名もなき戦士◇
婦好の腕の中で、セイランは目覚めた。
「婦好ちん……?」
「セイラン、無理をしたな」
「ふん……っ、賭けに負けた女なんて、………笑えばいいよ……」
「セイラン、よくやった。持てる武器をすべて駆使した行動、わたしは見ていた」
セイランは部下に裏切られて失敗した。
その評価の是非はいま考えるべきではない。
ふたりの呼吸は浅い。
会話は身体の負担だ。命の救済だけを考える。
「サク、さま……」
ハツネがごほごほ、と血混じりの唾を吐いた。
ハツネの瞳は語る。『いまはセイランを責めるな』と。
「ハツネ、心配しないでください」
セイランには過去がある。サクは己の想像力のなさを恥じていた。
サクはセイランへ語りかける。
「わたしはもう、セイランさまの生き方を否定しません」
「はっ……! なにが、救うべき少女よ。ふざけんじゃないわよ、サクちん……」
セイランはサクの頬を叩く。
かつて微王につけられた傷が、ぺちり、と音を立てた。敵とも味方ともわからない血がサクの頬に三本の直線を描く。
「はは……もうちょっと強く叩きたかったな」
セイランの自嘲に、サクは微笑んだ。
「いまは、おやすみください、セイランさま」
「サクちん。あたしはもう、ただのセイラン。婦井軍のセイランはハツネっちに殺されたの」
ハツネをセイランの救出に向かわせたのは正解だったようだ。影の者として、通じるところがあったのだろう。
「まだ、戦いは終わっていません。セイラン。あなたにはまだ生きていただきます。見ていてください。わたしたちの戦いを」
傷ついたハツネとセイランを馬車に乗せた。
セイラン救出のために従えていたのは婦好隊百人。うち十数名は、セイランとハツネの救護として後方支援たる第九隊のもとへ送る。
***
戦場へ戻ると、婦好軍は窮地に陥っていた。
落石の計画地点を、敵は無傷で横切る。
敵を罠にかける機会が遅れたのである。
指導者を失った婦好軍は、ただ目の前の敵に対応する愚直な集団であった。
敵を追いつめているようにもみえるが、少なからぬ損失がある。
ギョウアンは強いが、統率者としての資質に劣る。
──やはり、婦好さまがいなければだめなのか。
実戦では、机上の盤どおりにはいかない。
「サク、献策を」
「流れを変えましょう。婦好さま。わたしに考えがあります」
婦好の権威を示す、紅の衣はない。
サクは婦好の後ろに立った。
「婦好さま。お座りください。髪を解いて結びなおしてもよろしいでしょうか」
「よい。しかし、なぜだ」
「白い衣を羽織り、敵に対しては微王になっていただきます。おふたりは背丈と髪色が似ています。遠くから見ればわかりません」
「あははは! 大胆な作戦だな。しかし、不愉快極まりない」
「微王が来ることはおそらく、敵も知っているでしょう。そして味方に対しては、婦好さまの存在を知らしめてください」
婦好軍の士気は婦好への忠誠心そのものである。それを、高める。
「よい。しかし、わたしは微王にはならぬ。神を演じればよいのであろう? わたしはわたしの神に依ろう」
婦好はそう言って後ろに編んでいた髪を振りほどいた。
サクは婦好の美しく豊かな髪に触れる。
「さあ、結うがよい」
鼓を取り出す。
兵のひとりが鼓を打ち鳴らすと、木々もまた呼応するように騒めく。
音とともに、婦好を乗せた馬車が山の斜面に現れた。
太陽を背に、光り輝く柔らかい髪が揺れる。
神秘を纏う姿に、全軍の注目が婦好に集まった。
軍馬が駆ける。
出現するはずのない所から商の軍が現れたことにより、敵軍が慄き、味方は震えた。
神のような婦好の登場に異族がどよめく。西王母、女媧。古来よりの女神の名が敵方にあがる。
「あれは神などではない! ただの女だ!」
饕餮の男が神格を否定し、全軍を鼓舞した。
蒙方の兵士もまた次第に復唱する。
「あれは神ではない」「ただの女だ」と。
神聖を帯びた婦好が返答する。
「無礼なる者たちよ。我が力、試すがよい!」
婦好の声が天に響く。
「我らが神のために!」
婦好軍もまた、いつしか声の輪は広がった。
声は武器を振るう力に直結する。
声の差は兵数の差。ほぼ同数である。
操るのは、より高く美しい声を奏でる兵士。
同数ならば寡兵と考えるべきだ。
サクは旗を用いて各隊への指示を出す。
サクはよく知っていた。
逆境が、婦好の強さを引きだす。
敵から散る鮮血が多いほど、その姿は輝く。
「婦好さま、新たな策の準備ができました」
「ゆこう。ここは名もなき女の肉により紅く燃えた戦地。我々の神のもとに鎮めよう」




