に突き刺し、火をつけると、彼女に一本手持ち花火を渡す。
自分も花火を一本持ち、ろうそくに花火の先を近づけ火をつけた。
そのようすをじーっと見ていた彼女は、火がついたときのシュッという音と火花に驚いてキャッと悲鳴をあげ飛びのく。
俺はそのようすを見て、ついくすくすと笑ってしまった。
「笑わないでよ」
笑い声を聞いて、彼女は少しすねたような声を出す。
ごめん、ごめんといいながらも、なお笑ってしまっている自分を隠そうともしないで、
「きみもやってみなよ」
と俺は彼女に、花火に火をつけるようにうながした。
けれども、彼女は火をつけようともせず、俺の顔を真剣に見つめてなにかいいたそうだ。
「……?」
どうしてそんなに俺を見るのかもわからず、とりあえず彼女を俺は見つめ返した。
「私の名前、忘れちゃったの?」
唐突に、しかしあまりにも真剣に聞く彼女。
「ことねだろ? 別に忘れてはいないけど」
俺のその言葉を聞くと彼女はほっとしたように、顔の緊張をゆるめた。
「そう。全然名前呼んでくれないから、また忘れられちゃったかと思っちゃった。ちゃんと名前で呼んでね」
そう笑顔で話しかける彼女に俺はうなずく。
変なとこにこだわりを持っているんだなぁ、とぼんやり考えながら、火花の出なくなった花火をバケツの水のなかにつっこんだ。
もう一本花火を手にし、ろうそくの前に中腰になっている彼女を見ると、彼女は花火の先をろうそくの火につけたり、離したりしている。
「火から離したら、花火に火がつかないよ」
彼女のとなりにたってそういうと、そのままの体勢で俺を見上げた彼女はいった。
「だって、火がつくのなんだか怖いんだもん。熱そうだし」
してみたいけど、ちょっと怖い。そんな子どもみたいな顔が、あまりにもかわいくて、なんだかおかしくなって、くすっとまた笑ってしまった。
その顔を見て、
「また、笑ったぁ」
とまたまた彼女もすねた声を出したのだった。
「なにも怖くないから、火、つけてみなよ」
そういっても、彼女はつけようとしない。
自分がつけることで、なにも怖いことなどないと証明しようと思い、手に持っていた花火に俺は火をつける。
今度は悲鳴など上げずに花火に魅いる彼女は感嘆のため息をもらす。
花火の光に照らされた彼女が綺麗で、自分の花火に火をつけてみなというのも忘れて、俺は彼女の顔に魅いってしまった。
俺の持っていた花火が消えてしまうと、彼女は自分の持つ花火を見つめ、意を決したようにろうそくと向かいあった。
持っていた花火をバケツにいれて、新しい花火を手にとり、振り返った俺が見た彼女は、ろうそくに向かいあったまま動かずじっとしていた。
「まだ怖い?」
さすがに怖がり過ぎだろうと思いながらも、彼女のとなりにたち俺はたずねた。
ろうそくに向けていた視線を俺に移すと彼女は口を開く。
「ねぇ、一緒にやって」
一瞬なにをいっているのかわからず黙っていた俺に、彼女はさらに続ける。
「後ろから支えて手を持ってくれたら、きっと大丈夫だから。自分でしてみたいけど、怖いの」
彼女はいったいなにをいっているのだ。
出逢って数日の男に無防備過ぎやしないか。
まして、他に好きな奴がいるというのに、それ以外の男にふれられて平気だというのか。そこまで思って、それはちょっといきすぎた考えかと思い直す。
まあ、今日朝に逢った時にそんな彼女を俺はいきなり抱きしめたわけだし。
ただ、あの時は無我夢中というか、考えるより先に体が動いて、彼女には他に好きな奴がいるとかそんなことなにも考えていなかったけど、今思うと彼女には好きな奴がいたのだ。
今ちゃんと理性のある状態で、そんな彼女を後ろから抱きすくめる格好になってしまっていいのか、なにがきっと大丈夫だ。
こっちが、大丈夫ではない。
朝のは、ただひたすら、彼女を失うのが怖くて、下心もなにもなかった。
けど、今は状況が違う。
そんなことをもんもんと考え彼女を見てみると、どうにも本気らしい。
「本気でいってんの?」
そういう俺に、彼女は大きくうなずいた後、ろうそくと向きあった。
俺は、そろそろと彼女の後ろに回る。
遠慮がちに彼女にくっつくと、彼女の手の甲に自分の手を重ねあわせた。
彼女は俺を信じきっているのか、無防備にも身をあずけてくる。潮風に混じって、彼女の甘い香りが鼻をくすぐる。
抱きしめてしまいたくなるのを、必死の思いでこらえ、花火の先をろうそくの火に近づける。
まだ怖いのか、彼女は少し抵抗をする。
