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アリストテレスの夜

作者: 加密列

そういえば、磯野(いその)死んだらしいぜ。

昼休みにクラスメイトが言った言葉に、教室が少しざわめいた。そのざわめきはかつてこのクラスにいた名前に対するそれというより、“死”という高校生には妙に現実味に欠ける言葉に対するもののようだった。


「交通事故だってさ。うちの親がサッカー部の顧問から聞いた話なんだけど」

「へぇ、マジ?」

「磯野転校したの、いつだっけ」

「去年の一学期の終わりじゃね」

「あねーー。そんくらいか」


高校三年、二学期。進路についてピリつく時期だ。今のクラスになってすぐに転校した元クラスメイトの死についての反応は、そんなものだった。


「磯野ねぇ。あの小柄な子でしょ?まだ高三だったのに、かわいそ。親だって、悔しいだろうね」


購買で買ったパンを頬張りながら言った友人が磯野について“だった”と過去形を使った事に少しの違和感を覚え、でもそれが正しいのか、と思い直す。


「あれ、そういや詩乃(しの)は、磯野と仲よかったの?同じ図書委員やってなかった?」

「まつり、口の中のもの飲み込んでから喋りなよ」


詩乃は少し眉をひそめてそう言った。


「はいはい。あたしちょっと意外だったんだよね、磯野が図書委員なの。あんたは分かるけどさ。あいつやんちゃっぽかったじゃん。髪とか明るかったし、ピアスも開けてたよね。サッカー推薦で入ってきたって言うし、本読んでるとことか見た事ない派手目なタイプの」

「まつりに派手とか言われたくないと思うけど」


ショートカットの髪のインナーに緑を入れ、ピアスを開けまくっているまつりはペロリと舌を出した。


「ううん、別に特別仲良かった訳じゃないよ。ただのクラスメイト」

「だよねぇ。タイプ違いすぎるもん。陰キャのあんたがうまくやれる図が浮かばないわ」

「うるさいな。仲悪くはなかったし」


詩乃はぐっと眉を寄せてまつりを睨んだ。別に陰キャじゃないし、そんな事言ったらまつりだって、あんまり私とつるむタイプには見えないと思うけど。


「にしても、友達多そうな感じだったのに案外みんな反応塩だよね。男子の友情も大した事ないわ」

「多数の友を持つ者は、一人の友も持たない」

「は、何?」

「って、アリストテレスが言ってた」

「へぇ、誰それ」

「古代ギリシアの哲学者。倫理の授業でやったじゃん」

「あーー、あたし倫理は基本寝てるし」


悪びれもせず言い放って笑ったまつりに呆れた顔をすると、詩乃は窓の外を眺めた。


(“多数の友を持つ者は、一人の友も持たない”だって)


教室にいる時より声を抑え、そのせいか低く大人びて聞こえた声が耳に蘇る。





磯野龍也(りゅうや)は、ただのクラスメイト。同じ図書委員で、サッカー部で、陽キャで、勉強はそんなに出来る方じゃなかったっけ。実は本を読むのが好きで、名言集のコーナーをよく漁ってて、だけど本を借りて行く事は一度もしない、少し変わった一面もあった。図書委員の当番は一度もサボった事はなくて、さりげなく重いものを持ってくれたり、自分の分が終わった後も私の仕事の手伝いをしてくれたりした。長身の詩乃より背が低い事をよくネタにして大袈裟に悔しがって、図書室では心の開いた笑みを向けてきた、二度キスをしただけの、ただの、ただのクラスメイト。





寝室に入った詩乃はスクールバッグをあさり図書室で借りてきた本を開いた。アリストテレスの名言集は誰かに借りられた様子もなく、もしかしたら最後にこれに触れたのは磯野なのかもしれないとふと思った。開けっぱなしの窓から吹き込んできた風に肌寒さを感じ、いつの間にか季節が変わっているな、と窓を閉める。


(勉強しなきゃ)


