嫉妬心への対抗
サクは汚された寝具を洗うため、ひとり陣内を流れる川へ来た。
シュウは朝食の準備で忙しい。
軍の規則上、飲食用の水や身分の高いものは上流、
身分の低いものや汚物を流すときは下流を使う。
第九隊は身分の低いものが多い。
サクは飲料以外は下流を使うほかなかった。
下流の水は汚い。
布を洗ってみたが、まるで泥で泥を洗うようであった。
この状況をどうにかできないかと、サクは思案した。
特に、婦好がいた中軍と第九隊のいる右軍の清潔度たるや、差が大きい。
サクが考えていると、後ろから何者かに突きとばされてしまった。
サクは転んだ。転んだ拍子に、川に転落した。
川は浅かったので溺れはしないものの、サクは泥だらけとなった。
その日サクが身につけていた服が、婦好から賜った青い衣でなかったことはせめてもの救いだった。
「ごっめんなさあ~い」
サクが顔をあげると、きつねのような顔の女性がサクを軽蔑のまなざしで見ていた。
うしろにふたり、にやにやと笑う女性もいる。
「うふ、わざとじゃないのよ、あなたがぼおっとしてるのが悪いの」
きつね顔の女性は、目に笑いを秘めていた。
汚泥にまみれたサクを見て満足そうな顔をみせた。
「はい。大丈夫です」
サクができるだけ気丈な返事をすると、きつね女はため息をひとつ吐いた。
そして、従者ふたりと口ぐちに悪態をついた。
「この子、婦好様に気に入られているようだけど、どこがいいのかしら」
ときつね女がいうと、
「このむすめ、見るからに役立たずです」
「痩せていて、弱そうです」と従者ふたりが賛同した。
「そおよねえ。あまり調子にのっていると、痛い目をみるわよ。うふふ」
きつね女とふたりの従者は悪口を言ったが、サクの無反応に飽きたのか、笑いながら去った。
これがシュウの言っていたことか、とサクは呆れた。
しかし、サクの心はまったく揺れることはなかった。
婦好に命を預けると決意していたからだ。
服などは洗えばいい。
それよりも第九隊周辺の環境をなんとかできないか。
サクは衣服の水をしぼったあと、シュウのもとへ急いだ。
「シュウさま、陣内の用水について教えてください」
「まああ! サクちゃん! どうしたのその格好! すごい匂いよ」
「すみません、転びました」
「転んだ? 本当に? もしかしていやがらせじゃないかしら? だいじょうぶ?」
「問題ありません。それより、穴を掘ります」
「あな?」
「シュウさまも手伝ってください」
「いいけど……?」
サクは清浄な水を手にいれるため、穴を掘りはじめた。
汚泥を一箇所に集めるためである。シュウも手伝った。
手を動かしながら、ふたりで陣内の水回りの理想を語った。
ふたりの力だけでは計画は実現できそうにない。
加えて、誰かが意図的に、サクの仕事を邪魔をする。
掘った穴が塞がれる。
作ったものが壊される。
サクはいやがらせについては、まったく意に介さなかった。
しかし、こうも邪魔がはいっては、やりたいことの実現に時も人の手も足りない。
サクはセキに助けを求めた。
「セキさま。隊のなかで手が空いている方をお貸しいただけますか?」
「ああ! いいさ。用水の整備にあたってくれてるんだって? ああ、でも、残念なことに、もうすぐこの陣も引っ越すんだよなあ」
「えっ、引っ越すのですか?」
「おっと、いけない。秘密だった。聞かなかったことにしてくれないかい?」
セキがあわてて口元に手を置いた。
「ま、もうしばらくはこの陣をつかうから、いい機会さ! なにごとも、ものはためし! サクに隊内の監督権限を臨時にあたえるよ!」
セキの一声で、第九隊のうち、役職についていないものはみな、サクの用水整備を手伝った。
サクの指示で作業が進む。サクにとって人を動かすことは、はじめての経験であった。
「シュウさまは、上流に、水を綺麗にする装置を作られておりました。装置を増やすことはできるでしょうか」
「もちろんできるわ。でも。わたしのことをシュウってよんでくれるのが条件かな。わたし、サクちゃんとお友だちになりたいの」