本当なら、彼女に声でもかけながら、なれるまでゆっくりとしてあげたいが、俺としては、少しでも早く彼女から離れてしまわないと、本能に負けてしまいそうだ。
俺は、花火の先を火にあてた。
シュッとすぐに火がついた。
それと同時に彼女が短く悲鳴を上げた。花火を離して後ろにさがろうとする彼女。その手をしっかり握り、後ろから支える。
そんなに驚くとは思わなかった俺は、
「大丈夫、大丈夫」
と子どもをなだめるように優しく声をかける。
すると彼女はこっくりと子供のようにうなずいて、自分の持っている花火に魅いっていた。
俺は彼女からそろそろと離れると、とりあえず自分の持っていた花火に火をつけた。
シューーっと彼女の花火の火が消えていく。
彼女はそれをバケツの中にいれると、次の花火を手に持ち、ろうそくの前にたって、なんのためらいもなく花火に火をつけた。
そして俺のほうを向くとにっこりと笑った。
どうやら、もう花火は怖くなくなったらしい。
俺は新しい花火を持ち、火をつけると、今度は振り回してみた。
闇夜に花火の残像が浮かぶ。
彼女も俺のまねをし、花火で円を書く。
その後も彼女は最初花火をあんなに怖がっていたのが嘘のように、次々に火をつけては、それを無邪気に振り回していた。
俺は、一緒に振り回してふざけるよりも、ついつい花火の光にてらされる彼女に見とれることが多くなってしまった。
あっという間に残りは線香花火のみとなってしまう。
俺は線香花火をすべて持ちろうそくの前にたつ。
彼女も火の消えた花火をバケツにいれると、俺の横にたった。
「これ」
俺はそういって、線香花火を一本手渡す。
それを受けとった、彼女は今までと形の違う花火に首をかしげた。
俺も右手に花火を一本持つと、ろうそくの前に屈みこんで、花火に火をつけた。
ぱちぱちと弾ける花火を見て、ほぅとため息をもらした彼女は、俺の横に同じように屈んで花火に火をつけようとする。
今までの花火と同じようにひらひらしているほうに火をつけようとしていたので、反対だよと俺は笑いながら間違いを指摘した。
彼女は花火を持ちかえると再び火に近づける。
それから、俺たちは黙々と線香花火をした。
後片づけを終えて、俺と彼女は浜辺に並んで腰をおろしていた。
花火は思っていたよりも早くに終わってしまった。
まだ、一時間もたっていないはずだ。
「もっと花火買ってくればよかったな」
「充分楽しめたよ」
つぶやいた俺に、彼女はほほえみながらそういってくれた。
俺も楽しかった。
ほとんど彼女のはしゃぐ顔を見たりしていただけな気がするけど、とても楽しかった。
この時間が終わらなければいいと思う。
でも、花火は終わり、もうすることはなくて、俺はなごりおしい気持ちで隣に置いた、バケツを見る。
「漱くん」
そういった彼女のほうを見ると、目があった。
彼女の目は澄んでいて、吸いこまれそうだ。
俺は、彼女に引き寄せられるように近づいていく。
彼女のことが欲しいと思う。
頭の隅では、もう一人の俺が彼女には他に好きな奴がいるんだぞって叫んでいる。
でも、その声を聞いても俺は止まれなくて、彼女との距離はさらに縮み、俺は片手を砂浜について、もう一方の手を彼女のほほからあごにすべらせた。
彼女のあごを少し上げると、彼女は目を閉じた。
俺も目を閉じて、彼女の唇にもうすぐふれる、そう思ったその時、
「うぅっ……」
と、彼女が短くうめき、胸を押さえたのだった。
彼女は、ごめんとつぶやくと、たち上がり走っていってしまった。
突然の出来ごとに、俺はしばらく呆然とそこに座ったままだった。
第四日
昨日ごめんとつぶやいて走り去ってしまった彼女が、またここにきてくれるのかと、不安に思いながらも、また同じ時間、同じ場所に俺は来ていた。
しばらく待ってみたが彼女はこない。
もう少し待っていたらくるかもしれない、もうちょっとだけ、そう思いながら俺は腰をおろした。
昨日のことを後悔しても意味のないことだとはわかっているが、どうしても考えてしまう。
昨日キスなんてしようとしなければ、彼女はたち去らなかったのではないか。
そういえば彼女は、前にも苦しそうに胸を押さえていたことがあった。
彼女はなにかの病気なのだろうか?
次逢えたときにはそのことを、聞いてみよう。
そういえば、今日も同じ夢を見た。
なんでこうも、毎日毎日同じ夢を見続けるのかわからない。
彼女のいうとおり、この夢になにか大切な意味があるのか?