理性がそう囁いたが、詩乃は無視してベッドにうつ伏せに寝転んだまま、名言集のページを繰った。今は何も頭に入る気がしなかった。


「時間は、物事を砕く。すべては時間の力のもとに成長し、時間の経過とともに忘れ去られる」


パラパラと特に目的もなくめくったページにふと指が止まり、詩乃は声に出して読む。自分の声に重なるように耳の奥で、磯野がこのフレーズを読んだ時の声が記憶の底から聞こえてくる。


「やっぱりみんな、時間が経つと忘れちゃうのかなぁ」


誰もいない部屋で独り言を呟いた。


(友達多そうな感じだったのに案外みんな反応塩だよね)


昼間のまつりの声が耳に蘇る。


いつもお揃いのジャージを着たサッカー部の一人で、いつも周りに人がいて、いつも笑っている。一軍男子の磯野龍也は、詩乃とは目が合う事すらほとんどなくて、教室の真ん中で馬鹿話をしてずっと笑ってた。読書好きで友達もまつりくらいの詩乃とは正反対。そんな彼が図書委員を選んだ時、正直いえばめんどくさいな、と思った。多分、仕事はほとんど私がやる事になるんだろうな。推薦のために内申点が欲しいから委員会入っとくって感じだろう。


「よろしくね!」


委員会決定後の休み時間にわざわざ詩乃の席まで来て言った磯野は満面の笑みで詩乃を見つめていて、詩乃はその笑みに気圧されるように「あ、はい……」と答えた。


「はは、謎敬語。俺、やっぱケーカイされてる?シノさんには迷惑かけちゃうかもだけど仕事はちゃんとするからマジ安心してほしい」


いきなり下の名前を呼ばれて困惑した詩乃は、その頃彼の名前すら覚えていなかった。


「あ、俺磯野龍也。残念ながら年の離れた兄弟も、甥っ子もいないし、じいちゃんばあちゃんとも一緒に住んでないんだけど」


そういえば年度初めの自己紹介でも同じように、国民的漫画の家族と同じ苗字を捻った自己紹介をしていたな、とようやく思い出した詩乃は、「松本詩乃です。こちらこそよろしくお願いします」と小さな声でようやく名乗った。


「ん、知ってる。シノさん去年も図書委員だったべ?色々教えてね」


それだけ言った彼は詩乃が答える前にいつもの仲間と話しに行ってしまい、詩乃はしばらく手にした本を開く事も出来ず彼の背中を見つめた。


「図書委員、相手磯野なん?うわーー、仕事しなそーー」


まつりが言いながら近づいてきて、詩乃は、私がさっきまで思ってた事全部言うな、といつもストレートな友人を呆れ顔で見上げた。


「でも、思ってたより真面目そうかも」

「本当かよ。絶対すぐサボりだすやつだって。大変だねぇ詩乃。頑張って」

「んーー、でも、去年はクラスの図書委員私一人だったし、そもそも二人推奨なだけで一人でも回せる委員会だから、大丈夫だよ」

「お人好しすぎ」


まつりがため息を吐き、詩乃は肩をすくめる。サボりも内申目当ても、別にどうでもいい。私に関係ないし。


「まつりは磯野くんと喋った事ある?」

「まぁ、何回かは?あたし去年同クラだし」

「そなんだ。なんて呼ばれてる?」

「え、普通に岡野さん、って呼ばれてたと思うけど、それが何?」

「……ふーーん。なんでもない」


誰でも初対面から下の名前って訳じゃないのか、と言うのが、彼について最初にちゃんと思った事かもしれない。



最初の宣言通り彼はちゃんと委員会の集会にも参加し、図書室のカウンター当番もサボらずに来た。


「俺ら、ここで何すりゃいいの?」


昼休みの誰もいない図書室でカウンターに寄りかかって訊いてきた磯野に、詩乃は眉をひそめる。


「毎週木曜の昼休みと放課後、ここで貸し借りの手続きをやります。あとは返却本の配架」

「ハイカ?」

「元あった場所に、返された本を戻す事です。あと、たまに各教科から本の貸し出しのリクエストが来るから、それを探して貸し出せる状態にしたり」

「いやそれは聞いたけどさぁ、ぶっちゃけ、人来なくね?」


磯野はがらんとした閲覧室の方を指差す。


「まぁね。テスト前はもうちょっと混みますよ。でも、基本こんな感じ。二人もいる仕事かって言われたらそうでもないんですよね。だから、他にやる事あるならここは私一人でも……」

