思考停止◇
サクがセイランと別れ、再び宴の席に戻ると、かつて傷ついた左頬が痛んだ。
微王の視線が、サクを射る。
王が近くにいると、サクの傷はじわじわと蝕まれるようである。
「余は気分が良い。さあ、生きた羊をもう一匹、用意せよ」
微王はすくりと立ち上がった。
「倉侯よ、商に仕えること、誓うがよいぞ。もし誓約を守らないときは刑罰を受けるぞ」
王の剣によって、用意された羊が真っ二つに割れる。
「獣の血に、我が身体も火照っておるぞ。今夜の余の相手を探すぞ」
婦好は杯を傾けながら諌める。
「微王よ。ここにも多くの恋人を連れているのだろう? すでにもつ花を愛でたらどうか」
「余は手に入れたものに興味はないぞ。飽いた。そなたが相手をせぬのなら、余に誰かを献ぜよ。初々しい乙女の気分ぞ」
「好かない考えだ。手元にあるものを愛し続けることができないのは、罪なことだな」
「婦好はつれないぞ。誰でもいい。誰ぞ寝所を訪れよ」
婦好もすこし酒に酔っているようだった。
「わたしの故郷の神も初々しい乙女が好きでな。渡すことはできない。連れてきた恋人に慰めてもらいなさい」
「余は新しい恋人が欲しいぞ」
サクが席に戻ろうとすると、いつのまにか微王に左手を掴まれていた。
ぐりん、とまわる眼球が上目遣いとなる。
「余は待つぞ」
サクの背筋は凍りついた。
「サクよ。微王はみなに同じように言っているのだから、気にしてはいけない」
婦好はサクの右腕を引き寄せた。
サクは安堵した。
婦好軍であれば、王の力の及ぶことはない。婦好という後ろ盾があるゆえに、王の誘いを回避することができる。しかし、王に命じられて、毅然として断ることのできる女性はどれほどいるのだろうか。
そのようなことをサクが考えていると、微王はレイやリツにも声をかけては断られていた。
ギョウアンが立ちはだかり、微王は逃げる。
その様子に婦好とサクは顔を見合わせては、くすりと笑った。
婦好が助けに入ったのちも、サクの右腕は婦好に触れ続けていた。
宴のあと、サクは手を引かれて、婦好の寝室を訪れた。微王を警戒してのことである。
婦好は、王に対してはサクが最も危うく、他の戦士であれば、撃退は容易いと考えているのかもしれない。
「セイランは去ったのか」
「はい、好きに過ごす、とおっしゃっていました」
「サクよ。今回の戦いで、なにを得たか。なにを失ったか」
婦好の寝台の側にある、孔雀石の断面が目に留まる。
倉侯から献ぜられたものだろう。
深緑と漆黒が渦模様を描き、煌めいていた。
「婦好さまが今回の戦いで得たものは、銅。領地。武具。貨。人。そして、わたしは情報を得ました」
一方、失ったものは──。
今回の戦の罪。
女の武器を使い、敵を誘惑し侵略したこと。敵の罪なき乙女を犠牲としたこと。敵兵を捕縛して使役すること。
戦いに優劣はない。
しかし、商は重要なもの失ってしまった気がする。
「失ったものは?」
孔雀石が炎の光を受けて揺らめくとともに、婦好が問う。
色素の薄い瞳に絡めとられる。
「失ったものは……」
サクは、目を閉じた。
商は決して正義の集団ではない。
『正義』と言いかけてサクはためらった。
『正義』とは?
『信』『義』『善』という単語が浮かぶ。
しかし、いずれも違う。
『信』は、神に誓いを立てて、約束をすること。
『義』は、生贄の獣が神に供する条件において欠陥がないこと。
『善』は、神への誓いの言葉。
いずれの文字も、神が赦せば、肯定される。
商の神は、正しいと答え続けている。
では、胸に残る違和感は何か。
商が犯した事柄をあらわす文字は。
「……言葉がありません。婦好さま。たしかに我々は何かを失いました。しかし、それを表す文字がありません」
「ならば、創るがよい。サクよ。それがサクの役目だ」
婦好は孔雀石を手に取った。
「我々は多くを得た。これにより、いずれ、各方面の敵と相対することとなるだろう。すでに参戦を宣言した。婦好軍は南に移動する」
「つっ……」
サクの左頬がちくりと疼いた。
「まだ、頰の傷は痛むのか」
「たまに……近くに微王がいると、痛むことがあります」
「微王か。妬けるな」
まるで、左頬に受けた呪いを解すように、形の良い唇が落ちた。
すこし顔をずらせば、己のものとあわせることができる距離である。
蒙方との戦の間、サクの唇は何度か奪われそうになっている。
シュウと。セイランと。
誰かに奪われる前に、奪われたいと思うのはおかしいことだろうか──。
「今回の戦いは、女としての戦いでした。女としての武器をどこまで用いることができるかという、セイランの挑戦。婦好さまのおっしゃるとおり、たしかにわたしは、その方向には疎いです。ゆえに、識らなければならないのではないでしょうか。策士であるなら、敵より多くを識らなければ勝てません。わたしには、まだ、足りません……」
──酒の席のあとで、きっと酔っているのだ。
そう。酔っている。
世界のすべてが。自分も。ゆえに今なら、言うことができる──
「……婦好さまは、奪ってはくださらないのですか」
誰かのものになる前に。
絞りだす震え声。
サクは俯いていて、婦好の表情は見えない。
胸の鼓動はきっと聞かれている。
サクの肩を掴んでいた婦好の手に力が入った。
しかし、ゆっくりと離れる──。
「人も。地も。貨も。失うのは容易いが、保つのは難しい。操も、だ。サク。いつか誰かに嫁ぐのだろう。そのときまで、綺麗なままに」
第四章・終




