食医の巫女 ◇
婦好とリツが去ったあと、サクはシュウへあらためて挨拶した。
「サクです。よろしくおねがいします」
「よろしくね、サクちゃん。あなた、ずいぶん婦好様に気に入られているようね。おどろいちゃった」
シュウはふんわりとした雰囲気をまとう不思議な女性だ。サクの目には、三つ上の十七歳くらいに見えた。
「いろいろ教えてあげたいところだけど、食器をかたづけていただけるかしら。やることは山のようにあるから」
「はい!」
サクは食器の後始末をした。シュウもまたせわしなく働いた。女性だけとはいえ、兵士三千人の給事はひどく大変であわただしかった。
「手をうごかしながらお話ししてもいいかしら。サクちゃん、婦好様にずいぶん好かれているみたいだけど、あなたの特技はなあに?」
サクは言いよどんだ。
サクが婦好に目をかけてもらっている、ただひとつの理由は、文字を習得していることである。しかし、文字は王族の禁秘だ。サクには文字について口外することができない。
「うらないを、たしなんでおります」
「まあ。うらない。ふふ、たのしそう。祈祷ができるなら、わたしの仕事と近いかもしれないわね」
「シュウ様はなにをなさっているのですか」
「わたしは軍の食医を担当しているわ」
「食医?」
「食事の準備と病人や死傷者の手当てよ。そうそう、わたしのことはシュウって呼んでね。わたしはもともと奴隷なの。あなたは見るからに身分は高そうだけど」
「父は巫祝です。しかし、わたしは王族の禁忌をおかした罪人なのです。くわしいことは言えませんが」
「あら。罪人のかただったの。それでここにきたのね。婦好様は能力があれば出自は関係ないとおっしゃってくださる。わたしは奴隷のうまれだけど、婦好様に薬草にくわしかったことを認めていただいて、一人前に扱ってもらえてるの。とても感謝してるわ」
「薬草、こんど教えていただけますか」
「あら。うれしいわ」
シュウがやわらかな笑みを浮かべた。
「ところで、サクちゃんは婦好様とは、臣下の礼はもう済ませたのかしら」
サクは昨日の宴での儀式を思い出した。
「はい。昨日、婦好様の血を舐めました」
「あら? 血を?」
シュウが目をまるくした。
「みんなそうしているのではないのですか?」
「あらあら。まあ。そんな臣下の礼は、はじめてきくわ。盃をかわすか、御髪を一本いただくか。婦好様はよっぽど、あなたのことが気にいっているのね」
そうだったのか、とサクは思った。そして急に恥ずかしくなった。
「でも、そのときその場に誰がいたのかしら。婦好様は人気だから、気をつけてね」
「気をつける?」
「婦好様を盲信的に敬愛するひとたちからの、やきもちよ。婦好軍の人間はみんな婦好様に命をかけているから」
「やきもち」
サクは生まれてから十四年、あまり家から出ることはなかった。他人の情感には経験がうすく、鈍感だった。
外の世界はしらないことだらけだ、とすこし怖くなった。
そのとき、遠くから短髪で恰幅のよい女性がどすどすという足音をたてて歩いてきた。三十代後半くらいの気のよさそうな女性だ。
「シュウ!」
「あらセキさま」
シュウがその名を呼びおわると同時に、セキとよばれた女性はあっというまにサクの肩をつかんだ。セキは満月のような顔つきに、三日月の笑みをうかべていた。
「婦好さまがシュウに預けたという少女はこの子か!」
「ええ。婦好様お気に入りの占い師、サクちゃんです。サクちゃん、紹介するわ。第九隊隊長のセキさまよ」
サクの目とセキの目が合った。
「へえ! あんたうらないをたしなむのか! うらないなんて、婦好さまらしくない。あの婦好さまが恋でもしたのか? あ、の、婦好さまが! あっはっは!」
「よろしくお願いします」
サクは丁寧に礼をした。
「はいはい! かしこまんなくっていいって! あたしのことは、おかーちゃんだと思って! うちの隊はちょっと忙しいかもしれないけど、なに! 困ったことがあったらすぐに相談するんだよ!」
第九隊隊長のセキは、快活に笑いながら言った。それまで気を張り詰めていたサクにとっては、まるで母のような明るさに出会い、とても安心した。
「シュウ、この子のことはあんたにまかせたよ! 隊長のなかには、この子に嫉妬してるものもいるようだから、よく守ってやりな」
「ええ、もちろんです」
シュウがふんわりと、しかし力強く言った。セキは丸い顔を笑みで満たしてから、サクに向き合った。
「サクも、第九隊にはいったからには、あたしの娘みたいなもんだ。なにかあったら、遠慮なんかいらないからね!」
「はい、ありがとうございます」
サクが返事をすると、セキはサクの両肩を二度、手のひらでつつみこむようにかるく叩いた。
「あたしはこれから軍議なんだ! サクの寝所はシュウのところだよ! シュウ、よろしくたのんだ!」
セキは早口でシュウに命じて、足早に去っていった。
「はい、セキさま。いってらっしゃいませ」
シュウが手をふった。
セキの背中が遠くなってから、シュウはサクへ言った。
「うふふ。うちの隊長、満月のようなかただったでしょう?」
「あたたかな月でした」
サクはまるで母と姉をいっぺんに持ったような気持ちになった。
その日の晩、サクはシュウとおなじ第九隊の寝所で睡眠をとることとなった。
昨日の婦好の寝室とはうって変わって、今日からはせまい第九隊の宿舎内で雑魚寝だ。簡素な帳のなかに、十人で寝た。
サクはシュウのとなりで横になった。
慌ただしい一日だった。
サクは寝つきがよいほうで、すぐに深い眠りに落ちた。
***
翌日、サクはシュウに起こされた。
「まあ! 大変! 起きて、サクちゃん」
サクが目を開けると、肌に違和感があった。かけていた布が湿って褐色色になっていたのだ。
サクは体をおこして、あたりを確認した。
サクの寝具のうえに、鶏の死骸が置かれていた。一羽の鶏が無惨にもひきちぎられている。
「いったい誰がこんなことを……」
シュウが小さく震える声をだした。
サクはぼんやりと、周囲に散乱する白い羽と鮮やかな血をみつめた。
シュウの忠告のとおり、サクのことをよく思っていない者のいやがらせである。
──どうして、こんなことができるのか。なにが、そうさせるのか。
サクは人のもつ黒い感情に、おおいなる疑問を覚えた。