「え、俺邪魔?」

「そうじゃないですけど」

「じゃあいるよ。別に大事な用がある訳でもねーし」


意外に真面目なんだな、と詩乃は、カウンターに置いてあったペンを指の間でくるくると回している磯野を見る。


「あ、えっと、私新聞読むので、何かあったらいつでも声かけて下さい」

「あ、誰もいない時はなんか読んでていい感じなん?」

「はい」

「へーー。探してくるわ」


とは言っても、彼は本を読むようには見えない。スポーツ雑誌でも持ってくるだろう、と思っていた詩乃は、磯野が持ってきた本の表紙を新聞の端から盗み見て、少しだけ目を見開いた。


(アリストテレスの名言集。なんか意外。そういうの読むタイプなんだ)


カウンターに背を預けてずるずると座り込んだ磯野は、いつもとは別人のように静かな表情でページをめくっていて、詩乃の方がむしろ新聞に集中出来ず彼の顔を見つめた。


「なんか?」

「あ、いえ!」


詩乃の視線に気付いた磯野が顔を上げて微笑み、詩乃は頬に血を昇らせて首を振る。


「本読むんだこいつ、みたいな?」


どう答えていいか分からず押し黙ってしまった詩乃の前で、磯野はあはは、と笑う。


「読書嫌いじゃないんだよね、これでも。名言とか結構好きで」

「へぇ……」

「意外?」

「え、えと、その」


そうだ、と言ってしまうのもどうかと思われ、詩乃はおろおろと言葉を探す。


「磯野くんが好きな言葉は、なんですか?」


咄嗟に口にした言葉は随分と間抜けで、それでも彼は一瞬虚を突かれた顔をした後満面に笑みを浮かべた。


「いっぱいあるけど、アリストテレスなら“友情とは、二つの肉体に宿る一つの魂のことである”とかかな」

「へぇ」

「魂の片割れって言えるくらいの友達ってよくね?なんか憧れる」

「でも」


思わず新聞を畳んで、詩乃は言った。


「でも、そしたら魂はずっと半分のままじゃない?どんなに仲良くても、二人は別の人間なんだし、自分の中の魂はずっと欠けたままっていうか」


勢いで言ってしまってから、詩乃ははっと口を塞いだ。もしかしなくても、これは結構ウザい?人の好きな言葉にイチャモンつけた空気読めないやつになった?


(私のバカ!考えなしでもの言って、磯野くんがクラスであいつウザいって広めたらどうするの?)


クラスでは目立たない部類に入る詩乃にとって、悪い噂を立てられるのは一番避けたい事だった。よりによって一軍の磯野の前で口を滑らせるなんて、どうかしてる。


「っはは!シノさん面白いね。確かに言われてみればそうだな。欠けたまま、か……」


詩乃の言葉を目を見開いて聞いていた磯野は明るく笑って言ってから考え込むように腕を組み、詩乃は予想外の反応に「あ、え、あの……」と視線を彷徨わせた。


「あの……貸し出しお願いします……」


本を持って来た生徒の声に、二人ははっと顔を上げた。


「あ、俺にやらして!」


カウンターの下に座り込んでいた磯野が勢いよく立ち上がり、本を受け取る。手際がいいとはお世辞にも言えないが、教えられたとおりに貸し出し手続きをする磯野の手元を見つめ、詩乃はやっぱり言動には気をつけないと、と思った。思ったより彼が話せる人だからって、二人きりの状況に呑まれたとはいえ、上手く学校生活送りたかったら油断しちゃ駄目だ。

