十の烏
望の城壁を仰ぐと、外郭には死体が吊り下がっていた。
敵の骸をもって呪いとする商の風習と同じである。
サクは初めに見たときは驚いたものの、次第にこの儀式を見慣れてしまった。
望領は安陽よりも植物が青く、土が紅い。
じめじめとした気に、首筋から汗が滴る。
婦好とサクらが領内に踏み入ると、若者がにこやかに出迎えた。
若者は両手を広げて歓迎する。
「ようこそ、望領へ」
その人はまるで陶器で作られたような笑みである。
商の言葉を操る人であった。
警戒してください、とハツネがふたりに目配せする。
婦好が若者に颯爽と近づいた。
「旅の者だ。このように好意的な歓迎を受けたのは初めてだ。感謝しよう」
相手はにっこりと笑った。
「僕はこの櫓で見張りをしている者です。見慣れない顔だったものでして。失礼。旅の方なら、丁重にもてなすことになってます」
「きままな旅を求めているものでな。こちらの領内で自由に学ぶことを許可願いたい」
「いいえ、そういうわけには参りません。外部からの旅人。見極めない限りは、人ならざる『鬼』でないとは限りませんから」
「見極める、とは、いつもどのように行なっているのか」
「普通に、ですよ。どこからいらしたのです? などといった平凡な質問です」
「われわれは、安陽から、遊学の旅に出てきた者だ」
「そうですか、商の方でしたか。いつか行ってみたいなあ」
淀みのない母国語に、サクは思わず問う。
「あなたも、商の出身ではないのですか」
「なぜそう思うのです?」
「訛りのない、美しい発音です」
「ふふ、勘のいいひとですね。いやだなぁ、せっかく合わせたのに」
サクは、しまった、と思った。
失言である。
若者は弓を取り出した。
ゆっくりと弦をかきならす。
「この門を通る方に関しては、僕が、法です」
「法……ですか」
サクは文字を思い浮かべた。
法とは神判により敗訴した者を投棄するかたちである。
「僕には不審者を捕らえるくらいの権限はあります。賭けをしましょう。弓には、魔を破る力があります。おたがい、十度、射ます。僕に勝ったのなら、領内を自由に歩くことを認めましょう。負ければ、捕らえます」
若者の腰に下げられた子安貝が、ゆったりと歩くたびに音を立てる。
「いやだと言ったら?」と婦好が問うた。
「やはり、捕らえます」
「ならば、言うとおりにするしかないだろう。サク、弓を貸せ」
「承りました」
サクは婦好へ弓を渡した。
初心者用の、簡素な武器。
少なくとも異邦で与えられた弓よりは扱いやすいだろう。
若者が問いかけた。
「この邑には、十の烏の伝承があります。あなたがたの邑では、十の烏の話を、ご存知ですか?」
「はい、商にも同じ伝承があります」
サクは答えた。
かつて十の太陽が空に昇り、草木が枯れたという伝説。ときの帝が羿という弓の名手に命じて、そのうちの九の太陽を射させた。
そのときの太陽は烏の姿であったともいう。
サクもまた『史』により知るところである。
「鳥を十羽射るのです。多いほうが勝ちです」
「容易いことだ、早速はじめようではないか」
婦好は笑顔で快諾した。
弓に限らず、武芸はすべてサクの主人の得意とするところである。
婦好は矢を番えると、一羽をまず射る。
禽獣の翼が空に散った。
対して、若者もまた悠々と鳥を狩った。
あっという間に、お互いが八羽を射落とす。
「強いですね。『鬼』はひとりとは限りません。ひとりにつき、一度は必要かと」
三人は不安な心を隠した。
まず、ハツネが弓を受け取った。
「恐れながら」
ハツネはそう言って、軽々と矢を放つ。
一羽の烏が落ちた。
「さあ、そちらのかたも」
すべての視線が、サクに集まった。
サクの弓の技術は、未熟である。
──挑戦すべきか、否か。
婦好の優しい声が、背中から響く。
「心配ない。射なさい」
「はい」
──大丈夫だ。みな、軽々と射ていたではないか。
弓を手にして、呼吸を整える。
──己を信じよう。
