水占の鏡
レイの隊に、少なからぬ犠牲を出した。
戦いとはいえ、サクの背に責任が重くのしかかる。
後始末は、第九隊の仕事だ。
血だまりのなかを、手際よく片付ける。
戦いは、天の神々の代理戦争であるという。
それでも、失った敵味方を埋葬することは、胸中は暗く苦しい。
──しかし、やり遂げなければならない。
婦好軍は、望邑の防衛を任されている。
「サクちゃん、大変!」
第九隊のシュウが、サクに助けを求める。
「どうしました?」
「水が足りない?」
望白が訝しむ。
戦場の後処理のための水が思うように調達できない。
サクとセキが、現状を望白に相談した。
「そうさ。予定よりも水の量が少ないんだ。欲しい場所に水が行き届かない」
現在、望邑から民を移しているところである。ゆえに、生活水の確保も必要である。
サクが続けて問う。
「望白さまは、ほかに良い場所をご存知でしょうか」
望白は、あごに手を添える。
「ええ。心当たりはありますが……しかし」
彼が歯切れの悪い返事をするのは珍しい、とサクは思い、続けて聞いた。
「案内していただきたいのですが、なにか心配事があるのでしょうか」
望白は思い切ったように、顔を上げる。
「とりあえず、行きましょうか。あちらの道です」
鬱蒼とした木々の合間を歩く。
大邑商よりも着物が肌に張り付く。
もうすぐ夏か、とサクは感じる。
望白が短剣で小枝を斬りながらすすむ。
小さな川のほとりに到着した。
木々のざわめきを水面が映す。湧き出る水に、陽が煌めいて美しい。
「ここに、このようなところが…… 素晴らしい湧水ですね」
「この水は、以前は生活のために使っていました。使いたいですか」
「ええぜひ」とサクは答えたが、望白は頭を振る。
「非常時なら良いでしょう。しかし、この水を常日頃から使うのであれば、僕は反対です」
「なぜですか」と、サクは問う。
「確かに、水は清く、もたらされる益は大きいです。ですが……、脆いのです。今は木々により塞がっていますが、使うとなると道を作るでしょう? 以前はここへつながる道より、虎方に攻められてしまったのです」
「そんなの、対策すればいいじゃないかい。できるかい、サク」と、ほとりを歩いていたセキは問う。
「ええ。地形の調査が必要ですが、原因がわかっているのであれば、なんらかの防衛はできるかと思います」
「そのような対策、以前にも行っていたことです。それに、敵もこの地については熟知しているでしょう。この水を恒常的に使うことは、危険を伴います」
「この村が滅びたのは、人の行いが悪い方向に働いたせいさ。水に罪はない。こんなに綺麗なのに、使わないなんてもったいない」
セキは水をすくって飲んだ。
サクも、それに倣う。
商の水よりも、軽やかでまろやかな味がする。
「おいしい」とサクは思わず感激する。
「ぜひ、この水は使いたいものだね。いずれここに住む人のためさ」とセキは言う。
望白は、冷たい声で言い切った。
「いいえ。非常時のみにしてください。以前はこの地形の隙を突かれて、滅びを迎えたのです。僕は警告しましたよ」
夕暮れ、望白が歩いていると、婦好に腕を掴まれた。
「なにか、ご用ですか」
「こちらへ。良いものをみせよう」
望白が案内されたのは、宴席である。
「我が軍は、酒をもって死者を弔う。案内しよう」
「こんなときに、酒など飲んでいて良いのでしょうか」
「これから戦いも激しくなる。だからこそ、今は気を養わなければならない。敵も再起にときがかかるだろう」
ふたりが席に着くと、シュウが料理を振舞う。
「ごめんなさいね。早速、望白さまの水を使って、料理を作ってみたの。味はどうかしら。あ、毒見役をつけます?」
「必要ない」と、婦好が口に運んだ。
「あら」とシュウが声を出す。
「商の調理法でしょうか。見たことのない料理です」
「塩をつけて、蒸しただけよ。山々に磨かれた水で作る蒸し物は美味しいわ。どうぞ」
「では、遠慮なく」と望白が手をつける。
望白の舌に山菜の豊かな香りが広がる。
「望白よ。そなたの知る水流はなかなかよいようだな。リツ、酒と地図をもて」
婦好が命じて、リツが運ぶ。酒とともに置かれているのは、盤の目が描かれた板である。
木で精巧に城壁が再現されている。
この地を模したものだ。
「この杯は商の酒を水で割ったものだ。こちらは、見てのとおり完成図だ。セキが、サクとともに作ったのだ」
「……仕事が早いですね。細部まで精巧によく作られています」
望白が建前上の笑みをみせる。
「予定どおりにゆけば、おまえの故郷は、堅固な要塞にかわる」
婦好は望白の杯に酒を注いだ。