「はい。おねがいします、……シュウ」
サクがはにかみながら言うと、シュウがふふ、と笑った。
「ね。友だちと思ってくれるなら、いじわるされたときのこと、教えて? わたしのほうが婦好軍の経験も長いんだし、対策をたてられるかも」
サクは下流できつね顔の女性に会ったことをシュウに話した。
「もしかしたら、第八隊隊長のキビかもしれないわね。困ったわ。あのかた、毒をつかうの。いじわるが度をこえると危険かも」
「えっ」
味方によって命の危機にさらされる可能性など、サクはまったく考えていなかった。
──人の嫉妬心とはそれほど危ういものなのか。
「そうねえ、第八隊まわりも綺麗になれば、なにも言ってこないんじゃないかしら」
「結果を残すしかない、ということですね」
「毒を盛られても、大丈夫。解毒してあげるから」
シュウが柔らかな口調に反して、さらりと恐ろしいことを言った。
シュウに教えをうけて、サクは水の汚れを濾過できる布を増やした。
サクによる用水整備は三日間で軌道にのった。
サクが来る以前より、婦好軍内ははるかに清潔になった。
軍内が清浄されるにつれ、サクへの嫌がらせも、明らかに減っていった。
***
「風が違う」
軍議後、隊長たちを連れて陣内を歩いていた婦好が言った。
「気が変化した。悪くない。隊長たちよ、なにか陣内で変わったことはあるか」
セキが婦好へ告げた。
「第九隊です。第九隊内にて、陣内環境の洗いだしと改善をはかっております」
「詳細を」
「は。川の汚泥対策など、水まわりを浄化しました」
「なるほど、だれの功か」
「サクです」
婦好はその名を聞くや、立ち止まった。
婦好は衣をひるがえして、第九隊隊長であるセキを見つめた。
「サク。そうか、サクか」
言いおわると、婦好は微笑んだ。
隊長たちにはめったに見せることのない優しい笑みだった。
***
「サク、聞いとくれ。婦好様がサクの働きを褒めていたぞ」
軍議が終わり第九隊に帰ったセキが、シュウとサクのいる部屋に入ってきた。
そのとき、サクは綺麗になった下流の水で、身を清めたばかりだった。
しかし、水浴びをしてもなお、サクについた泥のにおいは落ちなかった。
シュウはサクをあわれんで、部屋中に蓬の香を焚きしめていた。
サクは神秘の香りにつつまれて、日の疲れを浄化していた。
「まあ。婦好様からお褒めの言葉なんて、すてきね」
「それで、サクに褒美をくださるとおっしゃってたよ。サク、どうする?」
「褒美、ですか?」
驚いたサクを見てシュウが言った。
「そうだわ! ねえ。婦好様なら、サクちゃんの罪を王さまに言って許してもらえるよう、お力添えをくださるかもしれないわ。お願いしてみたらどうかしら」
「ははあ。婦好様は王を毛嫌いしてるけど、王は婦好様を好きだからなあ。罪滅ぼし。うん、できなくはなさそうだ。どうする? サク」
「そうですね、それなら」
サクはすこし考えて言った。
「次の戦で野に陣を敷くときは、計画の時点で提言する権限をお与えくださるようにお伝えいただけますか。特に水まわりは、できあがっているものを改めるより、一から作りあげたほうがやりやすいのです」
「はあ?」
「まあ」
サクの言葉に、セキとシュウが目をまるくした。
「……ぶあっはっはっは! 陣設営時の提言が褒美だって? あんた、おもしろいことを言う子だねえ!」
「あらあら。もったいない」
ふたりの言葉に、
「しかし、今回のような用水整備は設営を決めたときからとりかかれば、ずいぶん楽になります」
とサクは反論した。
「わかったわかった! 婦好様には伝えとくよ」
セキは笑いながら婦好への返事を約束した。
「ありがとうございます」
サクはセキに頭をさげようとして、やめた。
母に対しては、丁寧な礼など必要ない。
サクは明るい笑顔を見せた。
第九隊の仕事は、戦場で華々しい活躍をするわけではない。
汚れ仕事も多く、過酷である。
しかし、ひとつ成し遂げた。
それに、
──婦好さまも、セキさまも、シュウさまも、働きを認めてくださる。
サクはじんわりと、喜びを感じはじめていた。