手続きを終えたところで昼休みが終わり、司書の先生が入ってくる。


「あ、これカウンターに置いといていいすか?」


磯野が名言集を指して尋ねた。


「いいけど、借りたい人がいたら貸し出ししちゃいますよ?」

「あ、別にそれでいいっす」


詩乃が新聞をラックに戻している間に磯野は図書室を出て行った。


(本、借りていけばいいのに)


カウンターに置かれたままの名言集を見て思った詩乃も、急ぎ足で図書室を後にした。





コツコツとドアをノックする音に、詩乃は顔を上げる。


「勉強してないの、珍しいね」


母親が顔を覗かせて言った。


「うん」

「たまにはいいんじゃない。早く寝たら?」

「そうだね。あ、そうだ」


詩乃は本に栞を挟むとベッドの上で身を起こした。


「去年一瞬クラスメイトだった磯野龍也くん、亡くなったんだって」

「磯野くん?同じ図書委員やってなかった?」

「そう。二年の一学期で転校しちゃったんだけど、交通事故だって」

「そう……。痛ましい事ね。ご両親も不憫だし、未来のある子どもが……」


母が悲しげに目を伏せ、詩乃はふっと息を吐いた。


「詩乃は大丈夫?」

「うん。正直あまり実感湧かないって言うか。そうなんだ、以外の感想が出てこない。薄情かな」

「まぁ、そんなものかもね。おやすみ」

「うん、おやすみ」


母の消えたドアをしばらく見つめ、詩乃は再びベッドに身を投げ出した。磯野が死んだと聞いた時、体を痺れのような何かが駆け巡った。だがそれは、捕らえる前に指の間をすり抜けて行ってしまった。悲しみとすら言えない曖昧な感情に、あれからずっと心が麻痺している。全部が薄布隔てた一枚向こうの事のようで、何も分からない。この本が自分と現実をつなぐよすがだ、と言うように、詩乃は憑かれたようにページを開く。





教室では相変わらず磯野は仲間に囲まれていて、詩乃も特に彼に用があるわけでもなく、言葉を交わす事はほとんどなかった。そもそも一緒に過ごす友達のタイプが違う上に、共通点など皆無に等しい。図書室にいる時はそれぞれ本を読んで、たまに磯野が名言を読み上げる。そんな日々だった。初日に口を滑らせた、と思った詩乃は彼の口に出す言葉に適当な相槌を返す事にしようとしたのだが、磯野はむしろ、詩乃の正直な感想を求めているようだった。


「“自然には何の無駄もない”だって。シノさんはど思う?」

「どう、ですか?」

「うん。友達の話の時みたいな意見が聞きたい」

「私は……」


詩乃は読んでいた小説から目を離して考え込む。


「何を自然と言うかによるんじゃないですか?何を無駄と言うかにもよりますし……」


磯野はあはは、と笑ってカウンターに寄りかかった。


「シノさんって結構慎重だよね。はっきりもの言い切るの苦手?」

「苦手というか……」


そんな風に考えた事はなかった、と詩乃は口元を指で隠し、考え込む。


「言い切ったら、それに責任持たないといけない気がして」

「あーー、なるほどね」


面倒な事に巻き込まれたくないから立場なんてはっきりさせたくないし、曖昧なままにしておくのが楽だから予防線を張って、決める事から逃げる。年頃の宙ぶらりんな不安定さに縋り、若さの上に胡座をかき、己の感情にすら大した主体性もなく。いつの間にか癖になっていた弱さをあっさりと言い当てられた気がして、詩乃は逃げるように立ち上がる。大して親しくもない男の子に弱さを見せることが、唐突に怖くなったのかもしれない。読み途中だった本を書架に戻しに席を立った詩乃は、背後で再び磯野が本を開いた気配に、こっそりため息を吐いた。





「教育の根は苦いが、その果実は甘い」


めくったページに書いてあったフレーズを小さく声に出してつぶやいた詩乃は、ふと思い出して一度本を置くと勉強机に座った。もうとうの昔に使い切ったノートの山を記憶を辿りながら探り、これかな、と引っ張り出してパラパラとめくる。


