重なる血◇
サクは婦好軍の策士である。
中原の大局から取るに足らない些細なことまで、常に考えをめぐらせていなければならない。
──相手はなにを求めているか。
相手は商を討つという大義をもつ。
しかし、その他、得るものがなければ、大軍は動かないものだ。
相手が狙いを考えれば、銅山付近の邑の簒奪であろう。
サクは地勢を確認した。
サク達のいる場所は安陽の北に位置し、山々が連なる。
南の山は資材の伐採のために山肌が見え、北の山は木々が生い茂る。
山の麓には湖が点在する。
婦好軍に水軍はない。
敵も牧畜の民。水上戦は不得手であろう。
婦好軍二千五百。
蒙方軍三千。
これにもし、ハツネと第二隊が間に合えば、セイラン軍が加わる。
まもなく微王の軍が到着することもわかっている。
一方、敵には鬼方、土方軍が参戦するかもしれない。両軍の動きはわからない。
つまり、条件と兵数は互角。
記憶の中の傅説がサクの耳元でささやく。
『互角の兵力なら、勇ましく戦え』
「傅説さま。わかっております。しかし、それは男対男の互角の場合です。常にこちらを半数と思い、策を発動させます」
サクの主人は「両軍の損失なく」と言った。
その命を成すのが、策士としての役目である。
いま、敵の先鋒隊千余兵に与えられた路は三方ある。
進軍路。
退却路。
その他、進む先に存在する谷底の隘路である。
敵を狭い路地へ誘う。
敵を囲い、捕縛する作戦をサクは隊長へあらかじめ伝えていた。
高所から射ていた第三隊の弓兵隊は姿を消した。
同時に第六隊が進軍し、弱兵を演じて敵と戦う。
敵を油断させるためだ。
前方の第六隊を守りながら後退させ、後方を第一隊が追う。隘路へ続く道まで、敵を誘導するのだ。
策の仕上げには、高所にいる第三隊が岩を落とし、退路を断つ。
行き場を失った敵兵を枷により捕縛する作戦である。
思惑どおりに事は運んだ。
婦好軍の動きを知らぬ敵兵は、第一隊に悩まされ、第六隊に活路を見出そうとする。
まるで婦好軍の掌で踊るようであった。
「鮮やかだな、サク」
「あと、わずかです」
──あと、わずか。敵兵を南に誘導すれば作戦は成功する。
陽が南天に到達すれば勝利を収めるだろうというところで、サクは空に現れた異変を察した。
「あれは……」
遠くみえる、蒼天に登る一筋の白色。
ハツネが使っていた狼煙である。
サクは婦好へ進言した。
「婦好さま。ハツネの合図です。第七隊へ救援を指示いたします」
「わたしが行こう」
戦場の様子を眺めていた婦好が、愉しむかのように提案した。
予想もせぬ主人の言に、サクは唇に手を当てる。
「婦好さま自らゆくのですか。それは反対です。指揮官は戦場の戦況を左右します。一時でも指示できる場所から離れてはなりません」
「わたしの馬車はギョウアンに任せる。ギョウアン。馬を代わり、わたしの衣を羽織れ。わたしが戻るまで、作戦のとおり、目の前の敵を凪ぐだけでよい。ただ悠然と存在せよ」
婦好隊の隊長であるギョウアンは、大きな腹から「あい」と短く返事した。
「サクはどうする。ギョウアンの隣に居るか」
婦好の瞳がサクを問う。
──戦場の指揮か。部下の救出か。
作戦は各隊の隊長に既に指示している。
ひとたび戦いがはじまっては、戦場でのサクの役目は応変する戦況の調整である。
各隊を信じてまかせることもまた、必要なのかもしれない。
「婦好さま。わたしも行きます」
***
婦好とサクは狼煙のあがった場所を訪れる。
林間に馬車は不向きである。
ふたりは馬車から降りた。
一歩、また一歩と進むと、枝の割れる音が響く。
木々の中に、敵兵の死骸が散る。
まるで輪を描くように、血溜まりがあった。
誰かが死者の中心で戦っていたようである。
円の中央から、ふたつの血痕が南に伸びていた。
「サク、急ぐぞ」
さらに進むと、狼煙のために薬材を燃やした跡がある。
婦好が耳飾りを揺らして、ある一点を見つめた。凛とした姿勢で真っ直ぐに歩む。
サクは後ろからついてゆく。
ざくざくと雑木を踏みしめる音だけが森の静寂を破った。
枯木の空洞から、赤黒い衣がみえる。
「あ……!」
ふたりの少女が重なって倒れていた。
髪から足先まで血を浴びている。
「セイランさま! ハツネ!」
サクは駆け寄った。
ふたりは気絶していた。
まるで、ハツネがセイランを庇うように──。
婦好がセイランとハツネの生死と肉体の欠損を確認する。
「サク、安心しなさい。ふたりは生きている。傷を受けているが、致命傷ではない」
ふたりの衣服は敵の血か、本人の血か、赤黒く染まっている。
窮地に陥ったセイランの救出──。
ハツネにはなんて過酷なことを命じてしまったのだろうと、サクは悔いた。
直属の部下を、生死の境に立たせてしまった。
しかし、頼れる者もほかにいなかった。
現に、彼女の能力がなければセイランは失われていただろう。
「……ありがとうございます、」
つぶやくなり、唇を噛む。
この場で何があったのか、サクは想像を巡らせて、涙ぐんだ。
──しかし、今はまだ、戦いの最中。
戦場においては、取り乱してはならない。
サクは弱き心の少女を殺し、策士家の仮面をふたたび被った。