サクは一度、瞳を閉じた。
祈りを捧げて、矢を放つ。
願いは空を切り、地に落ちた。
鏃の先に獲物はない。
──はずれた。
サクは息を短く吐いて、肩を落とした。
一方、若者は十羽目を得る。
「僕の勝ちです。こちらのかただけ、鬼である可能性があります。捕らえましょう」
「いいや。我々の勝ちだな」
婦好が宣言した。
「どういうことです?」
「烏は太陽の化身。すべて射てしまっては、太陽をすべて落とすこととなる。九を落として、一を崇めなければならない。神に祈りを捧げるのであれば、ひとつはずれるのが正解のはずだ」
「ははは! 十羽を射てしまった僕は、太陽すらも落としてしまったということですか。それは詭弁だ」
「サク。商に残る伝承を教えてさしあげなさい」
「商には、『帝は羿を降して、禍を民に革む』と伝わります」
「『鬼』だからではない。民に幸をもたらす化身に、人として神に敬意を捧げるからこそだ」
「……そうですか。参考までに、ぜひ、お聞かせ願いたいのですが」
若者はサクをまっすぐに見つめた。
「その伝承とやらは、こちらに教えてもいい情報なのですか」
──いま、堂々と伝えたことは、商の秘伝たる『史』ではないか。
であれば、サクは秘密を漏らしたことになる。
若者は『教えていい情報か』と尋ねた。
──彼はどこまで知っているのか。
サクの背筋に汗が流れる。
「構わない。古い言い伝えなどは、みなも知っていることだ」
「へぇ、そうなんですか」
若者は顎に手を当てた。
「ふふ、いいでしょう。面白いことも聞けました。勝負は引き分けにいたしましょう。ただし、僕の案内で領内を歩んでいただきます。僕の名は、白です。あなたは?」
「わたしの名は、好」
「好さん。……ん?」
白の動きが止まる。
「……んん? 失礼」
白が婦好の胸の膨らみを見つめる。
「大変失礼な質問ですが……。女性、でしたか。なぜ、男装などしておられるのですか?」
「そうだ。そのほうが、安全と考えたからだ」
「確かに、女三人で旅だなんて、危険極まりないですよね。女だけの軍隊の潜伏者でもない限りは」
──このひとは。
知っていて対応しているのだ、とサクは確信した。
サクの揺らぎに、若者は機敏に反応する。
「? どうかしました?」
「いいえ。先ほどは未熟な芸を見せてしまい、お恥ずかしいです」
「人間らしくて良いではないですか。全員が百発百中の腕前なのは、そちらのほうが奇妙とも言えます」
「ところで、白さまは、とても身分の高い方とお見受けします」
「なぜ、そう思うのです?」
「その腰の子安貝。庶民がたくさん持っているようには思えません」
「ああ、これね……。僕は貝殻を集めるのが趣味なんです。よろしければ少しどうです」
若者はサクに、二、三の子安貝が差し出した。
「ありがとうございます、しかしながら、結構です」
「そうですか、残念だな」
若者は左手の貝殻を、がりがり、とすり合わせて砕いた。
「今日の寝床は決まっているのですか。よければ、僕の家に案内しましょう」
「もし宿があれば、そちらに頼みたい」
婦好はいつも部下に頼むように悠然と言い放つ。
「宿? 安陽と違い、そんなものはありません。旅の者は集会所に雑魚寝をするだけです。女性だったら、僕の家のほうが、なおさら良い環境でしょう」
「さあ、案内しますよ」
道の両脇に建てられた煉瓦の紅土に、サクは居心地の悪さを感じた。
まるで、人の血の色が混じるようである。
旅が危ういものであることは、もとより覚悟のうえである。
──しかし。
サクは主人の顔を見上げた。
サクの不安に反して、婦好はいつでも楽しそうである。
──なんとかなる。
そう思わせてくれる主人は、とても頼もしい。
若者の家は、城の心臓部に位置した。
荘厳なる構えの住居。というよりも、神殿のつくりである。
「ここは」
「僕の家です。僕の父は、領主、望乗。僕の名は望白と申します。はじめまして。ようこそ。婦好さま」