「あ、これだ」


丸っこい自分の字の横に少しバランスの悪い筆圧の高い文字が書かれている。ノートの端には子どもが描いたような落書きがしてあって、そういえば私はこれを消さなかったのか、と詩乃はしばらく微動だにせずそのページを眺めた。座った自分の後ろから覆いかぶさるようにノートを覗き込んで来た磯野の体温をふと思い出し、一瞬息が詰まる。





「あーー、テストだっる。マジないわ。シノさん英表得意?」

「苦手ではないと思いますけど」

「まぁ、そうだよね。シノさん優秀だもんね」


さすがに勉強しないと、赤点取ると試合出してもらえねえんだよな、と呟いた磯野が珍しく床に座り込まず椅子を引っ張ってきてノートとワークを広げたので、詩乃は彼の分のスペースを少し詰めるように椅子を動かした。しばらく無言でいた二人だが、磯野がシャーペンを投げた音に、詩乃は顔を上げる。


「シノさん、ちょっといい?」

「はい」

「関係詞教えてくんね?」

「ん、いいですよ」


自分の自習ノートを出して磯野の隣に座った詩乃は、白紙のページを開いて文の構造から説明を始める。途中から立ち上がって詩乃の後ろから覆いかぶさるようにノートを覗き込んでいた磯野が小さく相槌を打つたびに抑えた声がいやに耳に響いて、詩乃は頑なにノートに目を落としていた。


(陽キャの距離感、こわ……)


いやでも彼の体温を意識してしまい、どうか顔に血が昇っていませんように、と詩乃は祈った。彼にとっては普通でも、私みたいな友達も少ない人間には刺激が強すぎる。


「えーー、じゃあ、これがこうなって、あーー、そゆことかぁ。シノさん、教えんの上手いね」


書き込んでいい?と言われていいと答えると、じゃあ、こういう事?と訊きながら磯野がノートに男子らしい少し暴れた字を書き込んでいく。


「てか、シノさんの事見下ろすのめっちゃレアだな。俺の方が背ぇ低いもん。何センチあるの?」

「私ですか?167cmくらいだと思いますよ」

「へぇ、いいなぁ。俺160くらいだもん。マジで身長ほしい」

「やっぱり、サッカーは大きい方が有利なんですか?」


詩乃が尋ねると、磯野はまぁね、と肩をすくめた。


「シノさんが俺になんか訊いてくれるの珍しくね?ちょっと嬉しい」


笑いながら彼がいい、詩乃はあ、と思わず口を押さえた。完全に無意識だった。確かにあまり他人に干渉しない詩乃が、自分から他人に何かを問うのは珍しい。


「あ、やべ。ごめん落書きしちゃった」


喋りながら器用に落書きをしていた磯野が消しゴム消しゴム、と言いながら筆箱を探る。


「いいですよ、別に」


詩乃は首を横に振る。大した事じゃないし、消そうと思えばいつでも消せる。





落書きを見つめた詩乃は、深くため息を吐いて落書きを指でなぞる。


「消せなくなっちゃったじゃん……」


これを描いた人はもうこの世にいないのだと、それが未だ落ちるべきところに落ちずにいる。目を閉じればまだあの体温も、手遊びにシャーペンを回していた手も思い出せるのに。ふとスマホを手に取るとクラスラインの通知が入っていて、詩乃は惰性でラインを開く。クラス委員の鈴木が、磯野の親に送るから彼の写真を持っている者は送ってほしいとメッセージを入れていて、詩乃はため息を吐くとスマホを閉じた。





図書室で珍しくスマホを眺めていた磯野が彼らしくない大きなため息を吐き、詩乃は新聞から目を上げた。


「ああ、わり」


スマホをスクールバッグに放り込みながら磯野が伸びをする。


「なーんかラインが三年の悪口で盛り上がっちゃってさ。ああいうのガチダルいんだよね」

「悪口に参加するの、苦手なんですか?」

「まーね。“実力もないのに他人の批判ばかりをしてはならぬ”ってブッダも言ってたし。まぁ、だからって見て見ぬフリ決め込んでる俺が偉そうな事言えないけどさ」

「“好きの反対は嫌いじゃなくて無関心”みたいな言葉、ありましたよね」

「あーー、それ、本当は“愛の反対は憎しみではなく無関心”だぜ。マザー・テレサの言葉だったかな」

「へぇ、そうなんですね」


詩乃は本を閉じて膝の上に置く。私は人の事を嫌う事はないけど、深入りする事も滅多にない。基本他人に不干渉を自認する詩乃は、なぜか少し非難されたような気がしてため息を吐いた。