考えてみても、さっぱりわからない。
そういうことをもんもんと考え続け、ふと腕時計を見ると、ここに来てからもう三十分がたっていた。
今日彼女はこないのかもしれない。
あきらめて家に帰ろうとたち上がり、ぱんぱんと尻の砂を払って振り返ると、なんと俺から離れたところに彼女がたっていて目があった。
彼女は、少しあたふたとどうしたものかといった風情で動くと、再び俺の顔を見て、てれたようにほほえみ俺の元に走り寄って来た。
「漱くんがここにくる姿見て、ずっと後ろにいたんだけど、昨日あんな別れかたしちゃったし、なんて声かけていったらいいのかわかんなくて……」
そういいながらうつむく彼女を、たまらなく愛しいと思い、抱きしめたくなったがぐっと我慢した。
「そんなことなんにも考えず、普通におはようとでもいってくれたらよかったんだよ。俺、昨日のこと、全然気にしてないし」
本当はやっぱり、少しは気にしている。避けられたんじゃないかって。でも、俺の言葉に笑顔でうなずいた彼女を見たら、どうでもよくなってしまった。
しかし、やっぱり病気のことは気になる。
「昨日とその前にも一回、苦しそうにしていたけど、なにか病気を患っているのか?」
そう唐突に聞いた俺に、彼女は一瞬焦ったような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻るとこういった。
「この前もいったけど、本当に心配するようなことじゃないんだって」
「でも、苦しくなるのにはなにかわけがあるはずだろう?」
「それはそうだけど……。本当になんでもないんだって」
それから、俺がどういうふうに聞いても、彼女は、なにも心配はいらないの一点張りだった。
そんな不毛なやりとりを続け時間がただ過ぎていった。
やりとりに夢中になりすぎて気がついていなかったが、ふと見ると、彼女は胸を押さえていた。
俺が言葉をつまらせていると、彼女の荒い息づかいが聞こえた。
「だ、大丈夫か?」
そう俺がいったのと、彼女が砂浜に膝を着き座りこんだのは、ほぼ同時だった。
俺もあわてて膝を着いて、彼女の肩を支えた。
「だ、大丈夫よ。心配しないで」
荒い息で苦しそうにそういう彼女の言葉に、説得力なんていうものはなかった。
「全然大丈夫そうになんて見えない。無理するなよ。家まで送るから、道教えて」
そういった俺に、彼女は首を振ると、
「私は本当に大丈夫だから、漱くんは家に帰って」
なんていった。
もちろん帰るつもりなんてまったくなかった俺は、とりあえず彼女の近くにいるしかなかった。
どれだけ聞いても彼女は家を教えるのを拒み、俺にただ帰ってと懇願した。
そんなに俺は嫌われているのか?
場違いなことを考える俺自身を、なに考えてんだと心の中でおこっていると、胸に彼女がもたれかかってきた。
さっきよりも彼女の息があらくなっている。
「おい、ことね! 大丈夫か!?」
なかば叫ぶようにいった俺に、彼女は小さな声でなにかいっている。
俺は彼女の口に耳を近づける。
「水……」
「水が欲しいのか? ちょっと、まってろよ」
俺は近くに自動販売機があったことを思い出し、買いにいこうとたち上がろうとした。すると、彼女は俺の服を引っ張り、首を横に振る。
彼女がまたかすかに口をひらいたが、声が聞こえないので、また俺は彼女の口に耳を近づけた。
「海へ……海へ連れてって……」
そう聞こえたが、どういうことなのかいまいちわからない。
黙っていると彼女がまた小さい声でいった。
「私を……海の中に……」
なんで海の中に? なんて思いながらも、苦しそうな彼女の助けに少しでもなるのならと、俺は彼女を抱き上げて、海の中に連れていった。
ざぶざぶと波に向かって進んでいき、抱えている彼女がいくらか海につかった。
彼女の顔を見ると、苦しげな表情は消え去り、安らかな顔になっていた。それを見て俺は肩から力が抜け、彼女を落としそうになってしまった。
俺はあわてて彼女を抱え直して、ことねと呼びかけた。すると、彼女は小さく反応した。
まだ、呼びかけにちゃんと答えられるほど回復していないのか? と思い、俺は、なに気なくあたりを見回した。
ふと、彼女の足があるはずのところに大きな魚のヒレがあることに気づく。
「え!?」
驚きの声を上げてしまった俺に驚いて、彼女が目を開く。
固まってしまっている俺の腕から彼女は海にすべりこみ、俺を一瞬見つめると、沖に向かって泳いでいってしまった。
彼女の足のヒレについて混乱している頭の片隅で、またおいてかれてしまったと、ぼんやりと考えている自分がいた。
家に帰ってからも混乱はまだ続いていた。
しかしそれは、彼女の足がヒレに変わったからもたらされたものではなく、彼女は人魚だったのかと、あれからすぐに受けいれてしまった自分に対してのものだった。
元々、臨機応変に何事も慌てず、受けいれていくのに、時間がかかるほうではないが、あまりにも非現実的なこのことに関して、あまりにも受けいれるのが早すぎるんじゃないかと焦る。
でも、家で座って考えていたって、なにもわからないし、混乱していくだけだと思い、今日はたまってしまっている宿題をちょっとでも減らすことに専念して、後はさっさと寝てしまうことにした。
また明日彼女に逢いにいってみよう。
第五日
海に、はいると姿が変わってしまった彼女とどう接すればいいのか少し戸惑いながらも、俺は今日も同じように海にいく。
彼女のことが知りたい。そしてなによりも逢いたい。
「今日も出かけるの? いったい毎日毎日同じ時間にどこにいっているの?」
玄関で靴を履いていると、背後から母の声がした。
振り返ると、洗濯物のつまったかごを持った母が、不思議そうに俺を見ている。
「ちょっと海に……」
「また海へいきだしたの? 小さい頃からあなたはほんとに水が好きなのね」
そういいながら母はベランダのほうへ消えていった。
浜では、いつもの場所に彼女がたっていた。
