九竜の将
婦好軍は、虎方の参謀である虎譚を捕らえた。
虎譚は手を背に縛られた状態で、婦好を見あげる。
「わたしを殺さないという判断。やはり前評判のとおり、あなたがたは優しいのですね」
「その前評判とやらをぜひ聞きたいものだ」
「女だけの酔狂なる軍隊と聞いております」
「あははは! 光栄だな」
婦好は幕舎内の椅子の前で上衣を翻した。
虎方の敷物は、獣の柄でできている。熊の敷物の上に、サクの主人は座った。
「わたしはそなたに興味がある。なぜ、商の言葉を知っている?」
「さあ。生まれた時から知っていました」
虎譚は、にこやかに答えた。
サクは婦好の隣に侍り、二人の会話を聞いていた。婦好もまた首を傾げて微笑みを浮かべて問う。
「虎方とは、どのような集団だと考えている? 内からの意識を知りたい」
「我々は勢いのある勢力のひとつです。将軍・虎封さまのもとに、商に抗います。商の土地の、江とは違う大地に憧れつつも、商の残忍な行動に嫌悪しております」
「残忍な行動とは?」
「商が奴隷として人間を攫っていることです」
サクもまた知っており、静かに聴いた。
神のために、微王が行う祭祀のひとつである。
婦好が続けて問う。
「虎封とは、そなたたちの将軍の名だったか」
「ええ。虎封さまは、我が主にして、大将軍。虎方の将軍のなかで最も強いお方です」
「どれほど強いか」
「虎方には九人の将軍がおります。以前、九頭の竜を壁に描かれておりましたね。伝説の怪物に匹敵するほどには、強いでしょう」
「それは手合わせしたいものだ。わたしが勝てば、望邑から手を引くか」
「手を引くのは、商のほうです。我々からけしかけた戦ではありません」
「認識違いがありそうだな」
「ええ」
緊張感のもと、婦好と虎譚は語り合った。ふたりはお互いに正常な判断ができる人物同士である。敵ながらどこか通じ合うものがある、とサクは感じた。
「婦好さま。あなたは大邑商の将軍でありながら、なかなか話せるお方のようです。もし、あなたが商を治めていればと思わなくもありません。しかし、もうこれ以上お話すると、しゃべりすぎてしまいます。やめておきましょう」
「そなたもまた敵方に置いておくのは惜しい人物だ。我々も明日には出立しよう」
じめじめとした夕暮れである。
野営地を複数の篝火が囲む。
「敵襲!」
第六隊の女兵士が敵の襲来を知らせる。
やがて、剣戟の交える音が、空に響いた。
「お迎えがきました」
虎譚は長髪をなびかせて、ふわり、と野営地の門の縁へ飛び乗る。
後ろに組まれていた手首の縄は、いつの間にか解けていた。
「申し訳ありません。婦好さま。わたしはあなたのことを気に入ってしまいましたが、夜は虎方の味方。捕まったなんて、偽りです。きっと生かしてくれると思って、この時を待っていたのです」
「そなたを殺したくはないが、やむを得ぬ」
婦好はひらりと馬車に乗る。サクもまた同乗した。
「弓兵隊!」
サクが合図をすると、弓兵隊が虎譚を狙って矢を放つ。
虎譚はまるで野犬のように跳躍した。
「婦好さま! 紹介しましょう。今日来ているのは、虎方の九人の将軍のうちのふたり。虎治と虎典です!」
禍々しい気が辺りを包む。
虎治と呼ばれた将軍は短髪を逆立てて、大きな歯を見せて虎方の言葉で吠えた。
破裂音が響く。
婦好軍の第六隊が、虎方のふたりの将軍のために、次々に散った。
──強い……!
「わたしが行きます!」とレイが言った。
婦好が凛とはりあげた美しい声を奏でる。
「竜の首の片方はわたしが狩るとしよう!」
婦好は黄金の鉞をリツから受け取った。
虎方の九将軍たる、虎治と対峙する。
婦好とサクを乗せた馬車は速度を上げて進んだ。
虎治は槍を大きく振りかざす。
彼は戦車の闘い方を知らぬようであった。
虎治の横を馬車ですり抜ける。
振り向きざまに、婦好は鉞を薙いだ。
言霊のとおり、婦好は一撃のもと虎治の首を狩った。
将軍格の首が天に舞い、胴体がどさり、と倒れる。
「虎方の九将軍とは、このようなものか。口ほどにもない」
虎譚は唇を噛む。
「やはり、強いですね。しかし、婦好さま。貴女以外は脆いことを、我々は知っています。良いことを教えてあげましょう」
身軽な虎譚は、いつのまにか、もうひとりの将軍である虎典の背に乗っている。
「わたしの役目は時間稼ぎです。今日一日、あなたがたを足止めすれば、十日後には、あなたがたのすべてを滅ぼすことができましょう。なぜなら、我が軍の本体が、あなたがたの守るべき土地に迫っているからです」
婦好軍の情報を握るサクにとって、初耳であった。
「まさか……」と思わず声に出したサクに、虎譚は色素の薄い瞳をぐるりと向けた。
「なぜ、という顔をされている方がいらっしゃいますね。商の鼠は複数捕らえさせていただきましたよ」
──ハツネの部下か、弓臤の部下の間諜は捕らえられたのかもしれない。
現に、サクのもとには敵の増援が本陣へ向かっているという情報はなかった。
──虎譚の言は本当かもしれない。
サクは瞳を閉じて、心のうちに部下の無事を祈る。
「ふふ。望邑も内部にて分裂があるようですね」
弓臤の恐れていたことを、虎譚は口に出した。
──新城に虎方の将軍が迫り、望邑に裏切り者がでる。
虎譚の言うことが真であるのならば、セキの守る本陣は後ろも前も、敵となってしまう。
──しかし。
こちらを欺くための嘘かもしれない。動揺させるためかもしれない。敵の言は信じてはいけない。
まるで、虎譚はサクの胸中を知るかのように、発言する。
「信じないなら、それでも構いません。婦好さま。今日はいいお話を聞くことができて楽しかったです。お付き合いいただき、ありがとうございます」
「やっ!」という合図とともに、虎譚は虎典の背に乗り、笑いながら逃げる。
サクは思案した。
──追うべきか、引き返すべきか。
覚悟をきめて、婦好の前に跪き、手を組んだ。
「婦好さま。虎譚の言は偽りの可能性もあります」
サクはぐっと、下唇を噛んでから、進言した。
「しかし、戻りましょう。我々は、前に出すぎているようです」
サクの伏せた瞳にできた影を、婦好は優しさをもって見つめる。サクは続けた。
「義兄とハツネの情報が入りませんでした。虎譚のいうとおり、義兄とハツネの部下は捕らえらたかもしれません。もし、敵の本隊が本陣である新城に迫っているとしたら……」
月が雲に隠れた。
婦好とサクは目を見合わせる。
言葉にする必要はない。
共通の認識は、視線で通じた。
新城と本陣。
セキと望白が危ない──と。