「私はそう言われると、基本無関心なので結構ひどい人間なのかもしれませんね」

「そ?それも一種の優しさじゃね?」


磯野は肩をすくめてそう言った。


「大好きにもならないかもしれないけど、大嫌いにもならないって事じゃん?嫌われたい人なんている訳ないんだし」

「……そっか」


さりげない彼の言葉に救われたような気がして、詩乃は目を逸らす。


「磯野くんは、友達も多そうだね」

「俺ぇ?うーーん、どうだろうね」


磯野は意外にも肩をすくめた。


「“多数の友を持つ者は、一人の友も持たない”だって。アリストテレスが。多けりゃいいってもんじゃねえし」

「まぁ、あんまり多いと魂減ってっちゃいますもんね」


初日の磯野の言葉を思い出して言うと、彼はとても嬉しそうに笑った。


「そーね。アリストテレスって友情に関する言葉多いんだよね。“友人がいなければ、誰も生きることを選ばないだろう。たとえ、他のあらゆるものが手に入っても”とか」

「へぇ。そうですかね」

「どうだろ。まぁ、やっぱ友達は大事だとは思うけど」


確かに私も、まつりがいるのといないのとでは学校生活ずいぶん違っただろうな、と詩乃は派手な見た目の友人を思い出した。


「ま、知らんけど」


投げやりに磯野が言ったところで下校時刻を知らせる放送が入り、二人は揃って図書室を後にした。自転車通学の磯野と徒歩の詩乃は駐輪場で別れ、別々の帰路につく。


(“多数の友を持つ者は、一人の友も持たない”だって。アリストテレスが。多けりゃいいってもんじゃねえし)


それなら多くの友人に囲まれながらも、彼はこの言葉を思い出すのだろうか。詩乃は思わずにはいられなかった。あれほど賑やかにしていても、寂しいのだろうか。






期末試験も迫った頃、いつものようにカウンター当番をしていた詩乃は、足元に座り込んでいつも通り本を読んでいる磯野を見下ろした。


「今日の名言はないんですか?」


いつもならすぐに話しかけてくる彼が珍しく黙ったままなのに少し焦れてそう尋ねると、磯野ははっと顔を上げた。


「そーだな。“愛は、二つの肉体に宿る一つの魂から成る”とか?」

「あれ、友情もそんな感じでしたよね?」

「愛もあるんだって」

「へぇ」


詩乃は少し考え込む。


「でも、それはわかる気がします。愛って、すごく歪なものっていうか」


磯野はふっと微笑んで立ち上がった。たまたま図書室にいるのは自分達二人だけで、いやに静かだったのを覚えている。


「シノさん、やっぱり面白いや」


立ち上がった磯野が詩乃の座っている椅子の背に片手を預け、身をかがめて顔を近づけてきた。相変わらず距離感の近い人だな、と思った詩乃は、次の瞬間唇に触れた柔らかい感触に喉の奥で小さく声を漏らす。唇が触れ合う寸前に見えた磯野の目に飲まれたように目を閉じて、気づけば受け入れていた。体の離れる感覚に何故か心臓を掴まれたような不安と寂しさを覚え、瞼を震わせながら目を開ける。