彼女はどこから見ても、ただ美しい女の人に見える。ひょっとしたら、あの美しさも人魚だからこそなのだろうか。そんなことを考えながら、彼女に近づいていく。
俺の足音が聞こえたのか彼女が振り向いた。
目があって、でもどうしたらいいのかわからなくて、俺はたち止まりうつむいてしまった。
ちょっとして顔を上げると、彼女が俺に近づくのをためらいながらもそばにくるのが見えた。
「今日はきてくれないかと思ってた……」
俺の近くにまでくると、彼女が静かにいった。
そのようすに、昨日のことはやっぱり現実だったんだなと思う。
俺は、彼女の顔を見た。今までとなにも変わっていない。
なんていえばいいのかわからなかったから、俺はただ彼女を見つめるしか出来ずにたちつくす。。
「最後まで隠し切るつもりだったんだけど、やっぱり無理だったなぁ」
なにもいわずにいる俺から、一度視線をはずして冗談っぽく笑いながらいった彼女。
その言葉を聞いて、彼女は俺との最後を早々に考えながら、俺との時間を過ごしてきたのかと思い、なんだか悲しくなった。
「あんな私が嫌ならそういってくれていいんだよ……?」
黙りこくっている俺に、ほがらかなほほえみを俺に向けながら彼女はそういった。
それがかえってつらそうに見える。
「俺……今はちょっと戸惑ってて、前みたいに出来ていないけど、ことねのこと嫌なんて思ってないよ」
そういった俺を彼女はじっと見つめてきた。
彼女のその瞳には俺がさらになにかいうことを期待しているようだ。
しかしなにをいえばいいのか、悩んでいる俺の頭に浮かんだのは、ずっと彼女に対して抱いていた気持ちだけだった。
「俺、もっとことねのことが知りたいんだ」
「私のこと?」
「だって、いつも俺の話しを聞いているばかりで、自分のことなんて、ほとんど話してくれなかったじゃないか」
彼女はしばらく考えるように首をかしげた後、決意したようにうなづくと、砂浜に腰をおろした。
俺もそのとなりに腰をおろすと彼女が話し始めた。
「私はね、もうわかっていると思うけど、人魚なの。少し前までは、またもうちょっと違うものだったんだけど、なんであったのかは、秘密ね。私のことっていっても、特に話すようなことなんて、これといってないよ。今まで平凡に暮らしてきたし、まあ、人のいう平凡な暮らしとは、ちょっと異なると思うけど。後は、水から離れられるのは、だいたい一時間だけ。それ以上離れていると苦しくて仕方なくなるの。それくらいかな」
彼女はそこまで話すと、俺のほうを見た。
俺はなにかかける言葉を探したが、いい言葉が思いつかなかった。
「泳ごう」
気づくと俺はそういっていた。
彼女はただ見ひらいた目で俺を見ていた。
「一緒に海を泳ごう」
そういった俺に彼女はこくりとうなずいた。
なぜ泳ぐという言葉が飛び出してきたのかわからなかったけれど、彼女と海を泳いだらきっと楽しいだろう。
それに、海は彼女の世界だ。彼女のことを知るのなら、海の中のほうがいいに決まっている。
彼女と午後に一緒に泳ぐ約束をすると、特に話すこともみつからず、少し気まずい雰囲気を残したまま別れた。
水着をはき、上にTシャツを着て、鞄にタオルとのみものをつめて、俺は家を出た。
朝逢ったとき、彼女といつもと同じように話せなかった。
自分は彼女が人魚だということを、早々に受けいれていたと思ったのに、やはり、どこか戸惑いもあったみたいだ。
彼女はなにも変わっていない、ただ、俺が今まで知らなかった部分を知っただけ。それは、わかっている。けど、俺はそれ以外だって、彼女のことをなにも知らないままだ。
出来ることなら、もっと、彼女のことを知りたい。
それは、やはり彼女のことが好きだからだと思う。
そんなことを考えている間に、いつもの浜辺が見えてきた。
そこには、もう彼女がきていて、座って俺が来るのを待っている後ろ姿がどこか儚く見える。
「ごめん、待った?」
近づいていっても、彼女が気づく気配はなく、彼女の後ろで一呼吸置いて、ようやくそう声をかけることが出来た。
振り向いた彼女は、涙を流していた。
その顔は涙を流していることに気づいていないようだった。だから、俺は泣いていると気づくのに一瞬でも時間がかかってしまう。
その顔はあまりにも美しかった。
「なんで泣いているの?」
しばらく見つめあった後に言葉が自然に口をついて出ていた。
「え?」
そういって、手をほほにあてた彼女は濡れていることに気づき、あわててそれをぬぐった。
どうやら、自分が涙を流していることに、本当に気づいていなかったようだ。
「わかんない。昔のことを思い出して、今のことを思い返して、これからのことをただ考えていただけなんだけど」
涙をふき終わり、彼女はごまかすように笑いながらそういった。
「悩みがあるんなら、話しぐらい聞くよ」
「大丈夫。それより泳ごう」
俺の言葉にそう答えると彼女はたち上がり、さっさと海に向かってしまった。
服を脱いで鞄とともに置くと、俺は後を追いかけた。
波打ちぎわで彼女はたち止まり振り返る。
俺が追いかけてきていることを確認すると、波の中に、一、二と跳ねるように進み、三、と大きく飛び上がり、海の中に飛びこんだ。
俺も彼女の後を追いかけ海の中にはいっていく。
彼女が顔を出したのは、浜から二十メートルほど離れたところだった。
俺の顔を一度確認すると彼女はまた海の中に消えてしまう。
さすが人魚だ。一瞬のうちにあんなに遠くまで泳いでいくなんて。そんなことをぼーっと考えながら進んでいくと、
「わっ!」
彼女がいきなり目の前から飛び出してきたものだから、俺は驚いて後ろにこけてしまった。
海の中に浮かぶ俺の手をとり、ヒレのある彼女はすいすいと沖に向かって泳いでいく。
この感じ……。
俺は思った。
この感じを俺は以前にも味わったことがある。
泳ぎのうまい誰かに以前にもこうやって手を引かれ、自分で泳ぐよりももっと早く水の中を突っ切ったことが。
俺が苦しくなってきたのがわかっているみたいなタイミングで彼女は止まり、水面から顔を出した。
