包囲
兵の体力は無限ではない。
撤退したはずの敵兵が婦好軍を追う。
追われているといえ、相手は三百人程度。
加えて、一度目の戦いを終えたばかりであった。
婦好軍は合流後、千五百人ほどはいる。
まだ、半数は力を使ってはいない。
──おそらく敵は、女の身と侮り、五倍の勢力にも対抗できると思ったのだろう。
戦いは味方と相手の余力を読み間違えば敗ける。
サクは、これまでに傅説や弓臤から教えを受けたことを心に浮かべた。
──あえて、始めはか弱い女の軍を演出するというのは上策。
その意味では、セイランの策略は正しい。
本隊が強いという前提ではあるが──。
「セイランさま、敵と対峙します。我が軍の第二隊と戦果を競いませんか」
「いいよん。絶対に負けないよん」
セイランを囮にするとともに、その力を伸ばす。
セイラン軍は、まだ、初陣である。
本能的に、女は男と対峙するときは怖いという感情を持つ。
婦好軍は、勝ちを重ねた経験からその恐怖心に打ち勝っている。
一方、セイラン軍には、まだ勝利の経験が足りていない。
──実践こそが最高の訓練である。
敵は統制のとれた精兵である。
呂鯤と同等の力が三百人とサクは想定した。
できるだけ、力を削いでおきたい。
弓臤の言葉が脳裏に浮かぶ。
『戦力差があり、味方に有利な場合は、包囲が効果的である』──と。
──セイラン軍だけではない。
己もまた一歩、進まねばならない。
婦好軍は寡ない兵をもって多勢に立ち向かうことが多い。包囲を試す絶好の機会ではあった。
サクは深く息を吐き、旗を掲げて全軍に命じる。
「第四隊、第一隊、セイラン、第二隊、第三隊、第五隊、婦好隊、『三公』!」
錐形で進む敵を、婦好軍は守備の形で受け止める陣だ。
『三公』とは、両翼を前方に張り出した配置である。
敵の先陣と交戦する。
予想通り、敵はセイランを目指していた。
セイラン軍は脆い。
しかし、第二隊の補佐を受けて、兵を失わない程度に守ることができればよいのである。
その隙に、左右から婦好軍の、まだ傷ついていない兵士たちが敵を取り囲んだ。
最後方に、婦好隊。
婦好軍最強の戦士であるギョウアンが敵の背後から、激しく攻める。
全軍が敵を覆った。
包囲。味方の兵数が多ければ、必勝の陣である。
敵は肩で息を吸う。
相手がどんなに強くとも、統制が取れていようとも、乱れれば恐れることはない。
こうなれば、──神の助けがなければ──敗けることはない。
むしろ、追撃されたことは幸運ですらある。
敵の体力の消耗、武器の摩耗、寡兵による突撃。
これほどまでに恵まれた状況はない。
セイラン軍を勝たせる絶好の機会。
「セイランさま! 五人の兵で一人ずつ、力を削いでください!」
「サクちんはあたしに指図しないで!」
守りの強かった敵は攻めに転じて、乱れている。
敵には疲れもみえる。
婦好が、先陣を切る饕餮の兜の男に問う。
「なぜ、追撃など愚策に走ったのか。我が軍がそれほど弱く見えたか」
饕餮の男は叫んだ。
「さきほど、戦場を確認した。女は我々の身内だった。我々はお前たちを殺す!」
敵は激昂している。
セイランの策は長期的にみて、禍根を残すだろう。
しかし確かに、セイランの策は今回は正しい。
加えて、敵に知恵者は居ないようだ。
──怒りに任せて攻撃することは、敵の失策。
サクは冷ややかに観察した。
──もし傅説さまや弓臤さまであれば、このような追撃はしない。怒れる時に留まり、静かなる時に進む。
強き兵は、婦好・セイラン連合軍の餌食となった。
強さを誇る精兵も次々に膝から崩れ落ち、戦闘可能な敵の数は次第に少なくなる。
婦好は馬車上にて告げた。
「蒙方の戦士たちよ! 降伏せよ!」
「女人の軍に敗けて降るなど、死した方がましだ!」
「我々に降るのではない。大邑商に降るのだ!」
「同じことだ。商の残忍なる戦士どもよ。死を与えよ。さもなくば、ともに死ね!」
婦好の鉞と饕餮の男の剣が往来して金属音を響かせた。お互いに一歩も引かない。
婦好は黄金の鉞を振るう。
それは、サクと同じだけの重さがある。
婦好の武具は、その重さのために攻撃のあとにはわずかに隙ができる。
それを狙い、饕餮の男は素早く鉞の柄を斬った。
「ふふ、なかなかやるな。惜しいな。その才、失うには惜しい……!」
婦好は右手で鉞の背を掴み、左足で新たなる矛を宙に浮かべる。
「サク! 枷を用意せよ!」
婦好は黄銅の鉞の面で饕餮の男の体を殴りつけた。
饕餮の男は不意の飛び道具に、均衡を崩す。
婦好は鉞に描かれた模様を左足で踏みながら、矛を男の脇腹に刺した。男から鮮血が散る。
サクの渡した枷を、婦好は左手で掴む。
流れるような仕草で、饕餮の男の腕を捻った。
木製の枷は男の手首に音を立てて嵌まる。
婦好隊の兵が縄を取り出し、饕餮の男の身を拘束した。
婦好は全軍に命ずる。
「残百人。捕縛せよ」




