幸いあれ◇
婦好が眼前の敵を撃破してゆく。
敵の死にゆく姿と対比されて、その美しさが際立つ。
婦好の強さだけを頼りにしてはならないことを、サクは熟知していた。
「わたしも、奥の手を使います」
サクが合図を出してしばらくして、第五隊と第七隊が狭路へと退いた。
敵は誘われるがままに追いかける。
鬱蒼とした木々により見えないが──しかし確実に──婦好とサクの耳に戦闘音が届く。
「第五と七付近。何が起こっている?」
婦好の問いに、サクは答えた。
「同士討ちです。銅の邑、ユイの父にお願いし、戦士を借りました。敵の衣を奪い、それを纏って潜りこめと。合図があれば、内部から撹乱せよと」
「敵の中に味方を置いたということか」
「蒙方は寄せ集めの集団。部族によって、衣服もそれぞれです。個々の部族の力は強いですが、全軍としての統率力は低い。とすると、普段交わることのない部族のことなど、だれが知りうるでしょうか。また、隣の部族を憎しみあっていないとだれが言えるでしょうか」
「サクがそのようなことを考えるとはな」
「我々は女人だけの軍です。それは敵も知っております。であれば、男性が潜り込むのは比較的やさしいと考えました。潜り込んだあとは、ある部族の装束で他の部族を攻撃すれば乱闘になると。敵の混乱をみると、無事に成功したようです」
「よく人の心を読んだ考えだ。弓臤が使いそうな策。安陽で弓臤に教わったのか」
「いいえ。敵を欺き、敵同士に争わせる。セイランさまが試そうとした策を応用いたしました」
「セイランの策を用いてセイランの後始末をしたということか」
「はい。わたしはセイランさまに反感を抱いていました。しかし……それではあらゆる可能性を狭めるだけだと気付きました。自身のなかにいる敵を、味方を見つめる。いま手にしているものを最大限に慈しむ。それがわたしの答えです。そして、戦い方です」
「頼もしいな、サクよ。その想いを忘れるな」
敵の混乱による同士討ちは続いた。サクの予想どおり、蒙方は一枚岩ではないようだ。蒙方内部の敵対関係が顕になる。
饕餮の兜の男が歯ぎしりした。
「くそ……小賢しい真似をする」
感情を表に出さない敵が、苛立つ。
やみくもに抗おうとするその姿は、余裕がないとみえた。
サクは敵を追いつめたことを確信する。
婦好が声を張り上げた。
「蒙方を統率する者よ。これにて戦を終わらせよう。さあ、引くがよい。我々は商に属する邑を侵さなければ許すつもりだ」
「許すとは、なにを……! 侵略をはじめたのはお前たちのほうであろう!」
「果たしてそうか。なにを求めてこの地に来た? 我々になにを求めた? 求めているものが邑そのものであれば、侵略となにが違う?」
婦好が声色を変え、続けた。
「それとも、このままさらに攻め入り、蒙方の支配下をさらに我々の手中に収めようか」
婦好の言に、饕餮の兜の男が静止した。
軍の戦況と損失を把握する。
意を決したように踵を返した。
「……、分が悪い、引きあげる」
「賢明な判断だ」
蒙方の大軍が退く。
婦好軍もまた追撃をやめて、敵の退路を見守る。
戦は終わったのだ。
「婦好さま、我々も退きましょう」
婦好軍も無傷ではない。サクは傷ついた兵を一刻もはやく癒したかった。それに、ハツネとセイランの無事を確認したい。
「待とう。まだ、気を抜いてはいけない。戦地においてはなにが起こるかわからないのだから」
***
婦好の予見は的中することになる。
それは遥か遠方より現れた。
黄金の集団。煌びやかな神輿。
戦場とは思えぬ楽隊が、音楽を奏でて進軍する。
まるで夜明けの輝きを人間が体現したようである。
煌びやかな馬車の集団は、逃げる蒙方の兵士を次々に捕らえた。現実離れした存在の彼らは、冷徹なまでに敵を捕獲する。
「三はよい。四もよい。五もよい。六もよい。七も八もよい。九もよい」
馬車に悠然と座るのは、サクもよく知る人物であった。
「……微王!」
微王の馬車には幾多もの敵の生首が下がっていた。
彼はふたつの人頭を宙に投げながら、くるくると弄ぶ。
「余の到着ぞ。この先の領地はもう制圧したぞ。あとは、ここだけぞ」
婦好の馬車が微王の馬車に近づいた。
「微王よ、すでに話はついている。これ以上の追撃は義に反する」
「婦好。ぬるいぞ。甘いぞ。らしくないぞ。その和議、神の裁可は降ったか」
婦好の眉が歪んだ。
「我々の役目は商に属する邑の守備のはず。いたずらな殺戮はしない」
サクもまた告げた。
「微王さま。もし、神の裁可が必要ならば、わたしがいまから神に問いましょう」
微王は不敵な笑みを浮かべる。
「必要ない。余が命じるのだぞ。和議を済ませた相手に、追撃してはならぬなど誰が決めたことか。余が許せば世は認めるというものぞ」
彼は持っていた敵の首を投げ捨てた。
「余は生きた犠牲がほしい。捕るぞ採るぞ。なるべく生かすのだぞ。枷を用意せよ。余は人柱がほしいぞ」
微王の命に応じて、蒙方の逃げ遅れた兵はほとんどが捕らえられた。
微王の兵士は捕虜を後ろ手にして手枷をはめる。
瞬く間に、枷をつけられ集められた者は千人ほどとなった。
「これほどの人を……安陽へ送るのですか」
サクは思わずうろたえた。
微王は尋ねる。
「婦好の巫女よ。人は死したらどうなると思うか」
「……。死を経験していないがゆえに、わかりません」
「あははは。ひどく愚かなる答えぞ。死してのちは、先代の王とともに来世を生きるのだぞ。来世へ送る品を地下につくる。多ければ多いほど良いぞ。大きければ大きいほど良いぞ。なぜなら、先に死んだもののほうが偉いのだから、後から逝くものは礼を欠いてはならぬ。祖先への土産ぞ。そのために人柱が必要なのだぞ」
つまり、祭祀の犠牲とするということである。
──饕餮の兜の男は逃げただろうか。
サクには、敵ながらも蒙方の兵士の今後を案じた。
「捕らえられた者が、もし逆らえばどうなるのでしょうか」
「逆らうものは臏にして死ぬまで働かせるぞ」
臏は片足首を切断することである。サクも罪人や隷人でその姿を見たことがあった。
「巫女よ。手枷をあらわす文字を知っているか」
「『幸』……です」
「そのとおりぞ」
微王は敵から滴る血を指につけた。
木製の枷に文字を描く。
『幸』、『幸』、『幸』──。
「彼らはいずれ神に捧げられることになる。案ずることはない。喜ばしいことぞ。神に、この世の真理に囚われることは幸せなことぞ。幸あれ、祥あれ」