俺は大きく息を吸った。肩が自然と上下してしまう。
そんな俺を見て彼女が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? ごめんね。苦しかったよね」
首を横に振り、息を整える。
「全然平気。それにしてもやっぱり早いな」
そういいながら笑いかけると、彼女はてれ笑いになりながらも、少し誇らしそうだ。
「人魚なんだもん。もっと速く泳ぐことも出来るよ」
そういって胸を張る彼女。
自分のテリトリーにきたからか、いつもよりも無邪気で無防備で自由に見える。そんな彼女がとても愛おしく思えた。
「もっと速く泳いでみてよ」
「じゃあ、私の首にちゃんとつかまっててね」
そういって俺に背中を向ける。
なりゆきではあれ、後ろから彼女に抱きつく形になってしまうことに少し戸惑いつつも、肩のあたりに腕を回した。
「息を吸って」
俺が息を止めると、彼女は一メートルほど潜って、すごい勢いで泳ぎ出した。
体全体で水の流れを感じる。
やはり、それも以前に感じたことのあるものだった。
誰と、どこでなんだろう?
俺は記憶の糸をたぐった。
それは、こんな広いところでも、深いところでもなく、プールとかでもなかったはずだ。緑がある自然の中だったように思う。
ぼやけながらもその場所が浮かび、人も浮かぶのだが、まったくはっきりしない。
まだ息に余裕があったのに、彼女がスピードを落とし水面に向かった。俺の記憶の糸もそこで途切れた。
彼女の肩から腕をはずし、たち泳ぎしながら、彼女の姿を見る。
振り返った彼女は、顔にかかってしまった髪を耳にかける。水滴が反射して、きらきらと輝いて見える彼女は、陸の上にいるときよりも魅力的だ。
「どうだった?」
「速かった」
彼女に見とれていた俺は、彼女の問いになんともありきたりな返事をしていた。
それでも彼女は満足そうに笑う。
「けっこう遠くまできたけれど、もう少しいく? それとも、浜に戻る?」
その言葉に振り返ると浜からだいぶ離れてしまっていることを知る。
帰りは自分でゆっくりと泳いで帰ることにした。
泳ぎながら彼女は今まで見てきた海の話をしてくれた。沖縄のサンゴ礁の話や、他にも綺麗な海の話を本当にいきいきと話してくれる。
体力にはそこそこ自信のある俺だったが、かなりの距離だったので最後は彼女に手を引いてもらうという少し情けない結果になってしまった。
浜に上がった俺はくたくたで、しばらく転がって休むことにした。彼女は転がる俺の横に人間の姿で座った。
「俺、さっき手を引かれて泳いだりした時、前にもこんなことがあった気がしたんだ」
なんとなく、俺はそのことを話した。
「どこでなのかも、誰とだったのかも全然思い出せないんだけど、大切な記憶だったような気がするんだ」
ついさっきまではそこまで思ってなかった。だけど、彼女に話してみると、そんな気がしてきたんだ。
あの毎日見る夢も、この記憶も、ぼやけてしまってわからない。けれど、思い出すべきことのような気がしてくる。
「思い出せないのなら、無理に思い出さなくてもいいんじゃないかな? その記憶もあのよく見る夢も。前はなにか意味があるかもって、大事にしてっていったけど、大切な記憶は心の奥にしまったままでもいいんじゃないかなって最近思ったんだ。記憶の箱をあけたら、それが壊れちゃうかもしれない。しまったままのほうがよかったと思うかもしれない。大切な記憶はそのままに、今の楽しい記憶を、また大切にしまっていったらいいんじゃないかな」
彼女の言葉に、しまっているだけじゃなくて、やっぱり壊れてしまったとしても今必要なら、あけてみなければいけないんじゃないかと反論しようとしたが、起き上って彼女の顔を見たらとてもいえなかった。
彼女はただ静かにまた涙を流していたのだ。
悲しいとか、つらいとかではなくて、なにかをあきらめることを決意したような顔だった。
涙を流す彼女は、ただまっすぐに海を見つめている。そんな彼女がどうしようもなく儚げで、壊れてしまいそうで、なおかつ美しかった。
そんな彼女に俺はただ見とれることしか出来なかった。
しばらくすると、彼女は涙をぬぐって、俺の顔を見てほほえんだ。
「なんか今日は泣いてばかりかも」
なんでもないようにそういって、彼女はてれ笑いを浮かべる。
「ただいま」
「おかえり。ごはん出来てるわよ」
「うん、先にシャワー浴びてくる」
彼女とは、海にはいったり出たりしながら、今までよりもうーんと長く話しをした。
人の生活がどういうものかを彼女は知りたがった。俺は答えられるかぎり答えた。学校の話や、友達と行ったカラオケボックスやボーリング場の話。彼女はとてもいきたそうにしていた。
シャワーを浴びてリビングにいくと、食卓にはご飯の用意がしてあり、俺が席に座ると母も向かいに座った。
「いただきます」
手をあわせいつものようにそういった。母もそれに続く。
母は、テレビのニュースでやっていた話や、近所の奥さんに聞いてきた他愛もない話を、食べものをのみこんではやけに楽しそうに話す。
半分も真剣に聞いちゃいないが、適当にあいづちを打つ俺。
「俺ってさ、海とかプール以外で泳いだことある?」
母の話しが一段落したのを見計らって俺は聞いた。
自分がよく覚えていない程昔のことなら、母に聞けばなにかヒントになるようなことを教えてくれるかもしれないと思ったのだ。
「そうねぇ……」
手をほほにあてて考える母。
しばらくまつと、あっといってなにかを思い出したようだった。
「この町に引っ越してくる前、おばあちゃんの家に住んでいたでしょ。その近くに森があって川が流れてたのよ。あなたそこによく泳ぎにいっていたわよ。友達が待ってるんだっていって」
そういえば、この町に引っ越してきたのは小学校に上がる少し前だったという話しを聞いたことがある。断片的にだが、新しい家に驚いたことなど覚えていることがある。
じゃあ、あの記憶は前の町でのその友達との記憶なのだろうか?
