獣の境
宴が終わり、サクが片付けのためにひとりになると、義兄の弓臤が影より出でる。
「お前は家族ごっこが好きだな」
口を開くや否や、義兄は嫌味を吐いた。
「義兄さま」
サクと弓臤は義理の兄妹の間柄である。弓臤の棘のある言葉に『嫉妬』という文字が浮かんだが、すぐに頭を横に振った。
弓臤はサクに問う。
「率直に聞く。お前、どこまで間者を放っている?」
ハツネを部下として以来、サクは情報収集を欠かしてはいない。
「敵方にはぬかりなく、とは認識しています」
いま、サクの近くにハツネはいない。サクの要望には、彼女の部下が対応していた。
サクが収集するのは、もっぱら敵の情報である。
「お前はまだまだ、青いな。味方にも気をつけたほうが良い。なぜなら、望邑は一枚岩ではない」
「味方にも間者を放て、ということでしょうか」
弓臤は頷く。
「味方が反旗を翻し、敵につくことほど恐ろしいものはない。ゆえに、八方に間者を放つのが理想だ。人員を割ける範囲で」
サクは声を落として義兄に問う。
「具体的に、なにか掴んでいらっしゃるのでしょうか」
弓臤は、顎に手を添える。考え事をしているときの彼の仕草だ。
「いや、まだだ。確信には至っていない。それには俺自身が出向かねばならぬらしい。俺は、しばらくここを去る」
彼は再び、闇に戻ろうとする。
サクはそれを見送るしかなかった。
「義妹よ。達者でな」
「お義兄さまも、お元気で。なにかわかりましたら、必ず教えてください」
彼は片側だけの瞳で、サクを視た。
「そうだな……、忠告だ。服の下には、いつでも防具をつけておけよ」
サクは情報を整理するため、ハツネの部下を呼ぶ。
敵は先の戦いで損害を負い、立て直すのに時間がかかるとのことだ。
好機、と呼べる状態であった。
ゆえに、攻めるかどうかの判断を婦好に仰がなければならない。
軍議が開かれた。
開始早々、第一隊のレイが机をばん、と叩いて提案する。
「第一隊に、敵の野営地を攻めさせてください」
敵は、改築中の新城から歩いて半日もかからない地に野営している。
レイは大事な部下のひとりを失ったことから、仇を取りたいという本心を顕にした。
レイの本心に、婦好はいつも以上に真剣な眼差しで
「レイの意は、重々承知だ。士気も高いのであれば、すぐにでも動きたい。サク。なにか情報はあるか」
と聴いた。
「はい。敵は損害を負い、立て直すには時間がかかるとのことです。敵を攻めるには悪くない状況です」
サクはさらに伝えた。
「しかし、懸念もございます。後方に憂慮がある可能性があるという情報を得ております」
レイはサクの懸念を切り捨てた。
「サク。そんなの、いつものことだわ。進んでいいということね」
副隊長のひとりを失い、第一隊は静かなる怒気に包まれている。
難しい局面だ。
──この感情を悪いほうに誘導してはいけない。
サクと同じ懸念を、婦好は当然持っていた。サクの主人は立ち上がる。
「そうだな。レイの言うとおり、進んでこそ道は開ける。わたし好みの戦い方だ。すこし、外にでよう」
婦好は外へ出でた。隊長も後ろにつく。
彼女の行先が軍議の場だ。
朝陽が名ばかりの王妃の白肌を照らす。
陽光のまぶしさに、サクは左手の甲で左目を防いだ。
「レイ。深く呼吸をせよ」
レイが婦好に倣って、すう、と息を吐く。
婦好は光に黄金の鉞をかざした。
「夜間での戦いが続いた。太陽のもと、攻めたいものだ」
紅の衣に、黒兎の羽が風に揺れる。
その背中は、伝説の英雄の姿のようであった。
「新城へ攻める者たちとの戦いも、終わりにしてしまおう。第一隊より第六隊までを出陣とする。サク、占え」
占卜の結果は吉凶混合である。
しかし第一隊の、すべてを燃やし尽くしそうな気には、攻めないという選択肢はない。
第七隊より第九隊及び望白の隊を、新城の守りとした。
出陣した婦好軍は疾風の如く駆ける。
南に歩を進め続けると、虎方の野営地を捉えた。
「我ら、婦好軍! 太陽の下に戦おう!」
敵軍との交戦を開始した。
