弓術の心得
『倉』と名付けられた邑を出で、婦好軍は南へ進む。
サクはその間に、自らの課題に着手する。
情報網のさらなる構築。
軍内部の掌握。
弱点の補強。
なにより、サク自身もまた武器を執る必要があるのではないかと感じていた。
戦場において、婦好は馬車の右側に、サクは左側に立つ。
本来、馬車の左側には強い弓兵が立つものである。
サクを馬車に乗せることで、婦好は二人分戦っていた。
サクの体格は小さく、力がない。
俊敏に動けるわけでもない。
ゆえに、武器に頼らなければならない。
弱き身をしても殺傷力のある武器となれば、導き出される答えはひとつ──。
道の途中、サクは第二隊隊長のリツに弓の教えを請う。
「リツさま。お願いがございます。弓を教えてください」
「サク。どうした? いきなり、どんな心境の変化だ」
「本来、戦場では馬車の左側は弓兵が立つものです。それに、戦場にて己の身くらいは守れるようになりたいのです」
「そうか、わかった。いいだろう。資質はともかくとして、役立つこともあるかもしれない。教えられるだけ教えよう」
サクはリツの指導のもと、弓を手に取り、矢を番える。
練習のために用意された的を狙う。
「弓を射るときは身体の芯を意識せよ。特に、左腕だ。左腕に迷いがあれば、当たることはまずない。これは人の命を操る道具だ。一射に一命を賭けよ」
「わかりました」
「獲物に対しては、胸か頭を狙う。サクは人の死を見たことがあるな?」
「あります」
「目を逸らしてはいないか」
「はい。逸らしたくなることはありますが、見届けてきました。斬れば血が噴き、赤黒い肉がみえます」
「そうだ。敵を殺すには、身体のつくりを理解することだ。頭をやられたら、神でさえ死ぬと言われている。あとは、胸だ」
リツは頭と胸をとんとん、と叩く。
「手足、腹は射られても動く。しかし、頭と胸は、一撃で死ぬ」
「はい。なんとなくわかります。それにしても、神はなぜ人をこのような形にしたのでしょうか」
「そのようなことはわからない。そうなっているから、そうなのだ」
頭と胸。
なぜ、神はこの二箇所に急所を集中させたのだろうか。
生死を握るほか、例えば、思考するときに頭の中は熱くなる。感情の起伏に胸の音は早くなる。
「なににせよ、弓の上達には的を理解することが必要だ。これから、兎を取りにゆこう」
リツが馬車を手配する。
二人で兎を追った。
***
リツとの狩りを終えて、第九隊のシュウに獲物を持ち帰る。
「これを炊事の材料に」
「まあ。兎が十匹も。あら、ふたりで狩りに行ったのかしら。珍しいわ」
シュウの問いに、サクは打ち明けた。
「いま、リツさまに弓を教えていただいているのです」
「サクちゃんに? 弓を?」
シュウは大きな瞳を瞬きし、交互に二人を見た。
「シュウよ、驚きすぎだ。シュウの予想のとおり、サクは非常に弱く、弓兵としての素質はない。わたしも婦好さまに当たらぬか心配だが、本人の申し出は無下にはできない」
「……リツさまの本音が胸に刺ります」
「ふふふ。兎が十匹。このなかにサクちゃんの獲物は居るのかしら」
「無、だ」
「お恥ずかしいです」
「あら。はじめは誰だってできないものよ。続ければ、化けることもあるかもしれないわ」
「シュウに頼みがある。料理するところを見たい。獲物をいまから捌くことはできるか」
「リツさまは、弓の上達には射るものを理解することが必要とおっしゃいました。わたしも見てみたいのです」
「あら。そうなの。それなら、人体のほうがいいんじゃないかしら」
さらりと放たれたシュウの非情なる発言に、リツの頰は引きつった。
「いや、兎でよい」
料理場へ移動すると、シュウが慣れた手つきで兎に包丁を入れる。
獣の血のにおいが、周囲を包む。
「鮮やかだな」とリツが感心した。
「毎日のように扱っていますもの」
シュウは獲物の皮を淡々と剥いでゆく。
「頭はこんな感じ。そしてこれが心の臓」
シュウが心臓を取り出す。
絶命したのちも、どくどくと動きそうである。
サクはじっと見つめた。
『心』
これを損なえば、人間の機能は停止する。
心の文字は、心臓の形である。
──王も、臓器を見て文字を創造したのだろうか。
***
夕暮れにサクが弓の練習をしていると、婦好が通りかかった。
鍛錬の後だからであろうか、前髪が汗で濡れる。
陽の橙色が肌に反射して麗しい。
「サクよ、弓を始めたのか」
「はい、婦好さま」
「射てみよ」
使う的は、藁の人形である。
それはサクから十歩程度の位置にあった。
婦好であれば、数十倍も離れた動く獲物も射ることができるだろう。
サクはリツの指南どおりに丁寧に矢を放つ。
鏃は束ねた藁の下部に当たった。
人で言えば、足の部分。
「はじめたばかりにしては、上出来だ。射るときには、迷いをなくすといい」
婦好はサクの弓を手に取り、弦を引いて調整する。
「ありがとうございます。飛距離が短く、まだまだですが……、考えを整えることにも役立ちそうです。リツ様から学びました。弓は頭、もしくは心の臓を射ることと」
「弓は心を射る、その通りだ」
婦好は構えたかと思うと、無駄のない所作で素早く放つ。
「心は、身であり、真であり、神」
弦が奏でた軽い音に反して、鏃は人形の額に深く刺さった。
──やはり、すごい。
婦好の行動ひとつに、心奪われる。
「サク。ところで、以前に褒美として、次の戦で陣をしくときは、計画の時点で提言する権限を、と言っていたな」
その約束は入隊したばかりの頃の、治水事業における褒美であった。
小さな約束まで覚えていてくれたことに感動するとともに、サクはふと、あの頃から主人との関係性は変わったかと自問した。
「覚えてていただき、ありがとうございます。ぜひ、計画の時点で加わらせていただきたいです。これから進んだ先、南方に作る陣のことですね」
「サクよ。作るのは陣ではない。我々が作るのは、城だ」
「城……?」
「つまり、邑としての城造りを試みる。婦好軍の新たなる試み。心の躍らないことがあるだろうか」