俺は母に礼をいうと、食器を片づけ自分の部屋にはいった。
川かぁ……。
ベッドに寝転がって考えてみる。
なんとなくその森や川の雰囲気を覚えているような気がする。
すべてはつながっている気がした。もう少しでつながっていきそうなのに、まだなにかがたりていない。
なにがたりていないんだ?
第六日
起きるとあのいつもみる夢の余韻が残っていた。
いつのまにか眠ってしまっていたみたいだ。
彼女に逢いたい。きっかけもなくそう思った。ころころと変わるあの表情や、声が頭に浮かんで、苦しく切なくなってくる。
いきなり俺は、どうしてしまったんだ。
彼女の秘密に対して戸惑っていたことが嘘のようだった。すべてをやっと受けいれ、さらに彼女のことを好きになってしまったみたいだ。
彼女には好きな人がいるのに……。
それでもいいと思った。
そう思うとじっとしていられず、仕度をさっさと済ませ、俺は家を出た。
俺なら彼女のそばにずっといられる。彼女をなによりも大切にする。彼女が好きな人を忘れられないのなら、なにも求めずに、ただただそばにいさせてくれるだけでいい。代わりにされたって構わない。
俺は海に着くと彼女の名前を呼んだ。
「どうしたの? 今日は早いね」
すぐにあらわれた彼女になにからいったらいいのか少し迷った。
「大事な話しがあるんだ」
彼女は、首をかしげて、なーに? と聞く。
「ことねは、どう思ってるのかわかんないけど、俺は人と人魚の違いなんて関係ないと思ってる。住む世界が違うとか、そんな言葉は聞きたくない。人であることねでも人魚であることねでも、どっちだっていいし、前いってた、昔の姿がなんであったって、俺の気持ちは変わらないんだ」
彼女はじっと見つめてくる。
「だから、その、つまり、俺はことねのことが、す……」
そこで彼女は、あわてて俺の口を手でふさいだ。
俺は突然のことに驚いてしまった。
「それ以上いわないで」
彼女は静かにそういって手を離した。
「なんで、最後までいわしてくれないんだよ……」
不服だった。俺の気持ちをちゃんと最後まで聞いて欲しい。
「私、明日の夕方までしか逢えないかもしれないから……全部聞いてしまったら、その後が、お互いにつらくなってしまう」
そういって彼女はうつむいた。
「なんで、明日の夕方までしか逢えないんだよ?」
俺は思ってもいなかった言葉にあわてて言葉をついた。
「あなたが、私のことも、私との大事な約束も忘れてしまっているから」
「ことねのことを、俺が忘れている? 約束? なんのことだよ? 俺たちが知り合ったのはつい最近だろ?」
今にも泣き出しそうな顔で、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「私と過ごしているうちに、自然に思い出してくれるといいなって思ってた……。ずっと昔に私と漱くんは出逢っていたんだよ。そして、別れる時に大事な約束をしたの。思い出せないならそれでもいい。漱くんと過ごすうちにそう思った。今が楽しかったらそれでいいって。でも、漱くんが思い出せないなら、このままじゃいられないの。他の人とそういう契約をしたから」
彼女はその契約の話しをしてくれた。
あまりにも突飛な話しに聞こえたし、正直理解しづらいものだったけど、彼女が嘘をついているわけではないということはわかった。
俺に逢うために私は、水に関する妖精や妖怪のようなものたちの中で一番偉い力の強い人と契約を交わしたこと。
まず、元の姿から人魚になることで俺を探すことが出来るようになった。
そして、俺を見つけ俺が彼女のことを忘れていたとしても再会してから、七日目の日が沈むまでに、彼女のことを思い出し、約束も思い出せば、彼女の最後の望みを叶える。
そのかわり、俺が思い出せなければもう俺に近づくことは出来ず、人魚として生きるということであった。
最後の望みについては、聞いても教えてくれなかった。
俺に、前の姿や出逢った場所などをいってはいけない。
最後に、これだけのことを話したのだから後は俺が思い出すのを待つことしかできないと、彼女はそういって海に帰った。
膝まで海に浸かるところまでくると振り返り、明日待ってるからといった。
彼女がいってしまってからも、俺はしばらく海辺で考えを整理していた。
彼女と出逢ったのはきっと、前の町だ。
あの毎日みる夢の中でしている約束は、きっと彼女としているものだと思った。でも、どうやったらちゃんと思い出せるんだよ。
ここで考えていても思い出せる気はしないし、家に帰れば、前の町でのなにかがあるかもしれない。いや、たぶん約束したであろう場所にいけば、なにか思い出せるかもしれない。
そう思いいたると、家に向かって駆け出していた。
明日の夕方までしか時間がないんだ。母にその場所を聞こう。
がちゃがちゃと騒がしくドアをあけ、母がいるであろうリビングに向かったが、母の姿はなかった。