婦好軍の兵士は片端から、敵兵を矛で突き刺してゆく。
敵は驚いて逃げる者と、すぐに武器を取り立ち向かう者が半数であった。
虎譚が髪を乱して、虎方の言葉で号令した。巨漢の背に乗り、指揮を執る。
「いま、この時期に我が方を攻めるとは、なかなか度胸がありますね。全力で、相手をしましょう!」
と、虎譚は気を吐く。
太陽のもとに、虎方を攻めることは有効であった。
陽の下でみる敵の姿も、夜と同様、野蛮なる風俗である。
白日の下に晒された彼らの肌と髪と衣服は、土と汗に汚れている。
獣の群れを駆逐するような戦いであった。
レイが部下の無念を晴らすように、素早さをもって殺戮を繰り返す。
「どうしたの? あなたたちの力はそんなものなの?」
第一隊はレイを筆頭に、意思をもった塊のように進んだ。
婦好もまた、虎を狩るときのように楽しむ。
「弱いな。夜半の勢いはどうした?」
平地にて戦車から攻撃を繰り出す婦好軍は、戦車との戦いに慣れていない虎方に対して、強さで圧倒した。
「なかなかやりますね」と、虎譚は呟く。
婦好は馬車を虎譚に向かって走らせた。
「そなたとは、一度、手合わせしたいと思っていたところだ!」
「わたしは弱いので、この男と手合わせ願います」
虎譚はひらり、と逃げる。
虎譚を乗せていた大男が、婦好に襲いかかった。
婦好は容易く躱す。
「その鉞はどちらで作られたものですか。太陽に当たると、また、気高くみえます」
と、虎譚が褒め、婦好が答えた。
「最近できた友人が造ったものだ。武器には作る者の魂が宿る。負けはしない」
一撃。
婦好は下から上に、鉞を薙いだ。
「……なんと!」
虎譚を背に乗せていた巨躯は、黄銅の軌道を受けて真っ二つとなった。
敵の司令塔である虎譚は部下を失い、空中を高く飛ぶも、婦好軍に囲まれて立ち往生する。
「これは参りました。逃げられませんね」
虎譚は両手を上げる。降参の合図だ。
敵の野営地を制圧し、虎譚を捕縛した。
虎譚は後ろ手に縄をかけられた状態で、麗しい声にて挑発する。
「あなたがたは、まるで遊戯のように人を殺すのですね。言葉が通じなければ、獣のように殺してもいいとお考えですか」
「ええ。あなたも死になさい」
レイがすかさず殺そうとしたが、サクは静止する。
「レイさま、おまちください。この者を殺せば商の言葉を話せる者が居なくなってしまいます。生かしておけば役に立つでしょう」
「けれど、この地の司令官はこいつよ。殺しておかないと、後々に影響するわ」
レイは、矛を握る手に力を込める。
虎譚は悠然として述べた。
「ええ。そこのお嬢さんの言うとおり、わたしを殺すと、言葉を話せる者は居なくなります。虎方の言葉をわからなくて困るのはあなたがたではないですか」
サクはレイに告げた。
「レイさま。この者は、虎方との取引のための手札とします」
「そう」と、レイは引き下がる。
虎譚は試すような口ぶりで問う。
「手札? ふふ。いいでしょう。しかし、あなたのように優しそうなひとに、そのように冷酷な取引ができるとは思えませんが?」
虎譚の瞳で見つめられるも、サクは内心を隠した。
「もちろん、人の命運を握ることは心苦しいです。ですが、油断すれば味方が危うい目に遭います。あなたがたのように、虎視眈々と命を狙う方々の餌食になるわけにはいきません」
虎譚は残念そうに微笑む。
「ずいぶんと、各方に恨みを買っていらっしゃるようですし、だれがあなたがたの命を奪うのか楽しみです」
粗野な虎方の兵を率いる立場に似合わず、虎譚は品良く言った。
「捕虜とは、初めてです。婦好さま。あなたの兵士には、商の言葉を話すことのできるおかげで、人間として扱っていただけるようです」
捕虜となってもなお、余裕の笑みをみせる虎譚の顎を、婦好がぐいと上げた。
「それにしても、美しい商の言葉だ。まさか、そなたも女か?」
「いいえ? なぜ?」
「いや。似た者を知っているのでな。虎方のことが聞きたい。ようこそ、我が軍へ」




