文字の巫女
婦好軍が前進した。
まるでひとつの生き物のように、方形の陣は乱れることなく進む。
西の丘を過ぎると、前方に黒い塊が見えた。
鬼公軍もまた北の邑を出て、陣を組んでいた。
鬼公軍は歩兵一千余、車馬百余。
兵数は婦好軍が優位だ。
双方の総大将の馬車だけが最前列に出る。
宣戦布告だ。
戦いのまえに祝詞を行うのは、相手の神へ対する儀礼である。
サクは婦好のひだりにいたため、敵である鬼公の顔がよく見えた。
鬼公もまたこちらを見ている。
「よるの火遊びとは。鬼公よ。無骨者のそなたににあわず、なかなか艶っぽいことをしてくれるではないか」
婦好が全軍に浸透させるような、麗しい声をあげた。
それに対して、鬼公もまた奏でるような低音を響かせる。
「婦好よ。きっと遊びにくるだろうと夜どおし待っておったのに、遅かったではないか」
「好みではない誘いには応じないものだ」
「はは、つれないことよ」
なんとも甘美な開戦の布告だと、サクは惚れ惚れした。
しかし対話の決別は、同時に戦いの合意でもある。
婦好の馬車と鬼公の馬車が、お互いの陣に一度帰還したのを合図に、両陣営の隊列が徐々に形を変えていった。
婦好軍の中軍から、第一の鼓がなった。婦好の馬車は最前列から中軍へ戻り、左軍とともに西へ進路をとる。
同時に婦好軍から、白装束をまとい、目に化粧をほどこした女たちが敵にもっとも近い位置に一列にならんだ。
最前線の異様な光景に、サクは思わず声をだした。
「あの白い服の者たちはいったい?」
「敵に呪いをかける巫女だ。敵に最も恐れられている」
サクが白装束の巫女から敵の陣に目を移した。
鬼公軍は婦好軍ほど統制をとれてはいないように見えた。
鬼公軍の兵士は、鬼公の指揮というよりはおのれの恐怖心から、まず先に白装束の巫女を殺そうとしている。
鬼公軍の歩兵と、白装束の巫女が衝突した。
鬼公軍の兵によって、白装束の巫女は次々に殺されていく。
白装束の巫女は武器を持たず、ただ立っているだけだった。
「えっ……! なぜ抵抗しないの?」
棒立ちの巫女の白い衣が赤く染まる。
白装束の巫女は敵の襲来によって四肢の原型をとどめなくなる。
人間が人間でないものにかわっていく光景にサクは吐き気がした。
「古来より伝わる戦いかただ。あの巫女たちは、役目を終えれば、神に仕えることができるといわれている。こちらとしても、敵の武器の鋭さが失われ、統率も鈍るので戦いやすいのだ」
婦好の淡々とした説明に、そんな風習があってよいのか、とサクは嫌悪した。
陣形の最左まででた婦好の馬車は弧を描いて右へ進んだ。
敵本陣と白装束の巫女に襲いかかる兵士を分断する進路である。
人は、獲物を攻撃しているときに隙ができる。
無抵抗の巫女を殺す兵士の姿は無防備であった。
まるで渡り鳥が群れをなして空を駆けるように、婦好を先頭として婦好の精鋭たちは敵を狩りはじめる。
婦好は次々と目の前の歩兵を矛で突いてゆく。
馬の速さと籠の高さが、戦いを有利にしていた。
さきほどまで刃を汚していた敵歩兵はほとんど反撃することができないようだった。
婦好の姿をみて、鬼神のごとき闘いとはこのようなことを言うのかと、サクは嘆じた。
婦好の馬車の左側は、左後ろの車馬に乗っているリツが次々と倒す。
サクも婦好やリツの真似をして、矛を振らなければならないのではないかと思い至った。
婦好の武具に触れようとした瞬間に、サクの背に重くのしかかる感覚。
──たとえ、あたりまえのように血が飛び交う戦地であっても。
人間を矛で突くという行為を、サクは認めたくなかった。
婦好を先頭に、婦好軍は敵歩兵を南北に分断した。
白装束の巫女を襲った敵歩兵はほとんど壊滅状態だ。
サクの青い衣もたくさんの返り血を浴びた。
「さて、サクよ。そなたなら、次の手はどうする?」
「敵側の車馬に動きがないのが気になります。なぜ出てこないのですか」
「鬼公軍の車馬は過去にこちらから盗んだもの。技術力がないからだ」
「そうでしょうか。あえて動きをおさえて、婦好様を誘っているような気もします」
「なにか隠しているということか。それなら、炙り出すまでだ」
「第三隊、第五隊、第七隊! 敵を包囲せよ」
婦好は号令をかけた。
敵の弓矢が届かない位置から圧をかける。
サクは、ふと父の教えを反芻した。
味方の兵士の数が優位な場合は、包囲が上策である、と。
鬼公軍は士気も統率も、決して高くはないようだった。
気弱な兵は次々と北の邑へ逃げた。
少なくなった兵士のあいだから見えたものは、車馬を足止めするための簡素な柵だった。
「柵とは。舐められたものだ」
婦好が冷たく口角を上げた。
敵総大将である鬼公の車馬が前に出てきた。
鬼公が低くよくとおる声を戦場に響かせた。
「罠を見破るとは、さすがだな。婦好よ。決着は、一対一でどうか」
婦好も楽しそうに、応じた。
「余興だな。受けてたとう。第五隊隊長、ギョク!」
「鬼方の豪勇、張達よ!」
それぞれの総大将が戦士を指名した。
ギョクと呼ばれた婦好軍の女隊長と、張達という鬼公軍の豪傑が、それぞれ前方に出てきて対峙した。
両軍から声援とも罵声ともいえない喝采があがる。サクは両軍の高揚感にのみこまれるような気がした。