かわりに机の上に、
お友達と久しぶりに会ってきます! 少し遅くなるかもしれないから、ごはん先に食べといてね。
母より
という置手紙があった。
母は、友達に逢いにいくとなかなか帰ってこない。
前の町はかなり田舎といっていたし、母の帰りを待っていたら、間にあわないかもしれない。
どこかに前の町の住所が書かれたものがないかと家の中を探しまわった。
途中、前の町でとった写真がはいったアルバムを見つけじっくりと眺めてみたが、なんにも思い出すことが出来なかった
時間は容赦なく過ぎていき、焦りだけが募る。
「ただいま」
その声に時計を見た。
二十時を回ったところだった。
俺は母に前住んでいた町へのいきかたを聞いた。
焦りが伝わったのだろう。
「とりあえず深呼吸」
そういって手に持った荷物を床におろし、両手を広げ、深呼吸を繰り返した。
こうなると、俺がちゃんと深呼吸をして落ち着くまではなにも答えてはくれない。
昔から母は、なにかあればとりあえず深呼吸をして落ち着こうとすることが大事なのだ、焦ってするとなにもいいことはないといっていた。こんなことでも、しばらく続けると本当に落ち着いてくるのだから不思議だ。
俺が少し落ち着いてきたのを見計らって、母は深呼吸をやめ、電話の横にあるメモ用紙になにかを書きながら俺に聞いた。
「いったいどうして前の町にいこうなんて思ったの? 今まで前の町のことなんて聞きもしなかったのに」
「友達と大事な約束を、多分その町のよく泳ぎにいった川でしたみたいなんだ。思い出さなきゃいけないのに、思い出せなくて、約束した場所にいけば、思い出せるかもしれないと思って」
電車の駅名などを書きつけた紙を俺に渡すと母は、
「焦っても思い出せないと思うわよ。いって帰ってくるのに五時間くらいかかるから、いくなら明日の朝にしなさいね」
といって荷物を持ち、自分の部屋に向かった。
俺の気持ちを見透かしたような言葉に、俺はしばらく母の背中を見つめた後、手に持つ紙に目を落とした。
第七日
いつもよりも早い時間に起き、仕度を済ますと前の町に向かうため家を出た。
電車とバスを乗り継ぎ、ようやく前住んでいた家の住所にたどり着くと、その近くには確かに森があった。
ここまでの道のりに見覚えはなかった。よく考えれば十年以上たっているのだ。
町だって変わるし、約束を忘れてしまうには充分すぎる時間だ。
思い出せるのだろうか? とても不安になった。
思い出さなきゃいけないんだ。そんなに時間がたっても、約束を守りにきてくれた彼女のために。
気を引きしめ直すと、俺は森の中にはいっていった。
あっちにいけばいい。覚えているという程のはっきりしたものではないが、なんとなく進むべき方向がわかった。あまり森にはいる人がいないのか、道といえるようなものはなく、しかし、俺の体は歩きかたを覚えているのか、スムーズに進んでいくことが出来た。
しばらく歩き、目の前がひらけたと思うと川があった。
この場所を俺は知っている、そう思った。
とりあえず、俺は川の近くに座った。
俺は、小さい頃、ここに誰かに逢いにきていたんだ。
そして、一緒に泳いだりしていた。
彼女と、一緒に泳いだ時に思い出したのはきっとここで逢っていた子のことだ。
そして、その逢っていた子というのは、幼き日の彼女なのだろう。
今、海に住む彼女はこの川とどんなつながりがあったのだろう?
今は、とりあえず、約束を思い出さないと。
約束をしたとすれば、きっと、引っ越しをする直前くらいだろう。
かなり近いとこまできたような気がするけれど、思い出せない。
俺は、たち上がり、靴と靴下を脱ぎ、ズボンのすそをなんどか折って川にはいった。
その時、突然頭の中に声が流れてきた。
それは優しくとてもおだやかな声だった。
「漱くん、大きくなったわね。ことねのことを思い出しにきたのよね?」
俺はその不思議な声にうなずいていた。
「ことねのこと好き?」
その声は子どもに聞くようなものだったが、言葉の奥に真剣さが隠れているのがわかった。
「はい」
真剣なのがちゃんと伝わるように、はっきりと答えた。
「あなたの世界で生きたことのないことねを大切にしてくれる? あなたしか見えないことねのことを、いつか重たいと思わない?」
あまりにも真剣な声だった。
その言葉の意味をしばらく考えてから俺は真剣に言葉をつむいだ。
「ことねのことを俺は大切にします。俺の生きる世界のことがわからなくても構いません。俺だって、ことねの生きてきた世界のことはわからないから。互いにわからなくて困るのなら、教えあって助けあえばいいんです。ことねのことをいつか重いと思うかとかは、正直わかりません。でもそれは、誰と一緒にいたって同じだと思います」
しばらく声は返ってこなかった。俺の気持ちはちゃんと伝わったのだろうか?