望白は反論する。
「幻想ですよ。なぜなら、滅びる前は僕もそう思っていました。この地は堅く守られている、と。滅びに向かう邑はみな、そのように思うものです。でも現実は違いました。母は死んだのです」
「そうか。では」
婦好が低い声をだして、盤を壊した。
木で作られた模型が散る。
「こんなものは、机上のことに過ぎぬ。力あるものが勝つ。それだけだ」
「! ……、なにを、」
「わたしはそなたに協力する用意がある。ゆえに、本心を聞きたいのだ」
婦好は望白の顎を引く。
「母の無念を晴らし、この地を再興したくはないか。再び敵の手に渡してもいいのか。それとも、わたし自らの領土にしようか」
婦好は挑発的な目で、模型の破片を手に取る。望白の目に、わずかに炎が宿る。
サクはにらみ合うふたり間に立った。
「望白さま、この度は勝手に産土の水を使ってしまい、申し訳ありません。婦好さま。鏡をお持ちしました」
「今度はなにがはじまるのです?」
「水占いなどを。この占術は初心者なのですが、今日、清く流れる水をみて、試してみたくなったのです。おつきあいくださいませ」
黄金の平らな器に、水が張られている。
まるで鏡のようである。
「さあ、望白さま。この占いは、顔を映すだけでいいのです」
サクが銅の器を望白の膝元に置くと、三日月のような瞳が浮かぶ。
望白ははっとした。彼の脳裏に、母の顔が蘇る。
「望白さま。水面に、なにか映ったのでしょうか」
「あ、いえ……。僕はこんな顔をしているのですね。あまり自分の顔を見ることはなかったので。水をこのように使うこともできるとは驚きました。それで、占いとは?」
「ご自身のお顔だけが見えた、ということですね。それであれば、己の願望のままに、お進みいただいて問題ありません」
「己の願望……そうですか」と、望白は呟いた。
「サク、飲みなおすぞ。セキも、だ」
婦好と望白の宴席に、サクとセキも同席した。
セキは婦好が壊した模型をその場で修復する。
「さきほど壊した模型をもう直してしまったのですね。素晴らしい」と、望白は褒めた。
セキが言う。
「婦好さまが壊して、あたしが造る。慣れっこだからね。模型を作り直すことくらい、どうということはないさ。でも、人はだめだ。失ったら、取り戻すことはできない。ほら。こんなことも、できなくなる」
セキが望白を引き寄せる。
セキの豊かな胸に、望白の頭が沈む。
「やめてください、子どもではないのですから」
ぐい、と望白はセキから離れる。
「いいじゃないか。あんたを抱きしめる母ちゃんはいないんだろ? なら、あたしが抱きしめたっていいじゃないか。それに、遠慮なんかしていたら、人生なんてあっという間だからね」
「セキさま、酔ってらっしゃいますね」とサクはセキの背をさする。
「あはは。あたしは遠慮しないよ。こうして同じものを食べたら、家族じゃないか」
「家族……」
望白は天を仰いで、笑い出した。
「ふ……ふふふ、ははは。家族ごっこですか。まったく。つくづく、わけのわからないな方々だ。凶悪でもあります。こんなに強い酒を飲まされたら、どうでもよくなるじゃないですか」
望白は盤上に模された木を、指先で示す。
「さきほど、婦好さんの言っていたことは正しい。この模型のすべては机上のことです」
「この地図は間違っています。ここは、むかし、僕がよく遊んだ抜け道があるのです。道は網の目になっています。この抜け道が、さきほどの川に繋がっているのです。そして、これがとても危険なのです」
「望白よ。その情報をもたらしたということは、我々に協力するということでよいか」
と、婦好は口角を上げる。
「仕方ないですね。城造りの要は、今、この時の行いです。協力しましょう。湧水の使用も認めます。ただし、条件付きです。過去の過ちを学び、防衛を怠らないこと。できますね?」
「もちろんです」と、サクは笑顔を見せた。
「望白はいい子だねぇ!」
セキが望白を抱きしめる。
「サクさん。さきほどの水占いの鏡を貸してください」
望白が水面に顔をふたたび映す。
「僕は父に似ていると思っていました。でも、母にも、似てきた……。さきほどの水占いで、ひさしぶりに、母の顔を思い出したのです。母も、僕がこの地に還ってきて嬉しいのでしょうか」
「あったりまえじゃないか!」とセキはすかさず発言した。
サクもまた、視線を交わしてうなずく。
望白は大きく息を吐いた。
「まんまと乗せられて、良い気分はしませんが」
望白の三日月のような眼が、初めて燃えるような意思を宿した。
「ここの土は、僕のものです。ほかの者には渡しません」