両軍の緊張を打ち破るかのように、戦士が衝突した。
ギョクが威嚇しながら矛を振るう。張達もまた大声をあげてギョクの矛を打ち払う。幾度か、矛と矛がぶつかったところでギョクが跳ねた。張達が矛を下から上へ振り上げる。
張達の兜が割れ、ギョクが後ろに倒れた。
引き分けだった。
「退けっ!」
鬼公の合図に、鬼公軍は北の邑へ退いた。
「追わなくてよいのですか」サクは婦好へ言った。
「よい。包囲を続けよ。あとは内部でやってくれるだろう」
「包囲するだけでよろしいのですか」
「よもやサクは、わたしが北の邑になにも働きかけをしていないとでも思っているのか? 戦いの基本は、まず敵内部のほころびを攻めることだ。武力行使は最終手段に過ぎない」
婦好軍は包囲を続けた。
しばらくして、北の邑の使者が婦好のもとを訪ねた。使者が降伏の口上を述べた。
婦好軍の勝利である。
鬼公は北の邑を出て、別の邑へ退却したようだった。
こうして、この日の戦いは収束した。
「サクよ。今回の戦い、どうやらそなたのおかげで犠牲を最小限にできたようだ」
婦好軍の野営地に帰る馬車のなかで、婦好はサクに向かって言った。
「いえ、わたしはなにも。わたしは最後まで矛を、持つことはできませんでした」
「戦果は武功のみではない。そなたの進言には価値があった」
「婦好さま。ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「婦好さまは、日々を戦いのために身を置いております。婦好さま自身の、戦う目的を知りたいのです」
「わたしは王の命により、戦う。敵がこちらの生存を脅かすなら、生きるために戦う。それ以上でも、それ以下でもない」
このとき、なぜか、サクは婦好の懐に触れなければならないように感じた。
「わたしには、それだけではないように思えます。
わたしは、婦好さまをみていて、《遊》という文字を思い浮かべました。
遊は、神が氏族の旗をもって自由に動くかたちです。
それが、戦場を行き来する婦好さまの姿に重なったのです」
「ふふふ。そなたは、なかなか稀な娘だ。『遊ぶ』か。
たしかに、わたしの力がどれだけ通用するのか。
まだ見ぬ土地に何があるのか見てみたいという想いは、強い」
婦好は遠くを見た。婦好の外見は麗しい女性だが、その瞳はまるで少年のように輝いていた。
「それに、そうだな。配下のおんなたちを見届けたいと思っている。うまれつき、女は男より弱い。とくに体格、膂力については、才ある屈強の男と対峙したら、どんな女もかなわないだろう。一方で、女には別の強さもある。わたしは女の強さを試してみたい」
婦好はサクに目線を戻して、からかうように言った。
「それに、サクのようなものにも出会える。『文字』という禁忌に触れた少女よ。サクはなかなか面白い」
「は」
サクは突然の己の話題にひどく動揺した。婦好の顔面がサクに近づき、鳶色の瞳がいたずらをするようにサクの瞳をのぞきこんだ。
サクの顔は紅潮した。
「あはははは。やはり面白い。サクよ、わたしの戦いをよく記憶せよ」
「はい」
婦好の言葉に、サクは短く返事をした。
その晩、婦好軍では戦勝の宴がとりおこなわれた。
この宴には、サクの歓迎の意味も込められていた。
新参者のサクがいきなり婦好に気に入られた様子をみて、おもしろく思っていない者は多いようだった。
サクは肩身の狭い思いがした。
戦勝の宴の席でサクが身を小さくしていると、リツがサクの隣に座った。
「ほら。この酒をもて。新人は飲まずとも酌をしてまわるものだ」
リツに言われるがまま、サクは酒の入った瓶を持った。
サクはリツの仲介で隊長と呼ばれる者と次々に挨拶した。
リツはサクが酒を注ぐたびに、それぞれの隊長のまえでサクを褒めた。
「婦好様がサクを可愛がるのはわかる気がする。この者がいなかったら、昨晩、婦好様は敵の罠にかかって死に、本陣に残ったわたしも死んでいたかもしれない」
リツがサクに力添えをしたのだ。リツが少しでも認めてくれたことが、サクにとって嬉しかった。
宴も終わろうかという頃、婦好が紅の衣を肩にかけて悠然とサクに近づいた。
サクは婦好と向かいあった。
「サクよ。改めて、問う。わたしと、わたしがあがめる神に仕える覚悟はあるか」
サクが生きるためには婦好に仕えるしか選択肢はなかった。
しかし、サクは生きるためというよりも、己自身のために、婦好を近くで見届けたいという気持ちが芽生えていた。
婦好という人物に魅せられはじめていたのだ。
──このお方のお役に立ちたい。強く美しく聡明でありながら、どことなく幼い、天下の女傑。
「おつかえいたします」
サクは拝礼した。サクは己の意志のために決意したのである。
婦好の顔がほころんだ。
「これは契約のしるしだ」
婦好は左手の人差し指をすこし短刀で切った。婦好の皮膚からじんわりと赤い血がしたたる。
「舐めよ」
さしだされた婦好の指を、サクはゆっくりと口にふくんだ。
サクの舌に婦好の血の味がひろがる。
──あたたかく、にがい。
サクはいままで経験したことのない不思議な気持ちに惑わされた。
「正式にサクをわが軍に迎える。『|文字の巫女』、サク。よろしく頼む」
こうしてサクは婦好軍に迎えられた。