王の密使◇
遠くにいる誰かに言葉を伝える。
それは初めての試みであった。
サクは師の傅説に教えを請うため、絹の布に文字を書いた。
仮に、誰かに奪われても読まれることはないだろう。
サクは文書をハツネの部下に託す。
◇◇◇
数日ののちに、弓臤が現れた。
「達者か、義妹よ」
義兄は相変わらず、深い土色の衣を纏っている。
しかし、以前よりも素材が良くなったようにもみえた。
──ひさしぶりだからだろうか。
弓臤の表情は記憶よりもやわらかい。
「ご無沙汰しております、弓臤さま。いえ、義兄さま。会わぬ間に、なにかいいことがありましたか?」
「なにもない、普段どおりだ」
「そうでしょうか。なにか、いつもよりも機嫌が良いようにみうけられます」
サクは下から兄を覗きこむ。
「おい、義妹だからといって調子に乗るな」
弓臤はサクの頭を叩くような仕草で、手に持っていた布を渡した。
「おまえ宛に、師からこれを預かった」
「傅説さまからの返信が届いたのですか? まさか」
師の居る安陽からサクの地点までは往復すれば、数十日はかかる。
手紙を出したのは数日前。
──返信としては、ありえない。
サクはまるで宝物を受けるときのように弓臤から布を預かった。
「返信? さあ。これはひと月前に預かった帛だ」
「ひと月前……そんなに以前から」
ひと月。月の満ち欠けがひとまわりする間。
その時間は王の意思決定から、傅説、婦好、サクの耳に届くまでの情報の疾さを意味する。
──自分は、まだまだだ。
しかし未熟ということは、やり方に改善の余地があるということ。
「義兄さまは、これを読みましたか」
「読まない、とでも言うと思ったか?」
「思いません。ならばご存知ということですね」
「城をつくるとは、楽しそうな話だ」
「ええ。傅説さまも気にかけてくださっているようです。とてもありがたいです」
サクは布に書いてある文字を読んだ。
築城に対する意見が書かれている。
有利な地勢、敵の兎方のこと、その他方策。
──やはり、すごい。
経験の重ねた年長の歳月には敬意を抱く。
サクは素直に受け取った。
ふと、弓臤の髪を束ねる紐の色がいつもと異なることにサクは気づいた。
朱色だったそれは、黒色となっている。
「ところで、義兄さまは、安陽のほかにはどちらかへ行っていたのですか」
「なぜ、そう思う」
「蒙方と戦ったときは、顔をお見せにならなかったので」
「お前は俺をなんだと思っている」
「近しい言葉で言うのであれば、王の密使、です」
「ふん、わかってるじゃないか」
弓臤はにやり、と笑った。
「義妹からの質問が多くなった。成長したな。情報には価値がある。俺から聞きだせることがあれば、聞きだせばよい。当たり前のことだが、引き出せるかはおまえの力量により、正しいかは見極めが必要だがな」
情報には対価が必要である。
一方で、支払う対価が情報であることもある。
つまり、こちらが持っている情報を明け渡さないほうがよい場合もあるということだ。
弓臤にはハツネの存在を明かさないほうがいいだろうと判断した。
「王が、自分の墓を作っているのは知っているか」
「墓を。たしかに、微王はそのようなことをおっしゃっていました」
「大量の捕虜を使い、死後の世界に持っていく土産を用意している」
「大量の捕虜……。それは、先に捕らえた、蒙方も含まれますか」
「そうだ。婦好軍と婦井軍の功績だそうだな。蒙方は頭の悪い、おろかな集団だ。ゆえに、御しやすい。王は、まだまだ増やしたいと考えている。隷人は愚かであれば愚かであるほど、よい」
「弓臤さまは、王からそのような密命を受けているのでしょうか」
「鋭いな。話が早くてよい。獲物の対象としては、兎方も例外ではない。密かに、隷人を確保することも考えている。ゆえに、今回の戦いは義妹の厄介になるとする」
「沚馘軍のときのように、軍師として、でしょうか」
「それはお前の役目だろう? 俺は助言役、監視役だ。気楽なものだ」
「婦好さまは知っているのですか」
「婦好の許可は取る。まぁ、問題はないだろう」
弓臤は完全には信用はできない。
しかし、情報を持つということは、心強い。
「ところで、城郭の建設について、婦好はなにか言っていたか」
弓臤は腕を組みながら、サクに問うた。
彼がこの仕草をするのは、利己的な要求をするときとサクは知っている。
「教えません」
「生意気だな」
「お会いするなら、直接尋ねたらよろしいかと。それでは、弓臤さまはどのように考えますか」
「俺か? 俺の考えなど、聞いてどうする。城なんて、いかに命を守れるか。いかに命を奪えるか。それだけだ。今回の戦いも厳しいものとなるだろうな」
「兎方について、弓臤さまはどのような集団だとお思いですか」
「獰猛にして、狡猾。敵としては最も厄介だろう。決して、甘くみるな。その甘さが、何百もの部下を殺すことになる」
「ご忠告、忘れないようにいたします」
「それで、城について、おまえはどう考える?」
「……わたし自身の考えでしょうか。はじめは城壁が厚く高く、濠が深く広く、守備の構えが整っている城が良いものと考えておりました」
「ほぅ」
「しかし……、まだ、答えは出ていません。わたしは見落としていたのですが、人も、軍も、狩りの対象たる兎も、大切なことは同じかと存じます」
サクが枝を取り、地に文字を書く。
弓臤はそれを読んだ。
「『心』か」
「義兄にお聞きしたかったのです。この文字をどう思いますか」
「俺の失ったモノだな」