「ありがとう」
弾むような声ではなかったが、確かに嬉しそうな声に聞こえた。
その後に、頭の中に声ではなくイメージが流れてきた。
それは、おさない男の子と女の子が小指を絡ませ約束をしている、ぼやけた写真のようなものだった。
「この川の先にはほんとに、海っていうものがあるの?」
「うん、ぼくは、その海の近くに引っ越すんだ」
「わかった。私、絶対に海に……から。漱くんは、海で絶対に……てね」
「ぼく、絶対に……るよ」
「忘れちゃダメなんだからね」
そこで、イメージが消えた
俺は、一度あたりを見回し川から出て川に向かって一礼し、靴を履いてバス停に向かった。
さっきのイメージはきっと、俺と彼女の小さい頃の約束の記憶だ。
さっきのイメージをきっかけに、彼女のことを思い出した。
彼女のそれまでの姿や、川でよく遊んでいたことを。
こんなに大切な記憶を今まで、忘れていたなんて……。
電車やバスの乗り継ぎがうまくいかずいきよりも時間がかかり、日が落ち始めている。
駅から走って海にきた。そして、海に向かって、叫んだ。
「今まで、忘れていてごめん。俺絶対に待ってるよっていったのに」
海から顔を出した彼女が叫んだ。
「漱くん!」
その瞬間、彼女の体が光に包まれ、水面からゆっくり浮き上がった。
そして、ヒレが、足に変わる。彼女は水面の上を走って近づいてくる。
俺の近くにきても彼女はスピードをゆるめない。
彼女の足が砂浜に着き、彼女を包んでいた光が消えた。そして、俺の胸に飛びこんできた。
思ったよりも勢いがあって、後ろにバランスを崩し彼女を抱きとめたまま倒れた。
俺は彼女に回していた手をほどき後ろに手をついて、上半身を起こした。彼女も浜に手をついて上体を起こし、見つめあう格好になった。
彼女の顔は、今までと少し変わっていた。今までは、ただひたすらに美しかった。でも、今では、美しいというよりも、少女のようなあどけなさを残したかわいらしい感じになっていた。顔の輪郭といったものは変わっていない。雰囲気が変わったのだ。
でもそれは、俺がもっと彼女を好きになる理由にしかならなかった。
その姿は、幼い頃の記憶の中の彼女の面影をしっかり残していたのだから。
「やっと、思い出してくれたんだね」
俺の脚の間に正座し、とても嬉しそうにいった。
「本当に、ごめん。今まで忘れてて」
俺は、もう一度謝った。
「私は、一度も忘れなかったんだよ。でも、もういいの。ちゃんと思い出してくれたんだもん。でもなんで、思い出せたの?」
川にいってそこであったことを、彼女に話した。
「それきっと、私のお母さんがしたんだ」
首をかしげる俺に彼女は質問した。
「私が昔なんだったかも漱くんは思い出してくれた?」
うなずいて俺はいった。
「川の精霊だったんだよね」
彼女は大きくうなずいた。
「最後の望みは人間になること?」
質問に彼女はまた大きくうなずいた。
「俺に逢うために、すべてを捨ててきたのか?」
「うん。でも、これは私が望んで、私が決めたことなんだから、漱くんはなにも気にしないでね」
「でも、約束を忘れてたこんな俺のために、今までの世界を捨てることになってしまったんだよな」
「私が、そうしたかったの。例え、漱くんが私のことも、約束も忘れてしまっていても、漱くんに会いたかった。漱くんとずっと一緒にいられる可能性にかけてみたいと思ったの」
「俺も、ことねとずっと一緒にいたいと思ってる。人間の暮らしになれるのに時間がかかると思うけど、俺と一緒にがんばろう」
「ありがとう、漱くん」
「ことね、今度は最後までいわして欲しいんだけど。俺、ことねのこと……」
俺は、また最後までいうことは出来なかった。
彼女が、自分の口で俺の口をふさいでしまったのだ。
突然のことにしばらく、呆然としてしまった。
彼女はゆっくりと離れると、
「私、漱くんのこと大好きだよ」
そういって、あどけなく笑った。
「俺も、ことねのこと好きだよ」
「大好きじゃないんだぁ」
そういって、すねる彼女はとても愛らしい。
漱は、てれながら「大好きだよ」とつぶやいた。
それを聞いて、彼女までてれくさくなってしまったのか、ほほをももいろに染めている。
今思うと、彼女が好きだといっていたのは、俺のことだったのだ。自分に嫉妬していたなんて、おかしい。
「どうしたの?」
そんなことは恥ずかしくっていえないから、首をかしげる彼女を俺はそっと抱きしめてもう一度キスをした。