遊学の士
旅出ちのため、サクは少年兵を装う。
潜伏には、専門たるハツネの協力が必要である。
ハツネの指導のもと、旅の支度を始めた。
「ハツネ……、申し訳ありません。病み上がりに」
「いえ、いいのです。もう動きだすつもりでしたから」
ハツネはセイランと共闘したときにできた傷が治ったばかりである。
ほかに頼る者がいないとはいえ、あまり無理をさせることはできない。
男の衣服を着たサクの薄い胸元を、ハツネは整えた。
「男装するということですが、サクさまはまったく問題ないですね。顔はともかく、身体は少年に見えます」
「そうですか」
「さあ、準備は整いました。出発しましょう」
陣営から歩き出したそのとき、馬蹄の音が響いた。
前方に二頭立ての馬車が停まる。
馬の主は鳶色の衣を纏っていた。
「ふたりとも、送ろう。馬車に乗りなさい」
声の主は響きのある低音。
その人が上衣を脱ぐと、商の士大夫の着物を身に包んでいた。
「婦好さま? なぜ……!」
「リツの目を欺いて出てきた。わたしも行くつもりだ」
「婦好さま。いけません、お戻りください」
サクは主人を諫めた。
偵察に一軍の将が同行するなど、考えられないことだ。
「なぜ行ってはならない?」
「わかっていらっしゃるはずなのに、そのようなことをおっしゃらないでください。本陣はどうされるのですか」
「セキに任せればよい。心配ない、わたしが居なくとも軍は機能できるようにしなければならないのだから」
「セキさまはご納得いただいているのでしょうか」
「伝えているので、問題はない。もう来てしまった。愉しもう。一度、遊学をしてみたかったのだ」
「遊学……?」
「『遊』、とは、神が氏族の旗をもって自由に動く形なのだろう? もし、わたしを止めたいのなら、神に問うても良い。サクの占いで悪い卦が出れば、引きさがろう」
懐に忍ばせた占卜の道具を取り出そうとして、サクは諦めた。
神に愛された人を前に、占ったところで結果は見えている。
「これを占うのは、神事の濫用であり、資材の無駄です」
「あははっ、確かに、そうだな。サクのみならず、神にさえ怒りを買いそうだ」
──『遊』。
出会った頃の、無邪気な笑顔である。
婦好は戦場では、張り詰めた気を放つ。
いまは、それがない。
婦好の商内部での立場は、相対的に上がるばかりである。
しがらみも多く、自由に動けるわけではない。
──たまに軍から離れるのも、必要なことなのかもしれない。
婦好にとってはこのような機会はもう訪れないかもしれない、とサクは予感した。
「わかりました。婦好さまも、軍の首長としての役目をお休みされたいということですね」
「そういうことだ」
「ハツネは、よろしいでしょうか」
サクの言葉に、ハツネは頷いた。
「わたくしは、かまいません」
「ありがとうございます。それで、婦好さま。これはどのように口裏を合わせるおつもりでしょうか」
「安陽の遊学の士と、そのお付きの者というのはどうか。少年兵ふたりよりもそのほうが自然であろう」
婦好の姿は、有力豪族の子息といった服装である。
普段の紅の衣と違い、紫と紺を基調とした装いは目新しい。思わず見惚れてしまうほどだ。
「そうであれば、もう少し遊学の大夫らしく、胸元を着崩しましょう」とハツネが提案した。
サクは、はっとして囁く。
「胸元。ハツネ。婦好さまはわたしと違い、胸は大きいのです」
「あ。失礼をしました」
「よい、こんな胸など邪魔なだけだ」
婦好は男に見えなくもない。
しかし、見る人が見れば、男装の美しい女性であることは隠せない。
そして、この人数で移動するには怪しい集団ではある。
影の者が一人での行動を好むのは、理に適っている。
遊学の士ならば、あるいは。
──あるいは……。
サクは思考をやめた。
──なるようにしかならないだろう。
「どうした? なにか、不都合はあるか?」
美しい顔で微笑まれて、断ることのできる人間が居るだろうか。
「リツ様に叱られます」
「そのときは、わたしが嫌味を聞こう。だが、それだけではないか。得るもののほうが多いはずだ」
◇◇◇
婦好とサク、ハツネの三人は馬車にて出立した。
進むは、道なき道。
陽の傾きがなければ、方向を誤るだろう。
陽の落ちる前、竹林に営した。
夜風を避けられそうな場所を探す。
洞穴は猛獣の巣かもしれない。
獣の跡にも警戒する。
火は最小限に、静かに眠るのだ。
行軍のうちに、サクも野宿に慣れていた。
木々が擦れ合い、馬が嘶く。
ふと、婦好が遠くを見た。
「静かに。獣ではなく、人の気配がする」
「馬車を付けられていたのかもしれません」
サクは冷静に分析した。
「サク、ハツネ。乗りなさい」
馬車にて静かに駆ける。
人を振り切るためである。
追う者の影は──、七、八人。
──野盗だろうか。
追手は罵声を放ちながら追ってくる。
敵対心を持っていることは明らかだ。
「ハツネ。彼らが何を言っているかわかるか」
「彼らは、我々を怪しい集団だと言っております」
「あははは! まぁ、そうだろうな。『この土地の者か』と問うことはできるか」
「はい、試してみます」
ハツネが異族の言語を発する。
彼らからは警告とも哮りともとれる返答があった。
「土地の者だそうです。ここを荒らすのは何用かと」
「わかった。ならば、サク、弓を持っているか」
「婦好さま……、まさか」
「そうだ。最も効果的に捨てるのだ」
聡いサクは、婦好の次の行動を察した。
理解した上で、拒絶したい思いだが、ほかに方法はない。
サクは、おおげさに取り出して、弓矢を見せつけた。
「ハツネ、いまからわたしの言うことを、訳せ」
婦好は馬を止める。敵対者は馬車を取り囲む。
婦好は腰に下げていた長剣を眼前に掲げた。
「我らの祖は玄鳥の使者。この土地の長は居るか。長のもとに案内せよ」
ハツネが訳し、婦好は続けた。
「我々は旅の途中だ。戦う気はない」
婦好は、鞘に入ったままの長剣をゆっくりと投げ捨てる。
サクもまた弓を野に放った。
その行動を訝しんだ男のひとりが、婦好に襲いかかった。
婦好はいとも簡単に、その首を締めあげて、素手で捕える。
人質とするためである。
「我々に触れたものは、殺す。さあ、案内せよ」
サクの主人は、いつになく生き生きとしていた。
いつもと違う装いも、サクの瞳には眩しく映る。
サクは思わず苦笑いした。
「思い描いていた旅とは、少々違います」
サクが呟くと、主人は朗らかに言った。
「視察に来たのだろう? 甘んじて、捕まってみようではないか。なに、そのほうが風雨を凌ぐことができるというものだ」