「……初めてだったら、ごめん。忘れて」


目を逸らした磯野が早口に呟き、詩乃は「……うん」と言うしかなかった。

その日はもう一言も交わさず、いつも通り挨拶だけして別れた。






「いやだからさ、清原が彼女とチャリでデート行って、あいつだけチャリパクられてんのよ」

「二人乗りすればよかったべ」

「道交法違反だろ。彼女と捕まるのはダサすぎだって」

「しゃーなししゃーなし」

「清原わざわざ彼女のチャリ押して二人で10キロ歩いて帰ってきたらしいぜ」

「バカすぎ」

「爆発しろよマジで」


休み時間、いつも通り文庫本を開きかけ、詩乃はふと耳に飛び込んできた声にはっと顔をあげた。ハハハハ、と笑った集団の中にはいつも通り磯野がいて、もちろんこちらを見る事はない。自分ばっかりこうして意識してしまっているのが無性に腹立たしく、意地になったように本に目を落とす。キスしてきたのは磯野の方なのに彼は驚くほど普段通りで、まるでキスなどなかったかのような顔をしていて、多分私は遊ばれたんだろう。らしくもなく勝手に取り乱して、バカみたいだ。だから詩乃も、その日も、次のカウンター当番の時も、何事もなかったかのように彼と接した。





詩乃ははっと顔を上げる。気付けば時刻は午前四時を回っていて、名言集を読みながら随分と夜更かしをしたと気付いた。ふと唇に触れた詩乃は、勉強机の引き出しを開けて色付きのリップクリームを取り出す。最後の日に磯野が詩乃にくれた、ただ一つの贈り物。手鏡を取り出してまだ数えるほどしか使っていなかったリップクリームを唇に引く。うっすらと唇を染めた鏡の中の自分は“松本詩乃”らしく無表情で、その無表情が崩れるのを見たくなくて、乱暴に鏡を閉じて目を逸らすと名言集を開いた。



「俺、転校することになったわ」


そう言われたのは、期末試験も終わった日だった。


「親の仕事の都合で、北海道行くことになって。ごめん、図書委員ちゃんと仕事するって言ったのに」

「しょうがないよ、家庭の事情なら。私は大丈夫ですから」

「うん。俺がいなくても全然平気なのは分かってんだけどさ」


磯野は頭を掻いて目を逸らす。


「シノさんさ、終業日図書室の前で会えねえ?お礼したいから」

「いい、けど」


本当にキスなんてしたんだろうか、と思えるほどに、彼は以前と変わりなくて、それでも彼がそう約束を取り付けてきた事に、心臓が跳ねた。磯野の事を「どうでもいい」とはもう言えない自分には気付いていて、だけどその想いに向き合うほど強くはなれず、ただ速くなっていく鼓動を持て余していた。






終業日、同じクラスのくせに何故か詩乃よりも早く図書室の前にいた磯野は、小さな袋を差し出してきた。


「ごめん時間とらせて。俺シノさんにめっちゃお世話になっちゃったから、大したものじゃないんだけど、受け取ってほしい」

「ありがとうございます。見てもいいですか?」

「うん」


袋を開けるとコロリと色付きリップが出てきて、詩乃は少し目を見開く。


「……唇、荒れてました?」


冗談めかして尋ねると、彼はかっと頬に血を昇らせた。その表情に詩乃は心臓を握られたような気分になる。


「いや、違くて、その、シノさんに似合いそうな色だと思ったから。俺女の子に何か贈った事とかないし、迷惑だったら……」

「冗談です。ありがとう。すごく嬉しい」


詩乃は笑って丁寧にリップをしまう。誰もいない図書室前は、お互いの息遣いすら聞こえるほどに静かだった。


「……っシノさん。一緒に写真、撮ってくれない?お別れ会で色んな人と撮ったけど、シノさんとは撮れなかったから」

「いいですよ。せっかくならこれ付けたいので、ちょっと待ってください」


スマホを見ながらさっとリップを引く。磯野はその間目を逸らしていて、詩乃も傍に立つ体温を努めて意識しないよう、手を止めないよう、睨むように画面を見つめた。綱渡りのような緊張が、一度意識してしまえば落ちてしまうと伝えてきた。


