炎のなかで◇
婦好の考えで、あえて捕まることとなった。
状況の主導権は婦好にある。
警戒心をもつ敵対者が三人を取り囲む。
婦好は誘うようにして、手招きをした。
「全員を相手にするのは、面倒だ。この邑で、最も強い者を呼べ」
ハツネが訳すと、出てきたのは大男だった。
「この戦いは神事である。土をついたほうが負けだ。さあ! はじめよう」
婦好がからかうようにして攻撃を仕向けさせると、大男は力任せに槍で突進した。
婦好は、相手の愚直な力をあしらう。
大男は態勢を崩すと、あっけなく倒れた。
「なんだ、もうおしまいか。もう一度戦おう」
男の身体は土につき、婦好はいとも簡単に勝つ。
三度戦っても結果は同じであった。
膂力はともかく、実戦経験に差があった。
「三度戦ってすべて勝ったのなら、わたしの勝ちで間違いないだろう。ハツネ、神殿の位置を聞き、教えてはくれないか」
「はい」
「あちらの建物だそうです」
婦好は大男の持っていた武具を拾った。
「武器を借りるぞ。神々に敬意を」
婦好は神殿に向かって拝礼した。
槍を回して、ゆるやかに舞う。
人々と神に敬意を捧げるのである。
婦好の佇まいには、人を動かす品格が存在する。
その演舞を目撃した者で、婦好に魅了されない人はいなかった。
「サク! おまえもまた巫女であろう? ともに舞おうではないか」
「え?」
急な命令にサクは戸惑った。しかし、婦好に手を引かれては、サクも舞わざるをえない。
ただなりゆきにまかせて、婦好の舞踏に合わせる。
サクは踊りながら、多数の人間が気品に心奪われる瞬間を目の当たりにした。
ふたりの舞が終わると、人々が跪いた。
ハツネは感嘆した。
「人々は、女神さま、と言っております。わたしもこのように大胆な潜伏は見たことがありません」
「あはははは!」と、婦好は豪快に笑った。
信仰を侵さないことを証明できた。
以降は、婦好が微笑すれば通らない要求はなかった。
婦好は部族の長と対談した。
男装の意味はほとんどなかったが、婦好はその部族のもつ女神のひとりとして認識されることとなる。
旅路の夜、婦好の機転により安全なる寝所を確保することができた。
サクは炎の前にいた。
「どうした、考えごとか」
「ええ。この火が燃え尽きたら、もう寝ます」
「少し話そうか」
婦好は、サクのとなりに腰かけた。
「サク。わたしがともに旅すること、迷惑だったか」
「いいえ。とても、楽しいです。もっと、人の目を欺いて隠れながら行くものと思っておりました。大胆に、味方を得てしまうなんて。婦好さまらしいです」
「ならば、安心した」
快活な笑顔がまぶしい。
「このへん一帯は、まだ商の支配下なのですよね。にも関わらず、風習がまったく違います。言葉も通じません。それが意外です」
「建前上は、商の支配下だ。しかし、大邑商は南方に弱いのだ。仮初めの関係とも言えよう」
──仮初めの関係。
サクは自身の両膝を抱いた。
竹の燃える音が、夜空に響く。
サクは婦好に訊いた。
「いつも不思議に思っております。婦好さまの、その常人ならざる原動力は、一体どこから来るのでしょう」
「己を信じることだ。行動したもののみが望む結果を得ることができるのだから」
「もし欲しいものに、手が届かないとわかっていたとしたら、諦めることはないのでしょうか」
「諦めれば、永久に手に入ることはない。最善を尽くして、待つのだ。しかし、ただ待つだけではいけない。己の真価を上げる努力を弛んではいけない。いつか手に入れるまで」
サクは橙色に照らされた長い睫毛を眺めた。
サクの欲しいものは、目の前にある。
手が届きそうで、届くことのない横顔。
──己も、女神と崇める住人と変わることはない。
信奉者のひとりであった。
◇◇◇
行く先々で、同じような旅路を歩んだ。
女神さまなどと崇められて、味方を増やすこと幾邑。
敵対心をもっていた者も一転、味方となってしまう。
旅立つときには、必ず惜しまれていた。
しかし。
サクは違和感を覚えていた。
商の領内であるはずなのに、言葉も違えば、王の名を出したところで従うとは思えない。
南下すればするほど、商の影響などは、ないに等しい。
──商の支配とはなにか、人を統べるとはなにか。
◇◇◇
一月ほどは、旅をしたであろうか。
ようやく目的地に到着した。
商の属領、『望』邑。
今回の婦好軍の築城は、この邑からの要請があったものである。
神殿を囲む円環状の壁の外には、稲を栽培するための水田が広がっていた。
邑人が田で牛を引く。
サクは邑人へ試しに問うてみた。
「大邑商という勢力を、あなたはご存知ですか」
言葉はわからない。ハツネを通じて返答を得る。
「知らないよ。このあたりは、望乗さまの領地だよ」
サクは確信した。
属領とは名ばかりで、ここも、商の支配下ではない。
風習の異なる南の地方は、商とゆるやかな同盟関係にあるだけだ。
単に支配者層の取り決めであり、脆い。
その事実は、婦好も王も知っている。
櫓のうえで、サク達の様子を見ていた影があった。
「まったく、愚かですね。そのへんの邑人に聞いても、意味がないでしょうに」
影は独り言を続けた。
「一軍の将がこんなところを散歩しているなんて、目立ちすぎます」
その人は、左手に握っていた貝殻をじゃりじゃりとすり鳴らした。持っていた甲殻を手でばきりと砕いた。
「さて、おちょくりにいきましょうか」




