喪失と再生
「はあ? 救うべき少女? なにそれ、ふざけないで!」
セイランの叫び声が樹林に響く。
すでにセイラン軍の兵士はだれもおらず、生い茂る木々だけが騒めいていた。
「敵の足音が近づいています。もし逃げるなら、最後の機会です」
ハツネはセイランの手を引くが、彼女は頑なに逃げることを拒否した。
「だから、先にいけばあ? 助けてなんて、頼んでないし! おおきなお世話!」
ハツネはため息をついた。
「わかりました」
彼女はセイランの手を握りしめるのをやめ、セイランの頭部から揺れる尾のような束につかみかかる。
「いたっ! なにすんのよぉ!」
「遺品の回収です」
ハツネはセイランの長い髪を斬る。
短剣はざくり、と音を立てた。
光に当たると亜麻色に輝く束は、セイランから離れてハツネの手に収まる。
「ちょっと! あたしの髪!」
「なにをお怒りになっているのですか。これから死ぬというかたが、なぜ髪などに執着するのですか?」
「綺麗なまま死にたいと思うのはあたりまえでしょ!」
「いまのセイランさまが綺麗なまま死ねるとは思えません」
「! そんなの……! わかってるよ!」
セイランはぎりり、と歯をくいしばった。
ハツネはセイランの髪の束を結んで、帯に仕舞う。
「婦井軍のセイランは、わたしが殺しました。この髪は形見として、あなたの主人に届けます。あなたはもう、婦井軍のセイランではありません」
「あははっ。もし敵に捕まって生きてても、あたしの存在を殺すってことね」
「そのとおりです。名を失ったのち、ここで死ぬのも確かに良いでしょう。しかしもしここから逃げるのなら……それからはあなたの自由です。サクさま、いえ、わたしの傘下に入ることもよいでしょう」
セイランの瞳に、怒気と生気が宿る。
「はああ? ふざけないでよ! あたしがあんたの傘下に入るわけないじゃん! いますぐ撤回して! サクちんといい、あんたといい……。あたしを舐めないで! あたしはそこまで落ちぶれてない!」
「悔しいのなら、その思い、サクさまに直接お伝えください。死すればそれも叶わなくなります」
「……あんたたち、本当に苛つく……」
セイランは乱れた衣をなおした。
「誰が救うべき少女よ! あとで、サクちんのほっぺたを引っ叩いてやるんだから! その髪、婦井さまにちゃんと届けてよね! あたしは誰の指図も受けない。……生きるよ! ハツネっち!」
*
セイランはハツネの手を引いて走った。
絹の衣は、木の枝にかかり、あちこち破けている。
指揮官として彩られた鮮やかな衣は、木々の合間とあっても隠すことができない。
「いたぞ! あの女だ!」
「やば! 見つかったあ」
逃げる途中、ふたりは敵の目に晒された。
狙いはセイランである。
敵は五人隊が四隊、計二十の兵。
ハツネの仕事はセイランを生かすことである。
別々に逃げればセイランだけは助かるかもしれない、とハツネは思索した。
「名もなきセイラン。あなたは先に行ってください。ここで別れたほうが、生き延びることができるかもしれません」
「やだよ。あたしも戦う」
「なぜ? 味方を囮にすることなど、あなたがいつもやっているようなことではないですか」
「だって、あたしの髪、ハツネっちが婦井さまに届けるんでしょ? 約束を破ったら絶対に許さないんだから」
セイランとハツネは、背中あわせに身を守った。
この瞬間、ハツネに課されたのは、セイランだけを生かすことではない。二人で包囲網を突破するという仕事である。
それまでハツネは、影の存在として数々の死地を乗り越えてきた。
──いまもまた死地。
ハツネは微笑した。
***
婦好とサクは進軍の途中、商属領の物見櫓にいた。
遠方で蒙方の軍が大きなうねりをみせる。
数多の旗が風に踊る。
「セイランは敵兵を盛大に集めたな。たいしたものだ。こうなったら刃を納めることはできない。両軍の損失を極力出さずに、戦を終わらせよう」
サクのとなりにいる主人の顔は陽光をうけて輝くようである。栗毛色の前髪もまた舞うように揺れる。
戦を終わらせようと指示してはいても、血が闘争を求めているのであろう。
──あいかわらず、美しい。
サクには主人の姿のなかで、戦の前の横顔が最も神々しいと感じてしまう。
「承知しました」
婦好の発言をサクは受諾する。
作戦始動のときだ。
「第三隊!」
サクは第三隊に命じて、高所から矢の雨を降らせる。
同時に、別の場所から第一隊が蒙方を襲った。
婦好軍は大軍の脆い部分を襲撃する。
隊長のレイを筆頭に、周囲の強さに頼る弱き兵を見抜き、疾さをもって攻める。
この戦いかたは、婦好軍の最善策となりつつあった。
──少女は、弱い。
もし正面から戦えば、
敵方は泣きたくなるほどに強く、
味方は泣きたくなるほどに弱い。
無垢なる少女のように泣きじゃくることができたなら、ただ守られるだけの存在なら、どんなに楽なことだろうともサクは思う。
──しかし、戦うのだ。少女のために。
手に入れたものは武器と情報。
知恵をもちいて、弱さすらも強さに変える。
蒙方の兵に、負傷者の数が増える。
サクは敵兵の血を雨に変えることなど、すでに慣れてしまった。
「サク。最近の用兵は、神が宿るようだ」
「いいえ。天に愛された婦好さまの兵なればこそ」