「カメラ見て、笑って!」


長身の自分に合わせて彼が少し背伸びをするように腕を伸ばしていたのを覚えている。


「写真、送ってくれませんか」

「もう送ったよ」

「ありがとう」


写真に慣れた満面の笑みでピースしている磯野と、少し緊張してはにかんだ笑顔を浮かべている自分が気恥ずかしくて、詩乃は急いでスマホをしまう。


「今日の名言は、ないんですか?」


悪戯っぽく尋ねると、磯野は目を逸らした。ごくりと唾を飲み込んだ時に動いた喉仏に、詩乃は思わず息を飲み込む。睨むように自分を見上げた視線に、彼が言葉を用意していた事を確信した。


「アリストテレスの言葉で、“悟る事は苦しむことだ”」


詩乃は、じゃあ今日は私も一つ返します、と磯野を見つめる。その視線に怯んだように揺れた磯野の目に、耳に昇った血の色に、ああ、やっぱり遊ばれていたんじゃなかったんだ、とふと思った。お互いに向き合う勇気がなくて、今更、もう遅いのに。


「レイモンド・チャンドラーで、“さよならを言うのは、少しの間死ぬ事だ”」


はっと自分を見上げた磯野の頬を両手で挟み、詩乃は少し身をかがめてその唇を奪った。


「忘れて下さい。さようなら磯野くん」


口から飛び出しそうな心臓を押さえながら笑みを浮かべ、詩乃はくるりと踵を返して歩き出す。磯野が立ち止まったまま自分の背中を見つめているのを感じながら、振り返ったら何かが壊れてしまう気がして、睨むように前だけを見つめたまま。





「愛とは、二つの肉体に宿る一つの魂のことである」


最後のページに書いてあった言葉を口にし、詩乃は静かにベランダに出た。東の空がしだいに白み、ひぐらしが鳴き始める。


「“さよならを言うのは、少しの間死ぬ事だ”って言ったけど、本当に死んじゃったら意味ないじゃん……」


呟いた声が震えていて、詩乃は耳を塞ぐ。それでも、あの二人だけの時の磯野の声をかき消す事はできなかった。


(悟る事は苦しむことだ)


薄布一枚隔てたようだった世界が色づき、押し寄せて自分を打ちのめす。磯野くんの言っていた事は正しい、と詩乃は顔を覆った。気付いてしまえば、もうなかった事になんて出来ないのに。心臓が抉れるほど痛くて、吐いてしまいそうだった。


「こんなの忘れられるわけないじゃん。忘れられないよ。忘れたくないもん。なんで、なんで……」


リップを引いた唇を震わせ、詩乃はしゃがみ込む。


「会いたいよ……」


会いたい。会いたい。会いたい。

もう一度、もう一度、もう一度……もう、二度と。


「戻ってきてよ。そしたら、もうただのクラスメイトになんてしないから。もう二度と逃げないで、今度こそ私から、私の言葉で、目を見て伝えるから。だから、磯野くん……」


スマホのカメラロールから、あの日彼に送ってもらった写真を探し出す。涙で滲む視界に満面の笑みを浮かべた彼のピースが映り、これは絶対に送らない、と胸に抱き締めた。


「最低、信じられない、私の半分、返してよ……」


出会う前は半分のまま生きてたんだから大丈夫なんて、そんな事はない。未熟と不完全は違うのだと、こんな形で知りたくなかった。気づかないうちに彼が深く食い込んでいて、引き裂かれた傷の痛みに初めて、あの体温に、声に、眼差しに、どれほど焦がれたのかを思い知らされる。今更痛がってももう遅いのに、二度と満たされる事のない空白から慟哭のように血が溢れる。私の半分は彼が持って行ってしまった。だから欠けて歪んで歪なまま、もう二度と戻らない。


「……大っ嫌い……」


互いに一度も言わなかった言葉が胸の内で行き場を見失って体を引き裂く。詩乃は声を押し殺し、身を振り絞って泣いた。




Love is composed of a single soul inhabiting two bodies.-Aristotle




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― 新着の感想 ―
[一言] 詩乃さんの心情が切ないですね…… 磯野くんは浅く広くのコミュ力も教養もある好青年でしたが、詩乃さんの心に入り込むだけ入り込んでそのまま消えてしまうとは、何とも罪な男です……
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